京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

清水寺・三十三間堂・東福寺他

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東福寺の塔頭の天得院が、秋の特別公開ということで一般公開されています。


このお寺は、南北朝時代の正平年間(1346〜70)、東福寺の住持、無夢一清が開創したお寺です。その後荒廃しますが、次第に再興されて、慶長十九年(1614)に天得院の住持となった文英清韓は、豊臣秀吉・秀頼の信頼を得ます。
清韓は、秀頼の要請で方広寺の鐘銘を選文しますが、この銘文の中の「国家安康、君臣豊楽」の文字が徳川家康の怒りを招き、豊臣家の滅亡につながったのは有名です。家康の怒りは、天得院にも及び、お寺は取り壊されてしまったといわれます。
現在の堂宇は、江戸時代の天明九年(1789)に再建されたもので、明治元年(1868)には東福寺の塔頭、本成寺と合併し今日に至ります。





このお寺は、花のお寺として知られます。
桃山時代の作という枯山水庭園は苔によって一面が覆われています。桜、つつじ、さつき、桔梗、萩、彼岸花、紅葉、椿といった四季の花々が楽しめるますが、桔梗の花が特に知られ、桔梗の開花にあわせて特別公開を行っています。また予約制で精進料理も提供しています。





天得院は、裏が保育園で、精進料理の案内が張り出されていて、少し観光寺院らしさが感じられないのかもしれません・・・訪れる観光客は少ないようです。
庭はこじんまりとしていて、インパクトには欠けますが親しみ易いものです。お寺全体の印象としては、お勧めとまでは行かないですが、様々な花の季節で表情が変わるのかもしれません。

東福寺の紅葉その2

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続きです。


東福寺は広大な寺域がありますが、約2千本の紅葉が通天橋下の谷下に集中して植えられていて、普通の境内に分散している紅葉の名所では感じられない見事な光景が見られますね。



壮大な紅葉といえば・・清水寺の紅葉が、見渡したり、見上げたりするという感じなら、東福寺通天橋の紅葉は、臥雲橋と通天橋の2つの橋の間のなだらかな傾斜地を利用して最高の効果を上げています。この傾斜を使って壮大なスケールを感じさせるという点では、修学院離宮庭園とかに通じるような感じもします。



紅葉のあるお寺の優しげな風情を味わいたいという方よりは、ただただ迫力ある紅葉を満喫したいという方に向いています。京都屈指の紅葉名所でもちろん一番のお勧めです。

東福寺の紅葉その1

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紅葉の名所として知られる東福寺です。


京都の紅葉の名所は多いですが、壮大さにおいては、やはりまず思い浮かぶのが東福寺の通天橋です。
JR&京阪電車の駅から徒歩で10分少々というアクセス面とスケールの大きさで、紅葉シーズンは平日でも土日と変わらない程の見物客が来る事でも知られています。



午前8時30分の拝観時間前から順番待ちして、先頭集団で見ましたが、朝の光で紅葉のグラデュエーションが変わっていくのが素晴らしいです。

東福寺は大きなお寺で、まずまず人の流れも良いので、午後からでももちろん雄大な光景を楽しめますが、午後になると、JRと京阪電車の東福寺駅から、人の流れが途切れることなく蟻の群れのように東福寺に向かっていくことは確実です。さらに観光バスが数十台やってきます。


今回はこれでもか・・という感じですが雄大な光景を!
次回は別の角度等を集めます。

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粟田神社・鍛冶神社他

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前に「粟田祭」の時に登場した粟田神社ですが少し補足します。

この神社の石段の下の道は、旧東海道・東山道で、この辺りは京の七口(京都の七つの出入口)の一つ、粟田口があった場所でした。そういう理由で、古来、京都に出入りする際は、この神社で安全祈願する人が多く、今でも旅の守護神として崇敬を集めているようです。




さて、神社の創建には諸説あるようです。
京都市東山区粟田口辺りは、平安京の遥か以前には粟田氏が住んだ土地でしたが、熱田神宮が創建され、粟田一族は熱田神宮の社人として移り住んで、土地名のみが残ったようです。この時に粟田氏の氏神として祀られていた社が、粟田神社の元だとも考えられています。
また、その後平安時代の貞観十八年(876年)清和天皇の時代、当時の病気流行を鎮めるため出羽守神藤原興世が勅を奉じて勧請したのが神社の起こりとも伝えられ、その後、明応九年(1500年)に吉田神道で知られる吉田兼倶(よしだかねとも)が再興したとも伝わります。
現在の建物は、江戸時代後期のもので、拝殿は、元禄16年(1703年)に建てられたもので、本殿、幣殿は文化2年(1805年)に焼失後、文政6年(1823年)に再建されたことが確認できるようです。





かって、八坂神社が感神院と呼ばれたのに対し、粟田神社は、感神院新宮という名前で呼ばれ、そのためか、粟田神社の祭礼「粟田祭(粟田神社大祭)」は、室町時代には祇園祭が出来ない場合は、祇園御霊会の代わりとされていました。
江戸時代までは感神院新宮、あるいは牛頭天王を祭ることから粟田天王社等と呼ばれていた神社は、明治になり粟田神社と改称され、素戔嗚尊(スサノオノミコト)他を祭神としています。




粟田神社の石段の横には、末社の鍛冶神社があります。
この神社は、三條小鍛冶宗近を祀っています。三條小鍛冶宗近とは、京都三条に住む小鍛冶の宗近という意味で、一条天皇時代の実在の人物ですが、その生涯はほとんど不明です。
しかし、後世、謡曲「小鍛冶」により伝説的な刀鍛冶として有名になりました。謡曲「小鍛冶」は、稲荷神の神助により「小狐丸」という名刀を作り上げるという物語で、残された刀剣の美しさと謡曲の影響で、後世に色々な伝説を生んできました。




この東山三条付近は宗近に関する様々な史跡があり、「宗近の井」「焼刃水」といった遺跡や住居跡、宗近が信仰していたとう「相槌稲荷(京都市内に3ヶ所あるそうです。男山八幡、鎌倉にも。)」などがあるようです。

今熊野観音寺

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泉涌寺の塔頭が続きましたが、今回の今熊野観音寺で泉涌寺周辺は、一旦終わりにしたいと思います。
他に法音院、新善光寺、善能寺がありますが、規模も小さく、観光寺院とは呼べない感じです。
そこで、また別の機会に取り上げる事にしたいと思います。




今熊野観音寺は、泉涌寺の山内では人の多いお寺です。
その理由は、西国三十三ヶ所観音霊場の第十五番札所になっているからですが、また古くから「頭の観音さん」として広く信仰を集めて、頭痛解消やボケ封じ、知恵を付け頭が良くなるようにと多くの人が参拝に訪れています。(枕カバーも販売していますよ)

西国三十三ヶ所巡礼に関して、ここでは細かい説明は避けますが、日本の各地にある巡礼の元祖のような存在で、古来最も多くの信仰を集めてきました。
この寺も、巡礼地らしく庶民的な雰囲気のあるお寺です。
(京都市内では他に清水寺、行願寺(革堂)、六波羅蜜寺、三室戸寺、頂法寺(六角堂)、下醍醐寺、善峯寺、元慶寺・・広く参拝者が集まってくるので、親しみ易い雰囲気が共通しています。)





さて、今熊野観音寺の創建には諸説があるようですが、平安時代初期、弘法大師(空海)が熊野権現の霊示を受けてこの地に庵をむすんだのが始まりとされ、弘仁三年(812)頃、嵯峨天皇の勅願により諸堂の造営をはじめ、天長年間(824−833)には完成していたと考えられています。
また、その後左大臣藤原緒嗣の発願によって広大な伽藍の造営が行われ、斉衡ニ年(855)に完成したという説もあるようです。その後、後白河法皇の帰依を受け、「新那智山・今熊野」の名称が与えられ、歴代朝廷の崇敬を集めてきました。
その後、南北朝時代に兵火を受けるも、室町幕府によって復興され、また応仁の乱でも伽藍は消失しましたが、その後復興されます。資料から天正八年(1580)には、多くの堂宇が現在の地域に建立されたと想像され、この時に、かっては奥の院順礼堂だった場所に、現在の本堂が建てられたと考えられています。(この場所は、弘法大師が熊野権現と出会ったという伝説の最も神聖な場所のようです。)
江戸時代には、西国霊場巡拝がたいへん盛んとなり、今日まで巡礼者の集まるお寺となっていきます。




さて、泉涌寺参道から左に折れると、観音寺と泉涌寺の間の谷を流れる今熊野川に架かっているすぐに赤い橋「鳥居橋」が迎えてくれます。緑豊かな境内には「子護大師(こまもりだいし)」の銅像その向こうの石段が見え、石段を登ると、本堂、大師堂、弘法大師ゆかりの「五智の井」などがあります。
本堂は、江戸時代の正徳2年(1712)に、宗恕祖元律師によって建立されたもので堂々とした大きなもので、安置されている本尊の十一面観世音菩薩像は秘仏です。
大師堂には、弘法大師の他に、観音寺建立に力を尽くした藤原緒嗣も祀られています。
近くには、印象的な平安時代の三重塔があります(写真)
本堂の背後の墓地には「藤原三代の墓」とよばれる、大きな宝塔三基があります。
これは藤原忠通、九条兼実、慈円僧正の墓です。 (写真)

藤原忠通は、平安末期の公家で、鳥羽、崇徳、近衛、後白河の四帝に歴任し、摂政・関白として常に政治の中心にいました。弟の頼長との対立は保元の乱の原因の一つになったことで知られます。また詩歌、書法等に才能を発揮しています。
九条兼実は、忠通の子で、九条家の祖です。源頼朝に接近し摂政・関白となりました。和歌や書道にも通じ、日記「玉葉」の著者としても有名です。
慈円は兼実の弟で、天台座主を長年務め、和歌等に才能を発揮、家集「拾玉集」や史論「愚管抄」の著者として知られます。

さらにその近くには「島津逆修の塔」と呼ばれる見事な石塔があります。戦国・安土桃山時代の武将として知られる島津義久のお墓です。(写真)
義久は、戦国大名としての島津家の全盛期の当主で、一時は九州の大半を支配しますが、秀吉の九州征伐で降伏し、薩摩城主に封じられました。
逆修(ぎゃくしゅ)とは、逆(あらかじ)め冥福を修めるという意味で、生前に、自分の墓や位牌を建立し、自分ために仏事を修して死後の冥福を祈ることをいうようです。義久は、生前に観音寺に墓地を定め、五輪塔を建て供養しました。この石は薩摩より運んだと言われます。




今熊野観音寺は、静かな泉涌寺の山内の緑豊かなお寺です。
境内の梅、桜、紅葉も美しく、落ち着いた雰囲気と親しみ易さで、西国巡礼の方以外の普通の観光客の方にもお勧めできるお寺です。

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