京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

嵯峨野・嵐山・洛西他

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嵯峨大念仏狂言

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昨日、初めて嵯峨清涼寺の狂言堂で行われた嵯峨狂言の公演を見てきました。
実は、午後8時過ぎからの「お松明」という火祭が目的で駆けつけたのですが、午後6時半スタートという最後の「土蜘蛛」に間に合ったので、下手な撮影ですが少しだけアップします。



清涼寺には、狂言堂という高床式の舞台があって、広場に置かれた折りたたみベンチに座って鑑賞することが出来ます。無料がうれしいですが、かなり寒いです。
嵯峨大念仏狂言というのは、京都の三大狂言(嵯峨大念仏狂言、千本ゑんま堂大念仏狂言、壬生狂言)の一つとして、重要無形民俗文化財に指定されているものです。この日の演目は午後から「愛宕詣」、「釈迦如来」、「土蜘蛛」ということでした。

「土蜘蛛」は最近、東向観音寺の「土蜘蛛灯籠」を書いたばかりで、ストーリーはお馴染みです。
まず、源頼光とその家来の渡辺綱、平井保昌、太刀持ちの少年が登場。
源頼光はなぜか気分がすぐれませんが、とり合えず酒宴が行われ、頼光は寝込んで家来は引き下がります。そこに土蜘蛛が現われ、頼光に蜘蛛の糸を投げつけます。頼光は土蜘蛛に斬りつけますが、蜘蛛は逃げ去ります。
その後、綱と保昌が駆けつけて、頼光の命令で土蜘蛛退治に向かいます。蜘蛛が現れ糸を投げ、2人は糸に巻かれながらも太刀で応戦してついに土蜘蛛を倒し、首を取って引き揚げるというストーリーです。
戦いの場面では、飛び上がったり糸を吹き付けたりアクションも大きく、子供でも楽しめる感じです。



さて、清涼寺境内には多くの屋台が立ち並んで、特に小学生〜高校生らしい姿でいっぱいです。この地区って子供が多いのかな?
また、本堂の有名な三国伝来の生身の釈迦如来像やその他寺宝、庭園も無料で公開されていて、お坊さん達が涅槃図や釈迦如来像を解説されていて、夜遅くまで多くの方が座って聞いていました。

次回は「お松明」です。

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法輪寺

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西京区嵐山の中腹にある法輪寺は、正式には虚空蔵法輪寺。本尊に虚空蔵菩薩を祀り、「嵯峨の虚空蔵(こくぞう)さん」として親しまれているお寺です。
虚空蔵菩薩は、知恵や技芸上達の神様ということで、京都の子供は必ず数え年13歳で、ここの虚空蔵さんから知恵を授けてもらうのが習慣になっています。(「十三参り」)
私も親に連れられてお参りした記憶があるのですが、お参り後は、渡月橋を渡るまで後ろ振り返ってはいけない、振り返るとせっかく授かった知恵を落としていくと言われていて、子供ながらに少し緊張したことを覚えています。





この地には、古墳時代に既に、葛野井宮と(かづのいぐう)という社があったとも伝えられますが、渡来系の秦氏が居住し、土地を開墾し、養蚕や酒造等の技術をもたらした地域としても知られます。奈良時代の和銅六年(713)元明天皇の勅願で、行基菩薩がこの地に葛井寺(かづのいでら)を創建したのが、法輪寺の起源で、その後は古義真言宗の寺院、歴代天皇の勅願所として栄えました。
天長六年(829)、弘法大師空海の高弟、道昌(どうしょう)僧正が、この地で修行し、弘法大師修行の遺跡である境内の葛井(かどのい)に姿を現した虚空蔵菩薩を自ら彫って本尊としたと言われ、その後、貞観十年(868)、寺号を法輪寺と改めて堂宇を広げ、同十六年(874)には荘厳な伽藍が完成されました。また、天慶年間(938〜47)には、空也上人が堂塔を修造したということです。
応仁の乱で災禍を受けますが、慶長二年(1597)に後陽成天皇の勅旨により、加賀前田家の援助で再建を開始し、同十一年(1607)に全山再建されますが、幕末の元治元年(1864)蛤御門の変の際、長州藩軍が天龍寺に集結し、この戦闘で法輪寺も全山焼失。その後、明治十七年(1884)から大正三年(1914)にかけて再建完成したのが現在の建物になります。






本尊の虚空蔵菩薩は、奥州の柳井津、伊勢の朝熊とともに「日本三大虚空蔵」といわれ、今昔物語・枕草子・平家物語などに記述された有名な仏様です。その他、収蔵庫には鎌倉時代の持国天と多聞天(重文指定)が安置されています。
また法輪寺は、「針供養」のお寺としても知られます。「針供養」は、皇室で使用された針を供養したことから始まったといわれ、法要の際、こんにゃくに針を刺すのは、日頃の疲れをとって休んでもらおうということです。(尚、京都では、前にブログに登場した岩倉の針神社も針供養で知られます。)
境内にはこの針供養塔の他にも人形供養の人形塚や、電気・電波を守護する鎮守社「電電宮」が祭祀されています。
「電電宮」というのは珍しい神社なので少し・・・。法綸寺は、宇宙の自然現象を司る虚空蔵菩薩を祀るため、古くから境内に、菩薩の分身として、宇宙や自然に関連した神々を祀っていたのですが、特に雷や稲妻の神様「電電明神」は、現代的に解釈すると「電気・電波の神」ということで、幕末の騒乱で焼失した後に、昭和三十一年(1956)、電気電波関係業界の発展を祈願するため「電電宮」として新たに奉祀されたものです。




法輪寺は、また見晴らしの良いお寺としても知られます。境内から京都市内を一望すると、東山の山並がはっきりと見えて、京都って意外と小さいという印象を持ちます。
観光的に見所が多いということではありませんが、法輪寺も嵐山のシンボルのひとつになっていますね。

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昭和最大の作庭家、重森三玲の遺作になったのが、「松風苑」と呼ばれる松尾大社の3つの庭園です。



古来から神社と深い関わりがあった磐座(いわくら)をイメージした「上古の庭」、近代には忘れられていた奈良・平安時代の曲水庭園を現代に蘇らせた「曲水の庭」、日本庭園の古来からのテーマ、蓬莱神仙思想の世界を表現した「蓬莱の庭」、さらに即興的に造った庭園から構成されています。
全て四国の吉野川産の青石(緑泥片岩)200余りを使用し、総工費1億円、丸1年の工期で昭和五十年(1975)に完成しました。



「曲水の庭」は、奈良・平安期に造られた曲水式庭園をモデルにして造られています。
背後の築山には立石を並べ、サツキの刈り込みをアクセントにして、洲浜を伴って7曲りして流れる水の流れを優雅に表現していますm。サツキ、緑泥片岩、水といった色彩にもこだわった構成のようです。さらに宝物館と葵殿の間には、当初の予定に無い即興的に造られた庭園があります。(写真1)

「上古の庭」は、松尾大社の背後の山中にある磐座(いわくら=ご神体とした大石、日本庭園の原初の形態といわれます。)に因んで、この山下に造られました。置かれた石は、人間が置いた石組ではなく、神々の意志で据えられたものと想定されていて、この庭は、庭園ではなく、巨石により神々(中央に松尾大社の御祭神の男女2神他)そのものを象徴させています。周りはクマザサが植えられ、人の入れない高山の雰囲気を表しています。(今の季節、笹は目立ちませんが)(写真2〜4)

「蓬莱の庭」は、重森三玲が池の形を指示し、その後長男の完途がその遺志を継いで完成させた庭です。鎌倉期に代表される池泉回遊式庭園を現在に再現し、庭園全体が羽根を広げた鶴の形に造られています。古典的な石組方法と、現在的な池の護岸作法を組み合わせて、蓬莱神仙の世界を池中にある神仙島で表現しています。これは最初で最後の親子合作の庭園になりました。
(写真5〜7)

さて、事実上の遺作になった「上古の庭」は、重森三玲の最高傑作とも呼ばれているようで、私も他の2つの庭よりはパワーを感じました。(実際、「曲水の庭」「蓬莱の庭」は少し期待はずれと感じています。)





これまで、重森三玲の庭園を幾つか取り上げてみましたが、彼の庭園の一番の特徴は、「石を立てる庭」だと言われます。
重森は全国の庭園調査を通して、本来、日本庭園の石組みの起源は、よく神社の御神体になっている「磐座(いわくら)」と呼ばれる古代の巨石だったこと・・そして、この神や仏を宿す「立石」が、時代と共に神仙思想、浄土思想などの影響で変化して日本の庭園文化を生み出していくことに気付きます。
そして、江戸中期を過ぎると石を寝かせて配置することが多くなって、庭園がパワーを失っていく姿に失望しました。もう一度、古代から神として祀られた巨石の持つ神秘性や不思議な魅力を、現在にモダンな枯山水として蘇らせようとした努力は評価したいと思います。


私は伝統的な庭園の方が、やはり魅力を感じることが多いのですが、重森の幾つかの庭は以前よりは好きになってきました。


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天龍寺の塔頭の中で、観光名所として一番人気は、春秋に特別公開されている宝厳院(ほうごんいん)のようです。平成十四年(2002)に140年ぶりに公開された時には話題になったのですが、今年漸く行くことが出来ました。




宝厳院は、寛正二年(1461)室町幕府の管領であった細川頼之が、聖仲永光禅師を開山に迎えて創建したお寺です。創建時は京都市上京区にあって、広大な寺域を持っていたようです。
その後応仁の乱で焼失しますが、間もなく再建され、豊臣秀吉や徳川幕府の庇護により明治に至ります。明治以降の宝厳院は、変遷を経て天龍寺の弘源寺境内に移転しました。
さて、天龍寺山内は、幕末に蛤御門の変で長州藩軍の本陣となったため、多くの塔頭が焼失し破壊され、その跡地の多くは国の所有後、民間に払い下げられました。現在、宝厳院のある場所も、幕末までは塔頭の妙智院があったのですが、その後は個人の別荘地となっていました。
近年、宝厳院が弘源寺境内から移転し、この別荘地を譲り受けて寺院として再興することになったことで、特別拝観が可能になりました。





さて、紅葉が美しいとされる参道は、すでに紅葉は終わっていましたが、「嵐山羅漢の杜(森)」と呼ばれる羅漢像の横から、受付を通って庭園に入ると、終わり頃の紅葉が見えてきました。

この庭園は、嵐山を借景にした回遊式山水庭園ですが、「獅子吼(仏が説法する)の庭」と呼ばれ、室町時代の禅僧、策彦周良禅師の作と伝えられます。
スケールの大きな庭園には、築山、三尊石、破岩の松、窓石の滝、豊丸垣などが点在して、中々面白い庭園だと思いました。須弥山を表す築山の前の「苦界(空池)」には、丸い青石が敷き詰められ、その向こうには「雲上三尊石」が置かれています。(写真)
また、回遊路の途中には、「破岩の松」という天に向かって真っ直ぐに延びる松が植えられていてアクセントになっています。特に庭全体のシンボル的な存在が、策彦周良禅師の命名という「獅子岩」「碧岩」「響岩」と名づけられた巨大な岩で、たいへん迫力があります。(写真)
この「獅子吼の庭」は、江戸時代の京都の名所案内「都林泉名勝図会」にも掲載された名園だそうです。
尚、庭園奥の本堂には、本尊聖観音菩薩と、脇仏の三十三体の観音菩薩、地蔵菩薩像が祀られているそうですが、残念ながら非公開です。




この宝厳寺は、近年の再興ですから、歴史的な味わいには少し欠けるかと思います。
ただ庭園は確かに評判どおりの広大なもので、これなら紅葉以外の新緑の頃に訪れても楽しめる庭だと感じました。別荘地時代に整備された部分も多そうですが、散策気分で広い庭園を歩いてみたい方にはお勧めできる庭でだと思います。

三秀院(天龍寺塔頭)

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天龍寺境内の塔頭の中で、特別公開されているのは弘源寺と宝厳院ですが、他の塔頭の中から、今回は代表として三秀院を取り上げてみました。


三秀院は、天龍寺の山門を入るとすぐ右手にある塔頭です。山門の北にも三秀院の境内に通じる門があるので、境内に入りやすいお寺といった印象です。
境内自由で、真っ直ぐな石畳の先に、天龍寺七福神の大黒天を祀るお堂があります。(東向大黒天)。境内は、たいへんきれいに整えられていて、庭木にも一つずつ名前が書かれているようです。



三秀院は、室町時代の貞治二年(1363)に夢窓国師の弟子、不遷法序を開山として創建されました。その後は一時荒廃しますが、江戸期の寛文年間(1661−72)に後水尾天皇によって再興されます。その後、明治五年(1872)に、塔頭養静軒を合寺して現在の地に再建されたそうです。本堂は昭和の再建で、非公開ですが、天井に彫金の鳳凰図があるようです。



三秀院は、天龍寺境内の塔頭の中でも、特に落ち着いた雰囲気があり好印象です。
それで、少しだけ取り上げてみました。


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