京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

金閣寺・大徳寺・鷹峯他

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今回は、京都市北区衣笠地域にある「一条天皇・三条天皇火葬塚」です。
衣笠地域には二つの火葬塚(一条天皇・三条天皇火葬塚&白河天皇火葬塚)がありますが、地理的にはかなり離れているので、個別に書いてみます。


さて、前回の「三条天皇北山陵(さんじょうてんのうきたやまのみささぎ)」から、鏡石通を北上すること約五百メートル、北区衣笠鏡石町にあるのが、「一条天皇・三条天皇火葬塚」です。
この地は、平安時代の第六十六代一条天皇と、従兄に当る第六十七代三条天皇が火葬されたとされる場所で、京都の天皇火葬塚の中では最も大きな火葬塚の一つになります。この火葬塚の南側は、鏡石公園という小さな公園に接していて、そこから塚内の森を見上げると、火葬塚というより陵墓のような印象もあります。


前回、北山陵を採り上げた際に、三条天皇の生涯について書きました。また、一条天皇の生涯についても、今後、その陵墓を取り上げる際に書くこととして、今回は簡単に火葬塚に関係する点のみを書いてみます。

平安時代の寛弘八年(1011)、一条天皇は重病となって、同年六月十三日に一条院で居貞親王(おきさだしんのう 三条天皇)に譲位して出家しますが、間もなく二十二日に、三十二歳で崩御しました。遺体は、山城葛野郡北山長坂野(岩陰)の地で火葬にされ、七月九日、遺骨は東山の椿ヶ峰の麓にあった円成寺に安置され、正式に二十日に埋葬されました。この円成寺という寺院は、その後廃寺となってしまいますが、、現在、哲学の道(左京区)の傍にある大豊神社(駒ネズミで知られます)はその鎮守社だったと伝えられます。

藤原実資(前回の三条天皇陵の時にも出てきましたが)の日記「小右記」によると、当時大納言だった実資は、この頃、宮中で権中納言・藤原頼通から、「亡き天皇(一条天皇)は、生前に、自分が死んだら土葬にして、父の円融法皇(円融天皇)の御陵付近に埋めて欲しいと、左大臣(頼道の父の藤原道長)や周りの人々にお話されていましたが、皆そのことを忘れてしまっていて、今になって左大臣は思い出されて、歎息されておられました。」と告げられます。
そこで実資は、一条帝の御遺骨は、方忌を避けるため、とりあえず円成寺に奉安して、三年を過ぎて、方位神の金星(太白)の精の大将軍が西方に位置したら、円融法皇の陵の付近に移すべきだと提案しました。そして、結局、九年後の寛仁四年(1020)六月、一条天皇の御骨は、道長によって円融天皇ゆかりの円融寺の北(竜安寺の北にある円融寺北陵)移されました。

尚、この円融寺という寺院は、石庭で有名な竜安寺(京都市右京区)の前身ともいうべき寺院で、永観元年(983)に創建された円融天皇の勅願寺でした。円融天皇は、翌永観二年(984)に退位した後、寛和元年(985)に出家してこの円融寺を住居としました。そして、正暦二年(991)に円融寺で死去し、円融寺の北原で火葬されました。(竜安寺の裏山に円融天皇火葬塚があります)その遺骨は、父の村上天皇の村上陵の傍らに葬られたと伝えられます。(円融天皇後村上陵はブログに掲載しています)

その後、前回に登場した三条天皇も、一条帝と同じ地で火葬されたと伝えられます・・三条帝は、寛仁元年(1017)四月二十九日に出家し、五月九日に四十二歳で崩御しました。そして、五月十二日に山城葛野郡北山岩陰で火葬され同地の北山陵に埋葬されました。一条天皇と違って、そのまま北山の地に陵墓が造られたようです。

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北区衣笠西尊上院町、五山の送り火で知られる「左大文字」の山裾の閑静な住宅街の中にあるのが、第六十七代・三条天皇の陵墓、「三条天皇北山陵(さんじょうてんのうきたやまのみささぎ)」です。
この衣笠地域の山沿いの一角は、京都の高級住宅地の一つに数えられていて、大きな住宅に囲まれた三条天皇陵は、周囲の静かな雰囲気にマッチして、街中の天皇陵の中ではかなり良い環境にあるように感じます。(ただ、区画された住宅地のため、道路に直面し参道が無いに等しいという欠点はありますが)



さて、第六十七代・三条天皇(在位1011〜1016)は、天延四年(976)、第六十三代・冷泉天皇の第二皇子として生まれ、名を居貞(おきさだ)といいました。母は、太政大臣・藤原兼家の長女・藤原超子(ふじわらのちょうし とおこ)で、また異母兄として花山天皇がいます。

永観二年(984)に即位した第六十五代・花山天皇は、摂政だった外祖父・藤原伊尹(ふじわらのこれただ、これまさ)が、天禄三年(972)に亡くなった後は、有力な後ろ楯を失っていたために、寛和ニ年(986)、在位二年で伊尹の弟、藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の陰謀によって出家させられ退位させられました。兼家は、早速、自身の外孫・懐仁親王(やすひとしんのう 母は藤原兼家の娘・:藤原詮子)を即位させます。これが第六十六代一条天皇です。

一方、居貞親王(後の三条天皇)は、異母兄・花山天皇とは対照的に、母超子が兼家の娘ということもあって、天元五年(982)、七歳で母を失った後も、外祖父・兼家の寵愛を受けて育ちました。
そして、寛和ニ年(986)、従兄弟の一条天皇が即位した際に、兼家の後押しで元服して、一条帝より四歳年上の十一歳で皇太子となりました。歴史物語「大鏡」は、地震や雷など異変が起こった際、兼家は、「お前たち(子の道隆・道兼・道長ら)は、帝(一条天皇)の元へ参上せよ。私は皇太子(居貞親王)の元にお伺いするから」と、居貞親王を気遣っていた様子を記しています。しかし、永祚二年(990)に、兼家が亡くなった後は、その一門とは疎遠な関係になっていったようです。

その後、居貞親王は、正暦ニ年(991)に、藤原娍子(ふじわらのせいし すけこ 藤原済時の娘)を妃に迎え、二人の間には、敦明親王(あつあきらしんのう 小一条院)をはじめ四男ニ女が生まれています。また、藤原道長も、これまで疎遠だった居貞親王との繋がりを強めるために、寛弘七年(1010)に次女の藤原妍子(ふじわらのけんし きよこ)を入内させています。(同九年(1012)に中宮に冊立)



さて、関白藤原兼家の死後、その子、道隆・道兼・道長三兄弟が外戚としてそれぞれ一条天皇を二十五年という長期にわたって支えていたために、寛弘八年(1011)一条帝が病気のため退位し、ようやく居貞親王(三条天皇)に即位の順番が回って来た時には、親王は当時としては高齢の三十六歳になっていました。幼少で即位し藤原氏の傀儡として育った多くの天皇とは違って、熟年になって即位した三条帝は親政を望んでいたようです。

しかし、三条天皇にとって不幸だったのは、時代が藤原道長の全盛期だったことでした。道長は、長女の中宮藤原彰子(ふじわらのあきこ しょうし 上東門院)が一条天皇との間に、敦成親王(あつひらしんおう 後の後一条天皇)、敦良親王(あつよししんのう 後の後朱雀天皇)を生んでいて、これら若い皇子を擁立することで、次世代にも揺ぎ無い権力を握ることが確実となっていました。道長は早速、三条帝即位にともなって、皇太子として敦成親王(後一条天皇)を定めました。

翌長和元年(1012)、三条天皇は、皇太子時代から寵愛してきた娍子を皇后に立てたいと願います。道長はこれに賛同する態度をとって天皇を安心させながら、立后の儀式当日になって中宮妍子の元へ参内するとして儀式に出席せず、宮中の公卿達も皆、道長に従って中宮殿の東三条第へ行ってしまいました。天皇は儀式への出席を求めて東三条第へ使いを送りますが、集まっていた公卿達は勅命を無視する態度をとる始末でした。

わずかに道長の威光に逆らって立后の儀式に参加したのは、反道長派と思われていた公卿たち・・娍子の弟・藤原通任(ふじわらのみちとう)、道長と権力争いをしたことで知られる藤原伊周(これちか)の弟・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)、そして、藤原懐平(ふじわらのかねひら)・藤原実資(ふじわらのさねすけ)兄弟に過ぎませんでした。また、上記したように、道長は娘の妍子を三条帝の中宮に立て皇子の誕生を期待していましたが、残念ながら長和二年(1013)に生まれたのは皇女(禎子内親王)で、道長は大変失望しました。こうして、道長にとって三条天皇は無用な存在となっていきます。

三条帝の意向を無視する道長の妨害工作が続き、孤立感を深めた三条天皇が、頼りにしたのは、前記の立后騒動など宮中の出来事を現在に伝える貴重な同時代資料、日記「小右記」の著者として知られる藤原実資(ふじわらのさねすけ 小野宮実資  藤原北家の藤原斉敏の子で、祖父実頼の養子)でした。藤原実資は、道長の批判者として、その傲慢ぶりを日記に記したことで知られますが、学問に秀でた正義感の強い剛直な人物でした。実資は病身にもかかわらず、娍子立后の儀式に駆けつけて、三条帝から感謝されます。実資は、飛ぶ鳥を落とす勢いの道長に対して直接対抗する愚を犯さず、是々非々の正論を唱えることで、その野望を牽制しました。



しかし、道長の圧力に加え、三条天皇には生来眼病があり、長和三年(1014)頃より病状が悪化します。病気平癒の祈祷を繰り返しますが効果は無く、さらに、長和四年(1015)十一月には、新造されたばかりの内裏が炎上する事件が起こり、三条帝は道長の枇杷殿を里御所とします。道長は、事あるごとに帝に退位を勧めて圧力をかけ、ついに、長和五年(1016)正月、三条帝は、在位六年にして、道長の勧めを聞き入れて退位を決意せざるを得ませんでした。そして、退位の条件として、娍子との間に生まれた第一皇子・敦明親王を、敦成親王(後一条天皇)の皇太子にすることを道長に認めさせた後、退位しました・・・「小右記」によると、道長は三条天皇の御前で、後一条天皇即位の時には、敦良親王(あつながしんのう 後の後朱雀天皇)を皇太子にする意志のあることを明言したということですが、当然ながら、三条天皇は自身の子・敦明親王(あつあきらしんのう)を皇太子にするとして譲りませんでした。結局、道長は妥協して、三条帝の退位を条件に敦明親王を立太子せざるを得なかったのでした。

「大鏡」は、退位後に三条天皇が完全に失明したと記していて、三条上皇は、外見は普通の人と変わらない綺麗な澄んだ目をしていて、眼が見えないというのが嘘のような様子だったということです。また、時々は見えることもあって、御座所の簾の編み糸がはっきりと見えると語ったり、寵愛する娘の禎子内親王が参内した時には、その乳母の櫛の刺し方を注意したりしています。さらに、幼い禎子の美しい髪を撫でながら、この美しい髪を見られないとはと何とも悔しいと、声をあげて泣いたと記しています。

また、同じく「大鏡」は、上皇の目が見えなくなった理由について、以前から病気のために服用していた万病に効くという秘薬・金液丹の副作用のためだとか、桓算供奉(かんざんくぶ)の祟りのためとも噂されたことを記しています。桓算というのは、醍醐天皇の時代の比叡山の僧で、宮中内の道場に奉仕していましたが、僧位のことで恨みをもって憤死し、以来代々の天皇に祟っていると考えられた怨霊で、そのモデルは、村上天皇の時代の天台僧の賀静(がしょう、887〜967)ともいわれています。賀静は、康保四年(967)期待していた天台座主になれなかった衝撃から病没したと伝えられる人物で、死後には怨霊になったと考えられていました。

また、前に冷泉天皇陵の時に書きましたが、当時の人々は、藤原元方(888〜953)も怨霊として三条帝を苦しめたと考えました。元方は、大臣職を歴任する藤原北家の後塵を拝してきた南家の出身でしたが、村上天皇に嫁いだ娘(祐姫)が生んだ第一皇子(広平親王)が皇太子となれば、外祖父として権勢を握ることが出来るはずでした。しかし、北家の右大臣・藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の娘、中宮・藤原安子が生んだ皇子(憲平親王)が立太子され、元方は天暦七年(953)に無念の思いを抱いて世を恨みながら病死したと伝えられ、また、皇太子になれなかった広平親王も、天禄二年(971)に二十二歳で亡くなりました。その後、冷泉天皇が精神に異常をきたし、その子・花山天皇と三条天皇が病気に苦しんだのも、元方や広平親王の怨霊が祟ったのだと噂されました。三条帝の信頼厚かった藤原実資も日記「小右記」の中で、三条帝の眼病の原因は、賀静と藤原元方の怨霊によるものであると記しています。

三条上皇は、比叡山延暦寺の根本中堂や太秦の広隆寺などで病気平癒の祈願を行いますが、やはり効果はありませんでした。また、十二歳で伊勢の斎宮に選ばれていた娘の当子内親王(とうし 皇后娍子との子)が父帝の譲位で帰京するや、藤原伊周の子・道雅と密通事件を起こして、上皇に勘当され出家するなどの騒動もあり、晩年まで不幸が続いたといえます。そして、寛仁元年(1017)四月末に出家し、五月初めに四十二歳で崩御しました。遺骸は船岡山の西野(岩陰 衣笠鏡石町)で火葬され、同地の北山陵に埋葬されました。

その後、道長は、三条帝との約束を反故にし、皇太子の敦明親王に対して、代々の皇太子(東宮)に伝領されてきた宝剣・壷切の太刀を授けないなど無言の圧力をかけます。道長を憚って敦明親王を訪ねる者も絶え、ついに敦明親王は母娍子の反対を押し切って、自ら皇太子を辞退したいと道長に申し出ました。
事がうまく運んだと喜んだ道長は、敦明親王に報いるために小一条院太上天皇の尊号を贈って准上皇として厚遇し、三女の藤原寛子(ふじわらのかんし ひろこ)を嫁がせました。
尚、この時、敦明親王の先妃・藤原延子(ふじわらのえんし のぶこ 左大臣藤原顕光の娘)は、夫を寛子に奪われて絶望のあまり病気となり、寛仁三年(1019)に非業の死を遂げたとされ、この延子とその父・右大臣藤原顕光も死後に怨霊となって、後に寛子や道長一族に祟り、道長一族の相次ぐ死の原因となったと噂されることになります。

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豊臣秀吉が、主に軍事的防衛と洪水対策を目的として洛中(京都)の周囲に築いた「御土居(おどい)」については、これまでも少し書いてきましたが、今回は、北区鷹峯旧土居町、仏教大学の北に位置し、京都朝鮮第三初級学校の東隣にある「御土居史跡公園」を採り上げます。

一見、木々に覆われた普通の公園のように見えますが、遊具があるわけでもなく、ただ丘上と思われる場所にベンチがずらっと並んでいます。実は、この御土居史跡公園は、国史跡に指定されている「御土居」上に作られた珍しい公園です。柵で囲まれて立ち入り出来ない「御土居」もある中で、「御土居」の上で(ベンチで)横になることもできます。「御土居」の大きさを体感できる場所として「御土居」入門といえるでしょう。


「御土居史跡公園」の表示板を少し引用して書いてみますと・・・
戦国時代、戦乱の続く京都では、住民たちが、「町の溝(かまえ)」や「ちゃう(町)のかこい」と呼ばれた防御壁を築いて町を自衛する態勢がとられていました。また、堺や山科、石山など各地の寺内町や村落でも集落全体を環濠城塞化する動きがありました。「御土居」も、この延長上で築かれましたが、それまでとは違う大規模なもので、秀吉は戦乱で荒れた京都市内を復興し、その近世城下町化を図る意図があったようです。秀吉は聚楽第を設けてその周辺の街区を改め、各地の寺院を寺町と寺の内(共に上京区)に集めました。そしてその周囲に土塁を廻らし、洛中と洛外を明確に分けました。民衆の自治意識の高い京都を支配するために、民衆から自衛権を取り上げ、権力を誇示する目的もあったのでした。

さて、天正十九年(1591)、秀吉が多数の人員を動員して築いた御土居は、東西は寺町東の鴨川付近から紙屋川(かみやがわ)、南北は鷹峯と上賀茂から九条に至る総延長約二十三キロメートルに及ぶ土塁群になります。土塁は底部が約九メートル、高さ約三メートル、また、土塁に付属して堀が設けられ、堀幅は約四〜十八メートルあり、洛中への敵の侵入を遮断し、市内を守る効果が期待されました。また、一般的に「京都の七口」といわれる、洛外への出入口があり、「鞍馬口(くらまぐち)」、「大原口(おおはらぐち)」、「荒神口(こうじんぐち)」、「粟田口(あわたぐち)」、「伏見口(ふしみぐち)」、「東寺口(とうじぐち)」、「丹波口(たんばぐち)」、「長坂口(ながさかぐち)」等十箇所程の出入り口が設けられていて、ここから全国各地に街道が通じていました。

「御土居」は、平安京以来はじめて京都に誕生した羅城でしたが、その後、外敵の脅威は無く、近世には次第に無用のもととなっていきます。江戸中期ごろには、市街地は「御土居」を越えて東に広がり、京都各地で都市化が進みました。しかし、「御土居」は洪水を防ぐ堤防としての役割も果たしていたため、近辺の農民は、土地崩れの防止や竹林の育成など、その保全に努めたようです。
その後、近代になって、明治には周辺の開発によって「御土居」の南から西側にかけて大きく壊され、現在では、北と西側の一部が当時の姿を留めているに過ぎません。



そして、京都の現存する御土居の遺構の内、以下の九箇所が国指定史跡に指定されています。

○北区鷹峯旧土居町三番地(御土居史跡公園)

○北区大宮土居町

○北区紫竹上長目町・上堀川町(加茂川中学校内他)

○北区平野鳥居前町

○北区紫野西土居町

○北区鷹峯旧土居町ニ番地

○上京区寺町広小路上ル北之辺町(廬山寺内)

○上京区馬喰町(北野天満宮境内)

○中京区西ノ京原町(市五郎大明神社境内他)

尚、史跡指定以外では、中京区西ノ京中保町(北野中学校校内)、北区大宮西脇台(大宮交通公園内)等にも御土居が残っています。



さて、御土居史跡公園の辺りは、「御土居」西辺の北端に近く、その底部は幅約10間(十八メートル)、南側が「御土居」に設けられた切通しの中野道になり、西の小道に面して茅葺の入母屋造りの鷹ヶ峯番小屋が設けられ、西へなだらかな斜面となり紙屋川の谷へつながっていました。番小屋は洛外への見張り小屋の役目があったようです。昭和五十六年(1981)に史跡公園として整備された際は、この番小屋の位置に亭が置かれました。近世都市の成立を考える上でも貴重な史跡でもある「御土居」を身近に感じられる憩いの場として、御土居史跡公園は、(何も無い普通の公園とはいえ)歴史ファンにはお勧めの場所です。

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京都市北区衣笠街道町にある法音寺(ほうおんじ)は、京都の夏の一大行事「大文字五山の送り火」の「左大文字」と深い係わりのあるお寺です。
「五山の送り火」では、東山の「大文字送り火」、松ケ崎の「妙・法送り火」、西賀茂の「船形万燈籠送り火」、衣笠の「左大文字送り火」、嵯峨の「鳥居形松明」の五ヶ所六つの送り火行事が行われますが、「鳥居形」を除けば、各山の麓にある寺院の宗教行事が大きく関わっています。


「大文字」は、銀閣寺の隣にある浄土宗寺院の浄土院(大文字寺)が関係しています。
「大文字」送り火の起源が弘法大師空海によるという伝承もあることから、元々天台宗寺院だった浄土院(大文字寺)は、弘法大師像を送り火の本尊として祀っています。門前で護摩木の受け付けを行い、大文字の点火の際は、大の字の中心部の火床「金尾(かなわ)」の傍にある「弘法大師堂」の中で、住職が灯明を灯し読経が行われます。

「妙法」は、日蓮宗寺院、涌泉寺(ゆうせんじ)が深く関係しています。
「妙法」は、「南無妙法蓮華経」という日蓮宗の題目に由来しているように、日蓮宗との関わりの深い送り火で、「妙」のある西山で、点火の際に涌泉寺の住職が読経を行い、さらに送り火の後に涌泉寺境内で京都市の無形民俗文化財に指定されている「題目踊り」と「さし踊り」が行われます。
特に「題目踊」は、日本最古の盆踊りとも呼ばれ、その起源には以下の伝承があります。鎌倉時代末期に日蓮上人の孫弟子・日像上人が松ヶ崎村で布教を行い、この地にあった天台宗寺院・歓喜寺住職の実眼和尚も法華宗に改宗します。そして、徳治二年(1307)、全村民が日蓮宗に帰依したことを喜んだ実眼が、歓喜のあまり太鼓を打ちながら法華題目を唱え、村人も次々と「南無妙法蓮華経」と唱えながら踊ったというのが「題目踊」の始まりと伝えられます。

「船形」は、麓にある浄土宗寺院、西方寺(さいほうじ)が行事を行います。
「船形」は、西方寺開山の慈覚大師円仁が、承和六年(839)、唐からの帰路に暴風雨に遭い、南無阿弥陀仏と名号を唱えたところ無事帰還できたという逸話に由来すると伝えられています。西方寺では護摩木の受け付けを行い、送り火の後は、境内のかがり火を囲んで西方寺六斎念仏保存会による六斎念仏(国の重要無形民俗文化財)が行われます。

尚、愛宕神社との関わりを起源とするという説もある「鳥居形」は、特定寺院との関わりは無いですが、化野念仏寺の駐車場で護摩木の受け付けを行い、当日夜には、地元住民でつくる嵯峨仏徒連盟が「嵐山灯ろう流し」を行います。地元の女性がご詠歌を唱え、僧侶の読経と拍子木を合図に、先祖の戒名などを記した灯篭を桂川に流します。




さて、法音寺ですが、山号を菩提樹山といい、元々は天台宗寺院でしたが、現在は浄土宗西山派に属しています。平安時代に慈覚大師円仁が創建したと伝えられ、当時の史書にはその名がしばしば表されているということです。応仁の乱の兵火で焼失しますが、その後復興し、花山院(花山上皇)の勅願所、西国三十三所霊場の復興所の本山となったと伝えられ、山門横には勅願所を示す石標が立てられています。

法音寺と「左大文字送り火」の関わりですが、「左大文字送り火」の起源は、他の送り火同様に諸説ありますが、江戸時代初期頃、他の送り火よりは遅れて開始されたと考えられています。法音寺は、左大文字の発祥地、旧大北山村の菩提寺でもあったため、寺院を中心とした旧大北山村の人々が代々行事を受け継いできたのでしょう。

護摩木の受け付けは、金閣寺境内で行われていますが、送り火の当日の朝、法音寺本堂で、施餓鬼会(せがきえ)が行われ、灯明の火によって親火台への点火が行われます。そして、夕方には法音寺住職の読経があり、親火から長さ三メートル、直径二十センチもの大松明に火が移されます。大松明の火は、さらに左大文字保存会の会員五十人の手松明に移されます。他の送り火と違う「左大文字送り火」の特徴は、法音寺から約五百メートル離れた大北山(大文字山)まで松明行列が行われることです。

午後七時、大松明を中心にした松明行列が法音寺を出発して火床を目指します。そして、午後八時十五分の点火の際は、「大文字」の一斉点火に対し、「大」の文字の筆順通りに火を付けるというのも特徴です。「大文字」に比べてやや地味と思われている「左大文字」ですが、松明行列もあって、近くで見物しても中々面白い送り火行事といえます。

その後、送り火がほぼ消える午後九時二十分頃からは、法音寺本堂で「大文字御詠歌」奉納と名づけられた行事が行われます。左大文字保存会の手によって大文字の残り火が法音寺へ持ち帰られると、その残り火を本尊に供え、「北山金閣寺不動明王」、「愛宕権現地蔵菩薩」、「鞍馬山魔王」、「千本えんま堂えんま大王」の四仏に、先祖の霊を無事に送り出せるようにと祈り、「北山尼講」と呼ばれる法音寺の檀家女性が炎が消えるまで御詠歌を唱えます。

建勲神社その2

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建勲神社の祭神、織田信長についてです。
もちろん、信長のような日本史上の巨人については、書かなければならない事も多いですが、ここでは簡単に業績について書いてみます。


建勲神社は明治の天皇制下で造られているので、天皇制を守った信長の功績が強調されています。
その業績は、神社由緒を引用しながら書くと以下のようになります・・・

応仁の乱に始まる戦国乱世の時代、日本中に群雄が割拠し、京都の町も度々の兵火によって焼け野原となりました。人心は荒廃、皇室も衰退して正親町天皇の時代にはその極に達していました・・・ここに登場したのが、織田信長公です。
織田信長公は、永禄三年(1560)五月、駿河の戦国大名・今川義元を桶狭間の戦いで破り、天下統一の志をもって立ち上がりました。永禄十一年(1568)十月、正親町天皇の勅命を拝して上洛し、皇居の修理を行い、関所を廃して道路を修復、また市民の税金を免じ貨幣制度を整えて商工の発展を推進するなど荒廃していた京都の復興に尽くしました。また文化面では能や茶の湯、馬術、相撲等を奨励して荒廃していた人心の安定に力を尽くしました。
こうして、信長公は長かった戦国乱世に終止符を打ち、日本を統一して民衆を疲幣絶望から救ったのでした。そして、忘れられていた日本の伝統文化を甦らせ、遠くヨ−ロッパ文明にも着目して東西文化交流を行い、中世の混乱から近代の新時代への幕を開きました。また、信長公は旧来の古い政治社会秩序や、腐敗した宗教等を果敢に打破し、日本国民を天皇崇拝の理念のもとに導きました。

もし、信長公という傑出した英雄が現れず、その卓越した見識と果断な実行力が無かったならば、日本は古い中世から新しい時代へと進むためにはたいへん長い年月を必要としたでしょう。しかし残念な事に信長公の偉業は、天正十年(1582)六月二日未明、本能寺の変により中道にして倒れたのでした・・



さて、織田信長について個人的な感想を書いてみます。
建勲神社の由緒書きが全てを物語っていますが、応仁の乱から約百年という長く混沌とした戦国時代を終わらせて、天下統一により近世の扉を開いた・・・信長の歴史上の役割というのは理解しやすく、世界中の国で同様な英雄達がいると思います。
実際に天下統一に成功した秀吉や三百年間続いた江戸幕府を築いた家康を、信長より評価する見方もあるでしょうが、信長がいなければ、秀吉や家康が天下を獲ることは無かったでしょうし、信長はその苛烈な性格から、本能寺の変が無くてもいずれ失敗したというのは、歴史の後知恵に過ぎません(秀吉時代や江戸時代に、その配下の大名達や御用学者によって語られた信長像は、自分の主君をも持ち上げるために信長の欠点を誇張したものである可能性が高いことに注意しなければならないでしょう。また、本能寺の変の原因として、明智光秀が理不尽な信長に恨みを抱いたという怨恨説は、現在では野望説にとって変わられつつあるようです。)

そして、現在ほど、信長の評価が高かったことは無かったのかもしれません。
例えば、江戸から明治にかけて講談等で大衆の人気を博した戦国の伝説的英雄は、信玄や謙信、山本勘助、秀吉、加藤清正、真田幸村、後藤又兵衞基次といった人物でした。また、宣伝上手の秀吉が多くの面白い伝説を残したのと比べると、信長に関する伝説といったものはほとんど無く、一般民衆には、太閤出世物語に比べると信長はあまり面白味が無かったのかもしれません。ただ、明治以降、信長の評価は非常に高まりました。
その理由としては、明治維新によって、江戸時代の御用学者による「神君家康伝説」が力を失い、それまで家康の脇役として過小評価されていた信長や秀吉の功績が再認識されたためでしょう。
恐らく江戸時代に中国の「戦国七雄」に倣って、「武田信玄、上杉謙信、今川義元、北条氏康、毛利元就、織田信長、豊臣秀吉」を戦国七雄といっていたのが、信長・秀吉・家康を「戦国三大英雄」というようになったのも、神君家康を別格扱いにしていた江戸時代には考えられないことでした。
さらに、信長の評価の高騰ぶりを印象づけるのは、「世界三代美女(クレオパトラ・楊貴妃・小野小町)と同じく、勝手に日本人が考えた「世界三代英雄(カエサル・織田信長・ナポレオン)」でしょう。アレクサンドロス大王やジンギスカン等ならともかく、日本国内を出てもいない信長が世界三大英雄とはさすがに嘘っぽいので、世界三大美女程には知られていないようですが。



特に、信長の評価が現在非常に高いのは、そのリーダーシップ、革新性が注目されているためのようです。例えば、ライバルの信玄や謙信に比べてどれだけ先進性があったか、後継者の秀吉や家康に比べてどれだけ独創性があり海外に対する視野の広さがあったかという観点で論じられているように思います。ただ、資料的には不明な点も多く、あまりその独創性を強調し過ぎるのもどうかとおもいます。

桶狭間の奇襲戦術や長篠の戦いの鉄砲戦術が後世に誇張されたものであることは近年指摘されるところであり、能力主義による人材登用策や楽市楽座令などの自由経済政策も彼の独自性というより、当時すでに一部の戦国大名が行っていたものを、より大規模、積極的に取り入れたものといえるでしょう。もちろん、西洋へ目を向けたのも特に信長だけでは無かったでしょうし、延暦寺焼き討ち等中世権威への対決姿勢は(立場により賛否両論ありますが)、伝統的な権威や価値観に囚われなかった南北朝時代の婆沙羅大名たちや戦国大名の幾人かにも似た点は見受けられそうです。
全体として、信長の独創性といわれる軍事・経済政策等は、信長が畿内という経済先進地帯を大規模に支配下に置いた最初の戦国大名だったために、必然的に行う事になったという側面も多いと思われます。しかし、もちろん、信長がそれをライバルよりも効率的に素早く取り入れること成功したために、他の戦国大名を圧倒する経済力やマンパワーを得ることが出来たわけで、無能な武将ならすぐに滅亡していたと思います。

この時代には、領国経営能力が勝利の決め手となってきました。信長の生涯で最大の危機といわれる元亀元年(1570)〜同四年(1573)の反織田包囲網勢力との戦いで信長が勝利した大きな理由は、畿内の経済圏を押さえた信長とライバル達の国力的な差がじわじわと広がってきていたことが大きく、情け容赦の無い総力戦を仕掛ける信長の前に各個撃破されてしまったのでした。そして、この最大の危機を乗り切った信長は、以後、圧倒的な軍事経済力を背景に、それ程大きな危機も無く天下統一に向けて邁進することになります。


色々感想を書きましたが、もちろん、織田信長が日本史上の傑出した人物であることは変りません。
その軍事政治政策は、他の大名とかけ離れた程斬新では無かったとは思いますが、日本史上、信長ほど多くの敵から同時に攻撃を受けながら、自らの才能を駆使して危機を乗り切った武将は他にいないようにも思われます。元亀の戦役(1570〜73)は、信長の手法を学んだ秀吉や家康が後に経験した危機とは比べられない、より高度な政治運営と状況判断が必要だったのではないでしょうか。
状況が不利となると、将軍足利義昭や正親町天皇を利用して敵と和睦を結ぶことも厭わず、一方で、利を誘った反間工作を繰り返して敵軍内を切り崩し、相手が弱さを見せると一気に兵力を集中させて力攻めで滅ぼしていきました。結局、反信長勢力は、天下統一のためには手段を選ばないという信長の強い意志力の前に敗れ去ったともいえます。
尾張を統一してから亡くなるまでの統一の先駆者信長の27年の戦歴は、信長から受継いだ巨大な遺産を背景に秀吉が天下統一するまでの8年間よりも、まして、秀吉死後、関が原に至る家康の2年間よりも年月の重みが違うように思うのです。(尚、信長の軍事面についてはかなり前に「歴史の話題」という書庫で採り上げています。)


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