京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

大原・八瀬・岩倉他

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石座(いわくら)神社

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岩倉の実相院のすぐ横にあるのが、石座(いわくら)神社です。



神社の詳しい創建時期は不明のようですが、古記録「日本三代実録」によれば、平安時代の元慶四年(880)には既に神社があったことが確認できるので、非常に古い時期に創建されたようです。
前回に書いたように、元々は、現在の山住神社のある場所にあったのですが、天禄ニ年(971年)に大雲寺が創建された際に、大雲寺の鎮守社として、現在の地に移設されました。





長徳三年(997)に、石座他8神(石座、新羅、八幡、山王、春日、住吉、松尾、賀茂の各大明神)を祀る八所明神が勧請され、さらに後に伊勢他4神(八所明神+伊勢、平野、貴船、稻荷の各大名神)を加え、十二所明神が祀られるようになったと伝わり、明治以降に八所明神・十二所明神を石座神社と改称されたようです。(合わせて、元の地を山住神社と改称。)
また合わせて、一言神社・福善社が祀られることになりました。





神社の奥中央に並んで建つのは、一間社流造(いっけんしゃながれづくり=正面・側面が一間の小社で、京都上賀茂、下鴨神社に代表される流造形式)の八所明神本殿と十二所明神本殿で、共に明和三年(1766)に同時に造営されたことが判るそうで、京都市の有形文化財に登録されています。




神社様式としては、京都市内ではほとんど見られない古式な宮座の建物が残っていることや、地域の高低差を利用しながら、軸線を強調した境内配置が見事で、石段や石垣と共に優れた環境を形成しているとい点が評価されているそうです。(京都市の文化財登録情報より)



毎年10月23日に近い土曜日早朝(金曜日の深夜)に、境内では「岩倉火祭(石座神社火祭)」が行われますが、訪問した時は、祭りで使われる青竹が石段に準備されていました(写真)




これまで、京都の神社を色々訪問してきましたが、人の行かないような小さな神社は、どこかに荒れ果てた雰囲気があって寂しい気持ちになります。
また、人が多く活気のある大きな神社は、観光名所化していて、清々しさを感じなかったりします。
この石座神社は、岩倉郊外という周辺部に有りながら、どこか都風の端正な雰囲気もあり、侘びしい雰囲気を感じません。石段から見上げた構図も良く、好きな神社のひとつです。




現在、深夜の「岩倉火祭(石座神社の火祭)」に行こうかと、気力・体力を盛り上げつつありますが、少し自信がありません。祭りの後は、午前中から滋賀県の湖東三山に行く予定があり、かなりハードな1日になりそうなのです。
さらに、「時代祭」や「鞍馬の火祭」もその後に控えているので、全てに行けるかはわかりませんが、訪問した時は、随時ブログに載せていきますので、お待ちください。

岩倉散歩(石仏群)

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また岩倉方面になります。


京都市左京区岩倉の歴史では、大雲寺という古刹が登場します。
現在は、岩倉上倉町にある小さなお寺ですが、元々は平安時代の天禄ニ年(971年)に創建された古刹で、広大な敷地に伽藍堂宇のそびえるお寺でした。


源氏物語で光源氏が紫の上と出会う場所としても登場し、洛北第一の大寺として、非常に有名なお寺だったようです。しかしその後は、京都のお寺に共通の災難・・応仁の乱、天文法華の乱、さらに三好氏、織田信長の攻撃で再建焼失を繰り返し、江戸期に再建されますが、明治の廃仏毀釈で衰えます。
そして昭和60年(1985)の火災により本堂他焼失してしまい、現在も徐々に復興努力されているようです。
前に万里小路(藤原)藤房が岩倉で出家した事を書きましたが、これも大雲寺境内でのことで、この地域の歴史は大雲寺と関係してきますので、少し書いてみました。



さて、岩倉は石造彫刻が点在していますが、まず、岩倉川に沿って北上すると、「岩倉観音」と呼ばれる、観音の絵が彫られた1メートルを越える古い道標があります。いよいよ岩倉の里に入るという雰囲気が良いです。(写真)

さらに少し北上すると、岩倉川にかかる赤い橋の西南のたもとに、石仏が並んでいます。
祠の中の一番大きなものは、高さ1.2メートル程で、「延命地蔵」、「目無し地蔵」と呼ばれています。本当は阿弥陀如来坐像で、右に如来、左に地蔵を伴っている三面石仏です。鎌倉時代の作ということです。(写真)

この地には、もうひとつ「大日さん」と呼ばれる三面石仏があります。
万里小路(藤原)藤房遺髪塔のすぐ横、石座神社の東側の祠には、高さ約1.9メートルの阿弥陀如来坐像で、これも右側面に十一面観音、左に地蔵菩薩像を半肉彫りとしてある珍しい石像です。
(写真は日差しが強くて、わかりにくいですが)



次回は、「石座の火祭」前ということで、私の好きな石座神社の登場です

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今回は、岩倉の史跡をたくさん取り上げようと思っていたのですが、万里小路(藤原)藤房という人物に関してばかり書いてしまいました。
いつも以上に読みにくいと思いますが、すみません。




明治時代以降戦前までは、天皇中心の国家体制の下に、様々な歴史上の人物の評価を決めてきました。


後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏、天皇位への野望を抱いたといわれる道鏡、関東で新皇を称して独立政権を作ろうとした平将門、承久の乱で後鳥羽上皇らを流刑にした北条義時などはその代表格ですが、歴代の天皇に対し不敬な行動をとった人物は逆賊とされました。



一方、前にお札になった人物を挙げましたが、聖徳太子、藤原鎌足、和気清麻呂、菅原道真、楠木正成等々、天皇の忠実な臣下として功を成なしたと考えられた人物は高く評価されました。




特に南北朝時代の南朝の忠臣とされた人物の多くは、明治期以降に国家に勲功があるとして位階を贈られ、多くが祭神として神社に祀られたのでした。



後醍醐天皇の子供達・・護良親王、宗良親王、懐良親王、尊良親王・恒良親王。

武将では楠木正成・正季、新田義貞・義顕・義興・義宗、名和長年、結城宗広・親光、楠木正行・正時、菊地武時・武重・武光、児島範長・児島高徳、桜山茲俊、土井通増、得能通綱、村上義光、脇屋義助・義治、足助重範、和田正遠・賢秀、多治見国長、土岐頼兼、富士名義綱・・・。

公家では北畠親房・顕家・顕能・顕信・守親、花山院(藤原)師賢、日野俊基、日野資朝、平成輔、北畠具行、藤原行房、千種忠顕等


今では歴史好きな人以外は一般に知られていないような人物も有りますが、戦前は、国定の小学校の歴史教科書にも登場した人物達も多いです。





さて、岩倉には南朝の忠臣の一人、万里小路(藤原)藤房の遺髪塔が有ります。


万里小路藤房は、かって平重盛、楠木正成と共に、日本三大忠臣の一人にも数えられていた人物でした。平重盛は、父清盛の後白河法皇に対する横暴な振舞いを諌めたため、楠木正成はもちろん後醍醐天皇への忠心を讃えられたためでしょう。


さて、万里小路藤房は、後醍醐天皇の近臣で、北畠親房、吉田定房と合わせて「後の三房」と併称された万里小路宣房の子で、後醍醐天皇に側近として仕えて、鎌倉幕府倒幕計画に参加します。
楠木正成を訪ねて味方に付けた人物でもあり、鎌倉軍に攻められた笠置山から弟の季房と2人で後醍醐天皇を守って脱出した話も知られています。この時捕らえられて流刑になりますが、建武の新政後に中納言として政権に参加します。
しかし新政権に失望して出家、京都郊外の岩倉に隠遁してそのまま行方不明となってしまいました。




太平記では、藤房が後醍醐天皇を諌めるシーンが登場します。

藤房は言います。

戦乱が終息したばかりなのに、政治を行う者らは民衆の疲弊を考えず、日夜管弦など歓楽にふけって政治を疎かにしています。諸国からの訴状も無視されたままで、群臣は陛下にへつらって国家の大事を陛下に申し上げていません。


鎌倉幕府を倒した時、日本国中の者が朝廷の下に結集した理由は、勲功の分け前に預かろうとしてのことです。だから戦が終わった後、自らの忠功を申し立てて賞を望む輩があふれています。
しかし、公家や朝廷に仕えていた者以外にはまだ恩賞が与えられてない状態で、他の者の訴状は無視されたままです。彼らは自分の忠功を無視されたと恨みや不満を抱いて、各自の領地に帰ってしまって、このままでは国家の危機です。




ところが、そんな危機の中で出されたのは大内裏の造営を行うようにとのあきれた命令で、造営費用を諸国から強制して集めるというものです。
また、諸国では守護の権威が失墜し、下級のものが権力を握って、荘園を横領したりしていいます。さらに、諸国の武士の特権だった御家人の称号が廃止されたことで、プライドを傷つけられた者が日本中に溢れています。


また天下を平定した功臣達・・足利高氏、新田義貞、楠正成、赤松円心、名和長年らの忠義や功績は同等で、恩賞や爵位も平等にすべきなのに、赤松円心一人だけは、昔からの領地を与えられただけで、守護職も召し上げられてしまいました。それぞれの功績に応じて恩賞が正しく与えられないとは、これが正しい政治といえるのでしょうか。



さらに、一度下された陛下の御決定が、いとも簡単にころころ変わってしまう有様です。
今もし、武家のリーダーとなれるような人物が登場し、朝廷に逆らうような事を始めたとしたら、どうなるでしょうか。日本中の不平不満を抱いている者らがその下に集まり大変なことになるのは目に見えています・・・



その後も、藤房は繰り返し後醍醐天皇に対して諫言を行うも、聞き入れられません。
大内裏造営工事は中止されることもなく、日々楽しげな宴が行われる状況の中で、藤房は、これだけ諌めたのだから臣下としての務めも果たしたと世を捨てることを決意し、岩倉へ向かい、ここで出家します。




藤房の出家の報せに驚いた後醍醐天皇は、父の宣房をすぐに岩倉に派遣し、説得させようとしましたが、すでに藤房は、岩倉は都に近すぎて俗世間の人が訪問してくるのが厭わしいと、諸国行脚をすると言い残し旅立ってしまった後でした。
この後の万里小路藤房の消息については一切不明ですが、日本各地には彼の遺跡が残っているようです。




建武の親政を批判した万里小路藤房は、勇気ある諫言を行った最も忠義な人物として、三大忠臣にも数えられた存在ですが、戦後の歴史研究によると、政権内部の混乱の中で何んらかの責任をとった形で出家することになったのではと考える人もいるようです。


彼の出家は、建武ニ・延元二年(1335)の前半の事と考えられますが、前年の元弘四年・建武元年(1334)末に護良親王が失脚した件や、建武三・延元元年(1336)1月に彼の父の万里小路宣房と千種忠顕が、親政失敗の責任をとらされて出家している事実などと合わせて政権内部の抗争があったのではとも考えられています。



現在、岩倉にある「万里小路(藤原)藤房遺髪塔」は、もちろん伝説にともなって後世に作られたものでしょう。実相院、石座神社の近くにあるのですが、この史跡を訪れる人は少ないと思います。
しかし、今でも静かなこの地域で、静かに歴史から去っていった謎多い人物について、しばし考えさせてくれました。


今回は私の好きな人物だったので書き込み過ぎましたが、次回は画像を多くアップする予定です。

岩倉具視幽棲旧宅

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京都市左京区の岩倉には、国指定史跡の「岩倉具視幽棲旧宅」があります。
幕末・明治に活躍した岩倉具視が、幕末の文久ニ年(1862)から慶応三年(1867)までの約5年、隠れるように住んでいた旧邸の跡です。




岩倉具視は公家の堀河家に次男として生まれ、幼少期に下級公家の岩倉家に入り養子となります。
岩倉家は公家中でも最も家柄低く、石高僅かに150石という貧乏な家でした。平和な時代なら歴史に名を残す事など無かったでしょう。




しかし、ペリー来航以来の騒動の中で、徐々に、頭角を現してきます。まず、時の関白鷹司政通に接近し、孝明天皇の近習になることに成功。安政5年(1858)老中堀田正睦の日米修好通商条約締結には、反対派公卿として名を連ね、和宮を将軍家に降嫁する問題では、朝廷の権威回復の為に、孝明天皇を動かして実現させました。
しかしこのときのやり方が、反対派を押し切って断行したため、尊攘派を激怒させます。





朝廷内の反発を受けた岩倉は、文久二年(1862)菩提寺の霊源寺(京都市北区西賀茂北)で落飾剃髪の上、洛外追放という厳しい処分を受けたのです。
さらに尊攘派の刺客に命を狙われる危険もあり、各地を転々とした末、岩倉村実相院近くの乳親という関係だった百姓三四郎という農家に身を托し、同じ村の大工の藤屋藤五郎所有の古家を借り受けて移ったのです。
現在は周辺に病院が立ち並んでいますが、当時のこの邸付近は、田畑に囲まれて人家の少ない寂しい場所だったようです。





古家は、わずかに風雨を避けられる程度で、屋根は破れ柱は傾いて、狸や狐の棲家と変らない状態だったようです。具視は日記に「1日中掃除をしたが、余りのひどさに住居に出来そうに無く、思わず涙がこぼれた・・」と書いているそうです。
こうして何とか家を直して、隣雲軒と名付けました。
これが現在の岩倉具視幽棲旧宅で、現在の建物は、明治三十五年に改築されたものですが、当初の状態を維持しているようです。




しかし、蟄居中でも岩倉の活動は止みませんでした。密かに政治活動を行い、倒幕急進派と接近します。
薩摩の大久保利通、西郷隆盛、土佐の坂本龍馬、中岡慎太郎らがこの宅を出入りし王政復古の密議を行っていたのです。
やがて孝明天皇が死去し、幼少の明治天皇が即位すると復職に成功。
その後の活躍は目覚しく、密かに倒幕の密勅を薩長に降す一方、王政復古の大号令を主導して、朝廷中心の政治体制を樹立することに成功します。
政権を失った徳川家の扱いに関しては、徳川慶喜の辞任と徳川家領地の返上を主張し決定させます。こうして徳川家は新政府から排除され、朝敵とされることになっていくのです・・その後の明治時代の活躍に関しては省略させていただきます。





岩倉具視は、明治政府の中心人物となってからも、常に岩倉村の思い出を大切にして、東京から京都に行けば、必ず村で馴染みの人たちと懐かしい思い出を語り合ったそうです。
その態度は隠棲していた当時と変らない親しげな様子で、また村の殖産にと寄付をしています。
これに感謝した村の人達は、具視の思い出の遺蹟を永遠に保存しようと考え今日まで守ってきたのでした。




さて、岩倉具視幽棲旧宅の印象です。

正面の正門は閉められていて、その右のある受付から入ることになります。
それ程広い敷地では無いですが、立派な松の木が茂り、木々で覆われて見えませんが小さな池もあるようです。
建物は、簡素な雰囲気で、茅・瓦葺きの木造平屋建て2棟で、部屋数は4〜5つ程でしょうか。縁側と座敷とはガラスの入った障子で仕切られていて、座敷には有名な岩倉公の肖像画が置かれています。
座敷に上がらせてもらいましたが、明治に改築されたとはいえ、畳も襖はかなり時代が経ってボロボロな箇所もあります。(写真)
幕末の英雄達が、当時は人家の少ない岩倉村の田舎道を歩いて、この小さな部屋に密かに集まっていたと思うと感慨深いものもありました。





敷地内には、岩倉具視の遺髪塚をはじめ、子の宮内大臣具定等の遺髪塚があり、また、岩倉具視の雅号「対岳」(岩倉村から対峙する雄大な比叡山に因んだ)からとられた「対岳文庫」と名付けられる昭和三年建造の資料館があり、岩倉具視の書簡や資料が展示されています。




所蔵品の内1000点以上が重文に指定されているそうで、私たちがこれまでに本やその他で見たことがある岩倉具視の数々の写真や文章等が間近で見られるので、幕末明治に関心のある方は必見の場所だと思います。
よくぞ残っていたというような、具視が履いていた崩れかけた下駄等も展示されているのですが、一番印象的なのは、入り口付近にある破れた衣類や刀等です。これは、明治七年に不平士族によって襲われた赤坂喰違事件の際に身につけていたもので、岩倉は重傷を負いながら一命をとりとめた大事件でした。



今でも静かな岩倉の雰囲気と共に、幕末・明治の激動の時代を身近に感じられる歴史ファン必見の史跡としてお勧めです。

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市原から岩倉へ

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小町寺(補陀洛寺)を訪問した後は、あまり史跡の無い静市(しずいち)方面から、最近はあまり利用していない叡山電車に乗って、岩倉方面に抜けることにしました。

小町寺から道路沿いの細い道を北上、途中に面白そうな神社を発見、少し寄ってみました。
参道らしいものがあり、石段の上には鳥居が見えます。
ここは、大神宮社(だいじんぐうしゃ)という、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)を祀っている神社のようです。無人のいかにも山の神社らしい少し侘びしい雰囲気です。


この神社から叡山電車の市原駅まではすぐでした。
市原駅のホームすぐ脇にお地蔵さんと墓のようなものがあります。こんなところに・・なぜ?という感じで写真を撮ってみました。
「伝・後藤顕乗(ごとうけんじょう)の墓石」と案内板があります。
それによると、後藤家は室町から江戸時代まで日本の金工界に絶大な力をもった名家で、角倉家、茶屋家と共に、京都三大長者と呼ばれたそうです。
後藤顕乗は7代目を相続し、後加賀藩に招かれ、徳川家と前田家から計400石の知行を得て、後藤家中興の祖と呼ばれる人物だったようです。

引退し京都に戻った顕乗は、寛文三年(1663)に78歳で死去しますが、この叡山電車の市原駅付近の山は、顕乗山(けんじゃま)と村人に昔から呼ばれてきて、後藤顕乗の引退後の山荘跡の可能性が高く、当時は墓は自宅に作られるのが一般的で、この駅前にある墓石が顕乗の墓であると考えられているそうです。


この駅のホームに潰されそうな、忘れられたようなお墓が、そんなお偉い人のお墓とは・・。
後藤顕乗は、多分、村人からも顕乗山(けんじゃま)の後藤様とか呼ばれていて、晩年この地で悠悠自適に暮らしていたのでしょう。
それが、今や駅を歩く人に踏まれそうな・・人間死んだ後はどうなるかわかりませんね。後藤家の子孫の方とかお墓を守らなかったのかな?家は絶えたのかな?とにかく可哀想な気がしました。

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