京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

山科・醍醐・小野周辺

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六地蔵(大善寺)

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京都市伏見区と宇治市の境に「六地蔵」と呼ばれる場所があります。
行政地域としては宇治市に属しますが、JR奈良線、京阪宇治線、地下鉄東西線の各六地蔵駅が隣接し、京都南部の玄関口になっています。現在は各駅周辺には大型スーパー等が立ち、交通量も多く、あまり京都らしさは感じられない地域になっていますが、古来、京都と山科、宇治、奈良を結ぶ分岐点として多くの旅人が行き来してきた場所でした。
今回採りあげた大善寺の他に、周辺には、京都市最大の前方後円墳「黄金塚(こがねつか)一号墳」「同二号墳」があり、豊臣秀吉が伏見城を建設した頃には、藤堂高虎、小掘遠州の屋敷があった地域でもあり、伏見築城の際に物資を運び入れた「お舟入り(おふないり)」跡等の史跡が残っています。


さて、伏見区桃山町西町にある大善寺(だいぜんじ)は、正式には法雲山浄妙院大善寺という浄土宗寺院で、「六地蔵」という通称の方がはるかに有名なお寺です。また「京都十三仏霊場巡り」の第五番霊場でもあります。

奈良時代以前の慶雲二年(705)に藤原鎌足の子・定慈(じょうえ)が、大和国多武峰から来住して創建したと伝えられ、その後、三井寺(園城寺)を開いた智証大師円珍(一説には慈覚大師円仁)が、地蔵菩薩を安置して天台密教寺院として再興します。応仁の乱後に衰退しますが、永禄四年(1561)に浄土宗寺院として再興され大善寺と改めたということです。尚、開基に関しては、以下のように小野篁とする説が六地蔵の名前の由来と共に良く知られています。

地蔵堂(六角堂)に安置された地蔵菩薩立像(重要文化財)は、平安時代初期の仁寿二年(852)、歌人の小野篁が一度息絶えて冥土に行き、そこで生身の地蔵菩薩を拝して甦った後、一木から刻んだと伝わる六体の地蔵菩薩像の一つといわれています。
伝説では、小野篁は嘉祥二年(849)48歳の時、熱病を患って意識を失っている間に地獄の風景を見ました。地獄に落ちて苦しんでいる人々の中に、一人の僧がこれらの人々を救っている場に出会います。その僧は、私は地蔵菩薩であると名乗り、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道の迷いの世界を巡って縁ある人々を救っているが、縁の無い人を救うことはできないのが残念である。お前はこの地獄の様子と地蔵菩薩のことを人々に知らしめて欲しいと語りました。その途端、小野篁は目が覚めこの世に甦ったのでした。早速、この地の木幡山から一本の桜の木を切り出して、六体の地蔵菩薩を刻んでこの地に祀りました。そのためにこの地は「六地蔵」と呼ばれるようになったといいます。
尚、この六体の地蔵菩薩像は、その後保元二年(1157)後白河天皇の勅命により、平清盛が西光法師に命じて、京都に疫病が侵入しないようにと京都周辺の街道の入り口六ヶ所に、六角堂を建て一体ずつ地蔵を安置させました。

六地蔵です・・

○伏見地蔵(大善寺)(伏見区桃山町西山・旧奈良街道)

○鳥羽地蔵(浄禅寺)(南区上鳥羽岩ノ本町・旧大坂街道)

○山科地蔵(徳林庵)(山科区四ノ宮泉水町・旧東海道)

○桂地蔵(地蔵寺)(西京区桂春日町・旧山陰街道)

○常盤地蔵(源光寺)(右京区常盤馬塚町・旧周山街道)

○鞍馬口地蔵(上善寺)(北区鞍馬口通寺町東入る上善寺門前町・旧鞍馬街道)


京都では、これら六地蔵を巡る「京都六地蔵巡り」という伝統行事があります。
約800年以上前(最初に六地蔵を巡ったのは、六地蔵を各地に安置した西光法師といわれます。)から続いているといわれる行事ですが、平安時代末から鎌倉時代にかけて六地蔵信仰が盛んになり、特に室町時代以降には各六地蔵を巡って参拝することが流行したということです。
現在も、毎年8月22・23日に各地の六地蔵菩薩を巡って、無病息災や家内安全等の祈願をこめてお参りし、各寺で授与される六種のお幡(はた)を入り口に吊すと、厄病退散、福徳招来すると多くの方に信仰されています。


さて、大善寺は外環状線に面していて、常に車両が行き交う決して良い環境とはいえない場所にあります。しかし一歩境内に入ると落ち着いた雰囲気が漂います。新しい建物が多い中で、鐘楼(鐘は直径三尺=90cm、高さ四尺三寸=約130cm、重さ二百五十貫=1トン)は徳川二代将軍秀忠の娘・東福門院が安産祈願成就のお礼として寛文五年(1665)に寄進したもので、水野石見守が普請奉行となって建造しました。天井は極彩色の絵模様が描かれています。
六角形の地蔵堂は山門正面の左奥にあり、極彩色が美しい地蔵菩薩像(重要文化財)が祀られています。また左の厨子内には小野篁像が祀られています。

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一言寺(金剛王院)

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京都市伏見区醍醐一言寺裏町、旧奈良街道から坂を登ったところにある金剛王院(こんごうおういん)は、通称「一言寺(いちごんじ)」の名前で知られるお寺です。観光寺院では無いので、いつもひっそりとしていますが、アジサイやヤマモモ等の花や実に四季を感じられる穴場的なお寺です。


「一言寺」こと金剛王院は、醍醐寺の境外塔頭で、真言宗醍醐派の別格本山です。
平安末期の創建と伝わる「一言寺」と呼ばれていた寺院と、同じく平安末期に創建された醍醐三流の一つ金剛王院が明治時代に合併して現在のお寺になりました。

寺伝によれば、高倉天皇の中宮・建礼門院徳子に仕えた阿波内侍(小納言・藤原信西の娘と言われます。寂光院ゆかりの人物としても知られますね。)が出家して「真阿(しんな)」と称し、清水寺の観音菩薩の霊告を得によってこの地に一寺を建立したと伝えられ、本尊の千手観音菩薩像(秘仏)に一心に祈れば、一言だけなら願い事がかなうということから、「一言寺」という名称が付いたといわれています。本堂の軒下には、このエピソードを表す「ただたのめ、仏にうそはなきものぞ、二言といわぬ 一言寺かな」のご詠歌の額が掲げられています。

また、これとは別にこの醍醐の地には、平安時代末期の永久三年(1115)に醍醐寺の金剛王院流の祖 聖賢(しょうけん)上人が金剛王院を創建します。(尚、この年、勝覚上人は潅頂院(三宝院)を、賢覚上人は理性院を創建し、真言密教の「醍醐三流」と呼ばれます。)金剛王院はその後、醍醐寺塔頭として、本山醍醐寺と共に応仁・文明の乱等の兵火で焼失、後に再建されて明治に至ります。そして、廃仏毀釈の影響で明治七年(1874)に廃寺となった一言寺の旧地に明治二十八年(1895)に移転しました。


平安時代末期の絵仏師・珍海(宮廷絵師・藤原基光の子)は仁平年間(1151〜53)に当寺に住んで密教の仏画を多く残しました。現在本堂に安置されている阿波内侍像は、元禄七年にこの画像を基に造られたと記録が残ります。本堂は、文化七年(1810)に再建されたもので、内陣の中にさらに土蔵造りの奥内陣がある珍しい構造で、江戸時代を代表する建築の一つということで、奥内陣には「一言寺」の名前の由来となった「一言観音」と呼ばれる秘仏・千手観音菩薩像(33年ごとの御開帳です。)、不動明王像等を安置しています。他に境内には江戸時代作の地蔵菩薩像を祀る地蔵堂、鐘楼等があります。


小さな池の周辺にはアジサイが植えられ、アジサイの隠れた名所になっています。
また、山門の右手には大きなヤマモモの木があり、京都市の天然記念物に指定されています。(写真)樹高9.2m、胸高周囲3.28m、直径約10mの円形のこんもりとした姿で、幹の内部が空洞になることや、枝の壊死した跡が孔状になることはヤマモモの特徴ということです。江戸時代の記録にもあり約400年の樹齢があるということですが、今でも樹勢は衰えることなく毎年6月頃には多くの赤い実をつけます。

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今回初めて訪れたのが、平家物語ゆかりの人物のお墓・・・日野と醍醐の境界線近く、醍醐外山街道町(そとやまかいどうちょう)にある「平重衡の墓(平重衡の塚)」です。

情報によれば、醍醐から日野に南北に通る旧奈良街道と、日野西部を横切る小さな合場川が交差する辺りにあるようですが、中々見つかりません。仕方なく付近の方に尋ねると、「ああ、義経の何とかいう・・」と公園の場所を教えてくれました。公園の中にあるという情報が無ければ多分見つからなかったでしょう。
新興住宅地に囲まれた公園のほぼ中央に「従三位平重衡卿墓」と刻まれた石標があり、横には五輪塔が並んでいるようです。(写真)


平重衡(1157〜85)は、平清盛の五男で、母は平時子(二位の尼)、同母兄弟に宗盛・知盛・徳子(建礼門院)等がいます。
重衡は武勇に優れ、源氏との戦いでは幾度も大将を務めました。治承四年(1180)以仁王と結んだ源頼政が反乱を起こした際は、重衡は兄知盛と共に京都宇治に反乱軍を鎮圧します。同年冬には、南都の興福寺・東大寺が挙兵し、この時、重衡は南都攻撃の総大将に任じられました。この戦いでは、東大寺の大仏殿をはじめ興福寺・東大寺の全ての伽藍が焼失することとなり、平家及び重衡の悪名が高まることとなります。その後も、養和元年(1181)の墨俣川の戦いで源行家を破り、寿永2年(1183)には、木曽義仲の派遣した先鋒軍を水島の戦いで、室山の戦いでも行家を破るなどの活躍をしますが、翌元暦元年(1184)の一ノ谷の戦いで捕らえられ鎌倉に護送されました。
鎌倉では源頼朝により丁重に扱われますが、東大寺や興福寺の衆徒の要求により前年の南都焼打の責を問われ、身柄は南都に引き渡されることになりました。

一方、平重衡の正妻・大納言佐(大納言典侍 藤原輔子)は、壇ノ浦の戦いの際に、入水するも捕えられ、その後、日野の地にいた姉を頼って隠棲していました。護送の途中で日野に差し掛かった時、重衡は護送の武士に、近くに妻が住んでいるので最後に一度会って後生のことなどを伝えたいと頼みます。武士達も哀れに感じこれを許し、重衡は報せを聞いて急いで駆けつけた大納言佐と感動的な対面を果たします。この重衡と大納言佐の最期の別れは「平家物語」の中でも最も哀れを誘う印象的な場面の一つになっています。
こうして、文治元年(1185)6月、重衡は木津川の河原で斬首されました。首は南都衆徒に渡され、奈良坂にさらされました。遺骸は大納言典侍がすぐさま引き取って、日野法界寺で荼毘にふし、火葬した遺骸を埋葬した場所に塚を築いて、骨は高野山へ納めたと伝わります。現在ある「平重衡の墓」は、その埋葬地といわれています。


尚、その後、大納言佐は出家して大原寂光院で建礼門院に仕えて、その最期を看取ることになります。
そのお墓は、寂光院の西に静かに佇んでいます。

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伏見区日野から小さな寺院と神社を採り上げました。
マイナーな史跡で私も初めの場所ばかりですが、このブログのネタ探しをしていると、時々意外な史跡に出会えるのは楽しいです。
尚、日野の史跡めぐりには、市営地下鉄を使うと便利なようです。地下鉄石田駅で下車し、東へ真っ直ぐ15分(1キロ)程度で歩けば、法界寺や日野誕生院等の史跡が狭い範囲に立ち並んでいます。



法界寺へ向かう途中、まず出会うのが日野西大道町にある恵福寺 (えいふくじ)です。
一見、地味な見過ごしてしまうようなお寺ですが、巨大な地蔵菩薩像を所蔵し、春の桜の隠れた穴場でもあるようです。(写真)
京都市の観光情報によると、恵福寺は鎌倉時代後期に天台宗寺院として創建され、江戸時代の慶長三年(1598)に浄土宗に改めました。また、現在の本堂は約100年前に現在地に移築されたということです。本堂には、平安時代の作という木像阿弥陀如来立像と木像地蔵菩薩像があり、特に地蔵菩薩像(安産祈願で「腹帯地蔵」と呼ばれているそうです。)は、寄木造の丈六の巨像で他に余り無いものということです。写真で見ると確かに巨大な仏像で一見に値するようです(拝観希望者は、事前予約すれば見せていただけるようです。)
また、境内には高さ9m、幹周1.4mのシダレザクラがあります。苗木から大切に育てられてきたと伝えられ地域もシンボル的なサクラのようで、春に夜間ライトアップもされて観光客も集まるということなので、機会があれば桜の頃に寄ってみたいです。




続いて、日野畑出町にある萓尾神社(かやおじんじゃ)です。
萓尾神社は、法界寺や日野誕生院の北東、鎮守の森の中に佇んでいる小さな神社です。参道付近は木々に囲まれ、森を抜ける涼しい風が心地良く感じました。
神社の祭神は大己貴命(おおなむちのみこと 大国主命)で、奈良時代に溯るという説もありますが創建年代は不明なようです。その後、この日野村の産土神として崇敬を集めてきたようです。また、江戸時代までは法界寺の鎮守社だったということです。

京都市の掲示板によれば、現在の本殿は法界寺坊中、在所年寄、近在の氏子などによって慶安五年(1652)に再建されたものであり、その後も屋根葺替や彩色等の修理が繰り返されてきたようです。確かに目立った大型の一間社流造で、全体に丹塗りや胡粉塗、極彩色が施されています。この特色ある彩色装飾により、醍醐清滝宮本殿(重要文化財)に相通じる雰囲気を持っているということです。本殿は建築年代が判明していて、造営後の修理についてもほぼ記録が残されていて、近世日野の建築活動を知るうえで貴重な遺構ということです。(京都市指定有形文化財に指定されています。)

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京都市伏見区に日野(ひの)という場所があります。北を伏見区の醍醐、南を宇治市に面した比較的小さな区域で、西方面は新興住宅地化していますが、東は山に囲まれて山里の風情が残っています。

日野は古くは山城国宇治郡に属し、奈良時代以降は藤原北家の領地でした。
弘仁十三年(822)に一族の藤原家宗がこの地に薬師如来像を祀り、その後永承六年(1051)、子孫の日野資業が法界寺を建立して氏寺としたことにより、やがて地域名の日野を家名とするようになったと伝えられます。日野氏として思い浮かぶのは、まず足利義政の正室・日野富子でしょう。また後醍醐天皇の側近で、正中・元弘の変に関係し処刑された日野資朝や日野俊基も有名です。そして浄土真宗の開祖・親鸞上人も日野氏の出身でした。
日野には法界寺や日野誕生院など親鸞や日野氏にまつわる幾つかの史跡がありますが、まずは観光的にあまり知られていない史跡を採り上げてみます。



今回は伏見区日野船尾にある鴨長明ゆかりの史跡「長明方丈石(ちょうめいほうじょうせき)」です。
鴨長明については、前に下鴨神社の境内社・河合神社を採り上げた時に少し書きました。繰り返しになりますが書いてみます。

「方丈記」の著者として知られる鴨長明は、久寿二年(1155 一説には仁平三年(1153)とも)下鴨神社(賀茂御祖神社)禰宜・鴨長継の次男として泉の館(現在の京都大学北方一帯)に生まれました。鴨氏は代々下鴨神社の社家で、長明も七歳の時から神職を志しました。また幼少より学問や歌道に秀でていたようで、琵琶を中原有安に、和歌を俊恵法師に学んでいます。
その後、平家の福原遷都にも随行し、平家の滅亡により京都へと戻っています。文治三年(1187)、33才で藤原俊成が編纂した「千載和歌集」に一首が入選し、歌壇に認められます。その後、後鳥羽上皇に召されて院の歌会に参加し、建仁元年(1201)47才で、和歌所寄人に任ぜられる程宮廷歌人としての才能を発揮し、元久二年(1205)の「新古今和歌集」には和歌等十首が採録されています。

しかし、元久元年(1204)頃、50歳で宮中の職を辞して出家し、洛北大原の里に隠遁してしまいました。鴨長明の突然の出家に関しては、歌人としての名声は得たものの、亡き父の跡を継いで河合神社の禰宜となるという本来の志が周囲の反対により挫折したためという説が有力ですが、平安時代末から京都を襲った火災や地震、飢饉による地獄図を目撃したこと等様々なことがあったのかもしれません。
大原で4年を過ごした後、建暦元年(1211年)、54歳で日野外山に移って草庵を結び、翌建暦二年(1212)から、世の無常と人生のはかなさを随筆「方丈記」や「無名抄」に著し、建保四年(1216)閏6月8日、62歳で死去しました。




さて、日野の法界寺付近を歩いていると、鴨長明の方丈石への案内表示が所々にあることに気付きました。私にとっても未知の史跡で、事前に調べてみたところ山の中腹にあるようです。この暑い季節に山登りなどする気も無かったのですが、日野周辺の史跡めぐりが以外と早く片付いたので、この際、行ってみることにしました。

案内板の指示通りに、東に向かって長閑な山間の舗装道路を登っていくと、スポーツや野外活動をサポートする「日野野外活動施設」という施設があり、そこから山に入ります。
これまでこのブログに登場した史跡では、一乗寺にある石川丈山の墓、上高野にある小野毛人の墓なども、急斜面の心細くなるような山道を登らなければなりませんでしたが、今回の方丈石もかなり深い山にあるようです。丈山や毛人の墓を目指した時よりは楽な道ですが、日差しの強い日だったにもかかわらず、深い森によって光が遮られ少し不気味な雰囲気が漂っています。丈山や毛人の墓の時もそうでしたが、戻りたくなる気持ちを押さえて歩きました。



時間は10分程度で、巨大な岩が見えてきました。この高さ3〜5mはありそうな巨石が方丈石のようです。
苔むして緑色になった岩の上には明和九年(1772)に刻まれた「長明方丈石」の石標と、ライオンズクラブによる「方丈の庵跡」という解説碑がありました。(写真)鴨長明は、この巨石の上に方一丈(3メートル強)の草庵を設けて「方丈記」を著したと伝えられ、またこの場所で死去したともいわれます。

長明は大原に隠棲した後も各地を転々として、承元二年(1208)に日野の地に落ち着きますが、各地を移動している間、棲家としていたのが、組み立て式の「方丈」でした。
移動に便利な一種のプレハブ住宅のようなものですが、大きさは一丈四方(約3メートル四方)、面積は約2.73坪、畳約五畳半程度です。間口、奥行きともに一丈四方(約3メートル四方)であるところから「方丈」と言われています。(下鴨神社の境内社・河合神社の境内に復原されていた長明の「方丈」の実物大の模型の写真を掲載しておきます。)

方丈石の上は平坦になっていて、3メートル四方の方丈が何とか乗りそうなスペースはあります。しかし、どうして態々このような場所を選んだのでしょうか?また、それ以上に私が驚いたのは、このような深い森の中で生活するという点です。私の周りを蚊や蜂が飛び回っていて、多分蛇もいるでしょう。まして、長明の時代(鎌倉時代)はそれこそ虫や動物に囲まれ、夜は灯り一つ無い闇の世界だったでしょう。長明は勇気があるなあ・・そんなことを考えていると、手足の長いユウレイグモが方丈石の上をゆっくり歩いていきます。私は急いでこの場から撤退することにしました。

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