京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

金閣寺・大徳寺・鷹峯他

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全11ページ

[10] [11]

[ 前のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

今回は、この秋に特別公開されている芳春院です。


学生時代は、大仙院、龍源院、瑞峯院、高桐院・・大徳寺の塔頭は同じくらい好きだったのに、最近は、高桐院と芳春院が特に気に入っています。
どちらかといえば、少し女性的な雰囲気があって、植えられた花や木々に季節感を感じるからでしょうか。大仙院の枯山水とか季節感がないですから・・。
芳春院の参道も、紅葉が美しく、楓の絨毯のように落ち葉が盛り上がっているのが印象的でした。





さて、芳春院は、前田利家の妻まつ(芳春院)が、玉室宗珀(ぎぉくしつそうはく)を開山として慶長十三年(1608)に創建した前田家の菩提寺です。
創建当時の豪華な霊屋には、芳春院、長男利長の御廟の他に次男利政、3代藩主利常等の墓があるようです。寛政八年(1796)の火事により創建時の建物は焼失しますが、2年後に再建されました。その後、明治の廃仏毀釈により堂宇の大半を失いますが、明治八年(1875)に復興されたようです。





本堂前の広い彼山水の庭園は「花岸庭」と呼ばれ、山間から流れた水の流れが大海となっていくのを表していて、季節の花が彩りを添えます。以前は普段も公開されていたように記憶するのですが、ここで桔梗の花を見たことがあります。桔梗の花が似合う清々しい庭園だと思います。




本堂の裏には、小堀遠州作と伝わる迫力ある彼山水庭園があり、その中心となるのは、京都四閣(他は金閣・銀閣・西本願寺の飛雲閣)の一つ「呑湖閣」です。
楼閣の内部には、玉室宗珀の師、帥春屋和尚の木造や、芳春院を援助した檀家達の位牌が祀られています。
この楼閣の上から眺めると、遥かに比叡山が見え、さらにその向こうの琵琶湖まで想いが及ぶほど見晴らしがよいようです。そこで、琵琶湖を飲むという「呑湖閣」というスケールの大きな名前が付けられたそうです。昔は高い建物が無いので、さぞ眺めが良かったのでしょうね。




大徳寺の塔頭の多くは「面会謝絶」の立て札が大きく目立ち、近づき難い印象を感じるお寺が多いですが、芳春院からは、禅寺の厳しさは感じられず、どこか優しい雰囲気に溢れているように思います。
気持ちが優しくなっていくような端正なお寺です。

開く トラックバック(1)

金閣寺の紅葉

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

金閣寺です。
実は、紅葉の頃の金閣寺は初めてです。


この日、開門直後の永観堂を拝観して、その後は、鷹峯の源光庵と光悦寺にと思ったのですが・・・。
北大路バスターミナルでは、北行きの本数の少ないバス待ちの人が100人以上並んでいます。
やはり、数年間工事のために拝観できなかっただけに、特に源光庵は人気のようです。


源光庵のような小さなお寺に行くには、やはり開門直後に行かないと大変な感じ・・・
そこで急遽、頭を切り替え、金閣寺へ・・金閣寺は、大きいので観光客の多さは気になりません。
京都に住んでいると、見慣れてしまっている金閣寺ですが、久しぶりに修学旅行気分が味わえた感じです。



永観堂、その他の場所の紅葉もご期待ください。

開く トラックバック(1)

光悦寺

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

さて、光悦寺は、鷹峯(たかがみね)を代表する観光地です。

私は大学時代に少なくとも2度は来ています。
夏場に来た時は今ひとつの印象で、秋は紅葉が素晴らしかったのですが、観光客が多くて少し落ち着かない感じでした。今回は、どうでしょうか?




光悦寺の周辺一帯は、元和元年(1615)に、徳川家康が本阿弥光悦に与えた本阿弥家の屋敷跡になります。光悦は、ここに一族縁者や工芸職人らを集めて、一種の工芸集落・芸術村を作りました。
茶屋四郎次郎、紙屋宗二、尾形宗柏、土田宗沢、筆屋妙喜等多くの人が集まってきました。



元々、本阿弥家は、代々刀剣鑑定や研磨等を家業として、御所や将軍家、諸大名の御用を務めていましたが、光悦は家業を継ぎながら、鷹峯の工芸集落で、陶芸、書道・絵画制作、蒔絵、茶の湯等多彩な才能を発揮したことは良く知られます。
彼は、総合プロデューサー的な才能があったようで、今でも斬新に感じる大胆なデザインの作品が、職人達との協力の下この地で生み出されました。




さて、光悦は、この地に先祖供養のために位牌堂を設けましたが、それが、光悦の死後、日蓮宗光悦寺となって今日に至ります。

光悦寺の境内には、大虚庵、本阿弥庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵、綺友庵、騎牛庵などの七つの茶室が広く散在していて、特に、大虚庵は、光悦が晩年に過ごし亡くなった場所で、現在の建物は大正4年(1915)の再建ですが、光悦垣(臥牛垣)と呼ばれる竹の垣根が有名で、紅葉寺には最も人気のある撮影スポットとして有名です。


この光悦垣は、菱形に交差した竹組みが、庵の入り口から徐々に弓形にカーブしながら高さを変えていく独特のものでたいへん優美なものです。
その他、境内には光悦の墓、本阿弥一族の墓、京都所司代で家康との間を斡旋した板倉勝重の墓があります。(写真は光悦の墓です)




訪問したのは4時半頃で、拝観者は私だけでした。

このお寺は、拝観入り口横に、本堂がある以外は、お寺らしい雰囲気は感じられません。
拝観者は、木々に囲まれた雰囲気のある庭に点在する7つの茶室を周回することになります。
お茶席に関心が無いと、今ひとつ興味を惹かれないかもしれません。
ただ、紅葉シーズンは、光悦垣の周辺は特に美しくて絵になります。境内では少しだけ色付いた楓があり、紅葉シーズンが楽しみです。



前にも感じたのですが、巡拝路は狭い箇所があり、観光客が多いと歩きづらいという気がします。
お寺の本堂に上がることは出来ませんので、庭園内を巡廻することになりますが、所々に休憩台が置かれていますが、紅葉シーズンはまず人がいっぱいで座れません。座って寛げないと、なんとなく早く出なければいけないような感じになってきます。



美しい紅葉は有りませんが、夏は閑散としていて寛げます。
時間があればずっと座っていられそうでした。ただ、ここの本当の魅力は紅葉シーズンに発揮されることは確かで、秋には一度はご覧になっていただきたいです。

イメージ 1

イメージ 2

京都が、ヨーロッパやアジアの都市のように城壁で囲まれていたというと不思議な感じもしますが、
かってそういう時代が短期間ありました。
この城壁=土塁は「御土居(お土居=おどい)」と言われ、現在一部が残存し、国指定の史跡になっています。



天下統一を達成した豊臣秀吉は、天正十九年(1591)突然、当時の京都市街の周囲をぐるっと土塁と堀で囲み、町を完全に封鎖しました。秀吉は、戦乱で荒れ果てた京都の都市改造を行い、外敵の来襲に備えて京都の防衛のため、土塁と堀を築いたのですが、また、一部の箇所は鴨川の氾濫から市街地を守る堤防の役割もあったようです。



さて、この城壁は、石垣を積み上げたものではありませんが、土を台形型に高く盛って踏み固めたもので、堀とセットになっているため侵入することなど出来ません。
土塁の高さは3m以上、基底部の幅は9m以上、堀は幅4〜18mで掘られ、その総延長は22.5キロメートルに及びました。
東は鴨川、北は鷹ケ峯、西は紙屋川(北野天満宮の横の川)南は九条あたりに沿って築かれました。




簡単にいえば、東西は、鴨川(賀茂川)〜北野天満宮。南北は、上賀茂神社の南方(賀茂川中学)〜東寺までの上下に長い長方形のような地域が完全閉鎖されたのです。


そして、この封鎖されたの内側の市街地を洛中(その中央辺りには、聚楽第が有りました。)外側を洛外と呼び、要所にはいわゆる七口を設け、西北に長坂口、西南に丹波口、南に東寺口、北西に鞍馬口、東に大原口、粟田口、東南に伏見口という七口を設け、洛外との出入り口としました。
(鞍馬口、丹波口などの地名は名残として現在も使われています。)
ヨーロッパやアジアの城郭都市そのままのような感じですね。



さて、もし東から京都市内に入ろうとすると、現在の鴨川の西、河原町通に沿って3メートル以上の土塁が南は東寺の付近まで続いていました。土塁は高さ5m、幅20m、その後ろに幅20mの堀が有る箇所もあり、幅40mもの障害物が京都を完全封鎖していたことを想像すると、凄い光景だったと思います。




この城壁はその後、どうなったかと言うと、江戸時代に入り、外敵の脅威もなく土塁や堀は次第に無用の存在となり、また市街地が洛外に広がるにつれて次々と取り壊され、北側周辺を中心に僅かに残るのみとなります。


昭和5年(1930)に、市内に残る土塁=「御土居」の内8箇所が、近世の都市発達の重要な遺跡として史跡に指定、昭和40年(1965)にさらに1箇所(北野天満宮境内)が追加され、現在9箇所が指定地となっています。


京都市北区上長目町・堀川町(上賀茂神社の南西にある加茂川中学校の北西)
   北区平野鳥居前町(北野天満宮の北)
   北区紫野西土居町(北野天満宮の北)
   上京区馬喰町(北野天満宮敷地内)
   北区旧土居町2(鷹峯のしょうざん北東付近)
   北区旧土居町3(鷹峯の仏教大学の北公園内)
   北区大宮土居町(鷹峯、玄琢下の招善寺横)
   上京区寺町広小路上る北之辺町(盧山寺境内)
   中京区西ノ京原町(西大路御池交差点北東、市五郎大明神境内)



さて、これらの「御土居」の中で、北野天満宮の梅林に残っている部分が最も有名ですが、他にも鷹峯や大宮周辺に森のような「御土居」が残っています。
今回の写真は、北区大宮土居町(鷹峯、玄琢下の招善寺横)のもので、非常に長い範囲で残っていて迫力があります。(少し写真ではわかりにくいですが、土塁の高さがすごいです。写真1のように奥に連なっています。)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

上賀茂歩きも、吉田山散歩も途中ですが、少し気分を変えて、別の史跡です。


先日、嵯峨野の清涼寺を訪問した際、源融(みなもとのとおる)の墓といわれる宝篋印塔を見ました。
平安時代初期の嵯峨天皇の子で、百人一首でも知られる歌人、河原左大臣とも呼ばれた人物です。彼のお墓が清涼寺にあるのは、この辺りが彼の別邸だったからです。
源融は、美男子として有名で、源氏物語の主人公光源氏のモデルとも言われています。
(そのためか、清涼寺の源融のお墓の隣には「恋の木」という光源氏の恋愛パワーが我々の恋を成就させてくれるという木があります。)


光源氏か・・そういえば、どこかに紫式部の墓もあったはずと思い出しました。
学生時代の史跡探訪サークルで行ったことがあったような・・。そこで、すぐに探しに行きました。



お墓の場所は、有名な大徳寺から北大路通を東へ約500メートルの北大路堀川の交差点付近。
広い堀川通の西側を南へ50メートル程歩き出すと、一見見過ごしてしまいそうな小道の入り口が有り、紫式部と小野篁(おののたかむら)の墓所という石碑が有ります。
知らない人は、気付かない程度のささやかな場所です。


この小道に入っていくと、四角いスペーズに2つのお墓が並んで有ります。
この辺りは、平安時代から、蓮台野(れんだいの)と呼ばれる墓地が有った地域でした。
紫式部も、小野篁(小野妹子の子孫で、小野小町の祖父ともいわれる歌人として有名ですね)もこの辺りにお墓があったのは確かなようです。
現在のお墓に、本当に2人が葬られているのかはわかりませんが、14世紀の『河海抄』という書物には、既に二人の墓と書かれているので、かなり昔から墓として伝わっているようです。



お寺内の墓地等でなくて、こんな場所にお墓が有るのも珍しいですが、交通量の多い堀川通から、10メートル程入っただけなのに、ひっそりとした雰囲気です。
小さなスペースはきれいに整備されていて、来訪者の名前を記帳するノートや、紫式部の生涯を書いた無料のプリントが置いてあります。


観光客の多い寺院を巡って来た後のためか、この小さな静かな場所を大切にしたいと思いました。

(写真は、清涼寺の源融の墓、北大路堀川にある紫式部と小野篁の墓)

開く トラックバック(1)

全11ページ

[10] [11]

[ 前のページ ]


.
hir**i1600
hir**i1600
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事