京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

金閣寺・大徳寺・鷹峯他

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建勲神社その1

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今回は、北区紫野北舟岡町、船岡山の頂上付近にある建勲神社(たけいさおじんじゃ)です。
通称「けんくんじんじゃ」と呼ばれ、明治時代に創建された織田信長を祭神とする神社です。
日本の英雄人気ランキングでは常にトップクラスの織田信長を祭神としているため、歴史ファンも多く訪れる場所になっています。
(かなり前に感想程度を書いていましたが、写真数3枚程度で雰囲気も伝えられず物足りなく思っていましたので、写真数を増やして書き直してみます。)



さて、建勲神社のある船岡山については前に書いていますが、神社に関係するために少しだけ触れてみます。
北区紫野北舟岡町にある船岡山は、京都の市街地内にある周囲1300m、標高112m(山頂にある三角点で111.89m)、面積2万5千坪の丘陵です。船岡山は、平安京以来の京都の歴史を語る上で貴重な遺跡でもあり、全域が国史跡に指定されています。

山の西側一帯には、市民の憩いの場である船岡山公園があり、東南側には建勲神社の深い森に囲まれた神域があります。神社周辺は豊臣秀吉の時代から信長を祀る霊地として自然が維持されてきたために、京都盆地特有の樹相が良く保たれている市内有数の貴重な森となっています。船岡山は京都市内有数の丘陵として、聖徳太子の時代の文献にもその名が出ているように古代から知られていたようです。
平安遷都の際は、風水思想によって立地条件に合った土地を探りましたが、船岡山が北方の守護神玄武に例えられ、ここを基準点として平安京が造成され、船岡山からの直線の延長線上に大極殿、さらにメインストリート朱雀大路が作られたといわれています。
また、平安時代には、船岡山は地形が船に似ているとして「船岡」と呼ばれ、景勝の地として貴族の遊宴や遊猟が行われました。平安文学にも度々登場し、清少納言は「枕草子」に「丘は船岡」と船岡山が丘として一番だと書いています。そして、応仁の乱の際は、この船岡山が西軍の陣地となり、以来船岡山周辺一帯は西陣の名で呼ばれています。




さて、建勲神社についてです。
建勲神社は、祭神として贈太政大臣正一位・織田信長公を、また配祀として、本能寺の変の際に二条城で亡くなった嫡男の従三位左近衛中将・織田信忠卿を祀ります。
(信長の生涯については、次回に少しだけ書いてみます。)

ご存知のように、織田信長は天正十年(1582)六月二日未明、本能寺の変により天下統一の道半ば亡くなりました。その後、本能寺の変の報せを聞いた豊臣秀吉は、山崎の戦いで明智光秀を討って主君の怨を報じ、大徳寺で七日間の盛大な大法要を営みました。そして、信長の霊を弔うために、船岡山に寺院を建立しようと考え、正親町天皇より「天正寺」の寺号を賜わりましたが、寺の竣工は中断となり、以来、船岡山は信長の霊地として山全体が保護され明治維新に至りました。

さて、明治二年(1869)、戦国乱世で衰えていた朝廷を復興させ、また天下統一の大事業を推進した織田信長の功績を賛えるために、神社の創建が決定されます。そして、明治天皇から「建勲」の神号を賜って、明治三年(1870)に東京の織田家子孫の邸宅内と信長の次男・信雄を始祖として幕末まで続いた天童藩旧領(山形県天童市)に建勲社が創建され、明治八年(1875)に、別格官幣社に列せられました。そして、東京の建勲社は、本能寺の変後に秀吉が主君の廟所と定めていたこの船岡山に社地を賜って、その東麓に社殿を新営し遷座ました・・・これが現在の船岡山の建勲神社になります。
その後、明治十三年(1880)には、嫡男の織田信忠を配祀し、明治四十三年(1910)本殿拝殿十棟すべてを中腹の地から現在の山上の場所に移建しました。

社宝として、信長愛用の紺糸威胴丸、桶狭間の合戦の際の今川義元の愛刀で、その後信長・秀吉・家康へと伝承した名刀・左文字(建勲神社の創建の際、徳川家から神社に返還されました。)、太田牛一自筆本の「信長公記」などの重要文化財のほか、信長ゆかりの宝物を多数所蔵しています。

また、十月十九日の船岡祭は、信長が永禄十一年(1568)初めて入洛した日を記念したもので、神殿祭の後、桶狭間の合戦出陣の際、信長公が舞われた仕舞「敦盛」や舞楽奉納・弓取り神事などの様々な行事が行われ、また信長ゆかりの宝物が特別公開されますので、信長ファンは必見です。





さて、表参道は船岡山の東側にあり、白木造の鳥居としては京都府下最大クラスという「木造明神型素木造(もくぞうみょうじんがたしらきづくり)」の大鳥居があります。(高さ最大7.43メートル、幅最大10.3メートル、柱本径0.7メートル、)
明治神宮の大鳥居と共に、この型の鳥居の典型といわれ、明治の新築後、昭和九年(1934)に全面的に建替えられ、平成十二年(2000)に大改修されています。用材は、耐久性ある台湾の阿里山産の樹齢1200年以上の紅檜が用いられていますが、現在では大口径の紅檜は入手困難なため、非常に貴重な文化財といえます。ここから本殿までは約80メートルあり、約百段の石段を登ります。

鳥居を潜って正面の石段を進めば、石段上に「大平和敬神」の神石があります。
これは、大本教の教祖・出口王仁三郎が建勲神社の主典を務めていた縁から、青年時代にこの地で修行した宗教法人修養団捧誠会総裁が昭和四十五年(1970)に建立したものです。そして、建勲神社が船岡山の中腹に創建された際の旧本殿跡でもあります。

その横には、末社の義照稲荷社(よしてるいなりしゃ)と稲荷命婦元宮(いなりみょうぶもとみや)があります。義照稲荷社は、元明天皇の和銅二年(709)に、秦氏が穀物織物の神として祀ったことが起源とされ、今日の西陣織の祖神といわれています。
祭神は、宇迦御霊大神(衣食の神、商工業繁栄の守護神)、国床立大神(住居安泰、病魔退散の神)、猿田彦大神(迷いを正す、交通安全厄除けの神)の三柱神です。また、稲荷命婦元宮は、伏見稲荷大社命婦社の親神である「船岡山の霊狐」を祀っていて、伏見稲荷の元宮として古来より信仰されているということです。両稲荷社が祀られることで、稲荷大神のご利益がますます高まるものとされています。また、両稲荷社の周囲には多くの小祠が祀られています。

渡来系の秦氏は、平安朝以前から京都西部の太秦、嵐山、松尾にかけての広大な地域を治めて、太秦の広隆寺、松尾の松尾大社等のゆかりの史跡が今も残っています。さらに京都東部の伏見、深草周辺も勢力範囲にして、伏見稲荷大社を創建しています。義照稲荷社(よしてるいなりしゃ)と稲荷命婦元宮の伝承は、東西の秦氏領間で稲荷信仰が広まっていったことを窺わせます。



さらに少し石段を登ると、建勲神社の社殿が見えてきます。桜や赤松、楓等の木々に囲まれて本殿・拝殿・社務所などの建物が整然と並んでいて清々しい雰囲気が漂っています。拝殿には、信長公功臣肖像画(木下藤吉郎、柴田勝家、森蘭丸、平手政秀等十八功臣)が掲げられています。

また、手水舎の隣には、船岡妙見社があります。(最後の写真です)
船岡妙見社は、船岡山の地の神・玄武大神を祀っています。
船岡山が平安京造営の際、重要な役割を持っていたことは上記しましたが、風水思想によって、船岡山は大地の生気ほとばしり出る北方の守護神玄武の小山とされ、ここを北の基準点として平安京が造成されました。
この玄武信仰は、古くから広く信仰されていたようで、妙見社の立て札によると、宝永四年(1707)発行の「霊符縁起集説」に、「玄武神は亀なり。北方に鎮り諸厄を祓い給う。玄武神は今の妙見菩薩にして童形なり。玄武の大元は国常立尊なり。水の神にして宅神なり。病魔退散の神なり。」と記されているようです。北方の守護神玄武が、北極星の化身である妙見菩薩と習合して平安京の北の起点に当るこの地に古くから祀られてきたことが窺われます。そして、船岡妙見は船岡山の地の神として諸厄消除・万病平癒・家宅守護のご利益をもたらすということです。



次回に続きます。

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北区紫野十二坊町にある上品蓮台寺(じょうぽんれんだいじ)は、真言宗智山派の寺院で、前にこのブログに掲載したお寺です。上品蓮台寺は、境内に美しい枝垂れ桜やソメイヨシノが数本あり、桜の穴場としては、まずまず知られたお寺だと思います。
今回は沿革等は省略して桜の様子のみを掲載します。



普段は、人のいない本当に地味なお寺といった印象ですが、この日はカメラ撮影をする人、タクシーで来た学生さんなど、十人以上の方が代わる代わる来られていたようです。
境内が狭いので、観光客が多いと気になるのですが、桜の穴場としてはかなりのお勧めお寺です。

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船岡山(船岡山公園)

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ずっと前に少しだけ採り上げた船岡山ですがもう少し書いてみます。
北区紫野北舟岡町にある船岡山は、京都の市街地内にある周囲1300m、標高112m(山頂にある三角点で111.89m)、面積2万5千坪の丘陵です。船岡山は、平安京以来の京都の歴史を語る上で貴重な遺跡でもあり、全域が国史跡に指定されています。



京都市街地にある丘と言えば船岡山の他に、双ケ丘や吉田山などがあります。
双ケ丘は山裾が散策路として舗装整備されていますが、丘全体は自然林や植林による森といった印象です。吉田山も吉田神社の神域になり、参道周辺以外は深い森で覆われています。

これに対し船岡山ですが、東南に織田信長を祀る建勲神社の深い森に囲まれた神域がありますが、西側一帯は広い舗装散策路が整備されていて簡単に登ることが出来ます。建勲神社の周辺は、豊臣秀吉の時代から信長を祀る霊地として自然が維持されてきたために、京都盆地特有の樹相が良く保たれている市内有数の貴重な森となっています。また公園部分はウォーキングや自然観察、スポーツ等が幅広く楽しめ、京都市街を一望できる市民の憩いの場になっています。建勲神社と船岡山公園という二つの顔があるところが船岡山の魅力なのかもしれません。



さて、船岡山は平安遷都の際に極めて重要な役割を持ちました。
新都建設に際しては、風水思想によって立地条件に合った土地を探りましたが、船岡山が北方の守護神玄武に例えられ、ここを基準点として平安京が造成され、また船岡山からの直線の延長線上に平安京のメインストリート朱雀大路が作られたといわれます。船岡山が無ければ平安京は無かったかもしれないともいえる訳です。(船岡山にある織田信長を祀る建勲神社境内には、平安遷都に影響を及ぼした船岡山の地の神・玄武大神を祀る船岡山妙見宮があります。)
平安時代初期には船岡山上で祭祀が行われた記録もあり、現在山頂に残っている大きな磐座は、その祭祀の跡という説もあるようです。

さらに平安時代には、船岡山は地形が船に似ているとして「船岡」と呼ばれ、景勝の地として貴族の遊宴や遊猟が行われました。平安文学にも度々登場し、清少納言は「枕草子」に「丘は船岡…」と船岡山が丘として一番だと書いています。平安中期以降は、付近一帯は葬送の地となり、保元の乱で敗れた源為義らが処刑された場所でもあります。

その後、中世後期には丹波から洛中に入る京都への北の入口、戦略の要地としてこの丘をめぐる攻防が行われています。
応仁の乱では、西軍の大内政弘、山名教之らがこの地に陣を布いて小競り合いが行われ、応仁二年(1468)九月には西軍が三方から攻撃し攻め落としました。しかし本格的な陣地は築かれなかったようです。また、足利将軍家と管領細川家の内紛の際も戦場となっています・・永正八年(1511)八月、一旦丹波に逃れた将軍足利義尹が細川高国、大内義興らとこの岡に山城を築いていた細川澄元・細川政賢を攻め京都を奪回しています。現在、船岡山中腹にこれらの古戦場を示す「応仁永正戦跡舟岡山」の標石が建てられています。
また、豊臣秀吉は船岡山を大徳寺に寄進し、この地に主君信長の廟所として天正寺という寺院の建立を計画しますが中断となり、ようやく明治時代になって織田信長を祀る建勲神社(たけいさおじんじゃ、通称、けんくんじんじゃ)が中腹に建立されました。(明治二年(1869)に、明治天皇が東京に創祀、明治八年(1875)に京都の船岡山中腹に遷座、同四十三年(1910)に船岡山東側の山頂付近(現在地)遷りました。尚、建勲神社については別に採り上げます)


そして、船岡山の北西部分に昭和六年(1931)に都市公園として船岡山公園が整備されました。
公園には幾つかの遊歩道があり、運動ができる広場や、児童公園、野外演奏場等があり、あずまやのある休憩所、そして山頂の広場からは京都市街が一望できるようになっています。また、八月十六日の「大文字五山の送り火」では、鳥居形を除く残り4ヶ所の送り火が見られる場所としても知られ、送り火の当日は多くの方が山上に集まります。

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地球温暖化の影響のため、近年は京都市内で雪が積もることも希になってきましたが、今朝は、全国的な寒波のために市内でも積雪がありました。

京都市内で雪が絵になる風景といえば・・・まず思い浮かぶのはやはり金閣寺ではないでしょうか。
金閣寺は年中観光客で一杯ですが、境内が広いのであまり気にならないのも良いです。
誰でも思うことは同じなのでしょう・・雪景色を目当てにカメラを持って駆けつける人も多いようで、今日も開門前から多くの人が並んでいて、雪景色に歓声が上がっています。
また、頭上では数台のヘリが飛んでいて、雪の金閣寺は今日の新聞やテレビにローカルな話題を提供するのでしょう。

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北大路堀川の南西方面から(京都市北区と上京区の境界付近でもあります)上京区若宮横町にある今宮神社御旅所と北区紫野雲林院町にある若宮神社(若宮八満宮)を採り上げます。


今宮神社御旅所と若宮神社は、前回に採り上げた玄武神社(写真で御旅所の向こうに写っています)の直ぐ西にあり、両社は大宮通(新大宮通)を隔てて斜め向かいに位置しています。
現在は、大宮通(新大宮通)は南北に開通していますが、昭和五年(1930)頃に紫野周辺が区画整理されるまでは、今宮神社御旅所の辺りで突き当たりとなっていて、付近は大宮通りの終点ということで「大宮頭(おおみやかしら)」と呼ばれていました。
そして、ここから道は西北へ左折して旧大宮通(大徳寺の東を通る大徳寺通)に繋がっていて、大徳寺を経て洛外に抜け、遥か丹波地方まで「さば街道」が通じていました。

現在は今宮神社御旅所の鳥居は西向きで、東を向いた若宮神社と相対していますが、元々は共に南面して並んでいて、若宮神社は御度所の西隣に位置していました。昭和の大宮通(新大宮通)の開通と市街地整備によって御旅所と若宮神社は東西に分断されて現在のような位置関係になったようです。また、この地域は江戸時代以降商業地として栄え、昭和の初め頃には大宮通には商店街が密集していましたが、現在は西陣一帯の衰退とともに商店街も小さくなってしまったということです。



さて、今宮神社御旅所についてです。
北区紫野今宮町にある今宮神社は京都でも良く知られた神社です。小さな神社の御旅所までブログに採り上げる気は無いのですが、今宮神社クラスになると少しは書くことがありそうです。(尚、今宮神社については以前に少しだけ書きましたが、機会が有ればもう少し書いてみたいと思っています。)

今宮神社は元々、平安時代以前から北区の船岡山の東北一帯、紫野に祀られていた「疫神」を祀る社に始まると伝わります。平安時代になって一条天皇の正暦五年(994)に平安京で疫病が流行したため、この疫神を神輿二基とともに担いで船岡山の上に安置し、疫病退散のための御霊会(ごりょうえ 紫野御霊会)が行われました。そして、長保三年(1011)に再び疫病が大流行したために、朝廷は疫神を船岡山から現在地(北区紫野今宮町)に移し、新たに神殿三宇と瑞垣、神輿を造らせて、これまでにあった疫社と共に「今宮社」と名づけました。こうして今宮神社が創建され、その後も疫病が流行るごとに御霊会がおこなわれ、疫神を祀る神社として信仰を集めていきます。

現在の船岡山の東麓(「下り松(現若宮横町)」にある御旅所がいつ頃から設けられたのかは不明ですが、平安時代以降、御霊会が再々行われ、これが今宮神社の祭礼として定着していく中で御旅所が整備されていったのでしょう。応仁の乱以降の戦乱で荒廃した御旅所を、桃山時代に豊臣秀吉が再興し神輿一基を寄進したとも伝わり、江戸時代には御旅所の建物は現在に近いものとなり能楽堂としても用いられているそうです。現在の建物は、天明八年(1788)に焼失し、寛政七年(1795)の再建されたものです。
現在は建物の回りはガレージとなっていて、また鳥居前には常に車が駐車しているような状態ですが、毎年五月に行われる今宮祭の際は、豪華な三基の神輿が今宮神社と御旅所の間を練り歩きます・・そして御旅所に神輿が納められ神様が祀られると、普段は地味な大きな建物もこの時ばかりは立派に感じられます。



続いて、若宮神社(若宮八幡宮)についてです。
京都市北区紫野雲林院町にある若宮神社は、石清水八幡宮を本宮とする八幡宮社で、元々は清和源氏の三代目で、丹波の大江山の酒呑童子征伐や土蜘蛛退治の伝承でも知られる源頼光(みなもとよりみつ・らいこう)の邸内にあった鎮守社がその起こりと伝えられ、祭神は源氏の始祖・清和天皇です。

八幡宮といえば、源氏をはじめとする全国の武士が武の神、弓矢の神として尊崇してきたことで知られますが、元々は源頼光の弟の源頼信に始まる大阪を基盤とする河内源氏が、岩清水八幡宮(京都府八幡市 ブログに採り上げています。)を氏神としたことが大きく影響しています・・・この河内源氏の系統が、武家の棟梁として全国の武士に尊敬される源氏主流となっていったからです。ついでですが、京都で若宮八幡宮といえば、前にブログに採り上げた東山区五条坂の神社が知られますが、元々は源頼光の甥の源頼義が西洞院六条にあった源氏館に創建したもので、江戸時代に現在地に移転しています。(旧地にも若宮天満宮が後に建てられています。)今回の若宮神社(若宮八幡宮)は源氏屋敷が六条に移った後も、この地に社殿だけが残ったとも伝えられますが、実際の創建年代は不明です。

古くは現在地より西の雲林院村にあり、竹林に囲まれた南面する社殿があったようですが、明治十年(1877)に現在地に移りました。その後、昭和五年(1930)の地域の区画整理で社殿は東向きに再建されて現在の姿になりました。尚、以前は境内の東南に旧殿跡があって「落星水」という井戸があったということです(現在は無いようです。)また、伝説ではありますが、平安時代の元慶二年(878)、神職の星野某が神霊を勧請するにあたり箭を空中に向かって放つと、忽然と三つの星が落ちてきて袖の中に消えたと伝えられ、この霊験によってこの地を流星坊と呼んだとも伝えられています。
境内の末社として権太夫大明神、白菊大明神、吉丸明神、久高明神が祀られています。


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