京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

金閣寺・大徳寺・鷹峯他

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10月14日(日)、大徳寺の本坊で秋の寺宝特別公開「曝凉展」がありました。
普段は非公開の本坊ですが、毎年10月第二日曜日に、所蔵する約100点余りの寺宝を虫干し(曝凉)の機会に公開しています。(料金1300円  尚、方丈庭園も含め全て撮影禁止です。)今回も外国からの観光客も含め多く方が訪れていたようです。



大徳寺のような有名寺院については情報も多いので、簡単に書きたいと思いますが難しい感じです・・どうなるでしょうか。京都市北区紫野大徳寺町にある大徳寺は、山号を龍寶山(りゅうほうざん)という臨済宗大徳寺派の大本山です。

元々現在の大徳寺のある辺りは、平安時代に紫野と呼ばれた荒野で、平安初期には天皇や貴族らの狩猟場でもありました。淳和天皇(在位823〜833)は、この地に広大な離宮「紫野院」を造営し、桜や紅葉の名所として貴族らが度々遊興したと伝えられます。淳和天皇は、後に「紫野院」を「雲林亭」と改名し、次代の仁明天皇の時代に皇子の常康親王に継承されます。そして、親王は貞観二年(869)、遍昭僧正に雲林亭を譲渡して寺院に改め「雲林院」と称しました。天台宗官寺として創建された雲林院は、当時多くの塔頭を持つ大寺院でしたが、鎌倉中期頃から急速に衰退してしまったようです。
(尚、現在の雲林院については、以前のブログ記事をご参照ください)

さて、鎌倉時代末期、播磨(兵庫県)出身の宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう 大燈国師)禅師は、京都東山の雲居庵に隠棲し修行していましたが、叔父に当る播磨国守護・赤松則村(のりむら 赤松円心)の帰依を受けて、正和四年(1315 元応元年=1319とも)に則村が雲林院の跡地一部に建てた小堂を寄進されました。こうして宗峰妙超禅師は、小堂を大徳庵と名付けこの地に移り住みました・・これが大徳寺のはじまりになります。

その後、正中二年(1325)に宗峰禅師は、宮中で行われた「正中の宗論」で延暦寺の天台僧・玄慧法印ら他宗派僧を論破してさらに名声を高めます。(また、この宗論で破れた玄慧法印は、妙超門下に入って大徳寺方丈を建立することになりました。)宗峰禅師には、花園上皇や後醍醐天皇が深く帰依し、元亨四年(1324)頃に雲林院の広大な跡地を賜って堂宇を建立。正中二年(1325)花園上皇の祈願所となり、嘉暦元年(1326)の諸堂完成後に正式に龍寶山大徳寺と号しました。

元弘三年(1333)、建武の親政を始めた御醍醐天皇は、大徳寺に「本朝無双之禅苑」の宸翰を与えて祈願所とし、ここに大徳寺は洛北第一の大寺院として、南禅寺と並んで禅宗五山の筆頭に列せられることになりました。しかし、室町幕府を樹立した足利尊氏は、自身が帰依する夢窓疎石の門派を優遇し、以降大徳寺は冷遇されることになります。至徳三年(1386)、足利義満が五山十刹を改めた際には、大徳寺は、五山の下に当る十刹の第九位に寺格を下げられる程に衰えていました。その後の大徳寺は、永享三年(1431)に十刹の位を辞して幕府の影響下から脱し、在野(林下)禅宗寺院として独自の道を歩むことを選びます。こうして幕府から独立したことで大徳寺独自の禅風が現在まで継承されることとなったといえるでしょう。



享徳二年(1453)に火災に遭って堂宇を焼失し、第二十六世・養叟宗頤(ようそうそうい)禅師が一部を再建しますが、さらに応仁の乱(1467〜77)で再建したばかりの堂宇をも失います。ようやく文明六年(1474)に大徳寺第四十七世に任じられた一休宗純禅師により復興への道が開かれました。
応仁の乱で一休禅師は堺に一時避難をしますが、貿易で財をなした堺の豪商・尾和宗臨(祖渓宗臨)らの帰依を得、その財力によって大徳寺は僅かの期間で文明十三年(1481)に再建に成功します。
以降、山内には三好、畠山、六角、朝倉、大友、大内等の戦国大名が菩提寺として塔頭を建立、さらに天正十年(1582)の本能寺の変後、羽柴(豊臣)秀吉は、主君織田信長の菩提を弔うため、大徳寺山内に菩提寺として総見院を建立し、合わせて寺領を寄進、また後に自身の母・大政所のために天瑞寺(明治に廃絶)を建立しています。

秀吉の庇護を受けた大徳寺には、秀吉傘下の石田三成をはじめ前田、黒田、細川、蒲生、金森、森、宗氏等の大名達も相次いで塔頭を建立し寺運は大いに栄えました。江戸時代にも徳川幕府や諸大名の庇護のもとに、現在の法堂、方丈、仏殿等が整備されますが、明治の廃仏毀釈により山内の塔頭の大部分は廃絶しました。しかし、現在も境内には別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が立ち並んでいて京都を代表する大寺院として多くの観光客が訪れています。常時公開されているのは大仙院、高桐院、瑞峯院、龍源院の4塔頭だけですが、春秋に幾つかの塔頭では特別公開されることがあります。




さて、大徳寺は東西約八百メートル、南北約五百メートルの広大な敷地を持ち、境内右寄りに勅使門・三門・仏殿・法堂が南北一直線に立ち並び、さらに法堂の後ろに庫裡や方丈、その東に唐門、経蔵・鐘楼等が並ぶ典型的な禅宗様式の伽藍配置になります。この内、唐門と方丈が国宝、勅使門・三門・仏殿・法堂・経蔵・鐘楼・庫裏は重要文化財に指定されています。(これらの建物は周囲を松並木で囲まれ、また主参道意外は通行禁止のために写真を採るのは難しいです。)

境内の東に接する旧大宮通から総門を入ると、すぐ右手に勅使門が見えてきます。(写真)
勅使門(重文)は、慶長年間(1596〜1614)に建立された御所の門を、後水尾天皇より下賜されて寛永十七年(1640)に移築したもので、桃山時代らしい豪華な建物で、屋根は桧皮葺、前後が唐破風、左右が切妻造の四脚門になります。この勅使門の左側、参道沿いには、平安時代末期の「鹿ケ谷の変」に関与して鬼界島へ配流された(後に許され帰京)平康頼の石仏供養塔と呼ばれる鎌倉時代の地蔵石仏があります。(写真)

勅使門の背後にあるのが巨大な朱塗りの山門「金毛閣」(重文)です。(写真)
室町時代の再建の際に、一休禅師に帰依した連歌師・紫屋軒宗長(さいおくけんそうちょう 1448〜1532)らの寄進で享禄二年(1529)に竣工したもので、当初は資金不足で一階のみでしたが、その後天正十七年(1589)に千利休の寄進により二階部分を増築し、旧龍翔寺(現・大徳寺別山)大雄殿に安置していた釈迦迦葉阿難三像と利休寄進の十六羅漢像を安置し「金毛閣」と名付けられました。この増築の際、閣上に利休自身の等身大の彩色木像を安置したことが秀吉の怒りをかい、二年後に利休が切腹を命じられた原因になったという話は有名です。

仏殿(重文)は、創建時より中国の初期禅宗寺院の様式により法堂を兼ねて建立され、応仁の乱の兵火で焼失した後、文明十一年(1479)に、一休禅師に帰依した堺の豪商・尾和宗臨(祖渓宗臨)や淡路屋寿源等により再興されました。(写真)
現在の建物は、寛文五年(1665)に、第百五十六世・江月宗玩(こうげつそうがん)禅師に帰依した京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)の寄進で建てられたもので、桁行三間・梁間三間、一重裳階・入母屋造の本瓦葺の建物で、正面の須弥壇上に本尊釈迦如来像を安置しています。尚、仏殿前には、寛文五年(1665)の再建時に植栽されたと考えられるイブキの大木があります。イブキはヒノキ科ビャクシン属の高木ですが、これほどの大木になることは珍しく、京都市指定の天然記念物に指定されています。(写真)

法堂(重文)も、応仁の乱後、文明十一年(1479)に堺の豪商・尾和宗臨(祖渓宗臨)らにより再興されたもので、上記のように仏殿と兼用されていましたが、寛永十三年(1636)に、第百五十六世・江月禅師に帰依した小田原城主・稲葉正勝の遺命により、その子正則が寄進したと伝えられ、桁行五間・―梁間四間、入母屋造の本瓦葺で、天井の雲龍図は狩野探幽の筆です。(写真)
同じく、仏殿の東には、同じく寛永十三年(1636)建立の経蔵(重文)や鐘楼、浴室等があります。鐘楼(重文)は、慶長十四年(1637)、第百三十五世・寶叔宗珍(ほうしゅくそうちん)禅師に帰依した毛利家家老・益田元祥が建立し、その後文政二年(1819)に再興されたということです。また浴室(重文)は、元和八年(1622)に第百二十九世・天淑宗眼(せんしゅくそうげん)禅師に帰依した京都の豪商・灰屋紹由が寄進したと伝えられます。


字数オーバーのために次回に続きます。

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北区鷹峯北鷹峯町にある円成寺(圓成寺)は、「洛陽十二支妙見めぐり」の一つ、鷹峯の岩戸妙見宮として知られるお寺です。紅葉の隠れた名所でもあり、向かい側にある光悦寺のついでに寄ってみたいお寺です。



「洛陽十二支妙見めぐり」については、これまでに少し書きましたが、京都御所の紫宸殿を中心に、十二支の方角に祀られている12の寺院の妙見大菩薩をめぐり開運、厄除けを祈願するもので、江戸時代に大流行しました。その後衰退しましたが、近年復活されています。(「洛陽十二支妙見めぐり」のお寺については、これまでに導入寺、満願寺、霊鑑寺、三宝寺、本満寺を採り上げました)

円成寺は、清雲山円成寺と号する日蓮主のお寺です。平安時代、平安京の四方には王城鎮護のために妙見大菩薩が祀られていましたが、特に、大極殿から北に位置するこの鷹ヶ峯一帯は、「北山」と呼ばれる聖地で、霊巌寺(れいがんじ)という官寺が建てられ、平安京の総鎮守の妙見大菩薩が祀られていたということです。その後衰退しますが、江戸時代の寛永七年(1630)に日蓮宗の本山・本満寺二十一世圓成院の日任上人が、巌門玄武神(いわとげんぶじん)の霊夢を感じ、また一条家に請われて、平安時代以来の霊地のこの鷹ヶ峯の地に円成寺を創建し妙見霊場を復興しました。





さて、山門から真っ直ぐに参道が続き、正面に岩戸妙見宮(妙見堂)、左手に本堂、その他幾つかのお堂が立ち並んでいます。正面に妙見宮があるように、このお寺は本堂よりも妙見堂を主殿としてきたお寺です。
この境内の中央にある岩戸妙見宮(妙見堂)は、後ろが古墳状の石窟造りの珍しいお堂です。
内陣には大亀の背に足を踏まえ、右手に剣を左手に蛇を握り、頭上に北斗七世を戴いた六尺余の石造「岩戸妙見大菩薩」が祀られています。毎月1日、15日が縁日で開扉日とされ特別祈祷が行われています。

先程書いたように、円成寺では長く岩戸妙見宮が主殿で、庫裡が寺の本堂を兼ねていましたが、昭和十八年(1943)に、第十八世清蓮院・日明上人が信徒の外護を得て現在の本堂を竣工しました。しかしこの時の過労から日明上人は間も無く亡くなったと言うことです。本堂には一塔両尊の三宝尊と四菩薩(一塔両尊四士)の本尊と宗派・日蓮上人像が祀られています。

境内には常富殿(つねとみでん)、大国殿、巖戸(いわと)の滝、秋山自雲霊神(痔の神)等が点在しています。この内、常富殿(現社殿は昭和三十三年(1958)に信徒の寄付により建設)は、この地の地主神の木造常富稲荷大明神像を祀ります。この鷹ヶ峯の地は、妙見大菩薩の他にも、愛宕神社の旧地でもあり、式内社の葛野郡天津石門別稚姫神社(かどのぐんあまついわとわけわかひめじんじゃ)があり、また北山神の勧請地でもあった聖地ということで、日任上人が円成寺を創建した際に、この地の地主神として常富稲荷大明神を祀り、また巖戸(いわと)の滝を築造し修行したと伝えられます。
他に、面白いのは痔の神様の秋山自雲霊神です。
秋山自雲(しゅうざんじうん・あきやまじうん)は、本名は、岡田孫右衛門といい、江戸時代に摂津国に生まれ、後に江戸霊厳島の酒問屋・岡田家の下で奉公して見込まれて岡田家を継ぎました。晩年悪質な痔のために苦労し、様々な治療も効果が無く、剃髪し浅草本性寺に篭り病気祈願に努めましたが完治しないまま45歳で亡くなりました。死の前に「自分が死んだ後に、痔病に苦しんでいる人を救いたい」と語り、以後、各地に痔の神様として祀られたようです。現在も全国各地で秋山自雲は祀られているようです。

源光庵

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今回は北区鷹峯北鷹峯町にある源光庵です。

京都ファンの方はご存知かと思いますが、源光庵は昨年秋まで2年間修復のために非公開だった寺院です。昨年秋には公開を待っていた観光客が多数訪れました。(昨年、私も付近まで行ったのですが、あまりに観光客が多いのに辟易して違うお寺に行ってしまいました。源光庵のようなそれほど大きくないお寺は紅葉時は要注意ですね。)
紅葉時には人であふれる源光庵も、新緑の頃は、贅沢な静かな時間をゆっくり味わえます・・正直このお寺はこれからの季節もお勧めです。





さて、源光庵は、正しくは鷹峯山宝樹林源光庵という曹洞宗のお寺です。
室町時代の貞和二年(1364)、臨済宗大本山・大徳寺二代・徹翁義享(てっとうぎこう)国師によってに創建されましたが、元禄七年(1694)、加賀大乗寺二十七代・卍山道白(まんざんどうはく)禅師が住持となって曹洞宗に改められました。
入母屋造の本堂は元禄七年(1694)、卍山道白禅師に帰依した金沢の豪商・中田静家の寄進により造られ、本尊の釈迦牟尼仏像や、卍山禅師が天和元年(1681)に京都の宇治田原の山中で感得したという霊芝観世音菩薩像を祀ります。この観音菩薩像は、第百十一代後西天皇から尊崇され宮中で供養されたもので、広く信仰され開運霊芝観音と呼ばれてきたと言うことです。その他享保四年(1719)に建てられた開山堂(復古堂)には卍山道白禅師の木造を祀ります。





源光庵といえば、本堂内廊下の「血天井」が有名です。
「血天井」はこれまでも幾つかのお寺で登場してきましたが、伏見城の遺構になります。慶長五年(1600)の関が原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いで、西軍の大軍と交戦し敗れた徳川家康の家臣・鳥居元忠ら380余人が切腹した際の血が生々しく残った天井板です。
尚、鳥居元忠の首は大阪京橋口に晒されましたが、元忠と交わりのあった京都の御服商・佐野四郎右衛門が哀れに思い夜半に盗み出して、京都知恩寺の墓に葬ったと伝わります(前に採り上げました知恩寺になります)源光庵の卍山道白禅師が徳川家と関係が深かったために、元禄時代に源光庵の本堂が再建された際に、諸兵の菩提を弔いのために伏見城の床板一部を移したものです。本堂全域に渡る血天井には手形や足型がはっきり残っています。(写真)

また本堂内には、禅の教えを象徴した有名な「悟りの窓」と名付けられた丸窓と、「迷いの窓」と名付けられた角窓があります。「悟りの窓」は円形に「禅と円通」の心を表し、円は大宇宙を表現。また「迷いの窓」は、角型に「人間の生涯」を象徴し、生老病死の「四苦八苦」を表しているということです。(写真)
その他本堂裏の西の谷にある「稚児井(ちごのい)」は、飲料水に困った徹翁国師が夢の中で池に棲む龍が童子に変身して現われ、溝の涌きでることを教え、これにより、多くの人々を飢饉から救ったという伝説があるということです。 また、本堂裏の枯山水庭園や本堂の周りは紅葉や四季の花が美しいお寺でもあります。



源光院は、紅葉時を外せば静かな時を過ごせるお勧め寺院です。この日も、中学生らしい修学旅行生のグループが数組タクシー貸切で訪れた以外は拝観客が2人程度で、ゆっくりした気分を味わえました。

常照寺

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北区鷹峰北鷹峯町、吉野太夫ゆかりのお寺として知られる常照寺は、山号を寂光山と称する日蓮宗寺院です。前に少しだけ採り上げましたが、もう少し掲載します。



常照寺は、元和の二年(1616)、本阿弥光悦の土地寄進を受けて、寛永四年(1627)その子光嵯が発願し、日蓮宗総本山身延山久遠寺第二十一世・寂照院日乾(にちけん)上人を招じて創建したお寺です。以降、山城六檀林の一つ「鷹峰檀林(仏教学門所)」と称され広大な境内に堂宇が建ち並び、多くの学僧が学んだと言うことですが、明治以降に一時衰退し再興されました。

さて、常照寺のシンボル、吉野門と呼ばれる朱塗りの山門は、寛永五年(1628)、日乾上人に帰依していた二代目吉野太夫(灰屋紹益の妻)が私財を投じて寄進したものです。
吉野太夫は、都の六条三筋町(後の島原)の廓の名妓で、才色兼備で寛永三名妓の一人と謳われました。当時の京都の遊里は公家や大名また大商人等が集う文化サロンでもありました。吉野太夫は和歌や連歌、俳句、茶道、華道、音曲、さらに囲碁や双六など諸芸に優れ、その名は中国まで伝わっていたということです。やがて京の豪商・灰屋(佐野)紹益に見初められ、身請けされて東山で幸せに暮らしますが、(この2人のロマンスは有名で歌舞伎の演目になっています。)寛永二十年(1643)に38歳で病死しました。吉野太夫は、光悦の縁故により常照寺の日乾上人に帰依して山門を寄進し、死後はてこの寺に葬られました。





境内には本堂を中心に開祖日乾上人を祀る開山堂、鬼子母尊堂、神堂、常富堂、衆玅堂(書院)、梅樹庵(庫裡)、太夫が好んだ丸窓を配した茶室の遺芳庵等が建ち並びます。
また開山堂の裏には吉野太夫の墓があり、吉野太夫と灰屋紹益の二人の名前を刻んだ比翼塚と歌碑があります(写真)
また、山門近くには、日本でここだけという「帯塚」があります。(写真)
女性を象徴する帯に感謝するものとして昭和四十四年(1969)に建てられたものですが、塚の周りの庭は高峯三山を表現したもので、昭和を代表する造園家中根金作の作ということです。
その他、毎年4月第3日曜には吉野太夫を偲んで「吉野太夫花供養」が行われ、太夫道中や供養法要、茶会等が行われ多くの参詣者が訪れます。




常照寺は光悦寺、源光庵と共に鷹峯地域の観光名所として知られます。
吉野太夫のエピソード以外には、特に印象が強いという程のお寺では無いのですが、桜や紅葉でも知られ赤門が絵になります。少し女性らしい優しげな雰囲気が見所でしょう。

神光院

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北区西賀茂神光院町にある神光院(じんこういん)は、山号を放光山という真言宗の単立寺院で、東寺、仁和寺と共に京都三弘法の一つに数えられます。
「西賀茂の弘法さん」として信仰の寺としては良く知られていますが、観光寺院では無いので普段は訪れる人も少ないお寺です。ただ、紅葉や冬の山茶花で知られる花の名所でもあります。


寺伝に拠れば、建保五年(1217)、上賀茂神社の神主、賀茂(松下)能久が加茂明神の霊夢により、霊光の照らした地に、一宇を建立せよとの神託を受けて、大和三輪より慶円上人を招いて創建したと伝えられます。寺名はこの由緒に因んで、神光院と名付けられたと言うことです。またそれ以前は、瓦屋寺と呼ばれて、御所に奉納する瓦製作の職人の宿所に使用されていたとも伝えられます。

以後、密教道場として栄えましたが、江戸の天保年間(1830〜43)に火災により堂宇を焼失しました。その後、明治十一年(1878)に和田月心が再興し、以後書院等が整備され、現在に至っています。正面に庫裏等、小さな池を隔てて西側に本堂、中興堂が点在しています。寺宝としては、仏限曼荼羅図(重要文化財)等があります。

本堂に安置する本尊・弘法大師像は、弘法大師空海がこの地で修行した際に、境内の池に自身の姿を映して刻んで無病息災を祈願したものと伝えられます。「厄除大師」の名前で知られて、現在も多くの信仰を集めています。
また毎年7月21日と土用の丑の日には、諸病封じの「きゅうり封じ」という疫病除けの祈祷会が行われています。これは、前に蓮華寺の時にも書きましたが、弘法大師空海がはじめたと伝わる病気退散の秘法で、氏名や年齢等を記入した紙できゅうりを包んで祈祷を受けて持ち帰り、身体の悪いところをなでて土に埋めるか、境内のきゅうり塚に埋めると病気が取り除かれると言うことです。



また山門を入った左にある茶室「蓮月庵」は、幕末の歌人・太田垣蓮月尼が晩年隠棲していた場所として知られ、境内には住居跡を示す「蓮月尼旧栖茶所」という石標と蓮月の歌碑が建っています。
太田垣蓮月(1791〜1875)は,名を誠といい才色兼備でしたが、夫と二度も死別、四人の子にも先立たれ、33歳で出家して蓮月尼と称しました。煩わしさを逃れ生涯三十数回住まいを替え「引越しの蓮月」と異名されましたが(勤皇の志士を匿ったためと言われます)、戊辰戦争の際に、三条大橋を通りかかった官軍の西郷隆盛に歌を渡したというエピソードでも知られます。「あだみかたかつもまくるも哀れなり 同じ御国の人と思へば」・・同じ日本人同士が戦うことの悲劇を詠ったこの歌が、江戸城の無血開城に影響を与えたとも伝えられています。

晩年はこの地神光院境内に住んで歌や書、茶道に親しみ、また陶芸の才も発揮し人気を博します。この頃は当時22歳の孫のような富岡鉄斎に作陶の仕事を手伝ってもらいながら共同生活を送り、飢饉救済の募金活動や、丸太町に橋を架けたりとボランティアにも勤めました。明治八年(1875)、85歳で亡くなりましたが、遺言で「ただ無用の者が消えゆくのみ、他を煩わすな、富岡だけに知らせてほしい」と頼んだということです。(墓は近くの西方寺の墓地にあります)


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