京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

大原・八瀬・岩倉他

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実光院

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三千院の山門前の道を北へ歩くと、左手に小さな山門が見えます。これが実光院ですが、一見かなり地味な印象です。そのため、このお寺を無視される観光客も結構多いようですが、緑豊かな落ち着いた庭園があって、やや穴場的な寛げるお寺として注目しても良いかもしれません。



大原勝林院町にある実光院は、宝泉院と共に前回に採り上げた勝林院の塔頭(子院)です。
勝林院(大原寺)は長和二年(1013)に慈覚大師円仁上人の九代目の弟子寂源上人が、大原の地に天台声明を伝承するために建立した寺院でした。その後、天仁二年(1109)に聖応大師良忍上人が三尊院(来迎院)を声明道場として建立し、大原は上院(来迎院)と下院(勝林院)を本堂として魚山大原寺と総称するようになりました。そして盛時には四十九もの坊(子院・塔頭)が建ち並んだと伝えられ、勝林院の境内には実光院の他に宝泉院、普賢院、理覚院等の塔頭が建てられました。実光院は学僧の宿坊として建立され、かっては、通りをはさんで向かい側の現在の大原陵(後鳥羽天皇・順徳天皇陵)の地にありましたが、明治以降の大原陵の整備もあり、大正八年(1919)に同じく塔頭の普賢院と理覚院を併合した形で、普賢院の跡地である現在地に移転しました。

実光院には文化財的には特に傑出した物があるという訳では無いようです。現在の客殿は、移転後の大正十年(1921)に建てられたもので、客殿欄間には江戸時代中期の狩野派の画家による三十六詩仙画像があり、また声明研究のために歴代住職が収集した楽器やガンダーラ等の仏教美術品が陳列してあります。本尊は小さな地蔵菩薩像、脇持には不動明王像と毘沙門天像を安置しています。(写真)尚、庫裡は旧地から江戸末の建物を移築しているそうです。



実光院の見所は庭園です。小さな山門や狭い前庭を経て客殿に通されると、目の前に以外と広い庭が広がっていることに少し驚きます。今の実光院が大正時代に他の二つの塔頭・普賢院と理覚院を併合して現在地に移転したため、庭園は基本的に旧塔頭の二つの庭園で構成されています。(客殿の南に旧普賢院庭園、客殿の西に旧理覚院庭園)

客殿の南に広がる旧普賢院庭園は「契心園(けいしんえん)」と名付けられ、江戸時代の作庭です。寺のすぐ東を流れる律川の水を取り入れた心字池を中心にした池泉観賞式の庭園で、客殿奥から眺めると、額縁庭園として趣があります。石垣を背景として、庭の中心にある心字池に左手に造られた滝口から静かに水が流れ落ち、その滝口の近くには蓬莱石組があります。高い築山の松は鶴を、池の島は亀を表現しています。特に目立つのは築山の上に置かれた石造五重塔で、池の手前を俗世、向こう側を浄土に見立てているということです。

一方、客殿の西にあるのが旧理覚院庭園です。こちらは池泉回遊式庭園で、庭園内を散策することが出来ます。理覚院が廃寺となって実光院に併合された後、荒廃していた土地を近年前住職が寺領の山谷から石を運び込んで作庭したものということですが、やや特徴の無い、しかし開放的な明るい庭が広がります。庭の中央には瓢箪池があり、大原の山並(西の金毘羅山や小塩山)を借景に取り入れるために庭木を低く仕立ています。このために、それ程広い面積ではないにもかかわらず、大原の山里の風景を背景とした大らかな優しい庭になっています。また、この庭の西北隅にある茶室「理覚庵(りかくあん)」は、昭和50年(1975)、前住職の設計によって実光院領の山林から資材を調達して建てられたものです。庭には多くの茶花が植えられ、四季折々で花が楽しめますが、特に庭の中央にある不断桜は、毎年秋かの紅葉の頃から春まで花を咲かせる珍しい品種として知られ、秋には紅葉と桜が一度に楽しめるということです。



実光院は、非常に親しみやすいお寺です。雄大な松がある宝泉院の魅力には及びませんが、庭園も優しげで落ち着く空間になっています。観光客も三千院や宝泉院より少ないので、山里大原の長閑さを最も感じられる、ホッコリできるお寺かもしれません。

勝林院

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大原にある観光寺院は、結構拝観料が高い気がします。
三千院(700円)はもちろん必見で、寂光院(600円)も有名。宝泉院(抹茶・お菓子付き800円)も人気がある。その次は重文指定の仏像がある来迎院(400円)・・結局6つの観光寺院を全て訪れると拝観料合計は3400円。お金がもったいないのでやめておこう・・となるのが実光院(抹茶・お菓子付き600円)や勝林院(300円)辺りでは無いでしょうか?
特に勝林院は、境内が全てオープンで、入り口の来迎橋の向こうに本堂が見えるので、観光客の多くは「ここから見たら、もう良いだろう。」と、隣の塔頭・宝泉院の方へ行ってしまうように思います。
現在の勝林院は、本堂のみが残り、また住職がいないので塔頭の宝泉院や実光院が輪番で管理している状態ですが、大原で最古(聖徳太子が創建したという伝説のある寂光院を除けば)の由緒ある寺院です。



さて、左京区大原勝林院、三千院の門前を北へ真っ直ぐ歩くと正面にある勝林院は、魚山・大原寺(たいげんじ)と号する天台宗の寺院です。また法然上人の「大原問答」の旧跡として円光大師(法然)二十五霊場の第二十一番札所でもあります。
平安時代の承和十四年(847)に唐から帰朝した慈覚大師円仁は、中国仏教の伝統的な儀式音楽である声明音律業(声明 しょうみょう)を日本に伝え、その後弟子たちにより比叡山に伝承されてきました。そして、平安中期の長和二年(1013)に慈覚大師の九代目の弟子・大原入道こと寂源上人(一条左大臣・源雅信の子)が、この大原に声明道場として大原寺(現在の勝林院)を建立しました。その後、大原寺(勝林院)は大原魚山流声明の根本道場として栄え、境内塔頭として宝泉院、実光院、普賢院、理覚院、龍禅院等が建ち並びました。その後明治以降に、勝林院の境内は本堂のみ残し、境内塔頭・宝泉院、実光院が勝林院境内から独立した形で存続しました。


さて、寂源上人は、寛仁四年(1020)に比叡山の碩学を請じ、大原寺(勝林院)の本阿弥陀如来像の前で法華八講を行いました。これを「大原談義」と言います。この時、覚超と偏救の二僧が仏果(修行・悟りによって得られる結果=成仏)の空・不空について議論をしましたが、覚超が不空を論ずると本尊阿弥陀如来が姿を隠し、偏救が空を論じるとその姿を現したといい、阿弥陀如来が空にも不空にも偏らない中道実相の本意を表したと伝えられます。
また、文治二年(1186)には、顕真法師(法印 後に天台座主権僧正)が大原寺(勝林院)に浄土宗の開祖法然上人を招いて、浄土宗の宗義について論議しました。この一日一夜続いた論議を「大原問答」といいます。
この時、東大寺の俊乗坊重源が弟子三十余名を連れて参加したのをはじめ、明遷、証真、貞慶、智海等の当時の名僧等も加わって、各自弁舌をふるって法然に問いかけましたが、法然は法相・三論・華厳・天台・真言等の各宗派を論じて、阿弥陀如来の徳化を理を究め、証を挙げて論述し、念仏を唱えることで極楽往生できることを示したので、満座の聴衆は皆信伏して念仏を唱えたと伝わります。この時も、阿弥陀如来の手が光明を放って、念仏衆生を全て救うとの証拠を表現されたということです。

このようなことから大原寺(勝林院)の本尊・阿弥陀如来像は、「証拠の阿弥陀如来」と称し、本堂は証拠堂と呼ばれました。その後、文明八年(1476)に、応仁の乱で皇居が炎上したことから、その年の後花園天皇七回忌法要が、勝林院の本堂で行われ、その後もしばしば御懴法講と呼ばれる勅願法要が行われたということです。
その後、この本堂は江戸時代初期の徳川家光の時代に、春日局の願により崇源院(2代将軍秀忠夫人)の菩提のために再建されましたが、享保二十一年(1736)の火災に遭い焼失しました。そして、安永七年(1778)に、徳川家の援助を受け、また後桜町天皇の御常御所の建物を拝領されて建造されたのが現在の本堂で、総欅造、柿葺屋根の堂々とした建物です。(鐘楼と共に京都市指定文化財)

本堂の中心に祀られている本尊・阿弥陀如来像は、平安中期の仏師康尚の作で、江戸時代の元文二年(1737)に大仏師香雲が補修したものということです。また、この本尊の御手からは五色の綱が下っていて、参拝者が触れて結縁を得ることができます。その中の白い布の綱は、葬儀の際に来迎橋(橋から手前=現世と、境内=極楽浄土を分けています。)の外まで伸ばして、安置される棺の上にたらして極楽往生をするという平安時代の儀式を今も行うための「善の綱」と呼ばれるものです。
本尊の脇侍は不動明王と毘沙門天で、また本尊前の左右には、八講壇(問答台)という問答論議を行うための台が置かれています。その他本堂内には法然上人木像、踏出阿弥陀像、元三大師画像、普賢菩薩像、菅原道真の本地仏だったと伝わる元北野寺の本尊・十一面観音像等が安置されています。

境内のその他の見所としては、境内西、左手に歌人平井乙麿の「苔の上をまろぶがごとく流れゆく呂律の里の弥陀の声明」と彫られた歌碑(写真)や、本堂左の坂を少し登ると最胤親王(後伏見天皇九世皇孫)の墓があります。(写真)また、境内の東側、本堂右の坂上には、鎌倉時代の正和五年の刻字のある石造宝篋印塔(重文・鎌倉)が立っています。(写真)さらに、江戸初期の鐘楼にかかる梵鐘は無銘ですが、藤原時代のもので重要文化財に指定されています。(この鐘は毎年除夜の鐘で撞かれています。)その他西側の宝蔵には魚山叢書等の貴重な文献、経典、仏画、木版等が所蔵されていますが設備が無いために公開はされていません。また、行事として正月三日に、平安時代以来の古典音楽法要の修正会が行われています。



勝林院の本堂は立派な建物で、内陣も厳かでまずまず見応えがあります。境内は地味な印象ですが、現世と極楽浄土とを分けている来迎橋を渡って(拝観料を払って)極楽浄土の世界を少し覗いて見ても良いかもしれません。

宝泉院

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京都の大学で史跡研究サークルに参加していた頃、サークルの某リーダー(現在銀行員)が「京都で一番好きな寺は宝泉院だ」と言っていたことを思い出します。
大原勝林院町にある天台宗寺院の宝泉院は、歴史的な重要性や所蔵する文化財的には同じ大原の三千院や来迎院、勝林院よりも劣ると思われますが、見所の「額縁庭園」が幾つかのテレビCMに採り上げられたため、今では隠れた名所と言うより、メジャーな人気寺院になっています。



さて、この前に少し書きましたが、平安初期に比叡山延暦寺の慈覚大師円仁が中国からもたらした声明(しょうみょう)は、その後弟子達に受継がれ、やがてこの大原に多くの声明道場が建てられることになりました。平安中期の長和二年(1013)に慈覚大師の九代目の弟子・寂源上人が大原寺(勝林院)を、また天仁二年(1109)に良忍上人(聖応大師)が三尊院(来迎院)を声明道場として建立し、大原は上院(来迎院)と下院(勝林院)を中心として盛時には四十九もの坊(子院・塔頭)が建ち並んだ仏教聖地となりました。
宝泉院は、勝林院の塔頭として平安末期の長和二年(1013)頃に創建されたと考えられます。寺伝によれば、現在の本堂は室町時代の文亀二年(1502)の再建ということですが、建物の形式や書院の天井板(伏見城床板=いわゆる「血天井」)からも江戸初期に再建されていることがわかるようです。

この宝泉院の書院の天井板は「血天井」として知られ、これまで正伝寺、養源院、源光庵をブログで採り上げた時にも書きましたが、伏見城の遺構になります。慶長五年(1600)の関が原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いで、西軍の大軍と交戦し敗れた徳川家康の家臣・鳥居元忠ら380余人が切腹した際の血が生々しく残った伏見城の床板ですが、その後、元忠をはじめとする諸兵の菩提を弔うために幾つかのお寺に納められ、天井に掲げられ(もちろん、床板等に用いると罰当たりなため)祀られています。



さて、宝泉院といえば、客殿の西にある「額縁庭園」として有名な「盤桓園(ばんかんえん)」があります。
「盤桓園」とは「立ち去りがたい」との意味があるということで、庭から少し離れた座敷奥に座って、鴨居と左右の柱を額縁に見立てると、竹林の間から大原の里を借景にした絵画のような美しい光景が目の前に広がります。
また近江富士の形をした樹齢700年と言われる「五葉の松(京都指定天然記念物)」には圧倒されます。この松は、金閣寺の「陸舟松」、善峯寺の「遊龍松」と共に「京都三大松」と呼ばれていますが、この3つの松の中でも最も雄大な松だと感じます。また、秋には楓が美しく、まさに「立ち去りがたい」庭園の一つでしょう。

この額縁庭園を見たいがために多くの観光客が宝泉院を訪れますが、秋の観光シーズンは、周りの赤毛氈に人がぎっしり座るので、写真撮影はまったく期待できず、京都の多くの観光地の中でもストレス度の高い場所になってしまうのが何とも残念です。紅葉シーズンの写真撮影が目的であれば、開門前から並ぶ覚悟のいるお寺の一つでしょう。今回私は午前9時の開門一番乗りで眺めてみましたが、今の季節は少なくとも午前中なら人のほとんどいない静かな空間を楽しめそうです。
また、もうひとつの「鶴亀庭園」は江戸時代中期の作と伝えられ、部屋の中から格子ごしに鑑賞する庭園です。池の形が鶴、築山が亀、山茶花の古木を蓬莱山と見立てています。樹齢300年という沙羅双樹も植えられています。



さらに、宝泉院には平成十七年(2005)に新しい庭園「宝楽園」が完成しています。
この庭園は、「仏神岩組雲海流水回遊花庭」という壮大な別名を持ち、地球太古の創生期に溯って、その原初の海をイメージした庭園ということです。東北の念珠関から運んだ海石「念珠石」を用いて三尊石組とし、また亀甲石(長野県天狗山産)や銀石(群馬・埼玉県境三波峡産)等を用いて蓬莱山、座禅石、宝船石等や特徴的な石橋を造っています。庭の底地には白川砂(京都白川上流域産)が敷き詰められ、台付花桃、桜、楓を中心に四季を通じて様々な花が楽しめる庭になっているようですが、壮大な別名に対して、面積が狭いのが残念でもあり、まだ新しい庭のために落ち着いた風情が感じられないという印象で、好みの分かれる庭のようにも感じます。序でに境内北側にある茶室「竹風庵」は鴻池別邸の茶室を移築したものということです。

最後に、宝泉院といえば、仏教で慈悲と智恵の世界を意味する「理智不二(りちふに)」と命名された珍しい二連式の水琴窟や、明治時代に声明の大家であった住職・深達僧正が音律を調べるために愛用したという「サヌカイト」を用いた「石盤」も訪れる人に親しまれています。これら、親しみやすく優しげな小道具も含め、現代人の求める癒しの空間造りのうまいお寺です。



とにかく、小さなお寺にもかかわらず人気があるため、秋に紅葉の「額縁庭園」の写真に誘われて訪問したものの、観光客の多さに失望した方もあるでしょう。しかし、季節をずらせば静かな時間をすごせるお寺ではあり、囲炉裏のある部屋でゆっくり寛ぐこともできるかと思います。

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大原には有名観光寺院の他に小さな史跡がたくさんありますが、三千院付近から幾つかの目立った史跡を採り上げてみます・・ほとんどの観光客は残念ながら素通りしてしまう史跡かと思いますが・・。


左京区大原勝林院町、三千院の北にあるのが、第82代後鳥羽天皇大原御陵(おおはらのみささぎ)と第84代順徳天皇大原御陵(おおはらのみささぎ)で、またその北隣には法華堂があります。(写真)

承久三年(1221)、後鳥羽上皇は、子の順徳上皇と共に鎌倉幕府打倒の承久の乱を起こしますが、敗北して、後鳥羽は隠岐に、順徳は佐渡に流刑となりました。(尚、この時乱に関わっていなかった順徳の兄・第83代土御門上皇は、罪が無いにも関わらず、父や弟が配流されるのに自身が許されるのは耐え難いと自身望んで土佐へ配流されました。また天皇に即位したばかりの順徳の皇子も廃されました・・以後九条廃帝と呼ばれ、明治時代に仲恭天皇と増名されています。)さて、後鳥羽は延応元年(1239)、順徳は仁治三年(1242)に夫々の流刑地で死去しましたが、その遺骨は大原の地に運ばれて埋葬されました・・この遺骨を埋葬した御堂が、現在大原陵の隣にある法華堂(大原法華堂)になります。(写真)

当時、梶井宮(三千院)の門主は、後鳥羽上皇の皇子・尊快法親王だったため、その母の修明門院(藤原重子 鳥羽上皇女御。順徳上皇の母でも)と計らって、仁治二年(1241)、上皇の菩提を弔うために、後鳥羽の御所だった水無瀬御所から材を移して御陵として法華堂を建立したと伝えられます。その後、法華堂は享保二十一年(1736)に勝林院と共に焼失し、現在の建物は安永年間(1770頃)から再建がはじまり、安永七年(1778)に落慶法要が行われました。その後、明治時代に現在の地に後鳥羽・順徳の陵墓の大原陵が造られた際に、法華堂にあった遺骨は陵墓に移されたということです。陵墓は、右が後鳥羽、左が順徳陵ですが、宮内庁によると、陵墓の形式は後鳥羽が前に見える十三重塔、順徳は円墳ということです。法華堂については昭和十一年(1936)に内部と屋根を修復しています。堂内には本尊普賢菩薩像を安置しますが非公開です。

その他皇室関係として、勝林院の境内から大原陵に沿って山中に入ると、2つの梶井宮墓地があります。ここは江戸時代の歴代梶井門跡の墓で、一ヶ所は叡仁親王(霊元天皇皇孫)、道仁親王(後伏見天皇十四世皇孫)、慈胤親王(後陽成天皇皇子)、常仁親王(霊元天皇皇孫)が葬られ、さらに別に承快親王(後陽成天皇皇子)、盛胤親王(後水尾天皇皇子)、清宮塔(霊元天皇皇子)、承真親王(霊元天皇皇曾孫)の墓があります。




さて、有名寺院が建ち並ぶ三千院付近を歩くと小さな神社があるのに気付きます。

大原勝林院町にある服部神社は、勝林院町の鎮守社で、祭神は服部大明神。里人により「はっとりさん」と親まれ、毎年一月に修正会と初祈祷、十月には御湯、11月にはお火焚行事が行われているということです。(写真)
また、大原来迎院町、三千院の南に沿って呂川を溯ると小さな神社があります・・勝手神社です。寂れた様子の小さな神社ですが、来迎院を建立した聖応大師良忍上人が天治二年(1125)に声明道場の守護神として大和多武峯より勧請したと伝わります。(写真)

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京都市左京区大原は、元々平安時代に「声明(しょうみょう)」の根本道場・聖地として栄えた地でした。寂光院を除くこの地の観光寺院(三千院、来迎院、勝林院、宝泉院、実光院)は、全てこの声明道場に関係するので少しその当りのことについて書いてみます。


「声明」とは、仏教経典などに節を付けて歌う仏教音楽で、その起源はインドの仏教誕生時代に溯るとも言われ、梵歌とも呼ばれていたようです。その後、奈良時代から平安時代にかけて中国経由で日本に伝えられ、日本でも様々な宗派で伝承されましたが、現在では「天台声明」と「真言声明」が主流となっています。大原で伝承されてきた天台声明は、平安時代に比叡山延暦寺の慈覚大師円仁が中国から伝えたもので、「魚山(ぎょざん)声明」とも呼ばれました。「魚山」とは、中国の山東省にある声明の聖地のことで、比叡山の西麓(現在の大原の東)の山々が中国の「魚山」に似ていることから名付けられたと言われ、今も三千院以下の寺院の山号として伝わっています。

また、大原では三千院を挟んで二つの小さな川が流れていて、北を流れる川は律川(りつせん)、南が呂川(りょせん)と呼ばれていますが、これらは声明の呂(呂旋法)と律(律旋法)に因んだ名前になります。(尚、この呂と律の節回しの使い分けが出来ないことから「呂律(ろれつ)が回らない」という言い回しが生まれたと言われています。)どちらの川も紅葉に映え、特に律川に架かる赤色の萱穂橋の辺りは絵になります。(写真1は来迎院付近の呂川、写真2は律川の萱穂橋辺り)三千院や実光院の庭園は律川の水を引き入れたものでもあり、前回に採り上げた「音無の滝」もあって大原を歩くと水の郷という印象も持ちます。(それと大原と言えば柴漬けですが・・四方を山に囲まれた盆地のために昼夜の寒暖が激しく、さらに水質にも恵まれているために紫蘇が良く育つことは知られています。)


ついでに、寂光院の参道付近にある水に関する小さな史跡も掲載します。
「朧(おぼろ)の清水」は建礼門院ゆかりの泉で、建礼門院が、朧月夜に自身の姿を映したとされる泉です。また、「落合滝」は、建礼門院の「ころころと小石流るる谷川の かじかなくなる落合の滝」の歌で知られている小さな滝です。(写真)

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