京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

清水寺・三十三間堂・東福寺他

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京都の繁華街、四条河原町から八坂神社に向かって東へ向かうと、最初に出会うお寺が、通称「目疾(めやみ)地蔵」こと仲源寺(ちゅうげんじ)です。
狭い境内の小さなお寺ですが、通行途中で参拝に寄る人も多く、有名な観光名所の少ない四条界隈に位置していることもあって、観光ガイドに掲載されることが多い寺院です。(人通りが多い四条通に面しているため写真を撮るのが難しく、これまでブログ掲載を敬遠してきました)


仲源寺(ちゅうげんじ 京都市東山区四条通大和大路東入ル祇園町南側)は、山号を寿福山という浄土宗寺院で、本尊の丈六の地蔵菩薩坐像は、目疾(めやみ)地蔵と呼ばれ、眼病に霊験があるとして広く信仰されています。また、収蔵庫に祀られている千手観音菩薩立像は、平安時代の作で国重要文化財に指定されています。また、この観音像は洛陽三十三所観音霊場の第十六番札所にもなっています。


仲源寺の創建には諸説あるようですが、平安時代中期の治安二年(1022)に、仏師として有名な定朝(じょうちょう)が、四条大橋の北東に建てた一堂に自作の木造地蔵菩薩像を祀ったのが始まりとも、土中に埋まっていた地蔵菩薩が掘り出されて、同じく橋の北東の地に安置されたのが始まりとも伝えられます。
(また、元治元年(1864)刊の『花洛名勝図会』は、仲源寺についての記載が多いのですが、この寺は、大和大路四条の東南角にあり、中間寺或いは仲源寺と記し、開基は不明だが、中国からの渡来系の塩瀬浄因という人物が大壇越として建立したとも言われていると記します)しかし、間もなく、この地蔵堂は荒廃し、地蔵菩薩像が鴨川の河原付近に人知れず残されていたようです。

その後、鎌倉時代の後堀河天皇の時代、安貞二年(1228)秋八月、台風の影響で鴨川が洪水となったため、朝廷から洪水対策を担当する防鴨河使(ぼうかし)に任じられた勢多判官・中原為兼(せたのはんがん・なかはらためかね)が、四条河原に祀られていたこの地蔵尊を知って、止雨を祈願したところ、雨が止み洪水も治まったと伝えられます。
そこで、荒廃していた地蔵堂は、中原為兼の名字に人と水を添えて、「仲源寺」と称した寺院として再興され、霊験あらたかな「雨止(あめやみ)地蔵菩薩」として後堀河天皇の勅願寺となったとされます。(『花洛名勝図会』は、この時、中原為兼は、地蔵菩薩の化身の異僧に会い、洪水は人力を持って防ぐのは難しく、この川上北に弁財天を勧請し、また川の南に古代中国の夏国の禹(う)王(恐らく、黄河の治水に成功した聖君という伝承があることからでしょう。)の廟を祀って祭祀を行うようにと指示し、為兼が両社を祀ると、水はたちまち引いて洪水が治まったといわれ、その後、両社は荒廃したという説を記しています。)

また、「雨止み」という名前の由来として、近くの祇園社(現八坂神社)の参詣者等がにわか雨に遭った際、当時は近くに家々も無く田畑の中に仲源寺だけが建っていたことから、寺で雨宿りをして雨の止むのを待つことが多く、いつしか「雨止地蔵」と呼ばれるようになったとも伝えられます。
その後、仲源寺は、豊臣秀吉の時代の天正十三年(1585)に、現在地へと移転しています。


また、別の伝承があります・・・その後、この付近に、地蔵菩薩を熱心に信仰していた老夫婦がありましたが、ある時、夫が失明してしまいます。すると、夢に地蔵菩薩が現れ、仲源寺の井戸の沸き水で目を洗うようにと告げました。早速、お告げ通りに目を洗うと、たちまち目は回復したということです。そして、夫婦が地蔵菩薩にお礼参りをすると、地蔵の右目が朱色に変色し涙が流れていました・・・この、地蔵菩薩が自らの右目に眼病を移して、夫婦を苦しみから救ったという伝承から、いつしか「雨止」から転じ、眼病に御利益がある地蔵菩薩、「目疾(めやみ)地蔵」と呼ばれるようになったとも伝えられます。


さて、「雨奇晴好(うきせいこう)」の額がかかる山門を潜ると、狭い境内の正面に本堂があり、土中から出現したとも、定朝作という伝承もある本尊の丈六(約二百九十センチ)の地蔵菩薩坐像が祀られています。この像は、実際は室町時代の作と考えられていて、梅疾(めやみ)地蔵の名前で知られ、眼病に霊験があるとして現在も多くの参拝者に信仰されています。

また、本堂の地蔵菩薩像の傍には、「山越阿弥陀像」と呼ばれる室町時代の阿弥陀座像があります(江戸時代の名所図会の類では、恵心僧都作と記します)
さらに、現在は本堂右手の収蔵庫(観音堂)に安置されている、同じく丈六(約二百五十センチ)の木像千手観世音菩薩坐像(重要文化財)は、平安時代の作で(春日仏師の作とも、古くは行基作とも伝承)、洛陽三十三所観音巡礼第十六番札所として信仰を集めています。
その他、境内には、天道大日如来、大黒天、妙見大菩薩、道了大権現、水子地蔵尊等が祀られています。

また、仲源寺の年中行事としては、節分会(節分の前・当日)、彼岸会(三月二十三日、九月二十三日)、地蔵会(八月二十三日〜二十四日)、月例祈願会(毎月二十三日)、水子供養会(毎月二十四日)があります。

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京都市東山区本町(十六丁目)、東福寺の西を南北に抜ける本町通の半ばに、宮内庁管轄の「東山本町陵墓参考地」があります。「陵墓参考地」となると皇室史跡の中でもかなりマニアックな分野で、一般観光客が足を止めることはまず無い史跡ではありますが・・
(尚、このブログは、京都の寺社仏閣を中心とする史跡ガイドで、天皇陵や皇室史跡を専門的に採り上げている訳では無いので、複雑多岐に渡る「陵墓参考地」の成り立ち等は研究書を参照していただきたいと思います。記述に当たっては、この分野では必読の「事典陵墓参考地(外池昇著 吉川弘文館)」を参照します。)

天皇陵やその関連史跡、まして「陵墓参考地」などには興味が無い人のために、「陵墓参考地」をごく簡単に定義してみると・・・
「陵墓参考地」とは、「埋葬者が特定出来ず、祭祀の対象にもならないものの、宮内庁によって陵墓の可能性があるとされている土地を意味し、そのため、開発等による破壊から守る必要があるとして国が土地を買い上げて管理し、陵墓に準ずるものとして立ち入りが禁止されている」といった所でしょうか。

明治以降現在まで、指定の解除や陵墓へ移行した例も有るなど時代によって変動が有りますが、現在、京都市内には、「沓塚陵墓参考地(伏見区深草田谷町)」、「大亀谷陵墓参考地(伏見区深草大亀谷古御香町)前に少しブログに登場」、「浄菩提院塚陵墓参考地(伏見区竹田小屋ノ内町)」、「後宮塚陵墓参考地(伏見区竹田小屋ノ内町)」「中宮塚陵墓参考地(伏見区竹田田中宮町)」、「天王塚陵墓参考地(左京区岡崎入江町)」、「御室陵墓参考地(右京区御室大内)」、「円山陵墓参考地(右京区嵯峨大覚寺門前登り町)」、「入道塚陵墓参考地(右京区嵯峨大沢柳井手町)」、そして今回の「東山本町陵墓参考地(京都市東山区本町)」が指定されています。



さて、現在の東山本町陵墓参考地は、大正十三年(1924)に陵墓参考地に指定されました。指定の理由は、この地が第八十五代・仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)の陵墓の可能性があると考えられたからです。
仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は、第八十四代・順徳天皇の第一皇子で、承久三年(1221)に僅か二歳で即位しました。幼児の即位の背景として、順徳天皇が父の後鳥羽上皇と共に「承久の乱」の準備に専念する必要があったからとされます。しかし、「承久の乱」は後鳥羽・順徳の敗北という結果となり、仲恭天皇も在位三ヶ月に満たずして廃位されました。このように、仲恭帝は歴代天皇中で在位期間が最短という影の薄い天皇で、明治三年(1870)に天皇として認められ「仲恭天皇」と追号されるまでは、「九条廃帝」と呼ばれていました。退位後の九条廃帝(仲恭天皇)は、母の実家・九條家で過ごし、天福二年(1234)九条殿で十七歳で崩御したとされます。


さて、「九条廃帝」こと仲恭天皇の陵墓については、歴史資料も乏しかったために、明治二十二年(1889)に現在の京都市伏見区伏見区深草本寺山町に「仲恭天皇九條陵「(ちゅうきょうてんのうくじょうのみささぎ 以前にブログに採り上げています)が定められものの、天皇が崩御した九条殿跡地からその埋葬地を推定したに過ぎず、遺骸も無い決定根拠に乏しいものでした。そのため、大正・昭和と陵墓研究が進むと、宮内庁も九條陵の西北に位置する東山本町のこの地が、真陵である可能性がより高いと考えるようになり、一旦決定されてしまった九條陵との整合性はともかく、この地を陵墓参考地と定めてその保存を図ったようです。

この地が天皇ゆかりの地という伝承は古くからあったようで、江戸時代の「陵墓一隅抄」は、この伏見街道(本町通)の東山本町の地には、廃帝社と呼ばれる一祠があり、その名前の通り九条廃帝(仲恭天皇)陵とされ、また同じ「廃帝」の淡路廃帝(淳仁天皇)と混同されることもあったと記しています。
また、「事典陵墓参考地」に引用されている大正末期に著された「山陵(上野竹次郎編)」によると、かつて、この地には民家の中に土塚があって、塚上には二つの小さな祠があり塚本社、廃帝社と呼ばれていたということです。祠の一つは、淳仁天皇と崇道天皇(早良親王)、もう一社には神功皇后、井上内親王、他戸親王が祀られ、明治十年(1877年)に祠は廃されましたが、この土塚を九条廃帝(仲恭天皇)陵に当てはめるという説は根強かったようです。ただ上野は、根拠は廃帝社という名前によるのみで、それ以上の有力な根拠が有る訳では無いと記しています。
(尚、前にブログに採り上げた東山区五条橋東にある若宮八幡宮は、相殿に仲恭天皇を祀りますが、これは明治十年(1877年)塚本社が廃された際に、当時の宮内省によって仲恭天皇の神霊が奉遷されたものということです。)
現在の仲恭天皇九條陵が極めて信憑性に乏しい陵墓である以上、この東山本町陵墓参考地が、仲恭天皇の真陵である可能性は残されていると言えるのかもしれません。

尚、墳形は楕円丘、面積は四畝八歩 (約四百二十三平方メートル)ということです(昭和二十四年十月「陵墓参考地一覧」)

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東山区松原通大和大路東入る轆轤町、有名な六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)の北にある浄土宗寺院、西福寺(さいふくじ)を採り上げます。小さな寺院ですが、門前には、「六道の辻」を示す石標が建てられていて、六波羅蜜寺や六道珍皇寺等と共に六波羅を代表するお寺の一つです。


西福寺のある付近一帯は「六波羅(西は鴨川東岸から、北は五条大路(現松原通)〜南は七条大路一帯)」と呼ばれる地域になります。
「六波羅」は、「六原」とも記されていて、その語源は、この地に建立された六波羅蜜寺に由来するとか、また、この地がかつて「轆轤原(ろくろがはら)」と呼ばれていたことに拠るという説等があります。尚、「轆轤原(ろくろがはら)」という地名については、東山の山麓の原野「麓原(ろくはら)」に由来するとか、平安時代にはこの地域には人骨が散乱していたことから、この髑髏(どくろ)の散乱した原野=「髑髏原(どくろがはら)」を、江戸時代に「轆轤原(ろくろがはら)」に改称したともいわれています。ともかく、この六波羅の地は、嵯峨野の「化野(あだしの)」、船岡山西一帯の「蓮台野(れんだいの)」と並んで平安京の三大葬送地といわれる「鳥辺野(とりべの)」の入口に当たり、あの世とこの世の境界の地と考えられたことから、空也上人が創建した六波羅蜜寺、小野篁(おののたかむら)が冥府と現世を行き来したという六道珍皇寺などの寺院が建てられて、信仰の場となっていきました。


この鳥辺野の入口付近は、また「六道の辻」とも言われてきました。
「六道」とは、仏教で衆生が生前の行いによって生死を繰り返す六つの迷いの世界で、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上の六つを指します。「六道の辻」は、この六道へ通じる道の分岐点という意味で、冥界へ入り口と考えられてきました。
前に採り上げた六道珍皇寺には、小野篁が冥府と現世を行き来したという井戸が残されていて、珍皇寺門前の松原通に面する轆轤町と新シ町の間を南に抜ける丁字路が「六道の辻」として知られます。今回の西福寺の地蔵尊も、同じく冥府と現世の境界付近に祀られたことから、「六道の辻地蔵尊」、「六道の地蔵尊」と呼ばれて信仰を集めてきたようです。



さて、西福寺は、山号を桂光山という浄土宗寺院です。(一部西福寺の由来記を引用してみます)
寺院としての西福寺は江戸時代に創建されましたが、元々は、平安時代初期の第五十二代・嵯峨天皇の時代、弘法大師空海が鳥辺野の無常所(墓地)入口にあたるこの地に地蔵堂を建立して、自作の土仏地蔵尊像を祀ったのが始まりと伝えられています。

この地蔵堂建立の頃、嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(檀林皇后)がこの地を訪れ、弘法大師に深く帰依したと伝えられています。また、皇子正良親王が病気となった際には、皇后は病気回復をこの「六道の辻」地蔵尊に祈願しました。霊験によって皇子は無事回復して成長し第五十四代・仁明天皇となったので、当時の人々は、この地蔵尊を「子育て地蔵」「六はら地蔵」と呼ぶようになったとも伝わります。
(尚、六道の辻地蔵尊の御詠歌として、壇林皇后の御歌が一首残されているということです。「はかなしや 朝夕なでし黒髪も よもぎが本のちりとこそなれ」)
また、室町時代の謡曲「熊野(ゆや)」では、「河原おもてを過行ば、急ぐ心の程もなく、車大路や六波羅の地蔵堂よとふしをがむ観音も同座あり闇堤救世の方便あらたにたらちねをまもり給へや、実にや守りの末すぐに頼む命は志ら玉の愛宕の寺も打過ぎぬ六道の辻とかや、実におそろしや此の道は冥途に通ふものなるを心ぼそ鳥辺山」と謡われていて、六波羅の地蔵堂が当時良く知られていたことがわかります。

その後、江戸時代の慶長八年(1603)、蓮性上人がこの地蔵堂のある地に寺院を創建し、西福寺と称しました。そして、江戸中期の享保十二年(1727)に、関白・二条綱平が亡父のために再建したのが現在の建物と伝えられます。かつては六つの仏堂があったようですが、現在は三つの仏堂が残り、境内には末廣不動明王を祀る不動堂を中心に石仏や人形等が多数安置されています。また、洛陽四十八願巡りの第三十一番札所でもあります。

普段は静かな西福寺ですが、毎年八月のお盆にはお精霊迎えの「六道詣り」で多くの人々で賑わいます。また、この時には、寺宝の「六道十戒図」「六道絵」「檀林皇后九相図」「十王図」などが公開されます。

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京都市東山区本町、京阪電車の東福寺駅から北へ(東福寺とは逆方向へ)100m程度歩くと瀧尾神社(たきおじんじゃ)という少し目立った神社があります。日光の同名の神社は知られますが、こちらは京都市の観光情報以上の情報はほとんど無い知られざる神社のようです。


瀧尾神社は大国主命を祭神とする神社ですが、創建年代や由緒についてはほとんど不明ということです。記録では天正十四年(1586)10月に、豊臣秀吉の方広寺大仏殿建立に伴って東山七条付近から現在地に遷座したと伝えられます。また、泉涌寺に属し泉涌寺の僧が守護していたともいわれています。

京都の豪商・下村彦右衛門正啓(大文字家=大丸百科店前身創業者)は、瀧尾神社を厚く崇敬し、元文三年(1738)以降、数度にわたって社殿の修復を行っています。以来、大文字屋(大丸)の事業成功は、瀧尾神社の神徳のおかげであるとして代々の下村家は社殿の維持管理を援助していきます。現在の社殿も下村家の援助によって天保十年(1839)から翌十一年(1840)にかけて造営されたものになります。
現在の本殿は、「北山貴船奥院御社」旧殿を移建し一部改築したもので、その前に幣殿、拝所、東西廊が並んでいて、これらの建物の屋根が錯綜しながら変化に富んだ空間を構成して独特の社殿景観を形成しているということです。また、各社殿には鳥獣等の豊富な彫刻装飾があり、このような装飾は京都市内の神社では珍しいようです。特に目立つのは拝殿の天井に刻まれた木彫りの龍の彫刻です。

現在の瀧尾神社は、住宅に囲まれて風情があるとは到底言えないのですが、本殿・拝殿・絵馬舎・手水舎など一連の社殿が境内にまとまって現存し、江戸時代後期の中規模神社の形態を知るうえで貴重ということで京都市指定有形文化財に指定されています。

境内には三嶋神社の祈願所(本宮は東山区東大路通東入上馬町・・前にブログに採り上げました。一時、本殿も瀧尾神社に間借りしていました。)、他に大丸百貨店の繁栄を祈る稲荷神社(大丸神社)、金刀比羅宮、妙見宮等の末社があります。

六道珍皇寺

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東山区東大路通松原西入ル小松町にある六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は、一般に「六道さん」と呼ばれ、お盆の「六道詣り」で知られる寺院です。珍皇寺の山門前には「六道の辻」という石碑や「小野篁卿旧跡」の石標があり、境内付近一帯は「あの世とこの世(冥界と現世)」の分岐点、地獄(他界)への入り口と考えられてきました・・・長い歴史のある京都らしい伝説に満ちたお寺です。
お盆以外の季節は訪れる人も少なく、境内は静かな雰囲気が漂っています。普段は境内自由で、お盆の「六道詣り」の際や定期的に寺宝の特別拝観が行われています。



六道珍皇寺は、山号を大椿山(たいちんざん)という臨済宗建仁寺の境外塔頭です。
創建に関しては諸説があり、平安初期の延暦年間(783〜805)に、弘法大師空海の師でもあった奈良大安寺の慶俊(けいしゅん)僧都が創建したとも、また承和三年(826)にこの地の豪族・山代淡海(やましろのおうみ)等が国家鎮護の道場として建立したとも、或いは平安以前から東山の阿弥陀ケ峰(鳥部山)山麓一帯に居住した鳥部氏の氏寺「宝皇寺(鳥部寺とも)」の後身とも伝えられます。古くは愛宕寺(おたぎでら)と呼ばれていたとも伝わり、その後の経過からか空海や小野篁が建立したという伝説も残るなど多くの説があって実際の所は一切不明です。
ただ、その後の珍皇寺は、空海との関わりが伝えられるように真言宗東寺の末寺として平安から鎌倉時代には広い寺領と多くの伽藍を持つ大寺院だったようで、周辺の大寺院と境界線を巡ってしばしば争論があったという記録も伝えられています。南北朝時代の兵乱により荒廃しますが、貞治三年(1364)建仁寺の住持であった聞溪良聰(もんけいりょうそう)禅師が再興し、建仁寺塔頭・大昌院(だいしょういん)の末寺となり臨済宗に改宗します。
尚、大昌院は播磨(兵庫県)の守護大名赤松氏の菩提寺でもあり、その縁で珍皇寺には赤松政則の肖像画等赤松氏の関する寺宝が多く残されているようです。明治七年(1874)に大昌院に合併されますが、明治四十三年(1910)に独立して、建仁寺の境外塔頭として現在に至ります。

境内正面にある現在の本堂は江戸初期の延宝年間(1673〜81)の建物で、薬師三尊像(薬師如来坐像と日光・月光両菩薩立像 昭和五十三年、京仏師中西祥雲作)や江戸時代の小野篁の肖像画、小野篁の一千百五十年諱を追善して境内の老木から地蔵菩薩を刻んだ平成十九年(2007)の新作「たかむら地蔵尊」等を安置しています。
閻魔堂(篁堂)には、小野篁の作とも伝わる木像閻魔像(室町時代)と等身大の小野篁像(江戸時代)が並んで祀られています。また、昭和五十一年(1976)に建てられた収蔵庫でもある薬師堂に祀られている本尊・薬師如来坐像は伝教大師最澄作とも伝えられる平安時代の作で、重要文化財に指定されています。他に毘沙門天像(弘法大師空海作)、地蔵菩薩(定朝作)を安置しています。その他、寺宝として地獄絵「熊野観心十界図」、「珍皇寺参詣曼荼羅図」や播磨の赤松家ゆかりの寺宝を所蔵しています。




さて、六道珍皇寺といえば「六道の辻」と小野篁について書かなければなりません・・少し長くなりますが何とか書いてみます。

平安時代、清水寺のある五条坂から三十三間堂等がある今熊野辺りまでの阿弥陀ヶ峰(東山三十六峰の一つ)の山麓一帯は、「鳥辺野(とりべの)」と呼ばれる京の都の東に位置する葬送の地でした。(嵯峨野の「化野(あだしの)」、船岡山西一帯の「蓮台野(れんだいの)」と共に都の三大葬送地といわれます。)
六道珍皇寺の門前の松原通(かつては五条通)は、鳥辺野(とりべの)へ亡骸を運ぶ際の通路となっていたために、六道珍皇寺は現世から冥界へ向かう入り口とされていました。平安時代には、都人たちは、人が亡くなると亡骸を棺に納め、鴨川を渡って、鳥辺野へ至る道筋に建つこの珍皇寺で野辺送りの法要を行って最後の別れを行った後、隠坊(火葬場番人)によって鳥辺野まで運ばれていました。(特に鳥辺野の五条通より北は、一般庶民の亡骸が野ざらしで捨てられた風葬の地となっていました。天皇や貴族は「鳥辺野」の南地域や「蓮台野」や「化野」に埋葬されることが多かったようです。)

このような風習のためか、珍皇寺の境内周辺(一般的には珍皇寺門前のT字路付近)は、中世以降、「六道の辻」と称し、あの世とこの世(冥界と現世)の分岐点、地獄(他界)への入り口とされてきました。仏教でいう「六道」とは、人が死んだ後に輪廻転生するという死後の世界とことで、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の六つの世界を意味します。人は死んだ後に、生前の善悪の業によって、六道のいずれかに赴くものとされ、珍皇寺の境内こそその分岐点にあたると伝えられてきたために、現在でもお盆には先祖の精霊を迎えるため多くの参詣客が訪れる場所になっています。



小野篁についてです・・・
小野篁(延暦二十一年〜仁寿二年 802〜52)は、嵯峨天皇に仕えた平安初期の政治家で、文人、歌人としても知られます。文章生から皇太子の学問の師である東宮学士などを経て、従三位参議三大弁という高級官僚にまでなり、また乗馬、弓術、剣術など武術百般にも優れた文武両道の人物であったと伝えられます。尚、父は漢詩人・歌人でもあった参議小野岑守(みねもり)で、三蹟の一人小野道風は篁の孫にあたり、小野小町も孫にあたるという説もあります。

篁は不羈(ふき)な性格で、「野狂」ともいわれるように奇行も多く、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔王宮の役人であったという伝説が知られます。この伝説は「江談抄(ごうだんしょう)」や「今昔物語」などの平安時代末期の説話集や鎌倉時代の仏教に関する史書「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」等にも数多く伝えられていることから、平安末期頃には、篁が独特の神通力を持って現世と冥土の間を行き来し、閻魔庁における第二の冥官であると語り伝えられていたことが伺えるようです。
 また、篁は承和五年(838)に遣唐副使に任じられながら、大使の藤原常嗣(ふじわらつねつぐ)の専横振りを嫌って出航を拒み、「西道謡」という詩を詠んで遣唐使制度を風刺したことなどによって、嵯峨天皇の怒りに触れて隠岐へ流罪となり、一切の官職官位を奪われたこともあります。しかし、承和七年(840)に帰京・復位を許され、その後は学殖を高くかわれて順調に官位を昇り、承和十四年(847)には従三位に任じられているように晩年はその才能が認められて成功した人生といえるようです。

さて、六道珍皇寺の本堂裏庭の北東角にある井戸は、平安時代に小野篁が冥府(地獄)の閻魔庁の役人として現世と冥界の間を行き来するのに使った「冥土通いの井戸」であると伝えられています。
(この井戸は普段は格子越しに覗くことしか出来ませんが、特別公開で少し近づけます。パネル写真を参照)

伝説によれば、小野篁は亡き母の霊に会う為に、この鳥辺野にある珍皇寺を訪れ、冥土に通じるというこの井戸を使ったのが最初といわれています。また「矢田地蔵縁起」によると、大和(奈良)金剛山寺(矢田寺)の満慶(まんけい)上人が、篁を通じて閻魔大王の招きに応じて、衆生を救うためにの戒行である菩薩戒を授けに閻魔庁に赴いたのもこの井戸からとされていて、井戸の傍の小さな祠には、篁の念持仏だった竹林大明神が祀られています。

尚、篁が冥土からの帰路の出口として使った場所が、右京区嵯峨の大覚寺南付近の六道町に明治初期まであったという福生寺(ふくおじ)の井戸だったという言い伝えも残っています。
この福生寺というお寺は、冥界から現世に戻った篁が建立し地蔵菩薩を祀ったと伝えられる寺院でしたが廃寺となり、井戸の遺跡も現在は失われてしまいました。しかし、井戸の伝承は福生寺の本尊として伝わる地蔵菩薩と共に嵯峨清涼寺の西隣の薬師寺(右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)に受け継がれているということで、薬師寺には福生寺跡を示す「生(しょう)の六道 小野篁公遺跡」の石標が建てられています・・・珍皇寺の周辺「六波羅(六原)」が冥府への入り口として「死の六道」と呼ばれたのに対し、上嵯峨の福生寺周辺は現世への出口「生の六道」と呼ばれています。



また、六道珍皇寺といえば、お盆の毎年八月七日から十日まで「六道詣り」という精霊迎えが行われることで有名です。普段は静かな境内もこの時ばかりは多くの参詣者で賑わいます。

参拝者は、まず境内の花屋で高野槙の切り枝を買います・・高野槙を用いるのは諸説あるようですが、ここでは平安時代に小野篁が昼間は朝廷に仕え、夜は境内の高野槙の枝をつたって井戸を通って閻魔庁に行き来したとの伝説に由来しているようです。本堂前でご先祖の法名(戒名)を水塔婆に書き入れてもらい、鐘楼で先祖の霊を現世に呼び戻すという「迎え鐘」を撞きます。

「迎え鐘」と呼ばれる鐘楼の鐘は、鎌倉初期の説話集「古事談」によれば、元々珍皇寺の開基・慶俊僧都が作らせたものと伝わります・・慶俊僧都は唐に向かう際に、鐘は3年間はこの鐘楼下の地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅立ちますが、留守居の寺僧は待ちきれず1年半で掘り出して鐘を撞いた所、その音色はるか唐にいる慶俊のところまで聞こえたといい、慶俊は「あの鐘は3年間地中に埋めておけば、その後は人手を要せずして六時になると自然に鳴ったものを、惜しいことをしてくれた」と言って残念がったという話が伝えられます。現在の鐘は後世のものですが、鐘楼の裾にある小さな開口部から延びた綱をたぐり寄せて引いて鐘を鳴らす仕組みになっていて、その音は十万億土に届くといわれ、あの世(冥界)まで響き渡って先祖の霊にも届き、鐘の音に呼び寄せられた霊が現世に戻ってくるということから「迎え鐘」と呼ばれています。(尚、この「迎え鐘」に対して、先祖の霊を冥土に送るための「送り鐘」で知られるのが、新京極にある矢田寺(矢田地蔵尊)になります。)

さて、参拝者はその後、水塔婆を線香で清めてから石地蔵の前の水盤で水をかけて回向します。先祖の霊は、持ち帰った高野槇の穂先を伝わって帰ってくるといわれていて、井戸のある家では井戸の中に穂を逆さに吊しておくと先祖の帰ってくる入り口となるということです。その後、十三日に枝を仏壇(魂棚=たまだな、先祖を迎える棚)に供えて先祖の霊を迎えた後、十六日の「五山の送り火」、さらに十七日の水塔婆供養によって霊は冥界へ帰っていくということです。


最後に「幽霊飴」の伝説についてです。(立本寺の時にも書きましたが、同様の伝説が数ヶ所あるようです。)
江戸時代のはじめ、六道珍皇寺の門前には一軒の飴屋がありました。
ある夏の夜更け、痩せ衰えた女が飴を買いに来て、それが数日間続きました。不審に思った主人が女の後を密かにつけてゆくと、鳥辺野墓地のあたりで消えてしまいました。翌日、主人は珍皇寺の住職にことの仔細を語ったところ、住職は、もしやと最近亡くなった臨月の妊婦の墓へ案内しました。二人が一緒にその墓地に行くと、土の中から赤ん坊の泣き声が聞こえて来ます。急いで土を掘ってみると、女の遺体の傍で赤ん坊が飴をしゃぶっていたということです。母親は自分が亡くなった後も残してきた子供を気遣って、幽霊となって飴を買い求めて育てていたのでした。この出来事に感動した住職は赤ん坊を引きとって養育し、子は後に高名な僧となったということです。
こうして、飴屋の飴はいつしか「幽霊子育飴」と呼ばれるようになり、現在に至っています。(六道珍皇寺前の飴屋さん、みなとや幽霊子育飴本舗)

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