京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

金閣寺・大徳寺・鷹峯他

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昨年、「鞍馬の火祭」「太秦の牛祭」と共に京都三大奇祭の一つとして知られる「今宮神社のやすらい祭」をブログで採り上げましたが、その際、同じ日に行われた北区紫野の玄武神社、西賀茂の川上大神宮社のやすらい祭についても写真を掲載しました。
今回の玄武神社についてはその際に少しだけ沿革を書いているのですが、今回また写真を撮ってきましたので、再び書いてみます。



北区紫野雲林院町にある玄武神社は、住宅地の中にある明るく親しみやすい雰囲気の神社です。(すぐ後ろにはマンションが聳えていて、神社を眺めているとマンションが視野に入ってくるのがやや気になりますが・・)
さて、玄武神社の社号「玄武」は、お気づきのことと思いますが、古代中国から伝わった王城守護の四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)の一つ、北の鎮護神「玄武」に由来していて、玄武神社は平安京の北方の守護神として平安時代に祀られた神社です。また、祭神は、平安時代の第五十五代文徳天皇の第一皇子の惟喬(これたか)親王で、かつて、玄武神社は「惟喬社(これたかしゃ)」とも呼ばれていたようです。



ここで少し惟喬親王についてです・・・。

惟喬親王(844〜97)は、承和十一年(844)第五十五代文徳天皇と紀静子(きのしずこ)の間に生まれました。幼少より聡明で、父の文徳天皇からも愛されていたので当然第一皇子として皇太子になるはずでしたが、嘉祥三年(850)文徳天皇は、皇太子時代に娶った大納言藤原良房の娘明子との間に生まれたばかりの、生後八ケ月の第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇 850〜881)を皇太子としました。1歳にもならない乳児を皇太子にするなど前代未聞のことだったようです。
惟喬親王が皇太子になれなかった理由は、惟喬親王の母は紀氏の出身で、藤原氏との縁が薄かったことにあります。

当時、徐々に勢力を持ってきたのが藤原北家の右大臣藤原良房(804〜872)でした。
藤原良房は、次代の清和天皇の時代に人臣最初の摂政に任じられ、藤原北家による独占的な摂関政治を始めた人物として知られますが、権力を握る第一歩となったのは、承和九年(842)の「承和の変」で淳和天皇の皇太子・恒貞親王を廃して、仁明天皇の皇子道康親王(文徳天皇)を即位させたことでした。道康親王(文徳天皇)には自身の娘明子を入内させていたために外戚として力を持つことが出来ると考えたのでしょう。

当然、即位した文徳天皇は、自身の即位に力を尽くした良房(太政大臣に昇格)の存在を無視できず、惟仁親王(後の清和天皇)を皇太子に選ばざるを得なかったのでした。
この前例の無い乳児の立太子には、藤原良房の強い圧力があったことは言うまでもありません。その後、文徳天皇は、藤原氏の勢力を危惧する周囲の反対にもかかわらず、何とか惟喬親王にも皇位を継承させようと考え、藤原良房との間には暗闘があったと伝えられますが、結局、実行出来ないまま天安二年(858)に三十一歳の若さで死去してしまいます。
そして、文徳天皇が死去すると、藤原良房は直ちに僅か九才の惟仁親王(清和天皇)を即位させ、完全に外戚として政治の実権を握りました。その後、院政期までの歴代天皇は、僅かな例を除いて外戚の藤原氏の意向によって選ばれることになります。



さて、藤原良房によって皇位継承権を奪われた惟喬親王は、中央政界から外されて、天安二年(858)に太宰権帥に任命され(菅原道真も同じ身分で大宰府に赴いています。)九州に赴き、その後は太宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守等の地方勤務を続け、貞観十四年(872)、病気により出家して比叡山麓の小野に隠棲したと伝えられます。
玄武神社のHPを参考にさせていただくと・・その後の親王は山崎の水無瀬(みなせ)、京都の雲林院付近、近江の小椋庄、都に戻って洛北の大原、雲ケ畑、二ノ瀬、小野郷大森に隠栖し、貞観十四年(872)に仏門に入り素覚浄念と号しました。当時の人々は、親王を「水無瀬の宮」「小野の宮」等と呼んだということです。親王は滞在した各地に寺院を建立し(小椋庄に金竜寺、雲ケ畑字中畑に高雲寺(惟喬般若)、大森字東河内に安楽寺、長福寺)、東河内で寛平九年(897)に死去したと伝えられます。

優れた才能にもかかわらず、皇位に就けなかった惟喬親王は悲劇の皇子として同情され、死後に伝説を生みました。藤原良房の暗殺計画から逃れて山から山へと逃亡生活を送ったのだという伝説もあります。特に近江の小椋谷君ヶ畑に隠れ住んだ際、轆轤(ろくろ)を開発して盆や椀等を作る技術を村人達に教えたという伝承は有名で、現在も全国の木地師の元祖、祖神として各地で祀られています。
玄武神社のHPによると、京都では、玄武神社の他に惟喬神社(雲ケ畑町出谷)、守谷神社(鞍馬町二ノ瀬)、御霊神社(大森東町)。滋賀県では白山神社(多賀町大君カ畑)、筒井神社(小椋庄蛭谷)、大皇器地租神社(小椋庄君ケ畑)等で祀られているということです。




ようやく玄武神社の沿革です。
玄武神社は、社伝によると創建は平安時代の陽成天皇の元慶二年(878)、惟喬親王の母方の末裔で大宮郷の郷士・星野市正紀茂光(ほしのいちのかみしげみつ)が、悲運な生涯だった親王の霊を慰めるために、また王城北の鎮護の地の守護神(玄武)として、親王の外祖父・紀名虎(きのなとら)が所持していた親王愛蔵の剣を「御霊代(みたましろ)」として奉祀して祀ったと伝えられます。
またかつては「惟喬社(これたかしゃ)」の他にも、玄武の亀との関係から境内の池に亀が多く放育されていたために、「亀宮(かめのみや)」とも呼ばれ、玄武の亀は長寿、蛇は商売繁盛にご利益があるとして信仰を集めてきたということです。その後数回に渡って境内の拡張が行われてきましたが、現在の社殿は昭和三十八年(1963)に再建されたものということで、境内西には末社の三輪明神社、玄武稲荷社があります。


また、近くには今宮神社の御旅所や若宮神社(若宮八幡宮)もあり、これらは次回に掲載してみます。

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北区紫竹下竹殿町にある久我神社は、この地区ではまずまずの面積がある神社で、前回に採り上げた石井神社や貴船神社よりは由緒ある延喜式内の古社になります。
大徳寺通と大宮通に東西を挟まれた境内の約半分(境内北側)は、豊かな森で覆われていますが、全体に見晴らしのよい明るく開放的な境内になっています。


久我神社は、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)を祭神とする延喜式内社で、現在は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境外摂社(第八摂社)になっています。
祭神の賀茂建角身命は、神武天皇の東進の際に八咫烏に化身して天皇軍を導いくという大功をたて、のち山城国に入って賀茂川の上流、この久我の地付近に居を定めました。この地域の開発や殖産興業を興した最初の神であり、その後賀茂県主(かもあがたぬし)となって賀茂一族の祖神となったと伝承されています。久我神社は地域を興したこの神の神徳を讃える為に祀られた神社になります。

久我神社の創建年代は不明ですが、平安時代中期の歴史書「三代実録」に貞観元年(859)正月の記録に祭神が従五位下に叙せられている記述があるのが最初の記録になります。鎌倉時代以降は氏神社と称しますが、明治五年(1872)に久我神社と元の名称に戻しています。現在は、祭神が八咫烏となって皇軍を道案内したという伝説によって、航空、交通安全の守り神として広く信仰され、また紫竹一帯の氏神として信仰を集めています。



現在は江戸時代の寛永五年(1628)に造営された本殿と拝殿があり、本殿は一間社流造で上賀茂神社の他の各摂社と同じ造りです。また、拝殿は左右に庇が付く切妻造りで、妻側を正面とする特異なものになっています。江戸時代の京都地誌「雍州府志」によると、この付近には「大宮の森」と呼ばれる豊かな森があったようで、現在の神社境内にはその面影を残す巨樹が繁茂しています。また境内には樹齢六百年という大樹の切り株も残っています。(写真)
久我神社は創建以来「大宮」と呼ばれていたために、その前の通りが「大宮通」と呼ばれるようになったということで、創建時は現在よりも大きな神社として地域のシンボルだったのでしょう。

このように、久我神社境内には現在も「大宮の森」の面影を残す巨樹が残り、また祭神の伝承から古代氏族の賀茂県主との歴史的な関係も深いということで、古代以来の京都の歴史を明らかにする歴史的な環境を良く残しているという理由により京都市指定史跡に選ばれています。

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北区の北山通付近はあまり寺社は少ないと思われている地域ですが、実は幾つかの小さな神社があります。今回は、地元の方の信仰によって護られているといった雰囲気の小さな2つの神社をピックアップしました。


北区小山元町にある石井神社は、別名を石井稲荷神社といって宇迦之御魂大神、石井稲荷大神並びに五十三社を祭神とする比較的新らしい神社のようです。

大正年間に伏見稲荷山の一の峯に石井稲荷大神の塚を創建したのが始まりで、石井稲荷大神(石井大神)と呼ぶようになりました。昭和二年(1927)、八木トメという女性が伏見稲荷一の峯より現在の地に勧請して遷座します。以来、地元の信者氏子によって小山元町の鎮守社として守られてきました。
特に、元賀陽宮家(かやのみや・・明治に創設された宮家。昭和の終戦後に皇室離脱)の信仰が厚く、昭和五年(1930)、元賀陽宮大妃殿下が参拝し、昭和天皇皇子誕生を神前に祈願奉幣したということです。本殿は昭和二年(1927)造営の流造神殿、拝殿と春日燈籠は賀陽宮家の寄進.によるものです。
また境内に祀られる叢雲明神は、賀陽家の守護神で宮家邸内より遷座しました。境内には末社として叢雲明神、寿賀明神、石生大神、白良仙・天龍王、またこの地に勧請した八木家の八木家祖霊社があります。





続いて、北区紫竹西北町にある貴船神社です。

もちろん、祭神は鞍馬山の貴船神社本宮と同じく祭神は高龗神(たかおかみのかみ)で、小さな東西に細長い境内で、北向きに本殿があるのが特徴のようです。

元々、この地は古くから賀茂別雷神社(上賀茂神社)の荘園でした。
そして、観光名所としても有名な鞍馬山貴船谷にある貴船神社(延喜式内社で元官幣中社)は、現在では独立していますが、明治時代まで賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社という関係にあったため、この荘園地にも貴船神を勧請したのが今回の貴船神社のはじまりのようです。
鎮座年代は不明ですが、鎌倉時代初期頃の鎮座と考えられていて、その後に幾多の盛衰はありましたが、現在まで氏子によって護られてきたということです。鞍馬山麓の貴船神社のと共に水難除をはじめ家内安全な、商売繁盛等のご利益あるとして地元の方が参拝しているようです。

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観光寺院ではありませんが、京都市北区から少しは目立つ寺院を採り上げました。情報は少ないので簡単に書いてみます。


北区紫竹東栗栖(ひがしくりす)町、北山通りに沿って建つ常徳寺は、山号を知足山という日蓮宗寺院です。元々、平安時代にこの地には「知足院」という大寺院があったようで、清少納言の枕草子にも雲林院(前にブログに採り上げました。)等と共にその名が見られ、また平安末期の近衛天皇が亡くなった際は、遺骸は一旦この知足院に葬られ、その後約5年後に安楽寿院に改葬されています。また、平安時代末期の関白・藤原忠実は「知足院」を邸宅としていたと伝わります。
その後、知足院は衰退したようで、江戸時代の寛永五年(1628)に日奥(にちおう)上人を開基として日蓮宗寺院として常徳寺が創建されます。


日奥上人は「不受不施(宗祖日蓮の教義を遵守して他宗と妥協せず、法華信者以外からの布施を受けず、法華教を広める僧以外には施しを行わないという考え)を主張して、容認派(「受不施派」)と対立したことで知られますが、この主義のために、文禄四年(1595)に豊臣秀吉が催して各宗派に出席を命じた方広寺大仏殿の千僧供養会への出仕を拒絶し、さらに慶長四年(1599)にも徳川家康が命じた供養会にも出席しなかったことから大阪で容認派(「受不施派」)との対論が行われ、日奥は対馬に流罪となりました。(この時は元和九年(1623)に赦免により帰洛。)
そして、寛永七年(1630)には再び「不受不施派」と「受不施派」との対立が起こり、江戸城での対論の結果、日奥らは「不受不施派」は異端として弾圧され、日奥はその首謀者として、この年既に亡くなっていたにもかかわらず、その遺骨は再び対馬に流されたとされました。

さて、常徳寺もこの騒動で一時衰えますが、日猷(にちゆう)上人が金工の後藤氏の帰依を受けて中興に成功します。本堂には「知足院」に祀られていたとされる地蔵菩薩像が安置され「常盤地蔵」の通称で呼ばれています・・・これは、前にブログに書きましたが(「牛若丸誕生井」、「牛若丸胞衣(えな)塚」、「源義経産湯井遺址」)、付近の紫竹牛若町には、その名前通り、平安時代には牛若丸(義経)の父・源義朝の別荘があり、義経の母・常磐御前はこの知足院に安産を祈願して牛若丸(義経)を産んだという言い伝えがあるからです。



その他、本堂には、江戸時代初期に後藤金座の元を開いた後藤長乗(ちょうじょう)像も安置され、墓地には後藤一乗の墓や後藤一族の供養塔があります。
後藤家は室町期に始まる彫金師の家系で、室町時代に始祖・後藤祐乗が足利義政に同朋衆として仕えて以来、江戸時代末期まで金工の第一人者・宗家として栄えました。また分家には金座や分銅役所預り所等の通貨の鑑定の役割も担いました。こうして、江戸時代には後藤家は通貨造幣(金座)の頭役も務め、茶屋家や角倉家と並ぶ京都3長者の1つに数えられる程になりました。

尚、境内墓地に墓のある後藤一乗は、幕末から明治初期に活躍した近代金工界の巨匠です。後藤一乗は寛政三年(1791)に後籐七重乗の次男として生まれました。幼名を栄次郎といい、十一歳から彫金を習い、寛政十一年{1799}に後藤謙乗の養子となり、文化二年(1805)に十五歳で家督を継いで光貨と名乗り、文化八年(1811)に光行と改名します。文政七年(1824)には法橋の位に叙され、翌年(1825)に一乗と名乗りました。文久三年(1863)には法眼に叙されています。明治九年(1876)に八十六才で死去するまで多くの名工を育て、また絵画等にも才能を発揮しました。

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北区鷹峯藤林町にある金蓮寺(こんれんじ)は、山号を錦綾山(きんりょうざん)という時宗寺院です。広い境内の大部分は「錦綾(きんりょう)幼稚園」という新しい幼稚園になっていて、地元でも幼稚園の方が知られているのかもしれません。観光で訪れる方はまずいないと思いますが、古くは中京区四条にあって時宗道場として知られたお寺だったようです。


お寺についての話より、時宗開祖・一遍上人について少し書いてみます。
「一遍上人縁起絵」や「一遍聖絵」等の多くの説話や伝説に描かれているように、一遍の生涯は他の鎌倉新仏教の開祖達とは違って、自らの寺を持たず、ただ念仏を唱えて全国各地を行脚した行動者・実践者として貫かれたものでした。

時宗の開祖として知られる一遍上人(1239〜89 証誠大師)は、幼名を松寿丸といい、延応元年(1239)、伊予の豪族・河野通広(出家後は如仏)の子として生まれました。父の通広は、以前に京都で法然上人の弟子・証空上人に浄土宗を学んだ経験があることから、建長三年(1251)に十三歳の松寿丸を九州大宰府にいた旧知の聖達(しょうたつ)上人(証空上人の弟子)に委ねて浄土宗西山派の教義を学ばせました。一時、一遍は同じく証空上人の弟子だった肥前国清水寺の華台(けだい)上人に師事し智真の法名を与えられ、その後、再び聖達上人の下へ戻って修行しました。

しかし、弘長三年(1263)一遍二十五才の時、父の死によって故郷伊与国に帰ることとなり、領地を継承し還俗して武士に戻りました。妻子を持ち領地を管理する生活が続きますが、この間に一族の領地争いに巻き込まれる等の問題を経験し、やがて文永八年(1271)三十二歳で再び出家を決意し、翌年に信濃国の善光寺、伊予国窪寺に参詣し、さらに伊予国久万の岩屋に参詣しさらに修行を深めます。そして、文永十一年(1274)に、ついに一遍は妻(超一)・娘(超二)・下人(念仏房)の4人連れで諸国を行脚し念仏を広める旅に出ました。
まず難波の四天王寺、紀伊国・高野山と参詣します。ここで妻子と下人を伊予に帰らせ、独りで旅を続けます。翌健治元年(1275)は京都から伊予に戻って、九州を行脚し、最初の弟子となった他阿三年弥陀仏(他阿 遊行上人二世)とも出会います。翌健治二年(1276)は伊予から安芸の厳島に詣でて、翌三年は京都の因幡堂(平等寺)から信濃の、善光寺、さらに翌年以降は東北を目指します。さらに平泉や松島を経て伊豆、尾張から近江に入りました。この数年の間に弟子達が数十人従って遊行するようになっていました。


さて、弘安七年(1284)年閏四月、一遍は近江国関寺から京都の四条京極(四条大橋西付近)にあった釈迦堂(京極釈迦堂)に入って七日間間滞在して、賦算(南無阿弥陀仏の名号を書いた算(ふだ)を配ること)や踊り念仏を行っています。この頃には一遍の念仏布教の全国行脚は都でも良く知られるようになっていたため、四条通には一遍のお札(算)をもらおうと京都では貴族から庶民までが多数群がったと伝えられます(以下のようにこの釈迦堂の地に後に金蓮寺が建てられることになります。)この時の京都滞在では、因幡堂(平等寺)、後三条の悲田院、蓮光寺、雲居寺・六波羅蜜寺に巡礼し、さらに空也上人の遺跡・市屋道場(西本願寺付近)に参詣し、桂にあった道場で病のために休息しています。この時の一遍の京都滞在は四十八日に及びました。

翌弘安八年(1285)には丹後(京都府)から山陰地方を行脚し、翌九年(1286)には四天王寺、住吉神社、当麻寺、岩清水八幡宮等を参詣。さらに翌十年(1287)播磨書写山円教寺から備後、安岐の厳島へ。正応元年(1288)は、伊予に渡って、菅生、岩屋、大三島等を参詣。翌二年(1289)には讃岐から阿波へ。病により心身の衰弱する中で、明石へ船で渡り、兵庫観音堂で、自らの著作を焼却させ五十一歳で亡くなりました。

一遍の死後、弟子達は一旦解散しますが、その後再結集し、やがて時宗(尚、「時宗」という用語は室町以降になって現れます。)という新仏教として成長していきます。日本で最初の民衆の宗教ともいえる時宗を生み出した一遍上人ですが、多数の熱狂的な信者を得ることが出来たのは、極めてカリスマ性のある人物像に加え、全国を十六年もの間布教して回るという強靭的な行動力、そして踊り念仏という庶民も理解できるシンプルな布教方法によることは間違いないでしょう。特に、一遍が自らが新しい宗派を起こすという意図など持たずに、力尽きて倒れるまでひたすら歩き続けた姿は悲壮感もあり、不思議な魅力も感じます。



さて、金蓮寺についてです。
一遍上人死後のことです。一遍の京都での最初の布教拠点となった四条京極(四条大橋西付近)にあった釈迦堂(京極釈迦堂)の辺り(中京区新京極通四条上る西側染殿院前。)には平安時代に創建された祇陀林寺という寺院がありました。(染殿院、釈迦堂等が建ち並んでいたようですが、これらの寺院の関係は不祥です。)祇陀林寺には延慶二年(1309)に時宗の僧・浄阿弥陀仏真観上人が東国から入洛して住持となります。(真観上人は一遍上人の最初の弟子となった他阿上人(多阿弥陀仏 遊行上人二世)の弟子で、京都に布教のために入洛しました。)

応長元年(1311)、浄阿真観上人が、後伏見上皇の女御・広義門院藤原寧子の安産を祈願して霊験があったことから、後伏見上皇から祇陀林寺を賜って寺名を「錦綾山太平興国金蓮寺」と改めました・・これが金蓮寺のはじまりと伝えられます。金蓮寺は真観上人が開いた時宗四条派の本山となり「四条道場」と称されました。室町時代には広大な土地の寄進を受けて、釈迦堂や染殿地蔵を塔頭として包含した大寺となり、踊念仏から転じてしばしば連歌や曲舞等の芸能事が催されたという記録もあります。その後、江戸時代には金蓮寺は衰退し縮小します。当時は境内に芝居小屋等が建ち並んで庶民の遊楽地となっていました。天明八年(1788)の大火で焼失し、後に再興され、大正十五年(1926)に現在の北区鷹峯藤林町に移転しました。
尚、旧地の中京区新京極通四条上る西側染殿院の前には、一遍上人ゆかりの四条道場跡を示す石標が建てられています。絹本着色浄阿真観像(京都府登録文化財)等を所蔵しています。


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