京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

大原・八瀬・岩倉他

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再び岩倉です。


岩倉北部に実相院があるなら、岩倉の南部を代表する観光寺院といえば、やはり円通寺でしょう。
でも今回は行きませんでした。円通寺は学生時代から好きなお寺だったので、数年前にも訪問したのですが、苔が荒れ果てて無残な状態だったのが忘れられないのです・・前は綺麗に茂っていた苔がありませんでした。お寺の苔の管理が悪いとか何かで読んだ記憶があり、また失望させられるのも嫌なので、いつか苔の一番綺麗な梅雨時にでも訪問したいと思っています。





それで今回は、妙満寺と近くの幡枝八幡宮社をセットで取り上げました。

妙満寺は岩倉でも大きなお寺ですが、私は初めてでした。
観光ガイドなどでも出てくるのですが、新しいお寺のようなので、関心が薄くてこれまで先延ばしにしてきたのです。



妙満寺は室町時代の康応元年(1389)に日什(にちじゅう)上人により、京都六条坊門室(現在の烏丸五条付近)に建てられたお寺でした。
その後、応仁の乱などの兵火の影響で移転を繰り返し、天正十一年(1583)豊臣秀吉の時代に寺町ニ条に移りました。しかし昭和四十三年(1968)に都市化による喧騒を避けて、現在の岩倉に移り現在に至っています。そういうわけで、本堂以下は40年程前に建てられたもので、特に目立つのは、昭和四十八年(1973)に建てられた、仏舎利を納めたインドブッダガヤ大塔を模した仏舎利塔です。




庭園は、「雪の庭」と呼ばれるもので、俳諧の祖と言われる松永貞徳の造作と伝わります。
「雪の庭」という名称は、庭が比叡山を借景としているため、冬に峰の冠雪が美しく眺められることに由来するそうです。
貞徳は清水寺に「月の庭」、北野(一説に祇園)に「花の庭(現存せず)」を造り、それぞれが成就院という坊にあったため成就院「雪・月・花」の三名園と呼ばれていたそうで、妙満寺の庭園は、岩倉に移転した際に、成就院より本坊に移築されたものです。




また、妙満寺には、紀州道成寺の安珍・清姫伝説ゆかりの鐘が納められています。
このお寺になぜこの鐘があるのか・・・それにはこのような不思議な物語があるそうです。
正平十四年(1359)に紀州の道成寺では、安珍・清姫伝説以来、長く失われていた鐘を再鋳造して供養を行ったところ、その席に謎の白拍子が現れ、呪いの力で鐘を落下させると、蛇の姿に変化し日高川に消えていったのです。やがて近隣に災難が続き、清姫の祟りと恐れた道成寺は鐘を埋めました。
その後、豊臣秀吉の紀州根来攻めの際に、軍を率いた総大将の仙石秀久がこの話を聞いて、掘り起こして京都の妙満寺に運びます。そして当時の大僧正の供養により、怨念は解かれて、美しい音色を響かせたそうです。

現在、「道成寺もの」を演じる能楽、歌舞伎や演劇、映画等の関係者は、この鐘に芸道精進を祈るようです。他に寺宝として加藤清正、松永貞徳の肖像画などが展示室で公開されています。





私が訪問したときは、新しいご住職が就任される日のようでした。お寺にとっては私のような訪問者がいない方が良かったのかもしれませんが、私も妙満寺だけのために、また岩倉に来るのは嫌なので、堂々と拝観した次第です。拝観料を払って本堂に上がり、ズラット並んでいた緑と金の綺麗なスリッパを履いて庭を眺めていると、お寺のおばさんが追いかけてきて、それは各寺から集まったご住職さん用です。こちらを履いてくださいと、どこから取り出したのかグレーの普通のに履き替えさせられました^^;




さて、このお寺の印象は、本堂や仏舎利塔をはじめ・・全てが新しく綺麗だということです。
トイレは一流ホテル並に綺麗です。お寺は檀家や信者の方と布教活動の励んでおられるのでしょう。
とにかくお金があるのだろうなという印象を持ちました。観光的には、安珍・清姫伝説ゆかりの鐘や雪の庭がありますが、どちらかといえば円通寺や実相院のついでという感じでしょう・・





妙満寺からそれ程離れていない小山に、幡枝八幡宮社(針神社)という神社があるので、寄ってみました。

この神社は、応神天皇、神功皇后を祀る、旧幡枝村の産土神です。
神社縁起によると、平安時代の寛平六年(894)に、新羅国が攻め寄せるという風聞があった時に、人民守護のため幡枝の地に鎮座させよという八幡神のお告げがあり、里人が朝廷に奏上して創建したのが始まりとされます。
歴代の朝廷の信仰を受けましたが、江戸時代初期の刀工、堀川国広が神社に祈願し、境内から出る石清水の水を用いて名刀を鍛えたという話が知られています。





また境内には、針神社として知られる末社があります。

ここは、鏡や刀剣等の全ての金属の神様、金山毘古命(かなやまひこのみこと)を祀り、現在も刃物や金物等の金属関係者からの崇敬を受けています。また針の守護神としても信仰を集め、毎年12月8日に「針供養」が行われています。
岩倉の幡枝付近は新興住宅が立ち並ぶ地域ですが、神社は竹林に囲まれた少し寂しい参道の先に有りあります。しかし、境内は整備されていて、地域の方の信仰を集めているように感じました。





今回で左京区岩倉方面の主な史跡は終わりにして、次回は松ヶ崎方面です。

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今年の夏から「松ケ崎題目踊・さし踊」、「八瀬赦免地踊」、「岩倉火祭」と、特に夜間に行われるマイナーなお祭を採り上げています。
昼間は、行事が行われている周辺の景色から見物客の表情まで全部が見えてしまいますが、夜間は、松明や提灯、ロウソクの灯だけが浮かび上がり、周りは漆黒の闇となります。こちらも行事に神経を集中できるので、後で何か充実感が残っているような気がするのかもしれません。

10月も終わりになり、大晦日を除けば、今年の京都の夜の行事もそろそろ出尽くしてきたようにも思います。そこで、今回は10月の最後の夜の行事・・マイナー度がこれまでで最も高い「木野愛宕神社の烏帽子着(えぼしぎ)」です。


烏帽子着とは、昔のいわゆる元服式になります。愛宕神社の祭礼行事として、京都市登録無形民俗文化財に指定されている由緒ある行事ですが・・情報がほとんど有りません。
今年は行われるのか?日時は23日で良いのか?夜の何時からの開始か?行事が行われる木野愛宕神社は普段無人で連絡も取れませんし、京都府・京都市の地元の公的機関出張所等に確認しても不明でした。
とにかく行ってみることにして、当日は少し雨が降っていましたが、神事がそう簡単に日時変更も無いだろうと、午後7時頃に現地に向かいました。行事の行われる木野という場所は、叡山電車では岩倉より一つ遠い駅になり、愛宕神社は駅から約数百メートル程度の近さです。


神社が見えてくると、参道にたくさんの提灯が掲げられていて一安心。
境内は提灯の灯でほのかに明るく、雨よけの青いビニ−ルシートが張られた骨組みの下に、藁のゴザが敷き詰められています。本来は、星空の下で厳かに行事が進行するのですが、雨のためビニールシートの下で行われるのが少し残念です。やはりテレビカメラ等も来ていますが、観光客は数人程度(情報が皆無に近いので、予想通りでした。)、裃(かみしも)の正装姿の行事保存会の方がほとんどです。行事は8時開始のようで、地元の人はその頃から集まってくるようです。


さて、祭礼準備が進み、祭殿に神饌(しんせん)を供えられていきます。
2列で30程の神饌(しんせん)は赤飯を編んだ藁で造った御供、各種御膳のようです。また燈油の入った小皿に火を灯して並べます。提灯と小皿の灯が、神饌(しんせん)の赤い色を美しく引き立てていて、中々綺麗です。こういう色が引き立つというのも夜祭の良さですね。(写真)

午後8時を過ぎて、神社の神官が来られると、お祓い、祝詞の奏上、玉串奉納・・粛々と神事が行われます。神官による翁の舞いも行われて大きな声が辺りに響きました。見物客が徐々に集まって来ましたが、カメラのフラッシュ以外の音は無く、皆さんじっと静かに見守っています。

さらに保存会の方達が謡曲「高砂」等を歌って、いよいよ「袴上げ(はかまあげ)」という成人になる通過儀礼が開始です。16歳の2人の男子が裃(かみしも)の正装で登場し神職以下の全員に杯事(さかずきごと)の響応の酌人の役を勤めます。若い2人が、全員に4回程杓をしながら回ると、また全員で謡曲が歌われ、やがて儀式は終了していきます。
こうして、儀式が終わった後は、青年達は成人として認められ、一家を代表する立場として、地域の共同体に受け入れられることになるようです。昔はどの地域でも、似たような儀式を行っていたのでしょう。
「木野愛宕神社の烏帽子着」は今日まで古い風習を伝え残している点で貴重な祭事ということです。

見物客も数十人程度、会話をそれとなく聞くと、地元企業の若い会社員、駅の近くの大学の学生等もいますが、ほとんど地元の人のようです。午後9時半頃、行事が滞りなく終わりました・・と合図があり、後片付けが始るようです。祭りの一番の長老らしいお爺さんが、写真を撮っていた大学生に、「たくさん、写真撮れたんとちゃうか?学生さんか?」と聞いています。私も、おばさんに、「私の家の提灯、どこに吊るされているか、探してんのよ・・ホホ。」と笑って話し掛けられました。
観光客がいない地元の静かな祭りはあったかい雰囲気で終了しました。


全国各地で過疎化や少子高齢化による後継者不足から、祭りの開催が危ぶまれる事態があったりするそうです。この祭事も観光客のいない、地域の素朴な行事なので、是非頑張って継承していって欲しいと思います。歴史のかけらのような、静かに受け継がれている小さな伝統行事が私は好きです。

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京都には、「葵祭」「祇園祭」「大文字五山の送り火」「時代祭」「鞍馬の火祭」等、全国的にも知られている祭が有りますが、見て良かったとしみじみと感じる祭は、こういった観光客が大勢押し寄せ、人込みに揉まれて見る祭では無く、地元の人に守られてきた、あまり知られていない祭の方だと感じます。




「八瀬の赦免地踊り」の時に書きましたが、「岩倉火祭」もあまり人に教えたくない迫力ある祭りです。観光客が増えれば、その魅力は失われていくような気がします。




京都には「三大火祭」と呼ばれる、
「大文字五山の送り火(大文字送り火・松ケ崎妙法送り火・船形万燈籠送り火・左大文字送り火・鳥居形松明送り火)」、「鞍馬火祭」、「嵯峨お松明」の他にも、注目したい火祭があります。
「松上げ(雲ケ畑松上げ、花脊松上げ、広河原松上げ、久多宮の町松上げ)」や「三栖の炬火祭」、「岩倉火祭」などです。




「岩倉火祭」は石座神社で行われるので、「石座(いわくら)火祭」、「石座神社の火祭」とも呼ばれる奇祭ですが、深夜の午前3時ごろからはじまるため、アクセスの悪い山奥の「雲ケ畑松上げ」「久多宮の町松上げ」と共に、京都の火祭の中では、観光客が最も行き難いお祭りです。





実際、京都観光系の多くのHPを調べても、「岩倉火祭」に関する情報が非常に少ないことに気付きます。
観光サイト情報などが、どれだけ偏った情報のみを提供しているかがわかるのですが、火祭の迫力としては鞍馬の火祭に匹敵するにも関わらず、サイトの運営情報提供者が実際に見た事が無いという怠慢から書くことが出来ないのではないでしょうか。実際に見た人は書かずにいられないと思います。




この祭は、「時代祭」や「鞍馬の火祭」と重なる時期ですが、これらについては、情報量も多く、見物された経験の有る方も多いと思います。何か書くとしても、ご存知の方も多い祭りなので新味味が有りません。
しかし「岩倉火祭」に関しては京都人でも知らない人が多いので、特に採り上げる価値が有りそうです。




私が初めてこの祭りを知ったのは、白洲正子さんのご本「かくれ里」によります。
「山国の火祭」という章で「松上げ」に関して書かれていて、「鞍馬の火祭」や「岩倉の火祭」など京都にも火祭は多いが・・・というような言及があります。「松上げ」の素晴らしさを強調する内容の中で、「鞍馬の火祭」が観光化して本来の魅力を失った・・とマイナス的な書き方をされています。




白洲さんが「岩倉の火祭」について、どのように思われていたかは、それ以外何も書かれていないので不明ですが、今から40年程前に書かれたこの本の中で、既に観光化して魅力を失ったという「鞍馬の火祭」が以前はどれだけ素晴らしかったのかと想像してしまいます。




白洲さんを感動させた「松上げ」ですが、今では「花背の松上げ」「広河原の松上げ」は、京都バスが「松上げ鑑賞バス」を出しているので、多くの人が見に行っています(私も含めて)。こういう観光化は、白洲さんの望むところでは無いでしょうね。




さて、「岩倉の火祭」に関しては、まだ京都内外からの観光客は少ないようです。

私も白洲さんの本を読むまで知らなかったくらいで、京都市民にもそれ程知られていないのかもしれません。深夜のバスや電車が無い時間帯ですが、車や二輪・原付、或いは自転車でも簡単に行ける場所なので、今後は観光客が増える危険性はあります。岩倉周辺は24時間のコンビニも多く、懐中電灯も要らないほど明るかったです。




私は午前1時過ぎには神社の境内に入りましたが、テレビカメラ等がすでに待機し、数十人の方が祭の準備や撮影ポイントのチェックをしていました。
境内には石段の両側に2匹の大蛇に見立てた大松明が準備されています。長さ12メートル、最大直径3メートル程度の巨大なものですが、切った竹を縄で固定し、内部には枯れた杉の葉等が詰められているようです。




午前2時過ぎごろには地元の方が和服正装で神前で奉納儀式を行い、いよいよ祭の始まりです。
各町内から松明や鉾を抱えた人達が集まって来て、神前に火を掲げ、小松明に点火して回ります。深夜にもかかわらず、だんだんと人が集まってきて、小中高生が仲間連れでやって来たり、小さな子供の手を引いた家族連れもいます。地元の方以外は、ほとんどの方が写真撮影目的という感じです。いよいよ、午前3時頃に、大松明に点火されます。




乾燥した葉に引火した火は、一気に燃え上がり、高さ十数メートル程の火柱が石段の両脇に立ち上ります。この炎の門のような間を、前後に駆け抜けながら写真を撮りました・・危ないです。^^;
辺りはまるで火災現場といった感じで、熱い熱いと人々が慌てて離れます。
火の粉は天井高く空に舞い上がり、星と一体化するような感じです。それ程広くない境内なので火事が心配ですが、もちろん消防所も待機しています。昼間のような明るさの中で、周りの人の頭は落ちてくる灰で白くなっていました。見物客はざっと300〜400人程度でしょうか。




地元の方によると、今年の大松明は火の勢いが強かったようで、初めにかなり燃え上がったようです。
途中燃えるスピードをコントロールしながら、大松明は、2時間程度で燃え尽きて灰となります。
火の勢いが弱まり始めた午前4時半頃から、子供神輿と大人神輿の準備が行われます。神輿を長い心棒の上に固定し締め上げるのですが、これが中々うまく出来ないようで、子供神輿の設置に30分近くかかったようです。




まず午前5時頃、子供神輿が先にお旅所の山住神社(前にブログでご紹介しました。)に向けて出発。
その後午前5時半頃、大人神輿が80人ほどの若者に担がれて出発します。
私も神輿と共に、境内を出て途中まで見送って帰宅することにしました。「ワッショイ、ワッショイ」という掛け声が早朝の町に響いていました。(この後、御旅所で神事が行われ、昼過ぎに再び神輿が神社に戻ってくることになります。)




祭というものは、昔からの地域の共同体を維持する知恵でもあったのでしょう。
違う世代の人達が、ひとつの事を一緒に行うというのが少ない現代ですが、こういった地元の祭ではベテランのお年寄りが元気な気がしました。
火を消す時は、おじさんが若者達を大声で怒っていました。「何やっとんねん!もっとカを入れんかい!もう一回や!」「そっち持て!いくぞ、そーら!」近所のお爺さんが笑って言っています。「今年の神輿担いでる若者は力ないわ。神輿もフラフラしてるし、やるのが遅い遅い。」




地元の人達が生き生きと笑いながら、怒りながら盛り上がっている「岩倉の火祭」は、まだ観光化してダメにはなっていない気がしました。祭のベテランの古老が、未熟な若者を教え叱り、その若者が、今度はベテランとなって後輩を指導していくという昔からの伝統が生きているなと感じました。
いつまでも、この調子で頑張って欲しい祭です。




「時代祭」や「鞍馬の火祭」を既に見てしまった方は、来年でもこの面白い祭をご覧になるのも良いと思います。あまり有名にはならないで欲しい気もしますが・・・。



尚、今年は「鞍馬の火祭」は行かないで、来年以降にとっておくことにしました。
2日続けて、火祭をを見るのは、この魅力的な2つの火祭を冒涜するような気がして・・感動の安売りは良くないですね。
来年以降、私は久しぶりになりますが・・電車待ち2時間など当たり前の、人込みの中で「鞍馬の火祭」に再チャレンジしたいと思います。

速報・岩倉火祭

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10月21日(土)午前3時前から、京都市左京区の石座(いわくら)神社の境内で、「岩倉火祭(石座神社の火祭)」が無事行われました。終了は午前6時頃でした。


京都の祭の中でも、最も魅力的な祭りの一つです。
後日、もう少し詳しく書きますが、まずは迫力ある「炎の祭典」をご覧ください。

実相院

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京都市左京区岩倉の観光名所といえば、まず実相院を思い出します。



実相院は、天台宗の門跡寺院です。
皇族その他高貴な身分の出身者によって継承される特定の寺院を門跡寺院と呼んでいますが、江戸時代に、皇室関係の「宮門跡」、五摂家関係の「摂家門跡」、門跡に準ずる「准門跡」と三つに分類されました。
現在、全国に20万以上の寺院があるそうですが、門跡寺院はわずかに17ヶ寺しかありません。その内13ヶ寺は京都市内に集中しています。真言宗系では、仁和寺、大覚寺、随心院、勧修寺、醍醐寺・三宝院。浄土系では知恩院があります。
天台宗系の門跡寺院は、実相院の他には、青蓮院、毘沙門堂、曼珠院、三千院、妙法院、聖護院がありますが、どの門跡寺院も、落ち着いた、端正で静かな印象(=どこかプライドが高そうな?)があって、似たような雰囲気にも思います。




実相院も、門跡寺院らしい落ち着いた風情のあるお寺で、特に紅葉の時期は多くの観光客が集まります。


実相院は、元は天台宗の寺門派(滋賀県の園城寺=三井寺を中心とする)に属していたお寺で、現在は独立した単立寺院です。京都では山門派(比叡山延暦寺を中心とする)が多い中で珍しいお寺だったわけです。尚、ご本尊は鎌倉時代作という不動明王像です。




実相院は、鎌倉時代の寛喜元年(1229年)に五摂家の藤原(鷹司)兼基の子の、静基(じょうき)僧正が開山したお寺で、当時は北区の紫野にありました。
その後、京都御所の近くに移り、現在の地に移ったのは、応仁の乱を逃れるためであったということです。



江戸時代初期の寛永年間(1624―1644)室町幕府最後の将軍足利義昭の孫の、義尊(ぎそん)法親王が門跡となった時に、皇室との関わりを深め最盛期をむかえます。
義尊の生母が、後陽成天皇との間にも道晃親王(聖護院門主)をもうけたため、義尊は天皇から皇子同様の寵愛を受けたからです。それ以降も皇室から皇孫の門跡が続きました。




建物は、京都御所から大宮御所「承秋門院(じょうしゅうもんいん)の旧宮殿」の一部を賜り移築したもので、それらが、正面の門「四脚門」、玄関横の「御車寄」、寺院「客殿」として残っていて、江戸時代の宮廷生活の様子を感じる事ができます。
また、寺に残る古文書資料や狩野派の描いた襖絵等が常時公開されています。(非公開の寺宝も多いようですが、特別展等で順次公開されるそうです。)




庭園は、善阿弥の孫の又四郎の作と伝わる池泉回遊式庭園と、比叡山を借景とした枯山水庭園があり、違った趣を楽しめます。また五輪塔や石仏も多く、新緑、紅葉共にいい感じです。

実相院といえば、「床緑(ゆかみどり)」、「床紅葉(ゆかもみじ)」が知られます。
これは、磨き上げられて黒光りする本堂の床板に、庭の新緑や紅葉のもみじが映って、床を色鮮やかに染め上がることなのですが、私も多くの観光客と同様に、実相院では、これが一番好きです。

現在、屋内からの写真撮影は禁止されていますので、「床緑(ゆかみどり)」、「床紅葉(ゆかもみじ)」の画像はここでは載られません。
(大分以前に撮影した「床緑(ゆかみどり)」画像を、ファン登録されている方のみ公開というブログ設定でアップしました。)
障子に映る陰影を楽しむのと同じように、直接木々を見るのではなく、床板に反射した色合いを楽しむというのも、いかにも日本、京都らしい風流なのでしょう。




現在、実相院の「承秋門院旧宮殿」と呼ばれる客殿は、かなり痛みがあるようで、写真でも写っていますが、巨大なつっかえ棒が四方から支えています。

早めの修復が必要な感じですが、お寺で配られる「客殿修復事業のご協力お願い」を引用すれば、客殿は重要文化財の指定を受けていないため、維持管理はすべてお寺自身が行わなければならず、「檀家を持たない門跡寺院であるが故の悲しい現実、指定を受けていないために行政からの助成が受けられないという厳しい現実に今、直面しています。」ということです。
ご寄付をお願いしますと、切々と書かれている文面から、お寺の維持管理の大変さを感じます。お寺では、グッズ販売も盛んですが、これも努力の現われでしょう。




実相院は、市内中心部の喧騒から離れた静かな里の雰囲気の中で、江戸の宮廷文化の雰囲気が感じられるので、好きな寺院の一つです。
岩倉に観光で行くのは、このお寺があるからという人が大部分でしょう。

「床もみじ」のある紅葉の時期はさすがに観光客が多いですが、それ以外はまずまずゆっくりと出来るのでお勧めです。私も新緑の頃は「床みどり」を見に行きたくなります。

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