京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

金閣寺・大徳寺・鷹峯他

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瑞峯院(大徳寺塔頭)

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大徳寺の塔頭の瑞峯院は、常時公開されているので拝観された方も多いと思います。
大徳寺の大仙院の庭園が苦手という方には、瑞峯院や龍源院の庭は枯山水の入門としても良い感じですね。



さて、瑞峯院は、室町時代の天文四年(1535)、九州の豊前・豊後(大分)の戦国大名・大友義鎮(おおともよししげ。後に宗麟と号する。)が、大徳寺第91世の徹岫宗九(てっしゅうそうきゅう・普応大満国師)禅師に帰依して開祖に迎え、自身の菩提寺として建立したお寺で、寺号は宗麟の法名に由来します。大友義鎮は後にキリシタンの洗礼を受け、戦国期を代表するキリシタン大名として知られます・・・・通常、瑞峯院の沿革はこのように書かれますが、天文四年(1535)には大友義鎮(宗麟)は僅か5歳だったので、実際は父の大友義鑑(おおともよしあき)が創建し、後に子の義鎮が寺号を改めたのか、創建年代にずれがあるのかもしれません。尚、開祖の徹岫宗九禅師は、天文二十二年(1553)に上洛した若き日の上杉謙信に禅を教えた人物でもあります。





方丈は、創建時のもので、表門、唐門と共に、室町時代の禅宗方丈建築の貴重な遺構として、国の重要文化財に指定されています。方丈の正面には開祖徹岫宗九の木像が安置され、方丈正面の瑞峯院の額は後奈良天皇の親筆。また、方丈襖絵は、昭和の日本画家・野添平米によるもので、世界的な名山、朝鮮の金剛山の風景が三十三間に及んで描かれています。

また、瑞峯院には、全て近年の建築ですが、表千家の様式で建てられた茶室「餘慶庵」と「安勝軒」、また利休の残した唯一の茶室遺構「待庵」の写し(「平成待庵」)があります。(通常拝観は安勝軒のみです。)「餘慶庵」は、表千家8代目啐啄斎の好みの席を写したもので、六畳台目の席で、次の間に八畳の下座床の席、また廊下を隔てて四畳半席があります。「安勝軒」は、表千家第12代惺斎の好みで、大徳寺山内唯一の逆勝手席になっています(写真)
「平成待庵」は、千利休の残した国宝・待庵を四百忌の際に有士により復元建立したものです。





瑞峯院の庭は、開創400年を記念して作庭されたもので、これまで何度も登場していますが、大正から昭和にかけて活躍した作庭家・庭園史研究家の重森三玲の昭和三十六年(1961)の作になります。
方丈前の庭園は、寺号の「瑞峯」をテーマにした蓬莱山式庭園です。
中国唐時代の禅僧百丈禅師が、「独坐大雄峰(今ここに一人座っていることが、尊くありがたいことである)」と呼唱したという禅語から「独坐庭」と名付けられています。
蓬莱山の山岳から半島になり、大海の荒波が押し寄せている中で雄々と独座しているという大自然を表しているそうです。重森三玲らしい「立石」と、白砂・飛び石・苔の複雑な構成が印象的です。

また、方丈裏には「閑眠高臥して青山に対す(枕を高くし青々とした山でも眺めながら昼寝でもしよう。)」という禅語から「閑眠庭」と名付けられた庭があります。
開基の大友宗麟が、晩年キリスト教を保護し、自身も洗礼を受けるなどキリシタン大名として知られていることから、十字架をモチーフにして作庭されています。中庭にあるキリシタン灯篭を起点に、7個の石組みからなり、庭を斜めに横切るように縦に4個、横に3個の石の流れが十字架に組まれています。縁側の東から眺めると大きな十字架を形作っているように見えます。
他に、茶室前の「茶庭」もあり、境内墓地には、大友義鎮(宗麟)夫婦の墓があるようです。





瑞峯院は、方丈や表門等の他は新しく、一番の見所の茶室や庭園も古いものではありません。
重森三玲作の庭園、特に「独坐庭」は重森の代表作の一つとして知られます。また「閑眠庭(十字架の庭)」も現代的な発想で面白いです。
全体的には、大徳寺山内の常時公開されている4塔頭の中では、親しみやすい反面、やや印象が弱いという気もします。他の3塔頭(大仙院、龍源院、高桐院)ははっきり覚えていたのですが、大学時代のサークル活動で5回行っているのに、今回結構忘れていたりしましたm(__)m・・・と言っても、もちろん観光寺院として一度は見ていただきたいお勧めお寺です。

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大徳寺の塔頭、興臨院は、通常非公開寺院ですが、近年公開の機会を増やしているようで、昨年秋に続いて、現在も冬の特別公開をしています。
(また今年の春3月〜5月にも、黄梅院と共に特別公開するらしいです。)
ブログを始める前の一昨年秋、特別公開で初めて行った塔頭ですが、その時は写真撮影禁止だったので少し印象が薄れてきていました・・・それで再度訪れた所、この度は写真撮影出来るようでした。





興臨院は、室町時代の大永年間(1521〜28)、能登の守護大名・畠山義総が、大徳寺の第86世小渓紹怤和尚(仏智大通禅師)を開祖として建立し、以後畠山氏の菩提寺になっています。また、寺号の興臨院は義総の法名から名付けられました。
本堂は創建直後に焼失し、すぐ再建されたもので、現本堂は天文二年(1533)頃の再建で、唐門(玄関)、表門が重要文化財に指定されています。また畠山家の没落後、天正九年(1581)、前田利家によって本堂の屋根の修復が行われ、以後前田家の菩提寺となりました。
昭和五十年(1975)より3年間の解体修理により、本堂、唐門(玄関)、表門が再建当時の姿に復旧され、この時に庫裡が新築されました。





本堂は、室町時代の方丈建築様式の特徴を残した一重入母屋造りの桧皮葺です。江戸期の建築より屋根が低く、素朴で落ち着いた姿をしています。また、内部には日本で最初という床の間があり、方丈内の天井は、「響き天井」になっていて、手を叩くと音が反響します。
本堂は、江戸期の名勝図絵によると、狩野元信や土佐光信などの墨絵や彩色障壁画が飾っていたようですが、幕末から明治維新の混乱期に失われたということです。さらに、表門(重文)は、桧皮葺きの平唐門で大徳寺山中でも有数の古い門になり「興臨院の古門」として知られます。唐門(重文)も唐破風屋根の桧皮葺で、室町期の禅宗建築様式らしい特徴を表しています。

また、茶室の涵虚亭(かんきょてい)は、昭和初期の建築ですが、蘇東坡(そとうば)の詩から名付けられた武家茶道を広めた古田織部好みの四畳台目に隅板を加えた茶室です。
特徴は給仕口を入った所が板敷きになっていることや、給仕口の右がすぐ床の間になっていて、床の間の半分が壁によって隠され、洞床(ほらどこ・床の前に袖壁が出ているために中が洞の様に見えることから)になっているなどがあります。





方丈前庭は、方丈の解体修理完成時に資料を基にして復元された彼山水庭園です。
古代の中国の天台山・国清寺の石橋を模して作庭され、石組と松により理想的な蓬萊世界を表したものと言うことです。庭の西(右)には貝多羅(バイタラ)樹という樹木が植えられています。和名で多羅葉(たらよう)という樹ですが、この貝多羅(バイタラ)とはサンスクリット語で木の葉の意味で、古代インドで経文を書写するために、その葉が用いられ珍重されてきた木ということです。
その他、寺宝として中国元時代の長成作の銘のある「椿尾長鳥模様堆朱盆(つばきおながどりついしゅぼん)」があり、重要文化財に指定されています(京都国立博物館委託)、墓地には畠山家歴代の墓や久我大納言家の墓等があるようです。





興臨院は、改築されたために新しく綺麗な雰囲気のお寺です。
庭や茶室の細部など魅力的な所はあるのですが、常時公開されている他の大徳寺の塔頭に比べるとやや個性が弱い印象があります。まずまずという感じでしょうか。

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北区平野桜木町にある小さな神社、金攫八幡宮(きんかくはちまんぐう)です。
西大路通沿いにあって、わら天神(敷地神社)と平野神社の間に位置しているので、ご存知の方もあると思います。なぜこんな神社を?というご批判の声もありそうなのはわかっているのですが・・・。


実は、現在ネット検索してもこの神社の歴史的なことはまったく不明です。
しかし、昨年末に小さな案内板が張り出されて少し神社の来歴がわかるようになりました。地元でないと得られない情報で、金攫八幡宮の歴史的由来がネット上に登場するのはこのブログが初めてのようなので、採り上げた次第です。



金攫八幡宮は、別名、小北山八幡宮(おぎたやまはちまんぐう)とも呼ばれ、江戸時代の貞享二年(1685)正月に、京都府八幡市の岩清水八幡宮から、祭神の八幡神(応神天皇)を分霊して、現在の地(当時は、葛野郡衣笠村字小北山(かどのぐんきぬがさむらあざおぎたやま)と呼ばれていました)に創建された神社です。

その後はこの地の産土神として、人々の崇敬を集めてきたようです。祭神は、もちろん応神天皇ですが、古来、文教の祖、殖産興業の守護神として、また長寿だったことから延寿(寿命を延ばす)の神として拝められました。
創建当時は、この地は田圃の中にわずかな住居が点在するような寂しい場所でしたが、現在は京都市内の西北の一角(京都市北区平野桜木町)となり、多くの人々に親しまれる神社となったということです。また境内の東側には、大きな(高さ8.5m、周囲1.63m)のクロガネモチ(「黄金(こがね)モチ」)の木があり、秋には赤い実を付けます。
本殿は昭和四十二年(1967)秋に改修され、桧皮葺屋根から銅葺屋根に改め現在に至っています。また境内には稲荷神社も祀られています。

平野神社

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北区平野宮本町にある平野神社は、京都屈指の桜の名所として知られています。
また、古くは伊勢神宮、賀茂(上賀茂・下鴨)神社、石清水八幡宮、松尾大社に次ぐ地位にあった由緒ある古社という点からも注目すべき神社です。



祭神は、今木皇大神(いまきのすめらおおかみ)、久度大神(くどおおがみ)、古開大神(ふるあきおおかみ)、比賣大神(ひめのおおかみ)の4神です。
非常に珍しい神でもあることから様々な説があるようです。特に、木今神(今木皇大神)は、百済系渡来人の和氏(やまとのふびと)が祀っていた百済の神様と考えられています。(今木とは今来のことで、渡来人の意味とされます。)また他の2神、久度神、古開神については竈(かまど)の神と思われ、平安遷都以降に元の平城京から移されたようですが、同様に百済系渡来人の和氏(やまとのふびと)と関わりのある奈良県の久度神社にも祀られていることから、これも百済系の神という説があります。
また同様に、今木神以下は歴代の百済王であるという説が、江戸時代の国学者・伴信友の著作「蕃神考」以降に流布しましたが、平野神社では完全な俗説と否定しています。また、中世に流行った仁徳天皇が祭神とした説も否定しています。他に江戸期の「和漢三才図会」には四神を日本武尊、仲哀天皇、仁徳天皇、天照大神としている記述もあるそうですが、これも俗説と思われます。とにかく諸説ある祭神ということになります。





以下では、渡来系の神という現在一般的な考え方に基づいて、神社の創建を書いてみます。
平野神社の創建は、奈良時代末の延暦元年(782)の「続日本紀」に「田村後宮の今木大神に従四位を授ける」と記されていて、平城京中にあった田村後宮に祀られていた事がわかります。
田村後宮は、桓武天皇の父・光仁天皇の御所でした。桓武天皇の母・高野新笠(たかののにいがさ)は百済系渡来氏族の和氏(やまとのふびと)の出身として知られますが、彼女が田村後宮に父祖伝来の今木神という百済系の神を祀っていたのが始まりのようです。
その後、長岡京、さらに延暦十三年(794)平安遷都と平安京遷都に伴い現在の地に移されたということです。高野新笠は遷都以前に亡くなりますが、子の桓武天皇は、皇太后ゆかりの今木神を引き継ぎ祀りました。久度神、古開神については平安遷都時に平城京から、また比賣神は承和年間(834〜47)に祀られたようです。

桓武天皇以下の歴代天皇は、平野の神を桓武朝の外戚神として特別の待遇を与えたようで、「日本三代実録」によると、祭神の位は急速に高められ、貞観六年(864)に、今木皇大神が正一位の位を授けられ、その他の神も高位に叙せられています。さらに「延喜式」によれば、全国で唯一の皇太子御親祭が定められ、祭日には皇太子以下の親王諸王大臣が参列することになっていました。
つまり平野神社は御所の外にありながら、宮中神と同様の扱いを受けていたようです。これに関連して、臣籍降下した皇族縁の氏族の繁栄を願って、宮中外に祀られたという説もあり、源氏・平氏はじめ高階・大江・中原・清原・菅原・秋篠各氏の氏神となっています。そして、皇城鎮護の神を定めた「二十二社」では、伊勢、賀茂(上賀茂・下鴨)、石清水、松尾に次ぐ五位に列せられました。その後、明治四年には官幣大社に列格しています。

神社の面積も当初、方八町余(平安尺で1.5km四方)あり、現在の京都御所とほぼ同じ面積を持つ壮大な神社でした。その後、時代と共に社域は縮小し、昭和九年(1934)の室戸台風後の修復工事や西大路通の開通により、敷地を割譲することとなり、大規模な整備事業が行われ昭和十八年(1943)に竣工しました。(現在の面積は200m弱四方ということです。)





さて、現在の本殿は、江戸時代の寛永年間の建物で、(南殿は寛永二年(1625)、北殿は同九年(1632))国の重要文化財に指定されています。「平野造り」又は「比翼春日造り」と呼ばれる構造で、四殿を二殿ずつ繋げた一体となった本殿が南北に建っています。また、拝殿は慶安三年(1650)に、東福門院(後水尾天皇中宮・徳川秀忠の娘)が寄進したもので、内部の三十六歌仙は寛文期に近衛基煕書、海北友雪が描いたものです。また、南門は慶安四年(1651)御所の旧門を下賜されたもので、昭和十八年に現在の大鳥居の位置から南門として移築されたものです。
その他、境内には縣社、春日社、住吉神社、蛭子神社、八幡神社の摂末社があり、参道には出世導引稲荷神社、猿田彦神社の二社が祀られています。

尚、最近、平野神社正面大鳥居が修復され、社号額は「平野大社」から「平野皇大神(ひらのすめおおかみ)」に変えられました。(写真1)
これは、従来の明治時代の旧官幣大社の神号を改め、平安時代のより由緒ある神号を復活したものです。(延喜式などで、伊勢皇大神などと同様の「平野皇大神、.平野皇大御神」と尊称されていた全国でも稀な格式高い神社だったことによります。)





最後に、平野神社と言えば、やはり桜です。平安時代の花山天皇が、境内に数千本の桜を植えたのを始まりとされ、江戸時代には「平野の夜桜」として桜の名所として全国に知られていたようです。
今も昼だけでなく夜桜見物に多くの方が集まる京都を代表する桜の名所になっています。約50種400本の桜が植えられていて、種類が多いため、様々な桜が順番に咲くので長い期間楽しめるようです。また、寛和元年(985)に花見の祭を催したことを起源とする「桜祭神幸祭」が毎年4月10日に行なわれています。

かっては天皇家との関係深かった平野神社も、今はどこか庶民的な雰囲気もする親しみやすい神社になっています。桜の頃に行くのと、違う季節に行くのでは印象が違う程、桜効果が大きい神社ですが、桜のピークには屋台が並び多くの人が集まるので、静かに鑑賞するにはやはり早朝が良いようです。

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今年の「京の冬の旅」で公開されている大徳寺・真珠庵は、庭園、茶室、襖絵の3拍子揃った有名塔頭寺院です。
大徳寺の塔頭の中でも、孤篷庵や聚光院等と共に庭や茶室が写真集などで取り上げられることも多いので、一度は見ておきたいお寺です。真珠庵も写真撮影禁止で、バッグ等で貴重な襖絵等に傷をつけてはいけないということで、荷物を預けてからの拝観となります。




真珠庵は、室町時代の永享年間(1429〜41)、一休宗純禅師を開祖として創建されました。
「真珠庵」と言う寺名の由来ですが、中国・北宋時代の高名な禅僧、楊岐方会(ようぎほうえ・992―1049)の故事にちなんでいます。楊岐方会が、ある雪の夜に楊岐山の破れ寺で座禅修行をしていた時、風が舞って部屋の中へ雪が降り込んで来て、床に積もった雪が月に照らされて真珠のように輝いたということから、一休禅師が名付けたということです。

真珠庵は大徳寺の他の塔頭と共に応仁の乱で焼失しますが、一休死後の延徳三年(1491)、一休に帰依した堺の豪商尾和(祖渓)宗臨が、大徳寺の再建に合わせて私財を寄進し一休の弟子、墨斎紹等禅師を住持として再興しました。
現在の方丈は,寛永十五年(1638)の建立で、重要文化財に指定されています。内部の襖絵としては、室町時代末期の画家・曽我蛇足の作と伝えられる「四季花鳥図」があり、蛇足はこの真珠庵で一休に絵を教授したとも伝わります。この四季花鳥図は、実際に使用されるものとしては最古の襖絵だということで重要文化財に指定されています。他に一休禅師直筆の掛け軸がかけられています。





続く部屋には、桃山時代の画家、長谷川等伯による「商山四皓図」や「蜆子猪頭図」が飾ります。共に中国の故事によるもので、「商山四皓図」は、動乱を避け商山の山中に隠棲した4人の高士の姿、「蜆子猪頭図」は、蜆子(エビ)や豚を好んだ二人の和尚の絵姿で、共に禅宗絵画の好画題としてしばしば描かれているものです。
方丈東、長谷川等伯の襖絵の向かい側には、「七五三の庭」があります。これが、茶道の開祖・村田珠光の作とも伝わる名庭ですが、誰もがその小ささに驚きます。生垣を背景として細長い敷地に7つ、5つ、3つの小さな石組みが配置されています。かっては生垣の向こうに鴨川や東山を望む借景になっていたようですが、今は知らないと素通りしてしまうような小さな庭という印象です。
しかしシンプルな枯山水の庭は、長谷川等伯の絵ともマッチしていて、本当なら一人でここで佇んでみたいとも思いました。(「京都の冬の旅」では観光バスで来られている方も多く、ゆっくり座って時の経つのを楽しむということは無い感じです。)




方丈の北には廊下で継がる客殿があります。これが通遷院(つうせんいん)で、寛政十五年(1638)に正親町天皇の女御の化粧殿を移築したものと言われています。女性らしい雰囲気が感じられる落ち着いた部屋になっています。襖には狩野元信筆の水墨山水図、西湖図、金碧花鳥図は土佐光起の筆。その前には飛び石のある小さな庭があり、茶室・庭玉軒の露地にもなっていて風情が有ります。

茶室・庭玉軒は、金森宗和好みの造りと言われます。
金森宗和の祖父は、武将として信長・秀吉に仕えた飛騨高山城主で、千利休や古田織部に茶を学んだ茶人でもあった金森長近です。また宗和の父可重も、武家茶人として名声を得た人で、宗和は、本来は父の跡を継いで飛騨高山城主となる立場でしたが、武家の身分を離れ京都に住んで茶人として生きました。

庭玉軒には普通の茶室には見られない大きな特徴があります。
柿葺・切妻造りの屋根下に土間の入口があります。これは普通の躙口(にじりぐち)ではなく、ここを潜ると、屋内に飛石、蹲踞、手水鉢を配したせまい内露地になっています。普通は路地、蹲踞・手水鉢は屋外に構えられるものですが、言わば二重構造のような造りで、これは一説には、宗和の出身地が寒冷な飛騨だったことから、このような寒さ対策的な工夫をしたのではとも考えられています。
内露地から茶室へは二枚障子の入口で、内部は二畳台目という非常に狭い間取りで、また非常に暗いのですが、天井板に変化をもたせ、色紙窓を設けるなど細部に拘りが感じられる造りになっています。尚、通僊院の北にも庭園があります。
真珠庵には、他に寺宝として国宝の大灯国師墨蹟をはじめ、紙本著色苦行釈迦像、紙本墨画達磨像など、多数の貴重な文化財を蔵しています。また境内には、村田珠光の墓があるようです。




真珠庵は、それ程広くない空間に洗練された美が凝縮されたような場所で、やや知識の有る大人の京都通、玄人向きかもしれませんが、またいつか静かな空間に接してみたいと感じました。


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