京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

金閣寺・大徳寺・鷹峯他

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今回は、「五山送り火の船形や六斎念仏で知られるお寺」としましたが、太田垣連月や北大路魯山人の墓のある寺としても知られる西方寺(さいほうじ)です。
西方寺は船山の東南、西賀茂地区の最南端に位置し(正伝寺の南東、神荒院の西 市バス「神光院前」から直ぐ)、境内の建物も比較的新しいため、明るい印象のある寺院です。


大船院西方寺(たいせんいんさいほうじ)は、山号を来迎山(らいごうざん)という浄土宗寺院です。
寺伝によると、平安時代の承和年間(834〜48)に、慈覚大師円仁(じかくだいし えんにん)によってされたと伝えられ、元々は天台宗山門派に属していましたが、鎌倉時代の正和年間(1312〜16)に道空(どうくう)上人が中興して、この時に浄土宗に改められました。また、道空(どうくう)上人は、彼岸や盆に鉦と太鼓を打って、節を付けて唱える六斎念仏の創始者ともいわれ、以後、西方寺は六斎念仏の寺として知られるようになりました。(尚、以下に記すように、六斎念仏は空也上人が起源ともいわれていますが、実際は不明です)


さて、毎年八月十六日に行われる京都の夏の風物詩、「五山の送り火」では、東山の「大文字送り火」、松ケ崎の「妙・法送り火」、西賀茂の「船形万燈籠送り火」、衣笠の「左大文字送り火」、嵯峨の「鳥居形松明」の五ヶ所六つの送り火行事が行われますが、「鳥居形」を除けば、各山の麓にある寺院の宗教行事が大きく関わっています。

○「大文字」は、銀閣寺の隣にある浄土宗寺院の浄土院(大文字寺)が関係しています。
「大文字」送り火の起源が弘法大師空海によるという伝承もあることから、元々天台宗寺院だった浄土院(大文字寺)は、弘法大師像を送り火の本尊として祀っています。門前で護摩木の受け付けを行い、大文字の点火の際は、大の字の中心部の火床「金尾(かなわ)」の傍にある「弘法大師堂」の中で、住職が灯明を灯し読経が行われます。

○「妙法」は、日蓮宗寺院、涌泉寺(ゆうせんじ)が深く関係しています。
「妙法」は、「南無妙法蓮華経」という日蓮宗の題目に由来しているように、日蓮宗との関わりの深い送り火で、「妙」のある西山で、点火の際に涌泉寺の住職が読経を行い、さらに送り火の後に涌泉寺境内で京都市の無形民俗文化財に指定されている「題目踊り」と「さし踊り」が行われます。
特に「題目踊」は、日本最古の盆踊りとも呼ばれ、その起源には以下の伝承があります・・鎌倉時代末期に日蓮上人の孫弟子・日像上人が松ヶ崎村で布教を行い、この地にあった天台宗寺院・歓喜寺住職の実眼和尚も法華宗に改宗します。そして、徳治二年(1307)、全村民が日蓮宗に帰依したことを喜んだ実眼が、歓喜のあまり太鼓を打ちながら法華題目を唱え、村人も次々と「南無妙法蓮華経」と唱えながら踊ったというのが「題目踊」の始まりと伝えられます。

○「左大文字」は、 浄土宗西山派寺院、法音寺が関係しています。
「左大文字」は、他の送り火より遅く江戸時代初期頃に始まりましたが、法音寺は、左大文字の発祥地、旧大北山村の菩提寺でもあったため、寺院を中心とした旧大北山村の人々が代々行事を受け継いできました。送り火の当日の朝、本堂で施餓鬼会(せがきえ)が行われ、灯明の火によって親火台へ点火されます。また、夕方、住職の読経があり大松明に火が移されます。他の送り火と違うのは、寺から大北山(大文字山)まで松明行列が行われることです。そして、送り火の後、法音寺本堂で「大文字御詠歌」奉納が行われます。

○愛宕神社との関わりを起源とするという説もある「鳥居形」は、特定寺院との関わりは無いですが、化野念仏寺の駐車場で護摩木の受け付けを行い、当日夜には、地元住民でつくる嵯峨仏徒連盟が「嵐山灯ろう流し」を行います。地元の女性がご詠歌を唱え、僧侶の読経と拍子木を合図に、先祖の戒名などを記した灯篭を桂川に流します。



さて、「船形」は、船山東山麓にある、今回の西方寺(さいほうじ)が行事を行います。
この送り火は、正式には「船形万燈籠送り火(ふながたまんとうろうおくりび)」と呼ばれ、西方寺開山の慈覚大師円仁が、承和六年(839)、唐からの帰路に暴風雨に遭い、南無阿弥陀仏と名号を唱えたところ無事帰還できたという逸話に由来すると伝えられています。
西方寺では寺で護摩木の受け付けを行い、船山で万燈籠が点火されます。また、送り火の後は、境内のかがり火を囲んで西方寺六斎念仏保存会による六斎念仏(昭和五十八年(1983)国の重要無形民俗文化財に指定)が行われます。
当寺の六斎念仏は、鉦や太鼓を使って念仏を唱える極めて古風なもので、六斎念仏の古態を今に伝えるものとして知られています。



少し、六斎念仏について書いておきます・・
過去にも何度か書きましたが、この六斎念仏というのは、鉦や太鼓を鳴らし念仏を唱えながら踊る民俗芸能です。
今も京都各地の寺院及び保存団体によって伝承され、国の重要無形民俗文化財に指定されています。六斎念仏がいつ頃から始まったのかは不明ですが、平安時代に空也上人が、仏教の忌日である六斎日(八、十四、十五、二十三、二十九、三十日の六日)に、京都の市中で、念仏を唱え鉦や太鼓を叩いて「踊躍念仏(ゆうやくねんぶつ)」を広めたことが起源ともいわれ、現在は六斎日とは関係なく、京都各地でお盆をはじめとする行事の際に行われています。

尚、六斎念仏は、江戸時代になると念仏踊を中心とする従来の「念仏六斎系」の他に、浄瑠璃や歌舞伎等の要素を取り入れより風流娯楽化した「芸能六斎系」が登場して、今日までこの二系統に分れて伝承されています。また、六斎念仏には、空也堂の傘下の「空也堂系」と、光福寺傘下の「干菜寺系(光福寺)」の二つがあり、各六斎念仏団体はどちらかの寺院から免許を与えられその傘下に入っていました。
また、明治以前は「干菜寺系(光福寺)」が盛んでしたが、現在は「干菜寺系(光福寺)」は西方寺の六斎念仏が残るのみで、今回の嵯峨野六斎念仏をはじめその他の六斎念仏は全て「空也堂系」で、嵯峨野六斎念仏は、能や長唄・歌舞伎の要素を採り入れて、独自に発展した芸能的六斎になります。


他の主な六斎念仏として

○中堂寺六斎念仏(8月9、16日壬生寺)
○千本六斎念仏(8月15日千本ゑんま堂(引接寺)
○西方寺六斎念仏(8月16日西方寺)
○円覚寺六歳念仏(8月16日円覚寺)
○小山郷六斎念仏(8月18日上御霊神社・8月22日上善寺)
○上鳥羽六斎念仏(8月22日鳥羽地蔵(浄禅寺))
○桂六斎念仏(8月22日、23日桂地蔵(地蔵寺))
○嵯峨野六斎念仏(8月23日阿弥陀寺・9月2日松尾大社)
○梅津六斎念仏(8月25日梅宮大社)
○吉祥院六斎念仏(8月25日吉祥院天満宮)
○久世六斎念仏(8月31日蔵王堂光福寺)
等があります。





さて、西方寺の境内には、皇室制度や神道史の研究家として知られるイギリス人リチャード・ポンソンビー教授の「本尊美君碑」や幕末の歌人・太田垣蓮月尼(おおたがきれんげつに)の記念碑等が建てられています。また、寺の西側にある小谷墓地には、太田垣蓮月尼や上賀茂神社の祠官賀茂季鷹(かものすえたか) 、また著名な料理人で陶芸家でもある、北大路魯山人(きたおおじろさんじん)の墓があります。


太田垣蓮月(おおたがきれんげつ 1791〜1875)は、寛政三年(1791)一月八日に、伊賀国上野の城代家老・藤堂良聖の子として京都に生まれました。名を誠といい、生後直ぐに知恩院門跡に仕える大田垣光古(当時は山崎常右衛門)の養女となります。(養父光古は実子を相次いで亡くし、養子をとることで知恩院譜代の家柄を維持していました。)その後、生母が丹波亀山藩藩士の妻となった関係で、丹波亀山城で御殿奉公を勤めました。

誠(蓮月)は十六歳頃に、養父大田垣光古の養子の望古と結婚し、二人の間には、長男、長女、次女が生まれましたが、いずれも夭折します。文化十二年(1815)二十五歳の時、夫の望古とも死別しました。その四年後の文政二年(1819)、誠は、新たに大田垣家の養子となった古肥と再婚し、二人の間には一女が生まれますが、文政六年(1823)には古肥とも死別しました。
三十三歳で夫と二度も死別し、三人の子供を亡くした誠は、養父光古と共に剃髪し、蓮月と号しました。その後、蓮月は、養父西心(光古)と共に知恩院山内の真葛庵に移りましたが、二年後に唯一残っていた女児(古肥との間の子)、さらに二年後に養父西心が亡くなったため、知恩院を去って岡崎村に移りました。

その後は、煩わしさを逃れ生涯三十数回住まいを替え「引越しの蓮月」と異名されるほど住居を転々としました(幕末に勤皇の志士を匿ったためと言われます)
また、戊辰戦争の際に、三条大橋を通りかかった官軍の西郷隆盛に歌を渡したというエピソードでも知られます・・「あだみかたかつもまくるも哀れなり 同じ御国の人と思へば」・・同じ日本人同士が戦うことの悲劇を詠ったこの歌が、江戸城の無血開城に影響を与えたとも伝えられています。

晩年は西方寺に近い神光院(ブログ掲載)境内に隠棲し、歌や書、茶道に親しみ、また陶芸の才も発揮し、「蓮月焼」は、京都の土産物として人気を博します。また、この頃は、当時二十二歳の孫のような富岡鉄斎に作陶の仕事を手伝ってもらいながら共同生活を送り、飢饉救済の募金活動や、丸太町に橋を架けるなどボランティアにも努めました。
明治八年(1875)、八十五歳で亡くなりましたが、遺言で「ただ無用の者が消えゆくのみ、他を煩わすな、富岡だけに知らせてほしい」と頼んだということです。
(尚、神光院にある茶室「蓮月庵」は、太田垣蓮月の隠棲していた場所として知られ、境内には住居跡を示す「蓮月尼旧栖茶所」という石標と蓮月の歌碑が建っています。)

蓮月尼の墓は、小谷墓地の南側地域にあり、石標の案内板に従って進むと、墓地の入口からあまり遠くない木の根元に丸い五十センチ程の墓があります。




賀茂季鷹(かものすえたか 1754〜1841)は、江戸時代末期の上賀茂神社の祠官で、宝暦四年(1754)頃、京都の上賀茂神社の神職の家に生まれました。少年時代から、有栖川宮家に諸大夫として仕えて和歌を学び、その後、江戸で江戸派の歌人と親交しました。京都に戻った後は、賀茂社の祠官を勤めながら多くの文人と交遊し、天保十二年(1841)十月九日に八十八歳で亡くなりました。幅広い人脈を持って多くの門人を育て、古典学者としても才能を発揮しました。
西方寺にはたいへん多くの多くの賀茂氏一族の墓があり、季鷹の墓としては特定できませんでしたが、賀茂氏の墓の一部を掲載しておきます。



長くなりましたので、有名な北大路魯山人に関しては、その墓についてのみ書いておきます・・

北大路魯山人(きたおおじろさんじん 1883〜1959)は美術家、料理家等多彩な才能を発揮し、傲慢で辛辣な性格に関しては非難も多いとはいえ、その才能は、今も多くの美術や料理関係者から尊敬されています。京都の料理関係者等、西方寺の墓に詣でる人も多いようですが、かなり広い墓地でもあるため、場所を知らないと探すのに苦労します。また、魯山人とは関係のない北大路家の墓も墓地内に点在しているので要注意です。

魯山人の墓は、小谷墓地の北側地域の最も北西奥にあり、なだらかな坂を上った高台の北端近くにあります。墓地全体の北西を目指して行けば、比較的簡単に見つかるでしょう。
尚、現在ネット上で見られる墓の写真は、かつての古い墓の写真ですが、近年新しい墓に整備されましたので、参拝される方は、掲載した写真を参照してください。

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賀茂川の上流に位置する「西賀茂」と呼ばれる地域は、「大文字五山の送り火」の一つ、「船形(山の名は船山)」のあることで知られている地域です。

この地域の観光寺院としては、正伝寺(しょうでんじ)が有名ですが、正伝寺から北へ約五百メートル新興住宅地の中を北上すると、京都グルフ倶楽部の船山コースの傍に、土塀に五本線が引かれ皇室との関係を伺わせる寺院があります・・これが、霊源寺(れいげんじ)です。
霊源寺は、境内のみ自由で、春は桜、ツツジの名所でもあります。



霊源寺(京都市北区西賀茂北今原町)は、正式には霊源皇寺、山号を清凉山という臨済宗の単立寺院です。江戸時代の寛永十三年(1636 寛永十五年とも)に、第百八代・後水尾上皇の勅願により、仏頂国師(一絲文守、いっしぶんしゅ)上人を開山として創建されました。
また、当初は、霊源庵(れいげんあん)と呼ばれていましたが、寛文六年(1666)に上皇より「清凉山霊源寺」という勅額を贈られ、現在の山号、寺名に改められました。
さらに寛文十一年(1671)には、御所・清涼殿の用材を賜って、仏殿が建立されたと伝えられ、その後も、第百十二代・霊元上皇の勅願所となるなど朝廷の厚い崇敬を受けました。仏殿には、本尊釈迦如来像をはじめ、後水尾上皇、開山・仏頂国師像などを安置しています。山門を入ると、ツツジが多く植えられた小さな庭園があり、左奥の瓦筋塀にある木戸から本堂の前庭に入るようになっています。


また、開山仏頂国師(一絲文守、いっしぶんしゅ)が、江戸時代初期の公家で、岩倉家の祖となった岩倉具堯(いわくらともたか ?〜1633 村上源氏久我家の出身)の子だった関係から、霊源寺は岩倉家の菩提寺ともなり、幕末には、和宮降嫁問題で排斥された岩倉具視が潜伏した寺院としても知られます。



さて、岩倉具視(1825〜83)は、文政八年(1825)九月十五日、公家・堀河康親(後に従二位権中納言)の次男として京都に生まれ、天保九年(1838)八月に下級公家・岩倉具慶の養子となりました。その後、第百二十一代・孝明天皇の侍従となり、安政五年(1858)に、日米修好通商条約を締結した幕府が条約勅許を朝廷に求めると、岩倉は、反対派公卿を結集してこれに強く反対しました。
安政七年(1860)年の井伊直弼の暗殺後は、公武合体を唱え、和宮降嫁の進言者として活躍しましたが、これらの行動が、尊王攘夷派の志士から佐幕派とみなされ、朝廷内の三条実美ら尊王攘夷派公卿からも排斥されることになりました。

尊攘派の圧力で、文久二年(1862)七月、岩倉は孝明天皇の近習を辞職しますが、岩倉排斥の動きは止みませんでした。孝明天皇の信頼も失った岩倉は、八月二十日に蟄居処分となり、さらに、辞官と出家を強制されます。出家した後は、九月半ばに岩倉家菩提寺・霊源寺から西芳寺に移り、十月初旬に洛中からの追放令を受けて洛北岩倉村に隠棲しました。そして、慶応三年(1887)までの約五年間、岩倉村で隠棲しながら諸藩の志士と交流し明治維新の原動力となりました。
現在、霊源寺の山門前には、岩倉具視の旧跡を示す石標があり、境内には、具視の歯牙(しが)塚もあります。


また、平成十年(1998)に、江戸時代に池があったという庭に、建築家の山口隆氏設計による庫裏「透静庵/ Glass Templ」が」が建てられました。
この庫裡は、庭から地下に続く階段の下にあり、天井がガラス張り、全面が白壁というアート空間で、当時内外の建築界で話題になり、平成十三年(2001)には「ベネディクタス国際建築賞」の大賞を受賞しました。当時、数日間のみ特別一般公開されましたが、それを最後に一般公開は行われていません。

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京都市北区の大徳寺の周辺の紫野(むらさきの)や北西の紫竹(しちく)は、源義経やその母・常盤御前ゆかりの史跡が多いことで知られる地域です。これは、平安時代末期に源氏の棟梁・源義朝の別邸がこの地にあり、常盤御前が住んでいたという伝承によります。

これまで、ブログに、「牛若丸誕生井」&「胞衣(えな)塚」(共に京都市北区紫竹牛若町)、「源義経産湯ノ遺址」(京都市北区紫竹牛若町)、常盤御前の守り本尊と伝わる「腹帯地蔵」を祀る「光念寺」(京都市北区紫野上野町)」、常盤御前が牛若丸の安産祈願をしたと伝わる「常盤地蔵」を安置する「常徳寺」(京都市北区紫竹東栗栖町)といった史跡を掲載してきましたが、今回は、大徳寺の南側にある義経ゆかりの小さな史跡です。


市バスの大徳寺前停留所で下車し、そのまま南へ進むと、雲林院(ブログ掲載)を過ぎた先に(北大路通から三筋目)右手(西)に、少しカーブした建勲北中通りという小さな通りがあります。この建勲北中通りが大きくカーブする直前の右手の民家の前にあるのが、「常槃井」です。(京都市北区紫野下築山町)
「常槃井」は、「常盤化粧井」とも呼ばれ、常盤御前が化粧に用いた井戸といわれています。現在は、井戸は涸れていますが、「常槃井」と記した石碑の文字が僅かに読めます。


また、「常槃井」の横から民家の間の細い路地を入っていくと、瓦礫が積み上げられた丸い塚があります・・これが、「衣掛塚(ころもかけづか)」です。
常盤御前の着物が掛けられたという伝承から「衣掛塚」また「鏡塚」とも呼ばれますが、現在、周囲は廃材置き場のような少し不気味な雰囲気で、「築山之墓地」と刻まれた石標や五輪塔の残欠と思われる石が無造作に置かれています。

さて、江戸時代の文化年間(1804〜17)に行われた天皇陵調査では、この塚は、後朱雀天皇・堀河天皇・二条天皇の三人の天皇陵の内の一つではないかと考えられていましたが、どの天皇陵とするかは決定できなかったようです。この時の調査をまとめた『文化山陵図』にもこの塚は描かれていて、当時、塚は田畑の中にあって、盛り上がった墳丘の周りには水のある溝があったことがわかります。現在の無残な姿からは想像できませんが、江戸時代には、遠くからも目立ち、天皇陵の候補になりうるそれなりの雰囲気があったのでしょう。

そして、その後、何度か行われた天皇陵調査では、この塚は候補にも挙げられずに忘れ去られていったようです。天皇陵はともかく、歴史ある塚の遺構であることは確かで、この地は、平安時代の葬送地として知られる蓮台野に当ることから、当時の貴重な遺構の可能性もあるということです。

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京都市北区紫野(むらさきの)には、三つの皇室関係者の火葬塚がありますが、今回は紫野花ノ坊町にある近衛天皇火葬塚を採り上げました。
平安時代末期の第七十六代・近衛天皇については、以前にその陵墓「近衛天皇安楽寿院南陵(あんらくじゅいんみなみのみささぎ 伏見区竹田浄菩提院町)」を採り上げた際に、書いていますので、今回は火葬塚に関係のあることを中心に書いてみます。


さて、近衛天皇は、鳥羽上皇の第九皇子で、異母兄には第七十五代・崇徳天皇、第七十七代・後白河天皇がいます。保延五年(1139)五月、体仁新王(なりひとしんのう 後の近衛天皇)が誕生すると、鳥羽上皇は、母親が寵愛する皇后・美福門院(藤原得子(ふじわらのなりこ)ということもあり、嫌っていた子の崇徳天皇(鳥羽が子の崇徳を、自身の祖父・白河上皇の子と疑い、叔父子と呼んだという話は良く知られます。)に迫って譲位させて、僅か2歳の体仁親王を天皇に即位させました。これが近衛天皇です。もちろん実際の政治は父の鳥羽が院政をしいて行いました。


こうして、永治元年十二月に二歳で即位した近衛天皇ですが、生来病弱だったようで、康治二年(1143)五月に疱瘡に罹って以来、天養元年(1144)八月、仁平ニ年(1152)七月、仁平三年(1153)五月としばしば病気になっています。特に仁平三年(1153)夏頃からは眼病を患って視力を失い、八月には、宮中や寺院で病気平癒の祈祷が繰り返し行われています。
その後、久寿二年(1155)六月七日に重病となり、父の鳥羽上皇や母の美福門院が連日のように病気平癒の祈祷を行うも効果なく、七月十八日には容態が悪化し、七月二十三日に十七歳で崩御しました。
同二十七日、先帝を近衛院と号し葬儀の日時が決定され、八月一日、船岡山の西野で火葬にされました。
現在の近衛天皇火葬塚はこの記録から、船岡山の西(頂上から約三百メートル西)に地定されています。そして遺骨は知足院(ちそくいん)本堂に安置されました。



この知足院という寺院は、当時、紫野船岡山付近にあった大寺院でした。(前に北区紫竹東栗栖町にある常徳寺を取り上げた時にも登場しましたが、常徳寺は、知足院の跡地一部に創建されたと伝えられます。)
現在、この地域の大寺院といえば、すぐ大徳寺を思い出すのですが、大徳寺創建以前の平安時代には、知足院や雲林院(前にブログに採り上げました。)の広大な寺域がこの地にあって、清少納言の枕草子にもその名が登場します。
また、知足院は、平安時代末期の関白・藤原忠実の邸宅となり、忠実は「知足院殿」と呼ばれていました。知足院が近衛天皇の墓所となったのは、その保護者でもあった忠実との深い関係があったのでしょう(近衛帝の中宮・藤原呈子(ふじわらのていし)は美福門院や忠実の養女となり、また帝の皇后・藤原多子(ふじわらのまさるこ)も忠実の子・藤原頼長の養女という関係でした。)


さて、近衛帝の父・鳥羽上皇は、保延五年(1139)、鳥羽離宮(鳥羽殿)東殿の御堂・安楽寿院(あんらくじゅいん)に三重塔(本御塔 ほんみとう)を、さらに続いて新御塔(しんみとう)を造営していました。そして、保元元年(1156)七月二日に上皇が安楽寿院で亡くなると、遺言に従って本御塔に埋葬されました。一方、新御塔の方は、鳥羽の寵愛する皇后・美福門院の墓所に予定されていましたが、永暦元年(1160)十一月二十三日に美福門院が亡くなると、その遺言によって遺骨は、同年十二月二日、高野山に埋葬されました。これは晩年の女院が自身の領地のある高野山・金剛峰寺に深く帰依していたためでした。
そこで、息子の近衛天皇の遺骨が知足院から改葬されることになり、長寛元年(1163)十一月二十八日、近衛帝の遺骨は知足院本堂から、鳥羽東殿の美福門院御塔(新御塔)に移されました。


尚、この鳥羽東殿の新御塔は、室町末期まで残ったと伝えられますが、慶長元年(1596)の慶長伏見地震で倒壊し、現在の「近衛天皇安楽寿院南陵(あんらくじゅいんみなみのみささぎ 伏見区竹田浄菩提院町)」多宝塔は、慶長十一年(1606)、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として再建したものということです。

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前回に続いて、衣笠の皇室史跡として、北区衣笠西馬場町にある「白河天皇火葬塚」です。
この火葬塚は、観光客が途絶えない金閣寺から僅か百五十メートル程、南にあるのですが、もちろん天皇史跡に興味のある人しか訪れません。また、この塚の南側は金閣小学校に接していて、学校校舎の影で少し居心地の悪そうな空き地という印象です。

(以前に、白河天皇の陵墓「白河天皇成菩提院陵 (伏見区竹田浄菩提院町)」については、少し書いていますが、やや物足りない内容で、白河天皇についても簡単に触れただけでした。
白河帝といえば、二十歳で即位して在位十五年で子の堀河帝に譲位、その後も堀河、鳥羽、崇徳天皇の三代にわたって四十三年間の院政を行ったことで知られる重要な天皇です。機会があれば、もう少し詳しく書きたいと思いますが、今回はやはり、「一条天皇・三条天皇火葬塚」と同じく、火葬塚に関係することのみにしたいと思います。)


さて、平安時代末期の大治四年(1129)、七月六日、白河法皇は、侍臣に愛馬を賜わったり、二条東洞院殿に御幸して、尾張守藤原顕盛らが造らせて献上した丈六(約五メートル)の愛染王像三体、等身大の愛染王像二十体、さらに小塔を供養したりしていました。仏教を深く信仰する白河法皇らしい普段と変わらない一日のはずでした。
しかし、院御所の三条烏丸西殿に還御したその夜、法皇は急に苦しみ始めました。夜から翌日まで激しい吐き気や下痢が続き、霍乱(かくらん 急性腸カタル)と思われました。直ぐに仁和寺第四世門跡で、法皇の第四皇子・覚法法親王が呼ばれ病気平癒の祈祷が行われましたが、効果はありませんでした。そして、翌日八日の朝(午前十時頃)、白河法皇は、七十七歳で崩御しました。
即日遺骸を入棺し、葬儀の段取りが決定され、十五日に現在の火葬塚のある衣笠付近で火葬にされ、十六日に遺骨は香隆寺に安置されました。


元々、白河法皇は、天永二年(1111)、鳥羽離宮に自らの墓所として三重塔(鳥羽塔)を建立していて、遺言でその地への埋葬を指示しました。しかし、崩御の時点では、塔に付属する遺骨を納める御堂である成菩提院(じょうぼだいいん)はまだ完成していなかったので、香隆寺に一旦遺骨が納められたのでした。

この香隆寺という寺院は、平安時代中期に創建された真言宗の寺院でした。
この時代は、有名寺院の境内やその付近に陵墓が多く造られましたが、香隆寺も由緒ある寺院だったようで、白河・堀河・二条の各天皇の遺骨が納められたという記録があります・・・嘉承二年(1107)七月十九日、白河法皇の第二皇子・堀河天皇が崩御した際も、七月二十四日に香隆寺の付近で火葬され、遺骨は香隆寺に一旦納められ、永久元年(1113)三月二十二日、堀河天皇の遺骨は仁和寺円融院に改葬されています。また、永万元年(1165)七月二十八日に、後白河法皇の第一皇子・二条天皇が崩御した際も、翌日に入棺、八月七日に、香隆寺の野で火葬され香隆寺本堂に遺骨が納められています。さらに、嘉応二年五月十七日に二条天皇の遺骨は、香隆寺本堂から境内に造営された三昧堂に改葬されました。

このように、皇室ゆかりの由緒ある香隆寺ですが、中世(鎌倉)以降に廃絶して、その正確な位置は不明となりました。現在の京都市北区の衣笠山から船岡山一帯と諸説ありましたが、明治二十二年(1889)に、その跡地を推定して、二条天皇の陵墓「二条天皇香隆寺陵(にじょうてんのうこうりゅうじのみささぎ)」が造られています(上京区平野八丁柳町)

さて、天承元年(1131)七月八日に鳥羽離宮に成菩提院が完成すると、直ちに翌九日、三重塔内に白河法皇の遺骨は改葬されています。現在の白河天皇の陵墓「白河天皇成菩提院陵(しらかわてんのうじょうぼだいいんのみささぎ 伏見区竹田浄菩提院町)」はこの三重塔(鳥羽塔)跡地と推定される場所に造られています。

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