京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

金閣寺・大徳寺・鷹峯他

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続きです。

今宮神社に到着した行列は、再び氏子地区を練り歩いて光念寺へ戻って行きました。
私を含むたいへん暇で物好きな方が数名最後まで行列を追って歩きます。

途中で道端に出てきた近所の方の労いを受けながら、疲労した行列はようやく光念寺に到着しました。
最後にご住職から各自頭に数珠を置いてもらって祭は終わりました・・皆さん疲れながらもホッとしている様子で、祭をやり遂げたという充実した表情が良いです・・・親しみ深くて私も好きな祭です。

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今週4月8日、「鞍馬の火祭」「太秦の牛祭」と共に京都三大奇祭の一つとして知られる「今宮神社のやすらい祭」が行われました。
「やすらい祭」は平安時代に溯る貴重な伝統行事で重要無形文化財に指定されています。
また、今宮神社に隣接する上野町の他に、北区紫野の玄武神社、西賀茂の川上大神宮社でも行われ、また五月には上賀茂でも行われています・・・玄武神社、川上大神宮社&総神社、そして光念寺の紹介を兼ねて、4回に分けて・・また長くなりますが^_^;祭の様子を掲載します。





現在行われている4つの「やすらい祭」を整理すると、

4月第2日曜日
○紫野雲林院町のやすらい祭・・・巡行ルートは玄武神社〜氏子地区〜玄武神社

○西賀茂川上(南川上町)のやすらい祭・・・巡行ルートは川上大神宮〜総神社〜今宮神社

○紫野上野町のやすらい祭・・・巡行ルートは光念寺〜今宮神社〜光念寺

5月15日葵祭の当日
○上賀茂(岡元町)のやすらい祭(5月15日葵祭の当日)・・・巡行ルートは岡本やすらい堂〜太田神社〜上賀茂神社〜岡本やすらい堂
になります。




さて、やすらい祭の起源は、平安時代に船岡山で疫病を鎮めるために御霊会(ごりょうえ)を行ったことに始まると言われ、神輿に従った民衆達が船岡山に登って踊りやお囃子で病魔退散を願ったと伝わります。この御霊会と、奈良時代から春に行われていた「鎮花祭」とが結びついて「やすらい祭(やすらい花)」が生まれたようです。「鎮花祭」とは花を鎮める祭の意味ですが、春には疫病が流行することから、桜の花びらが飛び散る様子が疫病神が飛び回る様子を連想して生まれた疫病退散の神事でした。
さて、やすらい祭はその後衰退しますが、江戸時代にこの京都西陣出身の徳川五代将軍綱吉の母・桂昌院が故郷を懐かしんで復活させたと言われます。また京都の祭の先駆けとして、やすらい祭が晴れるとその年の京都の祭は全て晴れになると言われていて、今年は大丈夫のようです。





今宮神社のやすらい祭の行列は、正午頃に紫野上野町の光念寺から始まります。
本来この光念寺というお寺はやすらい祭とは関係無いのですが、氏子地区のお寺として場所を貸している関係にあります。行列は直径約2mの風流傘(ふりゅうがさ)を立てて氏子町内を練り歩きます。行列の中ほどには赤熊(しゃぐま 赤と黒の飾り髪)を振り乱した鬼たちがいて、囃子方の笛の音に合わせて鉦や太鼓を打ち鳴らして踊りながら進んで行きます。また花傘の下に入ると病気にならないと伝えられていて、町内の、特に子供たちが親に連れられて花傘の下に入っていました。

さて、午後2時頃の今宮神社境内では、行列が戻ってくるのを待つ観光客が増えてきました。
光念寺を出発した2つの風流傘を立てた行列2隊と、西賀茂川上の川上大神宮を出発した1隊が今宮神社に集結するのです。
拝殿では風流傘と鬼や子供の人形が展示されています。(写真)氏子と関係なく一般参拝者用に笠が置かれているもので、参拝者が並んで傘の下に入っていました。
いよいよ行列は午後3時ごろに今宮神社に到着し、境内の疫神社で祈願します(実は今宮神社境内の摂社・疫神社のお祭りなのです。)そして拝殿前と拝殿横のロープが四角く張られている中で黒髪と赤髪をした鬼たちが飛び跳ねるように踊りました。(写真)

今宮神社の行列は、若い少年や青年が鬼たちに扮し元気に飛び回りますが、彼らは行列の最中に前後数十回は跳んでいるでしょう・・体力が必要なハードな祭です。先頭の小学生は疲労で半分眠っています。その後、また行列は町内を練り歩き光念寺へ戻って行きます。次回に写真を掲載します。
また、その後に遅れて川上大神宮の行列が到着しました。こちらの鬼はおじさん中心の4人で動きは少ないです・・次回以降に紹介します。

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西行きの市バスで大徳寺前の停留所で降りると、すぐ南にある小さなお寺が大徳寺の境外塔頭の雲林院です。大徳寺に行く度に、気になっていたお寺ですが今回訪ねてみました。
実は、このお寺は大徳寺が創建される前は、この辺りに広大な寺域を持っていた由緒あるお寺です。





北区紫野雲林院町にある雲林院は、現在は大徳寺に属する臨済宗寺院ですが、平安時代に溯る由緒ある寺院です。かって平安時代には、この付近一帯は紫野と呼ばれた荒野で狩猟も行われていました。
淳和天皇(在位823〜833)は、この地(現在の大徳寺の辺り)に広大な離宮「紫野院」を造り度々行幸したと言うことです。また桜や紅葉の名所として知られ、文人を交えての歌舞の宴も行われていました。そして天長九年(832)に紫野院に行幸した際に、雲林亭と改名したと言うことです。
雲林亭は、次代の仁明天皇の時に皇子の常康親王に伝えられ、親王が出家した後の貞観二年(869)遍昭僧正を招いて譲渡し、寺院とし雲林院と称しました。このように、雲林院は当初、天台宗の官寺として創建され、後に遍昭僧正により花山元慶寺の別院となります。その頃は多くの塔頭を持つ大寺院だったようです。





さて、雲林院は当時非常に有名なお寺だったため、多くの文学作品に登場してきます。
「源氏物語」の「賢木の巻」では桐壷帝の崩御の後、光源氏が藤壷中宮に求愛し拒絶された後、雲林院に参籠する場面出てきます。ちなみに、前にブログで採り上げましたが、北区紫野西御所田町に紫式部の墓がありますが、この墓のある場所は雲林院の塔頭・白毫院の南側と記録にあるので、寺域も広かったことが想像できます。

また雲林院は法華経を集まって講じる菩提講で知られるようになり、歴史物語「大鏡」は、この菩提講で落ち合った老人の昔話として展開します。「枕草子」でも清少納言が賀茂祭の祭りを雲林院の近くで見たようです。さらに「平家物語」でも鹿ケ谷の変で捕らえられた藤原成親の妻子が雲林院に逃げ込んでいます。
古今集の歌枕としても登場します・・「雲林院の木のかげにたたずみてよみける  わび人のわきて立ち寄る木のもとは頼むかげなく紅葉散りけり」(古今集から遍昭僧正)さらに西行の歌にも出てきます・・・「これやきく雲の林の寺ならん 花を尋ねるこころやすめん」(西行)

また、謡曲「雲林院」はそうした雲林院の華やかな時代を偲んで作られています。
摂津の国芦屋の在原公光という人物が、幼少時から伊勢物語を愛読し心酔してきました。ある夜、在原業平と二条の局が雲林院で伊勢物語を持って佇んでいるという夢を見たので、不思議に思って雲林院を訪ねます。そこに現われた老爺の勧めで花の下でまどろんでいると、やがて公光の夢に業平の霊が現れ、伊勢物語の秘伝(恋愛の事)を語り、その時の思いでのままに桜月夜の中で優雅な舞を見せます・・そして公光は目覚めると言うストーリーです。






しかし、平安時代に栄えた雲林院は、鎌倉時代中期頃から急速に衰退し、鎌倉時代末期の正和四年(1315)、大燈国師(宗峰妙超禅師)がこの地に大徳寺を開き、花園天皇から雲林院の土地を賜わります。その後は記録も残っていませんが、応仁の乱以降は廃寺となったようです。
その後、江戸時代の宝永年間(1704〜1711)に大徳寺の江西宗寛和尚が、大徳寺の前身でもある由緒ある寺として、跡地に観音堂を再建しました。これが現在の観音堂で、大徳寺の開山・大燈国師像と十一面観音菩薩を祀ります。こうして再建された雲林院ですが、今も本堂も無く観音堂のみの小寺で、先代の住職までずっと無住が続き地域の住民の力で維持されてきたということです。

近年、雲林院町にあるマンションが建築された際、工事現場から雲林院の客殿跡が発見され、大徳寺の境内〜雲林院町〜北大路堀川にかけて広大な寺域を誇った寺院の姿がまた少しわかってきたようです。現在の雲林院からはかっての栄華は想像出来ないですが、平安文学の中にその名が記録されているだけでも救われているのかもしれません。

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前回の龍源院の続きです。


方丈北庭は、龍源院で唯一創建当時の石組を残している由緒ある庭です。
「龍吟庭(りょうぎんてい)」と名付けられ、室町時代の伝統的な三尊石組から成る須弥山形式の枯山水庭園で、相阿弥作と伝えられています。青々とした杉苔が大海原を、28個の石組が陸地を表していて、その中央で斜めに高く突き出ているのが須弥山石で、その手前にある丸い板石が遥拝石です。一見目立つ現代的な「一枝坦(いつしたん)」よりも、落ち着いた趣のある庭だと感じます。
苔の美しい時期は特に素晴らしく、新しい庭が多い龍源院が古風な雰囲気を維持しているのは、この庭のおかげだと思います。



方丈東庭は、「東滴壺(とうてきこ)」と名付けられた日本で最小という壷庭です。
昭和三十五年(1960)の作ですが、壷庭としては珍しく格調高い枯山水庭として造られています。小さいので、庭全体を上から見下ろすことが出来ますが、砂紋、平石、尖った立石の対比等が魅力的です。中央に平たい石があり、白砂の砂紋が描かれているのが庭の中心で、一滴の水が生んだ波紋が、大海に広がる様子を表して、一滴一滴が大海につながるという禅の悟りの世界を象徴させている庭です。
実は、龍源院で一番人気はこの「東滴壺(とうてきこ)」ということです。日本最小の枯山水という話題性、さらに波紋が広がる様子など精神性を感じさせる造形で、禅の教えや枯山水入門の良い教材だと感じます。もちろん写真ファンにも人気です。




玄関へ入った左側の書院にあるのが、阿吽の石庭「滹沱底(こだてい)」です。
書院の南軒先に横に細長く広がった石庭で、ご住職が、宗祖の臨済禅師が住んだ、中国河北の鎮州城の南を流れる滹沱河にちなんで「滹沱底(こだてい)」と名付けたものです。「阿(あ)」とは、口を開いて発する最初の音、「吽(うん)」とは、口を閉じて発する最後の音で、そこから天と地、陰と陽、プラスとマイナスのような万物の始まりと終わり、切り離す事のできない宇宙の真理を象徴するものとされます。
この庭はそのような宇宙の真理を表現しているということで、庭の右と左に基礎石があり、向かって右が「阿(あ)」の石、左が「吽(うん)」の石になります。尚、この2つの基礎石は、豊臣秀吉が建設した聚楽第のものと伝えられています。この庭も新しい庭ですが、可愛い庭です。
また、この石庭の右には、創建当時から残る古い野井戸「担雪井」があります。





最後に、龍源院の寺宝についてです。
方丈脇壇に安置されている本尊の木造釈迦如来像(重要文化財)は、胎内に鎌倉時代の建長二年(1250)、行心造の墨書が残されていて、京都八釈迦の一体と言われています。
また、方丈の襖絵としては「列仙の図」や、十六枚の豪快な「竜と波の図(筆者不明)」があり(前回に写真あり)、秀吉と家康が対局したという四方蒔絵の碁盤と碁筒、種子島銃等も展示されています。
(他にも、長谷川等伯筆「猿猴図」、狩野探幽作の「達磨図」等の寺宝があるようですが通常公開されていません。)

また鈴木松年作「白蔵主と月にむら雲」という屏風が展示されていて、説明書きがありました・・・・昔、大阪堺の南宗寺の塔頭の松林寺にいた一人の雲水僧が、日夜修行し、また悩んでいる人々を助け活躍していましたが、実はこの雲水、松林寺山内の耕雲庵に住む一匹の老狐だったのです。この老狐の死後、付近の人々は「白蔵主」と呼び、今も耕雲庵の裏山に祠を立て祀っています。龍源院にある、この「白蔵主と月にむら雲」屏風ですが、明治の画家・鈴木松年が「白蔵主」の逸話を描いたもので、現在龍源院に納められることになったのは、以下の不思議な実話によるということです。

昭和三十五年(1960)に、ある大阪の人が、突然、龍源院を訪ねて、この絵の寄進を申し出たということです。何でも、家業がうまくいかず、身内の不幸が続き、行者に見てもらった所、家の中に狐の絵がないか?その狐は今も修行中で、どこかのお寺に納めて欲しがっているので、一刻も早く納めなさい、という話だったそうです。それで行者と一緒に、京都のお寺を色々訪ねますが、龍源院の前でどうしたわけか一歩も足が進まなくなったということで、龍源院に寄進をお願いされたということです。龍源院の方丈・東の間は、江戸時代の大徳寺百八十世・禅海宗俊和尚が「狐窟」と名付けていて、これは不思議な御縁ということで龍源院は寄進を受けました。現在も寄進者は無事に過ごされているということで、龍源院では東の間にこの屏風を展示しているということです。





龍源院には新旧の色々な枯山水があり、枯山水庭園に興味が出てきた人の入門篇としてもピッタリのお寺です。書院の畳の上で寛いでも良いし、「龍吟庭(りょうぎんてい)」の横には椅子も置かれています。私も学生時代に結構好きだった場所の一つで、夏の午後、涼しい堂内でゆっくり庭を眺めて時を過ごすという贅沢な体験をした記憶があります。可愛い庭があり、特にカップルにもお勧めという感じです。大徳寺の常時公開されている4塔頭では、まったり度の高い高桐院、龍源院が飽きがこなくて何度か訪ねられそうですね。

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大徳寺の塔頭、龍源院は特徴ある5つの枯山水庭園があることで知られています。
堂内も寛げる雰囲気があり、大徳寺山内でも人気のある塔頭の一つです。ここは個性豊かな庭を中心に2回に分けて掲載してみます。




龍源院は、文亀二年(1502)に、能登(石川県)の大名・畠山義元が、周防(山口県)の大内義興、豊後(大分県)の大友義親の協力を得て、東渓宗牧(とうけいそうぼく・仏恵大円国師)禅師を開祖として創建したと伝わります。尚、創建年代については、より遅い永正年間(1504〜21)という説もあります。
開山の東渓宗牧は、大徳寺の開山・宗峰妙超(大灯国師)より第八世の法孫になり、大徳寺四派の南派を創始した名僧で、それ以降、龍源院は南派の本庵となっています。(尚、他の大徳寺四派は、北派(大仙院)、龍泉派(龍泉庵)、真珠派(真珠庵)になります。)





また、「龍源院」という寺号は、大徳寺の山号「龍宝山」の「龍」と、中国宋時代に日本に伝来した24流の臨済禅の内で唯一存続している「松源一脈(南宋の禅僧・松源崇岳(しょうげんすうがく)の禅を継承する流派)」の「源」の2文字を採って名付けられたと言われています。
その後、明治初期の神仏分離によって、大阪・住吉大社の社内にあった慈恩寺と、岐阜高山城主・金森長近が、主君織田信長の菩提を弔うために大徳寺内に創建した金竜院(慶長年間(1596〜1615)に、現在の紫野高校付近に建立)とを合併して、今日に至っています。

龍源院の方丈(一重入母屋造、桧皮葺)、玄関(一重切妻造、、桧皮葺)、表門(四脚門切妻造、桧皮葺)は全て、創建当時のもので、室町時代最古の方丈建築の一つとして重要文化財に指定されています。また開祖東渓禅師の塔所の開祖堂は、古式に基づいて昭和に建てられたものです。





さて、一番の見所の庭園ですが、方丈を中心に東西南北の四方に、南庭、北庭、東の壷石庭、開祖堂前庭、及び庫裡南軒先の計5つの庭があります。
今回は、南庭と開祖堂前庭を、次回は北庭、東の壷石庭、庫裡南軒先の庭を採り上げます。

方丈前庭(南庭)は、「一枝坦(いつしたん)」と名付けられた枯山水庭園です。
開祖東渓禅師が、師の実伝宗真和尚から賜った室号「霊山一枝庵」にちなんで名付けられたということです。この「一枝担」にはかって樹齢七百年を超す中国種の山茶花(さざんか)の「楊貴妃」という老木が花を咲かせていましたが、昭和五十五年(1980)に惜しくも樹齢尽き枯れてしまったということです。そこで御住職が、禅宗様式の端的な枯山水として、自身設計・監督して作庭したのが現在ある蓬莱式庭園です。
庭の中央右の高い石組が蓬莱山で、右隅の石組みが鶴島、左の丸い大きな苔山が亀島、白砂が大海原を表しています。蓬莱式庭園の伝統を残しながらモダンなイメージを取り入れた面白い庭だと思います。

また、方丈の西側には、インドの鶏足山から名付けられた開祖堂の前庭「鶏足山(けいそくせん)」があります。木々が茂り、苔の中に開祖堂へ石畳が続きます。この庭のアクセントになっているのが元大宮御所にあったという桃山型の石灯籠です。(写真)



次回に続けます。


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