京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

大原・八瀬・岩倉他

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今回は、あまり人に教えたくない素敵なお祭・・「八瀬赦免地踊」です。


京都市左京区の八瀬(やせ)は、かま風呂温泉や比叡山への登り口として知られる地域です。
ただ観光寺院が少ないため、北の大原、南の修学院・一乗寺に比べると、他府県からの観光客は少ないように思います。

さて、「八瀬」という名前は、壬申の乱の際に、天武天皇が背に矢を受けて(背に矢=やせ)、里人が、かま風呂でその矢傷を治したという伝説に由来するとされます。このように、八瀬の村は、皇室との関係が深かったようで、平安時代から皇室の行幸や大葬行事の際は、八瀬の人々がお供を勤めていました。
これらの人々は「八瀬童子」とよばれ、後醍醐天皇が比叡山に遷幸した際に、弓矢を持って警護したことから、この時の功績により建武三年(1336)に後醍醐天皇より綸旨を賜り、年貢や諸課役など一切免除の特権を与えられ、その後も歴代の朝廷から同様の特権を得ていたようです。
実は、この八瀬童子は現在も存在し、昭和天皇崩御の際も八瀬の人々が大葬に特別にお供しているのです。八瀬童子に関しては、朝廷お抱えの忍者だった、鬼の子孫と称していた等様々なミステリアスな魅力が語られたりもしているようですが、今回は触れる余裕がありません。



さて、この八瀬には菅原道真ゆかりの八瀬天満宮社があります。

この神社は、道真が仏教の師匠だった比叡山の法正坊尊意(この前、水火天満宮を紹介した時にも登場しました)に学ぶため比叡山に登る際、休憩したという「菅公腰掛け石」、また武蔵坊弁慶ゆかりの「弁慶背比べ石」等の面白い史跡があります。こういった伝説そのままが生きているような山間の神社らしい素朴な雰囲気が良いです。参道の両脇は畑で、階段を登ると小さな社殿があります。私はこういう地域の方に守られている素朴な山の神社も好きなのですが、今回は境内社のもっと小さな秋元神社が主役です。



この秋元神社で、毎年体育の日の前日夜に行われるのが、京都市の重要無形民族芸能に指定されている「八瀬赦免地踊」です。
この祭は、ある事件がきっかけになって生まれました。
江戸時代の寛永四年(1617)、比叡山延暦寺と八瀬村の間に領地境界線を巡って訴訟問題が起こりました。比叡山は八瀬村の特権に反対し幕府に廃止を願い出たのです。これに対し、八瀬の村人が先祖代々の綸旨を示して幕府に上訴した所、時の老中秋元但馬守喬知は、八瀬村に有利な裁定を下します。当時、小さな一小村が勝訴した事は奇跡的な事と受け止められたようで、この御恩の御礼にと秋元但馬守の死後、遺徳を偲んで、氏神の天満宮の側に秋元神社を建て、毎年秋に、赦免地踊を奉納したのでした。



さて、赦免地踊についてです。
踊りを仕切るのは、「十人頭(じゅうにんかしら)」と呼ばれる、その年三十歳の青年十人で、午後七時頃、彼らの合図で祭りは始ります。各町の宿元(長老宅)に祭の開始が知らされ、「灯籠着(とろぎ)」という頭に「切り子灯籠」を載せた八人の女装した男の子(十三〜十四歳)が、「警護(灯籠着の補助役)」に助けられながら、村の中心地に集合します。男の子達は揃いの衣装で、、切り絵を張った村人手作りの、重さ五キロの「切り子燈篭」を落ちないように「警護」に補助されながら、ゆっくりと歩んでいきます。
また、「踊り子」と呼ばれる十名の赤い衣装の女児児童(十一〜十三歳)が、赤いぼんやりした幻想的な光を放つ提灯を持って集まります。さらに、六〜七名の黒い着物の「音頭取り衆」、一人の「太鼓打ち」、各町代表の「新発意(しばち)狂言などを行う」も集まります。


いよいよ、祭りの時間です・・集合場所から、神社に向かって行列が一列に並んで進みます。
見物客が狭い道の両側に集まり、ゾロゾロと行列の後から付いていきます。「踊り子」たちの持つ赤い提灯と「灯籠着(とろぎ)」の被る灯籠のロウソクが、暗い夜道の中で幻想的な世界に導いていくれます。神社の石段で、一旦、「十人衆」が観客のざわめきを静め、音頭衆の歌う「道歌」の中、行列は一段、一段と登っていきます。

神社の境内には屋形が組まれていて、「灯籠着(とろぎ)」は音頭に合わせてその周りを回ります。
境内奥には舞台が作られ、多くの観客が席に着いています。舞台では、「踊り子」による「塩汲踊」「花摘踊」、「新発意(しばち)」による狂言などが奉納され、昔はこれが一晩中続いたそうです。
やがて、「狩り場踊」の音頭に合わせて、今度は「警護」が「切り子灯籠」を被って屋方の周りを回り始め、最後に早いリズムに合わせて、灯籠を被ったまま、各町の宿元(長老宅)へ走りながら帰っていき祭りは終わりとなります。午後の九時半頃でした。


この祭の「踊り子」となる女子は、本来、小学六年生が中心となるのですが、今年は、地域に女の子は六年生が二人しかいないため、五年、四年生を集めたということで、少子化の影響も出始めているようです。かつては、各地でこのような子供が中心の祭事が行われていたのかもしれません。少子化によりこの素晴らしい行事が無くならないように願いたいものです。
大阪方面から来た見物客の方たちと知り合いましたが、山間の村での夜祭のため、遠方からの観光客はまだ少ない気がします。ただ今では祭の知名度も上がってきているので、今後あまり有名になって見物客が増えないことを祈りたいです。

「八瀬赦免地踊」は、女装した少年や赤い衣装の女児が登場するなど、民俗学的にも興味深く、京都の多くの祭りの中でも、最も幻想的な不思議な魅力のある祭だと思います。(フラッシュ撮影のため、幻想的な光のゆらめきがわからなくなっていますが)

本当は、素敵なので、あまり人に教えたくないのですが・・・。

蓮華寺

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上高野の随一の観光名所として知られるのは、蓮華寺です。


人に教えなくないお寺というのがあります。
あまり全国的に知られると、観光客が増えて雰囲気が壊されるような・・・私のお気に入りだった大原の宝泉院とか栂野の高山寺とかは、段々風情が無くなってきたようにも感じられるのですが、蓮華寺もそういった危機遺産?にならないかと心配にしているお気に入りのお寺です。JR東海「そうだ京都に行こう」キャンペーンに登場しないことを祈っていますが・・。



蓮華寺は、元は京都駅付近にあった西来院という時宗系の古寺でしたが、応仁の乱で焼失します。
その後、寛文二年(1662)に加賀藩前田家の家臣今枝近義が、祖父の菩提を弔うために、比叡山延暦寺の末寺として現在地に再興して現在に至るようです。



蓮華寺の再興には、石川丈山、木下順庵、狩野探幽、黄檗宗の隠元禅師、木庵禅師ら当時の有名な知識人らが協力していて、庭園、本堂、鐘楼堂、井戸屋形も創建時のもので、本堂前には、蓮華寺型として知られる燈篭が有ります。



庭園は石川丈山の作とも伝わり、高野川の水を引いた池泉回遊式で名園として知られています。
浅い池庭には、鶴・亀島もバランス良く配置されていて、大きな回遊式庭園とは違った凝縮した美しさが感じられます。



蓮華寺は、小さなお寺ですが、それだけに狭い境内の細部に、何となく江戸文化の雰囲気が感じられる気がします。写真ではうまく撮れませんでしたが、多くの雄大な庭園を見た後に、最後にもう1度ここに来て、やや小さな庭を眺めてみたい・・ほっとした安心感を感じさせてくれる庭だと思っています。



この日は、私一人のたいへん贅沢な時間を楽しみました。でも、やはり秋の蓮華寺を久しぶりに見てみたくなります。
学生時代に初めて訪ねた頃は、まだ、やや穴場的な存在だったかもしれませんが、最近は紅葉ではかなり知られているお寺になっています。



紅葉シーズンは、観光客が、庭を前にしてずらっと座っていることが予想されますが、それでは、小さくて静けさが売りのこのお寺の魅力が半減してしまうでしょう。この最悪の状況を回避するには、出来れば朝一番に行くしかなさそうです。
(ついでに、ご住職は有名な法話の上手な方だったと記憶しています。)

小野毛人の墓他

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前回、祟導神社(祟道神社)の森だけで終わってしまいましたので、境内の史跡について少しだけ・・・。


長い参道の途中には、「五味藤九郎の碑」が立っています。(写真1)
五味藤九郎豊旨(?-1680)という人物は、江戸初期の京都代官で、幕府領・禁裏御料支配を任務としていました。この碑は、彼が高野川東岸に用水路を開削し農業振興に貢献したことを顕彰するもののようです。


祟導神社(祟道神社)には、末社として小野神社があります。(写真2)
この地は、上高野一帯を支配した小野妹子の子孫達の本拠地だったようで、祭神は小野毛人(おののえみし)です。祟導神社の裏山の山腹、約140m程登った所に、この小野毛人の墓があるようです。



「小野毛人の墓」について・・・
小野毛人は、小野妹子の子で、天武天皇に仕えて財務管理などの重職を担い、天武六年(677)に死去したと伝えられる人物です。江戸時代初期、慶長十八年(1613)に崇道神社の裏山にある古墳で、鋳銅製の墓誌が発見され、ここが小野毛人の墓であることがわかりました。
古墳は大正13年に調査され、それによると石室は長さ2.5m、幅1m、高さ1mのようです。
墳墓は京都市内に残る数少ない古代史跡として京都市の指定史跡に、さらに発見された墓誌は国宝に指定され、国立京都博物館に保管されています。

せっかくだから、この墓を見ようと山の中腹まで登ることにしました。
しかし、道はわずかに整備されただけの岩や木の根に覆われた自然道で、140m登るというのは結構大変でした。(写真3、4)今日は楽しい散策のはず・・・それなのに・・・途中で少し後悔しながら登りました。なんとか登って行くと、ようやく古墳らしいものを発見。(写真5)
自然石が置かれて、表面に「小野毛人朝臣墓」と記されています。
しかし、ここからの見晴らしは素晴らしくて、登ってきた甲斐がありました。
(写真6、7)



次回はようやく蓮華寺。

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さて、祟導神社(祟道神社)の本殿は前回に写真を紹介しましたが、
この神社は、早良親王を祀っています。



早良親王は、桓武天皇の実弟で、延暦四年(784)に長岡京でおこった藤原種継暗殺事件の首謀者として捕えられ、乙訓寺に幽閉後、淡路島へ流される途中、無実を訴えながら36歳で絶食死した人物です。



早良親王の憤死後、桓武天皇の近親者を含め、都の内外に不吉な事故や異変が続発し、
占わせると、早良親王の怨念の祟りであるということが判明します。
そこで怨霊を鎮めるための行事が盛んに行われ、延暦十九年(800)には親王に崇道天皇と追号します。



こうして、都の鬼門に当たるこの上高野の地に御霊社として親王を祀ることになったようです。
(神社のはっきりした創建年代は不明のようですが、御霊信仰の全国的に流行する貞観時代に早良親王のみを祭った例は他に無いそうです。)その後も桓武天皇は死の直前まで親王の霊を慰めることに取り組み70歳で死去します。



死後の早良親王は、御霊神中の筆頭ともされ、平安時代に最も恐れられた怨霊となったわけで、京都では上御霊神社・下御霊神社、さらに藤森神社にも祀られています。



怨霊とは関係無いとしても、祟導神社(祟道神社)の参道は真っ直ぐに長く、深い森に覆われていて恐れを感じさせるような雰囲気も有ります。
この日は秋とはいえかなり日差しが強かったのですが、参道まで光を通さないほど森はこんもりしています。曇った日など少し不気味かもしれませんね。


とにかく森が深くて印象的で、頭の上に向けて写真を撮ってばかりでした。


今回は、森だけで終わりそう・・・次回へ

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左京区岩倉花園町にある高樹院(こうじゅいん)は、山号を凌雲山という浄土宗示寺院です。
ご住職は、華道都未生流家元でもあり、洛北の萩の寺として知られるお寺です。また、元々は三条縄手通り沿い(京阪三条付近)にあって、縄手(なわて)三軒寺と呼ばれていたということです。
初秋には、境内は多くの萩の花で華やかになりますが、普段は特に魅力があるというわけでは有りません。(今回は紅葉の頃の写真を掲載します。

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