京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

山科・醍醐・小野周辺

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上醍醐の続きです・・
(いつもながら多くの写真で煩わしいかと思いますが、様々な角度から撮った40枚を掲載します)


前回に書きましたが、醍醐寺(下醍醐)から女人堂を経て、西国三十三観音巡礼の最難所とも呼ばれる山道を約50分程を登って行くと、ようやく上醍醐にたどり着きます。

この「上醍醐=醍醐寺発祥の地」には、西国三十三観音霊場第十一番札所の准胝堂(じゅんていどう)を中心に五大堂(不動堂)、薬師堂(国宝)、開山堂(重文)、如意輪堂(重文)、清瀧宮(せいりゅうぐう)拝殿(国宝)、社務所等が点在しています。
さすがは京都を代表する大寺の醍醐寺だと感じるのは、これら国宝、重要文化財に指定されている数々の堂宇の規模です・・・平坦地の下醍醐の建物(五重塔、金堂等)が立派なのは当然としても、険しい山上の上醍醐の建物も堂々とした立派なものが多いです。(これらの建物の多くは、山上の限られた狭い土地ぎりぎりに建てられているために、建物の全景を写真撮影する場所が少なく撮影はやや困難です。)




さて、寺務所客殿の傍を進むと、道は左右に分かれ、まず右手に現れるのが醍醐寺の鎮守社・清瀧宮です。また、開けた空間の正面に「醍醐水」があります。

枯れた趣のある「清瀧宮拝殿」は国宝に指定された貴重な建物です。
この拝殿は、元々平安時代末の寛治二年(1088)に建てられましたが、室町時代の応永十七年(1410)に焼失し、現在の建物は、同じく室町の永享六年(1434)に再建されたものです。
寝殿造りの邸宅風の建物で洗練された気品が感じられます。上醍醐のほとんどの建物に共通することですが、山腹をわずかに切り開いて建てられていて、前面が崖のために建物床面を同じ高さにそろえる懸造(かけづくり 京都の清水寺等で用いられています)という様式になっています。また、拝殿の向こうの断崖上には清瀧宮の本殿があります。
本殿は残念ながら昭和十四年(1939)に上醍醐国有林より出火した山火事で焼失し、昭和三十二年(1957)に再建されたものです。また傍には横尾大明神の小さな祠があります。(尚、下醍醐にも清瀧宮本殿(重文)がありますが、これは永長二年(1097)に上醍醐から分霊されたものです。)



清瀧宮拝殿の右に見える「醍醐水」は、醍醐寺発祥の霊泉です。
平安時代の貞観十六年(874)、山岳信仰の霊山だったこの笠取山(醍醐山)の山中に理源大師聖宝によって草庵が結ばれた際、(醍醐寺の創建)、地主神・横尾明神が白髪の老爺の姿で現われ、「永くこの地をそなたに献じるので、良く密教を広めて衆生を救済せよ。我も擁護するであろう。」と告げ、落ち葉をかき分けその下から湧き出した泉を汲んで「ああ、醍醐味なる哉」という言葉をのこして忽然と姿を消したと伝えられます。聖宝理源大師は泉の場所を石で囲って閼伽井とし、笠取山の古名を改めて醍醐山と称したということです。
「醍醐」とは現在のチーズのような乳製品で五味の最上のものという意味があることから、「醍醐味」という言葉の語源ともいわれています。また仏教では「醍醐」とは心の糧として仏法が最高であることを意味する悟りの境地を表す言葉ということです。醍醐水の井戸は現在も現役で、その霊水は参拝者の喉を潤してくれます。



「醍醐水」の左右の石段を登ると、ようやく西国第十一番札所として知られる「准胝堂(准胝観音堂)」に至ります。
准胝堂は、貞観十六年(874)に理源大師聖宝によって醍醐寺が創建された際に、大師が自ら刻んだ准胝観世音菩薩を祀って、元慶元年(877)、僧正遍照を導師として開眼法要を行ったのが始まりです。その後何度かの焼失再建を繰り返し、現在の建物は昭和十四年(1939)の上醍醐国有林より出火した山火事で焼失した後に、昭和四十三年(1968)に再建されたものです。
平安時代の醍醐天皇は、准胝観音に皇子の誕生を祈願して二人の皇子(後の朱雀・村上両天皇)を相次いで得ることが出来ました・・以来歴代の天皇はしばしばこの地で安産祈願を行ったということです。そして現在も准胝堂は、険しい山道を登ってきた多くの巡礼者の目的地であり上醍醐の中心地といえます。本尊准胝観音は秘仏ですが毎年五月十八日に御開扉法要が営まれ、前後3日間だけご開帳されています。尚、准胝堂の背後の岸壁には「柏木大明神」の小さな祠があります。



さて、准胝堂からさらに緩やかな山道を登って行くと、薬師堂(国宝)、五大堂(不動堂)、如意輪堂(重文)、開山堂(重文)に至ります。

薬師堂は、上醍醐の伽藍の中央に位置していて、元々平安時代の延喜七年(907)に理源大師聖宝が建立したということですが、現在の建物は保安二年(1121)に再建されたものです。
全体に高さより水平感を強調した落ち着いた雰囲気を感じさせる作風で、山上の伽藍としては最古の建物で数少ない平安時代の遺構として国宝に指定されています。(尚、堂内蟇股は本蟇股の最も古い例の一つということです。)
本尊の薬師如来像は脇侍の日光・月光両菩薩と共に国宝に指定されていて、理源大師聖宝の弟子・会理僧都の作と伝えられる貞観時代後期の優美な作風です。この薬師如来像は歴代の天皇が病気平癒を祈願する度に、金箔を張り加えてきたことで知られ、「箔薬師」の名で厚い信仰を集めているということです。
この醍醐寺の所蔵する最も優れた仏像群は、現在は下醍醐の霊宝館に所蔵されていて春秋の霊宝館冠特別公開等で拝観できます。この薬師堂も狭い土地に建てられているために体像を写真で撮ることは難しいです。


また、薬師堂の山下には経蔵跡があります。
経蔵は、元々建久六年(1195)に東大寺重源が宋版一切経六千余巻を上醍醐に施入した際に建立されますが、文応元年(1260)に焼失。その後再建されますが、昭和十四年(1939)の上醍醐国有林より出火した山火事で焼失し、今は礎石跡が残っているのみです。


薬師堂からさらに奥に進むと、鐘楼があり、その向こうに五大堂があります。
五大堂の正面には主観賢僧正、理源大師、役の行者大菩薩像が並んでいます。五大堂は、元々醍醐天皇の勅願により延喜七年(907)に建立されましたが、文応元年(1260)の焼失など再建の度に火災に遭ったようで、豊臣秀頼により慶長十一年(1606)〜慶長十三年(1608)にされています。しかしその建物は昭和七年(1932)に焼失し、現在の建物は秀頼が再建した様式に基づいて昭和十五年(1940)に再建されたものです。
堂内には本尊不動明王を中心に、降三世夜叉明王、軍荼利夜叉明王、大威徳明王、金剛夜叉明王が祀られていて、「五大力さん」の通称で崇敬されています。毎年の二月二十三日に行われる「五大力尊仁王会」の大法要は醍醐寺を代表する有名な行事で、この五大堂で一週間に亘って祈願された「御影(おみえ)」は盗難除け、災難身代わりのご利益があり、この霊符を求めて多くの参拝者が集まります。(下伽藍の金堂で授与されます。)



五大堂から少し道を戻って笠取山(醍醐山)山上に向かって歩くと、天気の良い日には大阪・宇治方面が見渡せる展望台のある少し開けた場所に到達します。
ここが笠取山(醍醐山)の山頂450m地点で、ここでお弁当などを広げる方が多いようです。ここには手前から如意輪堂、白山大権現社、その奥に巨大な開山堂、小さな地蔵堂等が点在しています。

傾斜地に建てられた舞台造りの如意輪堂は、元々平安時代の貞観十六年(874)に理源大師、聖宝が、この地に小堂を建立して、如意輪観世音菩薩を安置したのに始まると伝えられる山内最古い建物の一つです。その後、文応元年(1260)の焼失など度々焼失再建を繰り返したようです。
現在の建物は、慶長十一年(1606)〜慶長十三年(1608)に豊臣秀頼が再建したもので、木造りは全て大阪で全て行われたと伝えられ、重要文化財に指定されています。
醍醐寺に残る記録によると、この再建時には昔の簡素な如意輪堂の十倍の規模で建てられたとされていて、再建当時は非常に華麗な建物だったようです。本尊の二臂如意輪観世音菩薩は、豊臣家ゆかりの女房衆の寄進によるものということです。
また、傍には、山岳信仰の霊山だった笠取山(醍醐山)らしく白山大権現を祀る社があり、縁結びにもご利益があるということです。



頂上にある最も目立つ巨大な建物は、開山堂です。
醍醐寺の開山・理源大師聖宝を祀ったお堂になります。最初は御影堂といい、延喜十一年(911)に理源大師の弟子の醍醐寺第一世・観賢座主によって建立され、さらに寛治六年(1092)に改築されましたが、その後焼失。鎌倉時代に再建された建物も文応元年(1260)に焼失し、現在の建物は、慶長十一年(1606)〜慶長十三年(1608)に豊臣秀頼によって再建されたもので重要文化財に指定されています。
開山堂は上醍醐の山上最大の建物で、桃山時代の雄大な特徴を表わしています。外観の特徴として側面前端の間の扉が縁が切断されていて、扉が亀腹上にまで達していることがあるということです。とにかく山上の狭い土地にこのような巨大な建物が建てられていることに驚かされます。(巨大過ぎて全体像を撮影することは難しいです。)尚、堂内には、中央に開山・聖宝理源大師聖宝像、左に弘法大師空海像、右に醍醐寺第一世座主・観賢僧正像が安置されています。
また開山堂の傍には小さな収蔵庫のような地蔵堂があります。


最後に、開山堂から少し南へ降ると、「上醍醐陵」があります。
平安時代中期の白河天皇皇后賢子(藤原賢子)と、その娘になる白河天皇皇女尊称皇后・媞子(ていし)内親王、白河天皇皇女尊称皇后・令子内親王、さらに鳥羽天皇皇女・禧子内親王の陵墓になります。
平安時代の応徳二年(1085)、白河天皇は亡き中宮・藤原賢子のために上醍醐に塔頭・円光院を建立してその遺骨を納めました。尚、白河天皇は賢子をたいへん寵愛していたために、その死に非常に悲嘆したと伝えられます。「上醍醐陵」は明治時代の皇室陵整備により造られ、その際に円光院は撤去されています。


上醍醐の主な堂宇を巡って来ましたが(さらに森の奥には奥の院の修行場等もあります)、ここから滋賀県に抜ければ、三十三観音巡礼の12番正法寺(岩間寺)へ4キロ程度、さらに13番札所石山寺へ向かうことも出来ます。

上醍醐は、開山・理源大師聖宝が、宇多天皇の勅を奉じて役行者以降に跡絶えていた大峰山修行を再興した修験道中興の祖でもあることからも、山岳修行の厳しさを感じさせる自然に囲まれた寺院という雰囲気が感じられます。また一方、西国三十三観音巡礼の全てのお寺に共通することですが、庶民の信仰を集めてきたお寺らしい人間味あふれる親しみやすさも感じられます。
やや体力を要しますが、麓の下醍醐と合わせて醍醐寺という壮大な寺院の奥深さを感じるためにも是非訪れていただきたいと思います。

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伏見区醍醐東大路町にある醍醐寺は、山号を深雪山という真言宗醍醐派総本山で、古都京都を代表する古寺として世界文化遺産に登録されていることでも知られます。境内は醍醐山(笠取山)の山上から山裾まで約200万坪以上という京都屈指の広大なものです。

あまりに広いこともあって、現在一般的に「醍醐寺」と呼ばれる区域は下伽藍(下醍醐 しもだいご)を指し、一方、観光客には少し馴染みがないかもしれませんが、下伽藍(下醍醐))から山道を歩くこと約1時間、標高450mの醍醐山(笠取山)山上付近の区域は「上(かみ)醍醐」「上醍醐寺」と呼ばれています・・今回はこの「上醍醐」を採り上げます。


さて、「上醍醐」は、醍醐寺の発祥の地でした。
醍醐寺の創建は、平安時代の貞観十六年(874)に、弘法大師空海の法孫になる理源大師聖宝が、醍醐山(笠取山)の山上(上醍醐)で、地主横尾明神の霊験を受けて醍醐水の霊泉を得、この地に小堂を建立して、准胝、如意輪の両観音像を安置したのに始まると伝えられます。上醍醐の中心である准胝堂は貞観十八年(876)の創建と伝えられ、その後、醍醐・朱雀・村上の各天皇が厚く帰依して、延喜七年(907)に醍醐天皇の発願によって薬師三尊像を祀る薬師堂が建立され、醍醐寺は勅願寺となりました。同年に五大堂も落成するに至って上醍醐の伽藍が完成しました。さらに御影堂(現在の開山堂)が延喜十一年(911)に理源大師の弟子、醍醐寺第一世・観賢座主によって建立されています。
その後、山裾の地にも堂宇が建てられ、天歴五年(951)に五重塔が完成し、下伽藍(「下醍醐)」)がほぼ完成することになり、最盛期には五百もの堂宇が立ち並んだということです。
このように、「上醍醐」は醍醐寺境内の一部ですが、上醍醐に点在する建物の中心となる准胝堂(じゅんていどう)が、日本の巡礼の元祖ともいわれる「西国三十三観音霊場」の第十一番札所として知られ親しまれていることから巡礼者は「上醍醐寺」と呼ぶ方も多いようです。

ここで少し話は外れますが、この上醍醐(上醍醐寺)は西国三十三ヶ所観音巡礼地の中でも最大の難所の一つといわれています。私も6〜7年程前に公共交通機関のみを利用して西国三十三ヶ所を回ってみましたが、アクセス的な難所度としては大体以下のように分けられると感じました。


○大阪、京都、奈良、神戸等の都市部近郊にあり、鉄道のみで比較的楽に行け、参道もそれ程問題無いでしょう・・・
第五番・葛井寺(大阪府藤井寺市)
第八番・長谷寺(奈良県桜井市)
第九番・興福寺(南円堂)(奈良県奈良市)
第十番・三室戸寺(京都府宇治市)
第十三番・石山寺(滋賀県大津市)
第十四番・園城寺(三井寺)(滋賀県大津市)
第十五番・観音寺(今熊野観音寺)(京都市東山区)
第十六番・清水寺(京都市東山区)
第十七番・六波羅蜜寺(京都市東山区)
第十八番・頂法寺(六角堂)(京都市中京区)
第十九番・行願寺(革堂)(京都市中京区)
第二十二番・総持寺(大阪府茨木市)
第二十四番・中山寺(兵庫県宝塚市)
番外・元慶寺(京都市山科区)
番外・法起院(奈良県桜井市)



○京都や大阪を起点にすると、距離的には遠いですが、鉄道のみで比較的楽に行け参道もそれ程問題無いでしょう・・・
第二番・金剛宝寺護國院(紀三井寺)(和歌山市紀三井寺町)
第三番・粉河寺(和歌山県那賀郡)
  


○鉄道やバスや船等の複数の交通機関を利用しなければなりませんが、参道もそれ程問題無いでしょう。バスの本数の少ない地域がありますので要注意です。
第一番・青岸渡寺(那智山寺)(和歌山県東牟婁郡那)鉄道+バス(距離があります)
第六番・南法華寺(壺阪寺)(奈良県高市郡)鉄道+バス(バス本数少なし)
第七番・龍蓋寺(岡寺)(奈良県高市郡)鉄道+バス(バス本数少なし)
第二十番・善峯寺(京都市西京区)鉄道+バス(バスは季節により手前の停留所まで、その場合は徒歩は坂がかなりキツイ)
第二十一番・穴太寺(京都府亀岡市)鉄道+バス
第二十三番・勝尾寺(大阪府箕面市)鉄道+バス(本数やや少なし)
第二十七番・圓教寺(兵庫県姫路市)鉄道+バス、ロープウェイ
第二十八番・成相寺(京都府宮津市)鉄道+船+ケーブルカー等(遠いです)
第三十番・宝厳寺(滋賀県東浅井郡 竹生島)鉄道+船で竹生島へ
第二十五番・清水寺(兵庫県加東郡)鉄道+バス(バス本数極めて少なし)
第二十六番・一乗寺(兵庫県加西市)鉄道+バス(バス本数極めて少なし)
第三十三番・華厳寺(岐阜県揖斐郡)鉄道+ローカル鉄道+バス(かなり遠いです)



○長距離の徒歩の覚悟が必要
第十二番・正法寺(岩間寺)(滋賀県大津市)鉄道+バスと徒歩50分程度(月一回の特急バスを使用すれば直行可能でお勧め)
第二十九番・松尾寺(京都府舞鶴市)鉄道+バス(目的地までの距離が遠いです。バスも本数少なし)さらに坂道を徒歩40分程度・・車なら問題なし
番外・花山院(兵庫県三田市)鉄道+バス(バス本数少なし)+徒歩25分程度・・車なら問題なし


○参道がかなりハード
第四番・施福寺(槇尾山)(大阪府和泉市)鉄道+バス(本数少なし)、さらに参道は自然石の石段が続いて、巡礼最難所の一つに数えられます。観音正寺や上醍醐に次ぐハードさと思われます。
第十一番・醍醐寺(上醍醐)(京都市伏見区)地下鉄+徒歩約50分、自然石の石段等が続く、巡礼最難所の一つに数えられます。
第三十一番・長命寺(滋賀県近江八幡市)鉄道+バス、参道は急な石段808段あり。(車なら石段を少し飛ばして途中まで登れます。)
第三十二番・観音正寺(滋賀県蒲生郡)鉄道+バス(バス本数少なし)、正面からの自然石の道は巡礼最難道として知られます。裏参道からの徒歩約50分程度も最難所らしくハードですが車なら山上付近へかなり楽に行けます。

といった所でしょうか・・・。


上醍醐が最難所といわれるのは、参道が険しいのはもちろんですが、車が使えないということにあるのでしょう。(山を途中まで車で上がれる観音正寺と違って)ただ、巡礼というものは昔は徒歩が当たり前だった訳で、基本的には自分の足で歩く方が巡礼しているという実感もあり、心身共に良い影響があるのではとも思います。忙しい現代人としては公共機関で近くまで行くのは仕方がないとしても、現地まで車で楽に登るというのは何となく邪道だとも感じます。そういった点で、誰もが同じ山道をテクテク登らなければならない上醍醐は最も正統派の札所かもしれません。(尚、滋賀県側から裏道ルートで登ればかなり楽に行けるようですが、これも足腰の悪い方のためのものと考えた方が良いようです。)

私の歩いた感想としては、(もちろん年齢・体力にもよりますが)いわれるほど程ハードでは無いと感じました。参道はかなり広く、後半は楽な下り坂になります。20分ほど我慢すれば・・といった印象です。
また夏場はばてるので避けた方が良いかもしれません。
(京都では神護寺の石段、海住山寺への舗装道路の参道、さらに大文字山の山道が問題無ければ楽勝でしょう。また、三十三ヶ所では、観音正寺の裏参道からの山道の方がハードに感じました。また小塩のバス停留所から善峰寺へ向かう緩やかな舗装道路、松尾寺へのかなり長い舗装道路の坂道の方が足にダメージが残ったという印象です。)




長くなりました・・上醍醐の参道の様子について書いてみます。(今回は参道周辺の写真を掲載し、次回に山上の様子を掲載したいと思います。)

さて、醍醐寺(下醍醐)の仁王門前で右に曲がって上醍醐へ向かいます・・まず登り口にあるのが「女人堂」で、上醍醐の本尊「准胝観音」の分身が祀られています。また、「女人堂」の前に手水場と道中の安全を祈るかのように五体の仏像(不動明王像、醍醐寺開山・聖宝理源大師像、弥勒菩薩像、役行者・神変大菩薩像、地蔵菩薩像)が置かれています。
古くはここから先は女人禁制で、女性はこの場所でお参りしたということですが、一つには体力が無い女性が厳しい参道を登らないで参拝できる制度だったともいえます(女人堂の傍に小さな「御千度石」があり、この石と女人堂の間を千回往復すると、上醍醐寺に参拝したのと同様の功徳を得られると伝えられます。)・・・また、現在でも体が弱く山上まで登れない人はここでお参りされるのでしょう。


さて登り口から山道を登っていくと、参道には道標として一丁(約100m)毎に梵字と金剛界諸尊名が刻まれた「町丁石卒塔婆」が置かれていて、上醍醐社務所前までに十九の標石があります。

登り始めてしばらく、五丁あたりで「醍醐の花見」の案内板があります。
この付近は槍山(花見山)と呼ばれる平坦地で、慶長三年(1598)三月十五日、豊臣秀吉が「醍醐の花見」の宴を行った場所と伝えられます・・現在は断崖を見下ろすような場所で、危険な為に通行止めになっています。有名な「醍醐の花見」がこのような山の中で行われたということに驚く人が多いようです。

案内版によると、この槍山の千畳敷とも呼ばれる平坦地には花見御殿が建てられ、女人堂から槍山の間には長束正家をはじめとする武将達によって趣向をこらした茶屋八棟が設けられたということです。また秀吉は花見に先駆けて山内馬場先から槍山に至る両側に近畿各地から集められた桜の木を約七百本植えさせたと伝えられます。そして、花見の当日には、秀吉は秀頼、北政所、西の丸(淀君)、松の丸、三の丸を従えて、山下の桜が一望できる槍山の御殿で花見の和歌を短冊にしたため桜の枝に吊上げました。(この豪華な花見の遺品として、この時に詠まれた短冊百三十一葉(重文)が醍醐寺霊宝館に所蔵されています。また、旧花見茶屋・純淨観(重文)が三宝院に移築されています。)


さらにしばらく登ると九丁辺りで「不動の滝」があり、ベンチなどもあり休息所になっています。そこから霊木「相生の杉」を越えて十二丁辺りに「音羽魔王権現社」の小さな社があります・・社殿横に社の由来が書かれています。それによると、昔この地に天狗杉という大杉があり、諸国を遊行する天狗がこの木に腰をかけて休むと伝えられていましたが、老木となり枯れた為に天狗が休む場所が無くなったことをいたんで、昭和十一年(1936)に、時の醍醐寺座主・戒玉僧正が、ここに社殿を建て魔王権現を祀ったということです。その後この社殿が傷んだために、平成四年(1992)に信者の方が新たに社殿、鳥居、玉垣を建立寄進したのが現在の社殿ということです。

しばらく進むと亀の背を土台にしてに石碑をた建てた石碑(亀趺)があり、十六丁付近に来るとベンチなどのある平坦な場所となり、労を労うように役行者像が迎えてくれます。ここまで来ると後はたいへん楽になります・・緩やかな下り坂となり、十九丁が上醍醐寺社務所の門前になります。


次回は山上に並ぶ諸堂を掲載します。

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今日、1月5日(土)、京都市伏見区醍醐東大路町にある醍醐寺で年頭式初護摩供養が行われました。

醍醐寺は観光寺院として非常に有名ですが、このブログでは桜の頃の様子以外はこれまで採り上げて来ませんでした・・・醍醐寺のような超一級の観光名所となると書かなくてはならない事が多過ぎてやや気が重かったのです。
しかし、ようやくブログのために醍醐寺の一部、「上醍醐」を採り上げることを決意して、朝から醍醐時に向かったところ、今日は年頭式の日だったようで、一山の僧侶一堂が、赤い野点傘を差し掛けられた醍醐寺座主(三宝院門跡)を中心として塔頭の三宝院から出て来られるところに遭遇しました。
僧侶の後を護摩木を奉納した信者等が従い、一列になってまず不動堂の前での護摩供養を行って、その後金堂に向かわれました。(不動堂前での護摩供養の様子を撮影してみました・・今回は画像34枚!で儀式の流れが何となくわかるようにしてみました。)

正月の朝の清々しい空気の中で、護摩が焚かれるのを見ていると、また様々な行事が続く京都の一年が始まったというワクワクする期待でいっぱいになります。

日野誕生院

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伏見区日野の法界寺に隣接する日野誕生院(ひのたんじょういん 誕生院)は、親鸞上人ゆかりの寺院として知られ、法界寺を訪問される観光客はこのお寺も合わせて訪れる方が多いと思います。


京都市伏見区日野西大道町にある日野誕生院は、親鸞上人の誕生の地を記念して建てられた浄土真宗本願寺派(西本願寺)寺院です。
法界寺の時に書きましたが、親鸞上人は承安三年(1173)、日野氏一族の日野有範(ありのり)を父にこの日野の里に誕生しました。(母は、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の吉光女(きっこうにょ)と伝えられます。)親鸞上人の幼名は松若丸といい、9歳で粟田口の青蓮院で得度するまでこの日野で過ごしたと伝えられます。

さて、江戸時代末期の文化年間(1804〜17)、西本願寺第十九代宗主・本如上人は、偉大な宗祖・見真大師親鸞聖人(親鸞上人)の顕彰に努め、聖人の誕生地・日野の地を調査しました。そして隣接する日野家の菩提寺・法界寺と交渉し、寺領の一部を本願寺が譲り受けることに成功します。次代の第二十代・広如上人は、先代の遺志を継承して文政十一年(1828)に、法界寺から譲り得たこの地に、親鸞上人の父有範公にちなんで「有範堂(宝物堂)」という一堂を建てました。これが日野誕生院のはじまりです。また文久二年(1862)より親鸞聖人の誕生講をはじめています。
その後、第二十一代宗主・明如上人の時代に、本願寺の飛地境内地として「日野別堂誕生院」と改称されました。大正十二年(1923)、立教開宗700年記念の記念行事として本堂・書院の建築を昭和三年(1928)から開始し、昭和六年(1931)に現在の本堂が完成し、「日野誕生院」と改称されました。また平成十八年(2006)には親鸞聖人750回大遠忌法要の記念事業として本堂と書院の改修が行われています。


本堂は、延暦寺の根本中堂等を連想させる回廊式の古風な建物で、これは親鸞上人誕生の時代の藤原時代様式の建物を再現したものです。中央の厨子には、本尊・阿弥陀如来像を安置し、両脇に親鸞聖人幼童の御影像、父有範公の木像が祀られています。
また、境内には「親鸞聖人童形の像」、親鸞上人が得度の際に詠んだという「明日ありと思う心のあだざくら 夜半に嵐の吹かぬものかは」と刻まれた歌碑があります。(写真)
さらに、境内の誕生院保育園を挟んだ法界寺に隣接する場所には、親鸞上人の産湯に使われたといわれる井戸「親鸞聖人産湯(うぶゆ」井戸」や上人のへその緒が埋められたといわれる「親鸞聖人胞衣(えな ゑな)塚があります。(写真)

法界寺

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法界寺は、山里の風情が残っている京都市伏見区の日野(ひの)を代表する観光寺院で、所蔵する国宝・阿弥陀如来座像は、平等院の鳳凰堂の本尊と最も近い藤原時代の定朝様式の名品として知られます。
少し地味な寺院ですが、日野家出身の親鸞上人ゆかりの史跡としても有名です。


さて、伏見区日野西大道町にある法界寺は、山号を東光山という真言宗別格本山・醍醐派の寺院です。
本尊に薬師如来を祀ることから、通称「日野薬師」、「乳薬師」と呼ばれ、また西国薬師第三十八番霊場になっています。

日野の里は、古くは山城国宇治郡に属し、平安初期には桓武天皇や貴族達がこの地に遊猟し、また近江や奈良に繋がる交通の要所として古くから開けた地域だったようです。奈良時代末頃から藤原北家の支流(後の日野氏)の山荘が建てられ、弘仁十三年(822)に一族の藤原家宗が、慈覚大師円仁より贈られた伝教大師最澄の自作という薬師如来の小像を山荘に祀りました。その後、永承六年(1051)、日野家の祖となった日野資業が薬師如来像を造って、最澄の作という小像をその胎内に納め、薬師堂を建立したのが法界寺のはじまりと伝えられ、当時は天台宗寺院でした。
法界寺は日野氏の菩提寺として、資業の子・実綱や実政が観音堂と五大堂を建立するなど代々の日野一族が私財を投じて整備したために、平安時代末頃には多くの堂宇が建ち並んだたいへん荘厳華麗な寺院でしたが、承久三年(1221)の承久の乱の際に、兵火を受け薬師堂の他に一堂を残して全て焼失してしまいました。その後再建されますが、再び応仁の乱の兵火等により焼失し、現在は、本堂の薬師堂(重文)と阿弥陀堂(国宝)が残るのみとなっています。


壮大な阿弥陀堂は、永承年間(1046〜53)、平等院の鳳凰堂と同時期に前後して建てられた当初の建物が承久の乱で焼失したため、嘉禄二年(1226)頃に再建されたものですが、再建とはいえ藤原時代の浄土教の流行や末法思想の影響により各地に極楽浄土を具現化しようと建てられた典型的な阿弥陀堂建築の一つといえます。五間五面の桧皮葺、宝形造で、周囲に一間の廂が付けられているために重層建築の雰囲気があります。また内陣の天井は折上組入格天井、外陣は化粧屋根裏天井になっています。平等院の鳳凰堂等と共に全国的にも数少ない藤原時代の様式を残す貴重な建物として国宝に指定されています。

阿弥陀堂の内陣には、定朝様式の国宝・阿弥陀如来像を安置されています。
藤原時代らしいふくよかな表情の丈六の仏像で、寄木造、漆箔、光背には透かし彫りで飛天が刻まれています。もちろん、平等院鳳凰堂の阿弥陀坐像と並ぶ傑作です。また阿弥陀如来像を取り巻く内陣の壁には天人壁画が描かれ、外陣には阿弥陀坐像、四点柱には金剛界曼荼羅の諸像六十四像と宝相華唐草が彩色されています。色彩の残った阿弥陀堂内陣と阿弥陀仏からは平安時代の極楽浄土のイメージを体現することができるでしょう。

薬師堂は法界寺の本堂で、創建当初のものは早くに焼失したようで、現在の建物は明治三十七年(1904)に奈良県龍田の伝燈寺の本堂を移築したものです。この建物は、室町時代の康正二年(1456)に建立された古建築で重要文化財に指定されています。
五間四面、単層、屋根は寄木造の本瓦葺の重厚な建物で、内部は格子によって内外陣に区切られています。この内陣厨子には秘仏の本尊・薬師如来像(重文指定)が安置されています。(尚、本尊は秘仏のため写真のみ堂前に展示しています。)この薬師像は、高さ約80cm、衣文に載金模様のある白木の檀像で、胎内には伝教大師作と伝えられる胎内仏が納められています。この本尊に祈願すると妊婦の乳の出が良くなるといわれ、そのことから「乳薬師」と呼ばれて今も安産や子育ての祈願が多いということで、祈願の赤ちゃんの涎掛けが掛かっています。(写真)他に本尊・薬師如来像の脇侍の日光・月光両菩薩と、運慶作と伝わる十二神将像(重文指定)が厨子に安置されていますが、残念ながら全て非公開です。

また、法界寺の境内は、京都市指定史跡になっています。
これは法界寺境内の中枢部が、その創建時から現在まで大きな改変が無く維持されてきたと考えられるためです。京都市の境内案内掲示板によると、近世(江戸時代)の名所図絵に、法界寺の阿弥陀堂が池と対面し、東に鐘楼、現在の薬師堂の位置に草庵風の建物が建ち、鐘楼の脇から坂道が東側の集落まで通じている様子が描かれているということで、これは現在の境内とそれ程変化が無く、特に境内中心にある阿弥陀堂は承久三年(1221)の火災後に再建された鎌倉初期の建物ですが、その位置は現在とほとんど変わらないようです。



さて、日野といえば、親鸞上人の故郷でもあり、法界寺は親鸞上人の御誕生地としても知られています。
浄土真宗の開祖・親鸞上人は、法界寺を創建した日野資業から4代後の日野有範を父に、承安三年(1173)にこの法界寺で誕生したといわれ、幼少時にはこの阿弥陀堂で阿弥陀如来に祈ったと伝えられています。早くに両親を失いますが、9歳までこの日野で暮らした後、叔父範綱に連れられて粟田青蓮院で慈円僧正を戒師として得度しました。法界寺周辺には親鸞ゆかりの史跡が多いですが、やはりこの阿弥陀堂内と阿弥陀像こそ、幼少時の親鸞上人を思い浮かべさせる力強い史跡といえるでしょう。

また、法界寺境内の北側には、法界寺が管理する日野家墓所があります。日野家一族の廟所で、玉垣の奥の古い五輪塔が親鸞上人の父・有範の墓、その他母親の吉光女(きっこうにょ)、叔父の範綱、親鸞上人娘・覚信尼等の五輪塔婆が並んでいます。(写真)

最後に、法界寺といえば、京都市登録民族無形文化財に指定されている「法界寺裸踊り」も知られます。毎年元旦から十四日間、本堂薬師堂で五穀豊穣、万民快楽、所願成就等を祈る修正会法会が行われますが、結願日の十四日に、少年・青年信徒が阿弥陀堂の広縁で褌一つで踊り祈願する祭典が行われ、法界寺の裸踊りと呼ばれています。

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