京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

大原・八瀬・岩倉他

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以前に、ブログに採り上げた京都市左京区岩倉西河原町にある山住神社(やまずみじんじゃ)を写真を増やして再掲載します。

叡山電車の岩倉駅から、観光名所として知られる実相院や岩倉具視幽棲旧宅を目指して岩倉川沿いに北上すると、川沿いに小さな神社があることに気づきます・・これが、山住神社(やまずみじんじゃ)で、実相院のすぐ北に位置する石座神社(いわくらじんじゃ 左京区岩倉上蔵町)の旧地になります。


現在の山住神社は、石座大神(いわくらおおかみ)を祭神としますが、社殿は無く、背後の山を神の鎮座する山=神南備(かむなび)山として、巨大な石を神々の降臨する場=磐座(いわくら)と崇めた古代信仰の遺跡になります。
拝所の奥の崖上に木柵で囲まれた立石があり、その後ろの高く広い大石が、神の宿る「磐座(いわくら)」です。京都市内に残る幾つかの古墳と同様に、原始的な古代信仰を今でも身近に感じさせてくれる場所として興味深いです。


この「磐座(いわくら)」は、一説では、桓武天皇が平安京の王城鎮護のために、都の東西南北に一切経の経巻を納めた「平安京四岩倉(磐座)」一つとも伝えられます。

尚、この桓武天皇が平安京の東西南北に置いた「岩倉(磐座)」は、以下のようだったようです。

北岩倉・・・山住神社(左京区岩倉河原町)

西岩倉・・・金蔵寺(西京区大原野石作町 ブログに登場しています)

東岩倉・・・観勝寺(左京区粟田口大日町 大日山(東岩倉山)にあったが応仁の乱で焼失)

南岩倉・・・明王院不動寺(下京区石不動之町)・・ブログに登場しています)


また、平安時代の古記録「日本三代実録」によれば、陽成天皇の元慶四年(880)の頃に「山城国正六国正六位 石座神授従五位下」と記され、当地に既に石座明神が祀られていたことが確認できますが、その後、天禄二年(971)に岩倉の地に大雲寺が創建されると、石座明神以下の八神を祀る八所明神は長徳三年( 997)に大雲寺の鎮守社として勧請されて現・石座神社の地(岩倉上蔵町)に鎮座しました。(また、後に伊勢その他四神を加えて十二所明神が八所明神社と合わせて祀られるようになります)
この時から、現・山住神社の地にあった石座神社はその御旅所となったようです。

そして、明治時代以降に、八所・十二所明神社が石座神社と改称され、旧地の石座神社は山住神社と改称されました。
また、前にブログに採り上げましたが、毎年十一月二十三日の深夜に行われる石座神社(岩倉上蔵町)の例大祭は、「岩倉(石座)の火祭」として知られ、火祭りの後、早朝に石座神社から神輿が、御旅所の山住神社に渡御して祭典が行われます。




尚、石座明神以下の神々を鎮守社に勧請した大雲寺という古刹についてです・・
大雲寺は、現在は、岩倉上倉町にある小さな寺院ですが、前述したように、元々は平安時代の天禄ニ年(971年)に円融天皇勅願寺として創建(初代住職は、紫式部の曾祖父に当たる真覚上人)された古刹で、広大な敷地に伽藍堂宇のそびえる大寺院でした。

「源氏物語」の「若紫」の巻では、光源氏が紫の上と出会う場所としても登場し、洛北第一の大寺として、非常に有名な寺院だったようですが、(南北朝時代には、南朝の忠臣、万里小路(藤原)藤房が、大雲寺境内で出家して遺髪塔が残ります)、その後は、応仁の乱や天文法華の乱、さらに三好氏、織田信長の攻撃で再建焼失を繰り返し、江戸期に再建されますが、明治の廃仏毀釈で衰退します。そして、昭和六十年(1985)の火災により本堂他が焼失し、現在まで徐々に復興努力されているようです。

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左京区岩倉花園町にある岩倉妙見神社は、ブログPart2で採り上げた長谷八幡宮の少し南にある小さな山の神社です。(今後は、個人的に好きな史跡や、ややメジャークラスの史跡はブログPart2の方へ書いていきますので、よろしくお願いします。)

この妙見社は、同花園町にある長栄寺が管理しているということですが、写真のように、以前はあった社務所や拝殿も崩壊して廃墟化が進行しつつあるのが残念です。


妙見信仰については、これまで「十二支妙見めぐり」のお寺を採り上げてきた時に何度か書いていますが、元々古代中国の星宿思想に基づいていて、北極星・北斗七星を神格化した、宇宙万物の運気を司り支配する妙見菩薩を祀っています。奈良時代にはすでに民間の信仰を集めていたようで、天台宗、真言宗、日蓮宗等にも取り入れられて広まりました。最初は「方角の神様」でしたが、徐々に商売繁盛、厄除け、安産などあらゆる方面にご利益のある神として朝廷から民衆まで広い信仰を集めたようです。

岩倉妙見神社では、祠の中に一つの石が祀られていて、隕石だともいわれています。そして、この石は節分の星祭や妙見大祭の際も公開されないということです。また境内には、岩倉具視神霊遥拝所の石標もあります。

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今回は左京区上高野にある崇導神社(すどうじんじゃ)に関する二つの史跡です。
(尚、崇導神社については、前に少し書きましたが、好きな史跡なので今後書き直して「京都を感じる日々★古今往来Part2」というもうひとつのブログの方に掲載したいと思います。)


左京区上高野小野町には、小さな森があって「おかいらの森」と呼ばれています。
この面白い名前は、「お瓦の森」が転じたもので、水田に囲まれたこの小丘を中心に明治以来多くの瓦が出土したことに由来するものです。
瓦を多数用いた寺院跡ではないかという説もあったそうですが、近年(2004年)この地の調査が行われ、大量の瓦の他に平安時代中期と推定される瓦窯跡が出土しました。また、この地から出土した瓦と同じ型で作られた瓦が平安宮跡からも見つかったことから、この地は「延喜式」に記されている「小野瓦屋」に関する平安京造営瓦窯跡と考えられています。さらに、この小山(おかいらの森)全体が人工的に作られた積土による丘であることも判明し、瓦生産の際に壊れた瓦や焼土、灰や炭などが捨てられ体積したものと考えられます。
また、この地は、崇道神社の御旅所にもなっていて立ち入りは禁止されています。



さて、「おかいらの森」から東南、上高野大明神町にあるのが「伊多太神社址」です。

この伊多太神社というのは、上高野地域の最古の神社といわれ、崇道神社と三宅八幡宮というこの地区の二大神社よりも由緒ある神社だったようです。(また、三宅八幡宮は、伊多太神社の境内末社だったともいわれ、その前身だったという説もあるということです。)応仁の乱で焼失して衰退しますが、明治十六年(1883)に再興され、明治四十一年(1908)に崇導神社に合祀され、その跡地には鳥居と「延喜式内社伊多太大社旧跡」という石標が建てられています。
伊多太神社は、「伊多太(いたた=痛)」という名前から、現在は痛み解消に霊験がある神として信仰されていますが、元々は「湯立て」から転じた「いたて(いだて)」だったとされます。そして、全国にある「いたて(いだて)」と読まれる「伊達」「伊太氏」「躬楯」などの祭神と同系の出雲系農耕神だったと考えられているようです。

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大原の三千院から西に向かって徒歩約30分、翠黛山の麓、大原草生町にあるのが寂光院です。「平家物語」に登場する建礼門院徳子の隠棲地として知られる観光名所ですが、京都の「平家物語」ゆかりの史跡の中でも特に有名な場所かもしれません。
ドラマチックな数々の事件で彩られる「平家物語」ですが、ラストは建礼門院の晩年を描く「灌頂巻」の「大原御幸」で締めくくられます・・・後白河法皇が大原へ御幸して、静かに余生を送っている建礼門院と再会する名シーンです。今でも大原の里は自然が残っていて、晩年の女院が隠棲するのに相応しい舞台のように感じられるからでしょうか、女性を中心に人気があり、門跡寺院らしい堂々とした三千院よりもこちらの方が好きという方もおられるようです。

寂光院といえば、あの悲劇が思い浮かびます。平成十二年(2000)五月九日未明、未だに犯人不明の放火により本堂が全焼し本尊も大きな損傷を受けました。そして五年間の修復再建の後、平成十七(2005)六月からようやく再公開されました。個人的な感想としては、再建後の寂光院はかなり明るくなったという印象で、「平家物語」ゆかりのお寺らしいどこか寂しげな雰囲気は失われてしまったようにも思います。焼失前にもっとじっくりと見ておけばよかったと残念な気もします。



さて、寂光院は、山号を清香山、寺号を玉泉寺という天台宗の尼寺です。
京都市の観光情報によれば、創建当時はただ仏教とだけで宗派等は不明、その後明治初年までは末寺を一ヶ寺持った天台浄土兼学寺だったということです。寺伝によれば、推古天皇二年(594)聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立し、初代住持は聖徳太子の乳人・玉照姫だったと伝えられ、その後は代々高貴な家門の姫が法燈を守り続けたということです。この聖徳太子による創建という話については、史実というより、他の太子が創建したと伝えられる寺院と同様に後世の太子信仰の高まりにより伝説化していったものと思われます。(また、聖応大師良忍による創建説等もあるところから、平安末期頃に比叡山延暦寺の影響下に、当時衰退していたこの地の古寺を再建したということも考えられます。)そして、建礼門院が移り住んでからは、御閑居御所、高倉后大原宮と称して、代々の高貴な貴族の姫等が法燈を守り続けてきたということです。


寂光院といえば、誰でもまず建礼門院を連想します。
建礼門院徳子(平清盛の二女として生まれ、高倉天皇の中宮として安徳天皇の母となります)は、寿永四年(1185)の壇の浦の戦いで、幼い安徳天皇を抱いて平家一門と共に入水しましたが、源氏方によって熊手で髪の毛を絡み寄せられ捕らえられました。都に護送された建礼門院は、東山の麓・吉田にあった奈良法師の坊に身を寄せた後、東山の長楽寺の印誓上人を戒師として落飾して尼となり、真如覚比丘尼と称しました・・時に建礼門院29歳と伝えられます。そして、間もなく大原に移り、寂光院の側に草庵をむすび、平家一門と安徳天皇の菩提を弔う生活を送りました。

「平家物語」によれば、翌文治二年(1186)年の春、後白河法皇が共のものを連れて、夏草を踏み分けて人里離れた大原の寂光院に御幸します。法皇一行は、粗末で荒れた建礼門院の庵に驚き、また建礼門院が詠んだ「思ひきや深山の奥にすまひして雲井の月をよそに見んとは(このような深山の奥に住んで月を眺めることになろうとは、思いもしなかったことです)」という歌を知って、かつての女院の華やかな暮らしを思い出して哀れに感じ涙を流します。そこに、翠黛山に花を摘みに行っていた法衣姿の女院が戻ってきます。

突然の法皇の御幸に驚き、粗末な自身の暮らしを恥じながらも建礼門院は法皇と対面し、自身の体験した人生の変転を物語ります。一同、今さらながら運命に翻弄された女院の生涯を思って涙を流すのでした。やがて夕暮れとなり、法皇一行は名残惜しくも都へ帰っていきます。
その後の建礼門院は、平家一門や安徳天皇の菩提を弔いながら歳月を重ねますが、最後は病気になって阿波内侍阿波内侍(あわのないじ)達に看取られながら、極楽浄土を願って念仏を唱えて静かに息を引きとったと「平家物語」は記しています。
史実としては、建礼門院の最後の地は、寂光院では無く東山の鷲尾山(長楽寺のある山)等諸説があるようですが、平家物語や謡曲により広く流布した大原御幸当時のイメージが再現されている寂光院の境内こそ、最後の地に相応しいといったところでしょうか。

また、建礼門院の最後を看取った阿波内侍(あわのないじ)も寂光院ゆかりの人物として知られます。
阿波内侍は、「平家物語」に登場する多くの人物と同様に実在したのか不明な人物ですが、保元・平治の乱で知られる藤原信西の娘ともいわれ、崇徳天皇の寵愛を受けたという話が残っています。(前に採り上げた安井金比羅宮でも登場しました)その後、内侍は宮中で建礼門院に仕えていましたが、女院に従って出家し大原に移り住みました。大原では建礼門院の生活を支えるために、お付の女官らと共に柴の束を頭上に載せて京の町へ売り歩いたとも伝えられ、その時の装束が「大原女(おはらめ)」のモデルとなったともいわれています。




さて、寂光院は石段を登っていくアプローチが有名です。
石段の途中右手に、非公開ですが「狐雲」と名付けられた茶室があり、左には「鳳智松殿」という名の宝物館&売店があります。石段の上には本堂を中心に右手に庫裏と書院、左に鐘楼が建ち、池庭のある落ち着いた空間が広がります。
現在の新本堂は、焼失した入母屋造・柿葺の旧本堂を忠実に復原したものです。旧本堂は内陣と柱が飛鳥・藤原及び平家物語の時代の様式、外陣は慶長八年(1603)に豊臣秀頼と淀君が片桐且元を工事奉行として修理させたもので、他に徳川家康らも再興を援助したと伝えられます。尚、内陣の床は、秀頼の再建前は、中国式の土間だったということです。

本堂には聖徳太子が用明天皇の菩提を弔うために作ったという伝説のある高さ約2.5mの本尊・六万躰地蔵菩薩立像(室町時代 国の重要文化財)が安置されていましたが火災により黒焦げとなりました。この焼け残った本像は、約3年間に渡る美術院国宝修理所での修復処理(表面を透明樹脂で固める)を経て現在収蔵庫に安置され、新本堂には彩色鮮やかな新しい本尊が祀られています・・以前の古風な本尊とはかなり違った雰囲気ではありますが、とにかく再興されて良かったという気持ちになります。
また、焼け残った元の本尊の胎内には、小さな地蔵菩薩の像3417体が納められていましたが奇跡的に救出され(尚、内陣壁面にも多数の小仏が並んでいましたが焼失)、その他の災いを逃れた教典等貴重な品々と共に宝物館に展示されています。尚、旧本堂に祀られていた建礼門院座像、阿波内侍の張り子座像も焼失しましたが、復原された像が新本堂に祀られています。



本堂前の西側の庭園は、平家物語の当時のままに古い心字池、千年の姫小松、苔むした石組、汀の桜等で構成されています。この池は、後白河法皇が「池水に 汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛なりけれ」と詠んだ池で、「池のうきくさ 浪にただよい錦をさらすかとあやまたる 中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」という歌に登場するのがこの姫小松ということです。(写真)しかし、この樹齢千年という名木も本堂の火災の際に損傷し、痛みが激しくなりついに平成十六年夏に、枯死(こし)してしまいました。高さ15mの大木だったので倒木防止のために上部を伐採し、平成十七年より御神木として祀られています。

また本堂の北側の庭園は回遊式の四方正面の庭で、林泉・木立・清浄の池として表現され、特に石清水を引いた三段の滝を玉だれの泉と言って、一段一段高さと角度が異なり、三つの滝の夫々に異なる音色が一つに合奏するかのように作庭されているということです。
また書院前方の山が女院が仏に供える花を摘んだという翠黛山で、山中には建礼門院に仕えた阿波内侍、大納言佐局、治部卿局、右京太夫局の墓と伝えられる五輪塔三基と宝筐印塔一基があります。(今回は寄れませんでした。またの機会に写真を掲載します。)その他本堂手前右側には、大きな南蛮鉄の雪見燈篭があり、豊臣秀吉の寄進で桃山城から移されたものということです。(写真)また裏門の北側の森には建礼門院の御庵室遺跡には大正十五年(1926)に建てられた石標が立てられています。
最後になりますが、本堂の右手裏山には、建礼門院を埋葬したと伝えられる建礼門院大原西陵があり、五輪塔の仏教式の御陵として珍しいということです。(写真)



寂光院は、京都の門跡尼寺や嵯峨野の幾つかの寺院にも共通することですが、女性らしい優しさに惹かれて、違う季節に訪ねてみたくなるようなお寺ですね。

来迎院

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大原の三千院の山門の南、魚山橋を渡って呂川を東に約300m溯ると、三千院前の観光客の喧噪を忘れさせてくれる静かな佇まいのお寺があります・・これが来迎院で、平安時代以降、魚山大原寺(ぎょざんだいげんじ)の上院として、下院と呼ばれた勝林院と共に天台声明の根本道場として栄えた由緒あるお寺です。これまでに採り上げた大原の他の寺院と内容的に重複する点もありますが少し書いてみます。



左京区大原来迎院町にある来迎院は、正式には魚山大原寺(ぎょざんだいげんじ)来迎院という、比叡山延暦寺の別院になる天台宗寺院です。平安時代初期、天台宗第三代座主の慈覚大師円仁は、入唐して十余年間中国仏教を学び、当時、山西省五台山の太原(タイユワン)を中心に流行していた五台山念仏(声明)を習得しました。そして帰朝後、仁寿年間(851〜854)に比叡山を五台山と見なして、太原(タイユワン)に似た地形の比叡山麓の現在の大原の地に声明の根本道場を定めました。尚「魚山大原寺(ぎょざんだいげんじ)」の「魚山」という山号は、中国五台山の声明の中心地の一峰の名に由来し、また「大原(だいげん)」もいう寺名も中国の都市「太原(タイユワン)」の名を採ったもので、これが現在の「大原(おおはら)」という地名の起こりになりました。

こうして、慈覚大師円仁は、奈良時代から日本に伝来していた奈良仏教の顕教系と自身が入唐して学んだ密教系浄土系の声明を合わせて天台声明を完成し、その後、この天台声明は比叡山の弟子達に受継がれていきます。その後、藤原時代(10〜12世紀)には、大原一帯は、比叡山を離れた念仏聖が修行する隠棲の里となりました。当時の比叡山では、「山門派(延暦寺)」と「寺門派(三井寺=園城寺)」との対立抗争を繰り返し、僧兵を擁する武装化も始まっていました。こうした政争を嫌って仏道実践の修行の地を求めて比叡山を下り、この大原に移り住んだのが大原入道寂源上人や聖応大師良忍上人でした。
長和二年(1013)に慈覚大師円仁の九代目の弟子・大原入道寂源上人がこの前にブログで採り上げた勝林院を、その後、天仁二年(1109)に聖応大師良忍上人が三尊院(後の来迎院)を声明道場として建立しました。




さて、現在、来迎院の参道近くには、聖応大師良忍上人を紹介する案内板が立ち並んでいます。良忍上人は、大原で声明を研究して当時七つの派に分かれていた天台声明を統一させ、その後天台声明の主流となった「魚山流声明」を確立し、来迎院を中心に大原の里を声明の根本道場とした功労者です。

良忍上人は、尾張富田(愛知県東海市)の人で、13歳で叡山へ登って兄の檀那院良質に就いて出家し、仏道修行に励み才能を発揮しますが、当時(平安時代末期)の比叡山では、自他救済の仏道の実践が難しいと考え、22歳の頃、修行の地を求めて大原へ隠棲し、嘉保二年(1095)に声明の大原魚山派を興し、天仁二年(1109)38歳の時、鳥羽天皇の勅を得て三尊院(後の来迎院。また塔頭の浄蓮華院も同時に建立)を建立します。
日々、法華経の読誦や大乗経典の書写、念仏六万編を唱え、また「音無の滝」で滝に向って声明を唱えるなど三昧業に精進しますが、永久五年(1117)46歳の時、念仏三昧中に阿弥陀仏から融通念仏の教えを授けられました。融通念仏とは、一人の念仏と衆人の念仏とが互いに融通しあって往生の機縁となることで、良忍上人は天治一年(1124)、この教えを弟子達によって京都市中に布教させ、やがて河内(大阪府)平野に修楽寺(日本最初の念仏道場といわれる大念仏寺の前身)を開き、融通念仏宗を開宗するようになります。そして天承二年(1132)に60歳で、この来迎院で入滅しました。

さて、こうして、大原は上院来迎院と下院勝林院を中心として坊(子院・塔頭)が集落化して魚山大原寺と総称し、平安末から鎌倉時代の最盛時には、一里四方(約654m四方)の境内に上下両院で49もの坊が建ち並びました。当時は、声明を修練する僧侶や貴族が数多く集まって、妙音のこだまする里であったということです。そこで比叡山は、保元元年(1156)、梶井政所(現三千院)を設置し魚山大原寺の統括を図っています。
尚、多数の堂宇があった三尊院(来迎院)は室町時代の応永三十三年(1426)に火災で焼失しますが、本堂は天文二年(1533)に再建、さらに同二十一年(1552)に改修されています・・これが現在の建物です。明治初年まで魚山大原寺として広い境内を維持してきましたが、その後宗教法人法の制定により一山解散して、夫々の塔頭が独立した寺院となりました。(来迎院の周辺には、塔頭の浄蓮華院(融通念仏旧跡)、蓮成院、遮那院が点在しています。)




来迎院の見所としては、まず本堂内陣の本尊の薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三尊像は必見です。
全て藤原時代の木造漆箔寄木造で、国の重要文化財に指定されています。(写真)また脇侍の不動明王、毘沙門天像は藤原時代後期の作、三尊前の村牡丹唐草透彫の前卓は鎌倉時代初期の作になります。さらに外陣左脇檀には慈覚大師坐像、元三大師画像、聖応大師坐像が祀られ、右脇檀には徳川歴代将軍の尊霊を祀ります。(江戸時代に幕府の御朱印寺として寺領を授かっていた縁によります。)寺宝としては伝教大師度縁案並僧綱牒(どえんあんならびにそうこうちょう 国宝)、日本霊異記(中・下 国宝)をはじめ、良忍上人自筆の写本や声明に関する記録や典籍、文章など貴重な資料を所蔵しています。

境内の鐘楼にある梵鐘は、永亨七年(1435)に大工藤原国次が作ったという銘があり、京都市指定重要文化財です。また本堂から東に登ると、鎮守堂・獅子飛石(良忍上人の修行中に石が獅子となって飛び回ったという伝説によります)・地蔵堂(鎌倉時代)があります。
そして、律川の対岸に渡ると、聖応大師良忍上人の御廟である三重石塔(鎌倉時代 国の重文)があります。(写真)その他境内には、良忍上人の創建と伝わる如来蔵、昭和六十年(1985)に完成した収蔵庫が点在しています。
また、年中行事としては一月二日に声明法要の修正会や春秋(5月1〜10日・11月1日〜30日)の如来蔵所蔵の絵画の特別公開等があり、また毎日曜日には勤行法話会で声明を聞くこともできます。




今回、久しぶりの来迎院でしたが、本堂の三尊は相変らず厳かで、三千院の往生極楽院の三尊と共に仏教聖地としての大原を感じさせてくれる数少ない貴重な宝物です。平安時代に溯って魚山大原寺の歴史を現在まで伝えているのは、この来迎院と勝林院、それと各塔頭二院のみで、三千院境内でも往生極楽院しかありません(それ以外は江戸時代以降の創建)そういう点でも大切にしたい寺院です。





尚、追加として、塔頭の浄蓮華院と蓮成院に関してです。
この二寺は一般拝観をしていませんが、(浄蓮華院は宿坊としては公開しています。)毎土日・祝日に行われている大原の観光イベント「香雲ミニ・コンサート」の会場となっているので、チケットを買って参加すると内部を見ることが出来ます。(私も未だ見たことは無いのですが)

浄蓮華院は天仁二年(1109)聖応大師良忍上人が来迎院と同時期に建立した融通念仏の本堂で、元は良忍上人の住坊でした。明治初期に堂宇を焼失しますが、昭和四十四年(1969)に庫裏と鐘楼堂を再建しています。現在は宿坊として公開されています。
また、蓮成院は非公開寺院で、客殿は江戸末期の梶井宮最後の門主・昌仁法親王の仮御殿として建立されたということです。かっては「北ノ坊」と称して三千院の境内にあったものを昭和元年(1926)に三千院の辰殿が再建される際に現在地に移されたということです。

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