京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

山科・醍醐・小野周辺

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前に東山区の明智光秀の塚を採り上げましたが、今回は山科区勧修寺御所内町にあるもうひとつの明智光秀の塚になります。前に書いた東山区三条通白川橋下るにある光秀塚は、光秀の「首塚」でしたが、今回の塚は「胴塚」と伝えられます。

天正十年(1582)六月十三日、山崎の戦いに敗れた明智光秀は、本拠地の近江坂本に戻ろうとして小栗栖の里を通った際、地元の土民から襲撃されて自刃しました。この時、介錯した家来の溝尾庄兵衛によって首は持ち去られて東山区三条通白川橋下るに埋葬され(首塚)、一方,遺体(胴体)はこの山科に埋められたと伝えられます。この塚は、小さな石標が立つのみで知らない人は気付かないような場所にあります(工場のような民家の入口横)

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山科区御陵大岩六、山科疎水沿いにある本圀寺(本國寺)は、大光山と号する日蓮宗一致派の大本山です。境内は金色の建物が建ち並び、初めての方は少し驚くのでは無いでしょうか。





さて、本圀寺の創建は、建長五年(1253)に日蓮上人が、鎌倉松葉ヶ谷に小庵を設け、法華堂と称したことに始まります。弘長元年(1261)に日蓮上人が伊豆配流の際に破却され、弘長三年(1263)に再建、文永八年(1272)佐渡配流の際に再び破却された後再建、日蓮上人の身延入山後は、日蓮宗の布教道場として日朗上人、日印上人と継承され本勝寺と称します。

その後、南北朝時代の貞和元年(1345)、日静上人が、北朝の光厳天皇から京都六条に東西二町・南北六町にわたる広大な寺領を賜ったことにより、鎌倉から移り本国寺(大光山本国土妙寺)と改めました。日静上人の父は上杉頼重、母は足利氏の出身とも伝えられ、将軍足利尊氏の叔父に当る関係から、足利幕府と皇室の篤い庇護を受けたとも考えられています。
こうして代々勅願道場として多くの塔頭を数える大寺院として発展し、日像上人が建立した妙顕寺と並んで京都での日蓮宗布教に大きな役割を果たしました。

しかし、天文五年(1536)の天文法華の法難で、比叡山宗徒らの攻撃を受けて焼失、堺の末寺成就寺に逃れます。その後同十一年(1542)に勅令によって帰洛を許され、同十六年(1547)に京都六条に再建しました。本國寺はその後、松永久秀や加藤清正、豊臣秀次の母・瑞龍院日秀尼(また、日秀は文禄五年(1596)にこの本圀寺で得度しています)の庇護を受けて栄えます。今出川菊亭家の菩提寺ともなり、江戸時代には徳川光圀の熱心な帰依を受けたことから、光圀に因んで寺名を本圀寺と改称したと言われます。その後、天明八年(1788)、天明の大火で経蔵等一部を残して類焼しましたが、その後順次再建復興されたようです。
しかしその後、昭和の敗戦後、本寺末寺の解体や寺所の散失等により衰退し、経営難からついに昭和四十六年(1971)寺地を売却し、多くの塔頭を残したまま、本山を現在の京都山科区御陵に移転しました、その後伽藍を再建して今日に至ります。

また、寺宝として、本尊の宗祖・日蓮上人真筆の2つの曼荼羅(表装の布に鴛鴦(おしどり)の紋があることから、その鴛鴦御本尊と呼ばれる)、(日朗聖人の輪宝紋の袈裟を用いて表装されたことから、輪宝御本尊と呼ばれる)、2体の日蓮大聖人像、日蓮大聖人御真筆の「立正安国論」その他多くを所蔵しています。





さて、本圀寺の建物は山科移転後に再建されたため、非常に新しく、また原色が溢れています。
まず、朱色の正嫡橋を渡ると、朱塗りの山門が迎えてくれます。この門は通称「赤門」と呼ばれていて、元々文禄元年(1592)に、熱心な日蓮宗徒としても知られる加藤清正が寄進したもので、平成八年に修復して復元されました。加藤清正は、秀吉に従って武勲を重ねて肥後熊本の大名にまでになったことから、開運勝利の神「せいしょこさま」として広く尊崇され、その関係でこの門を潜れば開運を導くとして「開運門」とも呼ばれているそうです。 

境内に入ると、新しい金色に輝く建物がいっぱいです。(写真)
本堂前にある仁王門(中門 三解脱門)は平成15年(2003)の新築で、金色に輝く二体の阿吽像が左右を飾り、屋根には金の鯱が飾っています。また本堂前には一対の金色の灯篭が置かれています。

本堂(昭和48年建立)前には日蓮上人の像が建ち、その右には本師堂(立像釈迦堂 昭和四十六年建立)があり、日蓮上人が伊豆の伊東へ流された時から亡くなるまで片時も離さなかったという釈迦如来立像を祀っています。その前には、金色の鳥居の九頭龍銭洗弁才天があります。
古来山科の山に鎮座してきた神社で、文化五年(1808)に第三十三祖日茜和尚がこの地で教えを説いた際に、九頭龍銭洗弁財天を感得したという伝えから、平成七年(1995)に再建したものです。

また、本堂と本師堂の間から石段を上ると黄金色の鳥居がある清正廟(清正宮)が建っています。清正の女・揺林尼が建立したと言うことです。
鐘楼にも黄金色の梵鐘があります。大梵鐘は、文禄二年(1593)に関白秀次の母村雲瑞龍院の寄進によるもので、平成八年(1996)に再建されました。梵鐘は高さ240cm、直径150cmあり、約200名余の法号が列記され、有力な末寺の他中には秀吉の両親や木下家一族の法号も刻まれています。

梵鐘の台座内部には、鬼子母神十羅刹女さまと「くみょうさま」が祀られています。くみょうさまとは、法華経陀羅尼品の中の「九名皐諦女」のことで、天文法難(天文五年 1536)の際に、大火の中に姿を見せて危難を救った守護神で、炎と煙の中で体をねじって出現した姿をそのままの姿を祀っています。題目を唱える人を必ず救うと誓われた神様として、「がん」などの難病から救われるという不思議な霊験があり「女人守護・火中出現のくみょうさま」と崇敬を集めているそうです。

経蔵は、九世日暁上人の寛正五年(1464)将軍足利義政の寄進により、一切経と経蔵が建立されたもので、現存の建物は慶長十二年(1607)扇谷上杉家の太田資次が再建したものです。天明八年(1788)の大火をまぬがれた本圀寺唯一の建造物として重要文化財に指定されています。その他、大客殿(昭和四十六年 1971移設)、方丈・庫裏・事務所(昭和四十八〜五十一年 1973〜77移設)、新書院(平成十四年建造)等が点在しています。





本圀寺の金色原色の新しい建物からは、年月を経てきた文化財の持つ魅力は感じませんが、かっては京都市内に広大な寺域を持つ由緒ある大寺院だったことを思うと、少し不思議な感じがします。

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山科区安朱堂ノ後町にある瑞光院は、浅野家ゆかりのお寺として知られます。
瑞光院は、正式には紫雲山瑞光院といって臨済宗大徳寺派の寺院です。元々は京都市上京区堀川頭今宮御旅所下る瑞光院前町にありましたが、昭和三十七年(1962)にこの山科に移って来ました。




さて、瑞光院の旧地(上京区堀川頭今宮御旅所下る瑞光院前町付近)は、豊臣秀吉の五奉行の一人として知られる播州浅野家の祖・浅野弾正長政の京都別邸のあった場所でした。
長政の死後、慶長十八年(1613)に、因州(鳥取県八頭郡)若櫻(わかさ)城主・山崎左馬允(さまのすけ)家盛が、大徳寺の琢甫(たくほ)宗林和尚を開基として寺院を建立しました。長政の法名に因んで伝正院と称していましたが後に瑞光院と改称しました。




まず、山門横にあるのが、小さな浅野稲荷社です。(写真)
祭神は、叱枳尼尊天(だきにそんてん)で、弘法大師空海の作と伝わり、安産祈願にお参りする方が多いそうです。この社の創建は古く、平安時代初期の文徳天皇の時代、朝野宿祢魚養(あさのすくねなかひ)という公家が、清和天皇が誕生した後産(胞衣・出産時に出る胎児を包む膜)を埋め社を建て朝野稲荷と称しました。その後、桃山時代に浅野長政がこの社のある地に下屋敷(別邸)を建てた際に、朝野稲荷を浅野稲荷と読み変えて鎮守社としました。
その後、長政の下屋敷が寺院として瑞光院となった際に、浅野稲荷社も境内に祀られることになり今日に至ります。

さて、明暦三年(1657)、山崎家の断絶後、第二世住職の陽甫(ようほ)和尚は播州浅野赤穂城主・浅野内匠頭長矩の側室瑶泉院(ようせんいん)の伯父にあたり、また遠祖浅野長政の旧跡という縁で瑞光院は赤穂浅野家の祈願寺となりました。
元禄十四年(1701)三月、浅野内匠頭長矩が松の廊下の刃傷事件を起こし切腹、浅野家は断絶となりましたが、同年八月十四日、城代家老・大石良雄(内蔵助)は、亡き主君の衣冠と短刀を瑞光院の本堂西南端に埋め、供養塔を建てて同志と共に一周忌の法要を営みました。これが「浅野内匠頭長矩公墓」で境内の奥中心に祀られています。(写真)
その後、大石は主君の墓参りの都度、瑞光院で同志と打ち入りのための密議を重ねたと言うことです。

元禄十五年(1702)に吉良邸討ち入りの本懐を遂げた後、翌十六年(1703)二月四日に赤穂浪士が四十六人が切腹する二日前に、当寺の宗湫(そうしゅう)和尚から江戸に派遣された弟子の宗海禅師は、四家の大名に預けられていた四十六人の髷をもらい受け、帰京後、これを瓶の器に納めて埋め、その上に石塔一基を建てました。これが「遺髪塔」で、四十六人の姓名と戒名が刻まれています。(写真)
また周辺には四十六人の石碑が取り囲んでいます。これは切腹後赤穂浪義士の十七回忌に当る享保四年二月四日に建てられたものです。
その他、大石良夫遺愛の梅を指示する石碑、義士の一人として切腹した小野寺十内の妻で、自身も後を追って死を選んだ丹の招魂碑等があります。(写真)





毘沙門堂に行かれる方の中には、赤穂浪士ゆかりという立て札を見て、このお寺の前で立ち止まる方もいますが、山門は閉められているので、なかなか境内までは入られないようです。
事前に予約するとご住職の説明も受けられるようで、この日はたまたまご住職が、年配の多分、史跡散策の会のような30人程の団体相手に説明されているのを横から聞かせていただきました。
赤穂浪士は本当は切腹していない(腹に刀の先を少し当てた段階で、介錯人によって首を落とされた。切腹すると後の掃除がたいへんなため江戸期には切腹は形式化していた)等色々なお話を聞かせてもらって良かったです。

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少し小さなお寺ですが、山科では紅葉の隠れた名所として知られる「山科聖天(双林院)」を採りあげました。
山科区安朱稲荷山町にある山科聖天(やましなしょうてん)は、正式には護法山双林院という、天台宗の毘沙門堂(護法山出雲寺)の塔頭寺院です。





前にブログに登場しました毘沙門堂は、戦乱により京都各地を転々とした後に、寛文五年(1665)に、後陽成天皇の勅により、徳川家から山科の安祥寺領の一部を与えられ、天海大僧正、後継の公海大僧正によって、現在の地に再建されました。このお寺も同年に合わせて再建されました。

当初は本尊には、滋賀県の「湖東三山」の西明寺から迎えられた阿弥陀如来像(藤原時代の「光坊の弥陀」と呼ばれました)を祀っていましたが、明治元年(1868)に聖天堂を建立し、門主の公遵法親王の念持仏「大聖歓喜天」を賜り本尊としました。多くの信徒・寺院から奉納された聖天像を祀し、今では「山科の聖天さん」と親しまれています。その他動明王や阿弥陀如来像を祀ります。






さて、毘沙門堂から西に山沿いに歩くとすぐに鳥居があります・・ここは寺院ですが神仏習合を浸透させた密教寺院のため鳥居が建てられています。本尊の聖天、つまり大聖歓喜天は、元々インド伝来の密教神で、十一面観音と大日如来の化身の姿として、頭は象、体は人間の形をしています。二体が向かい合って抱擁していることから男女合体神、陰陽和合の神として知られます。

本堂の中央内陣中央には、厨子に納められた秘仏の本尊聖天像が安置されています。聖天の供養は浴油と言って、尊像に油を注いで供養しますが、両脇には油をかけて祈祷する際の金銅の像が納められています。(特に11月に1年の締めくくりに、大浴油会として特別浴油が行われ、紅葉の盛りの園遊会が行われています。)
また後檀の中心には、聖天のご本体である十一面観音菩薩を祀り、両脇には創建当時から今日にまで、各方面から奉納された聖天像(客天と言います)を70数体合祀していて、その中には武田信玄が出陣の際、兜に入れていたと伝えられる聖天像もあります。

境内の正面には特徴ある不動堂があり、堂内で大護摩が炊けるように特殊な構造をしています。
この不動堂の本尊・不動明王像は桃山時代の作と伝えられ、比叡山の千日回峰行者だった第二十四代住職が、明治十六年(1883)に比叡山無堂寺から勧請したものです。脇仏に四大忿怒像を従えた姿ですが、珍しいのは仏像の寄せ木でできている点のようです・・愛染明王や馬頭観音(平安以前の作).その他複数の仏像が巧みに組み合わされて造られたもので、その数は300部材に及ぶと言うことです。
特に頭部には如来の螺髪があり、その頂点には楊枝状の部材が約100本納められているという他に例の無い珍しい仏像です。(写真)
織田信長の焼き討ちにより損傷した多くの仏像を、当時の仏師が二度とこのような悲劇が起きないように、不動明王像として甦らせたとも伝えられています。また、その他境内には不動滝等があります。
小さなお寺ですが、毘沙門堂のついでに寄っても良いかもしれません。

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今回は、昨年の夏以来の山科疎水です。
昨年は歩いて全行程を往復しましたが、今回は桜目的なので市営地下鉄御陵〜山科までを歩いてみました。
山科疎水では、疎水が完成した明治27年(1894)にソメイヨシノと山桜が植えられて、現在は約800本あるそうです。

御陵から数百メートルの桜はそれ程でもなかったのですが、山科に近い安祥寺橋からが綺麗です。特に毘沙門堂に続く安朱橋付近は、菜の花と桜が見事にマッチして観光客の皆さんの大人気のスポットになっています。
歩いてみた印象は、桜だけが目的ならこの安朱橋中心に東西少し程度でも良いかなという感じです。

桜の花が風に乗って散っていきます・・これからは桜の花びらが水に乗って流れていく「花いかだ」が見頃になるのでしょう。

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