京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

清水寺・三十三間堂・東福寺他

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悲田院(泉涌寺塔頭)

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今度も簡単に・・・観光寺院としてより、歴史的な由来、宿坊としての方が知られている悲田院です。


悲田院は、泉涌寺の塔頭の一つで、泉涌寺山内の「泉山七福神巡り」の第六番毘沙門天を祀っています。また宿坊としても知られていて、京都観光の際は利用されても良いかもしれません。



さて、悲田院(ひでんいん)という名前は、日本史の教科書等にも出てくると思いますが、元々は、仏教思想に基づいて、貧民や孤児の救済施設として作られた施設を意味します。
日本では聖徳太子が四天王寺に建てた「悲田院」が最も古く、奈良時代の養老七年(723)に光明皇后によって作られたものが有名です。その後、平安時代になると、京都の東西二カ所(九条三坊)に設けられたようです。東は鴨川の三条河原付近にあり、鎌倉時代から室町時代にかけて上京区扇町にある後花園天皇火葬塚付近(扇町、上天神町、天神北町、瑞光院前町付近)に移転しました。
室町時代の文明二年(1470)に、後花園天皇が死去した際は、それまで泉涌寺で葬礼が行われていましたが、応仁の乱で寺が破壊されていたために、この悲田院で葬礼が行われたと記録されています。
その後、江戸時代の正保ニ年(1645)に現在の泉涌寺の山内に移設されて今日に至るということです。



悲田院は、泉涌寺の山内の高台にあり、ここからは京都の風景が一望できます。
境内は気楽に入れますので、機会があれば、眺望を楽しんでいただきたく思います。
(昼間と夕方の風景を少し)

来迎院(泉涌寺塔頭)

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また引き続いて泉涌寺の塔頭のひとつ、来迎院ですが、このお寺はお勧め度が少し低いのでやや簡単に・・・。


来迎院は、大同元年(806)に弘法大師がこの地に荒神を奉安したのが始まりとされ、鎌倉初期の建保六年(1218)に、公家の藤原信房が泉涌寺の月翁智鏡上人に帰依して堂宇を建造したといわれます。その後応仁の乱で焼失しますが、天正五年(1577)に舜甫上人が織田信長より50石を受け、慶長二年(1597)に前田利家により再建されました。江戸時代には朝廷からの信仰厚く栄えます。
元禄十四年(1702)には、大石内蔵助が赤穂を出て山科に住居を構え、来迎院の檀家となります。木々に囲まれた来迎院の雰囲気が気に入った内蔵助は、ここに書院を作り境内に独鈷水(どっこすい)という名水が湧くことに喜び、茶室含翠軒を建立したと伝わります。



さて、山門から真っ直に石段を登ると、荒神堂があります。
ここには弘法大師作という日本最古の三宝荒神坐像が収められていて(重文指定)安産の守護神として信仰されています。このため来迎院は、ゆな(胞衣=えな、母体内の胎児を包む)荒神社という名前の方が知られているのかもしれません。
石段下の本堂は簡素な造りで、その横には、木々に囲まれた池泉回遊式の庭園があり、茶室含翠軒が建っています。その他大石内蔵助ら赤穂浪士の遺品が所蔵されています。



来迎院の周辺は泉涌寺周辺の中でも、特に静かな雰囲気が漂っています。
庭自体は地味でそれ程面白くないのですが、秋は紅葉が彩るようです。
お勧めとする程ではありませんが、静かな雰囲気を味わうのも良いかもしれません。

雲龍院(泉涌寺塔頭)

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次は、雲龍院です。
真言宗泉涌寺派の別格本山で、泉涌寺の塔頭の中でも最も奥にあるお寺で、古くから写経道場として知られ、現在も毎月27日を写経の日と定め体験希望者に開放されています。

一般に、泉涌寺に行かれる観光客の方も、山内の塔頭までは時間的余裕がないためか、訪れる方も少ないようですが、個人的には、即成院を筆頭に、雲龍院、今熊野観音寺、戒光寺はお勧めクラス。
一方、来迎院(小泉前首相が最後に京都を訪問した時行っています)、法音院、悲田院(宿坊で知られます)、新善光寺、善能寺の5つの塔頭は、観光寺院としては見るべきものが少ないと感じています。





さて、雲龍院ですが、南北朝の北朝に縁の深いお寺です。
南北朝時代の応安五年(1372)、北朝第4代の後光厳天皇の勅願により創建され、開山は竹巌聖皐(ちくがんしょうこう)上人です。その後、北朝5代目の後円融天皇が同地に龍華院というお寺を創建しました。
応永十二年(1405)の火災で両寺は焼失しますが、北朝最後の後小松天皇の帰依を受けて、応永三十六年(1429)頃には再建されたようです。しかし文明ニ年(1490)応仁の乱で全山焼失してしまいます。残ったのは後光厳天皇、後円融天皇の御尊像のみということです。
その後、文亀元年(1501)に御所の黒戸御殿を移築して、如法修殿という写経道場として再建されますが、地震によって破壊され、江戸初期の寛永年間に、如周宗帥(じょしゅうすうす)が雲龍院と龍華院を合わせ雲龍院のみとし、さらに後水尾上皇の援助により黒戸御殿を再建して諸堂を建立して、ようやく再建され今日に至ります。




本堂は龍華殿(りゅうげでん)という名称の柿葺きの重々しい建物で、これも重文指定されています。
本堂の扁額は、光子内親王の筆です(この方は後水尾上皇の第7皇女ですが、この後の修学院離宮の時にも登場してきます。)本尊は重文指定の薬師如来像で、日光・月光両菩薩と共に、鎌倉時代の作です。
皇族の位牌堂の霊明殿は、幕末の慶応二年(1866)に建設が始まり、明治二年(1869)に完成しました。内陣中央には、北朝の後光厳天皇、後円融天皇、後小松天皇、称光天皇の御位牌、左側には後水尾〜孝明天皇までの歴代天皇、右側には江戸時代の皇子・皇女の御位牌が安置されています。
また、雲龍院は、泉涌寺の塔頭で構成される七福神巡りでは大黒天のお寺です。
この鎌倉時代の大黒天尊像ですが、普段はお寺の台所に置かれていますが、1月の「泉山七福神巡り」の際は、本堂前に登場されます。




雲龍院は、一見地味なお寺ですが、皇室との関わりなどからわかるように、静かで落ち着いた雰囲気が好印象です。広い枯山水庭園や境内の梅や紅葉などの見所もあって、あまり知られていない隠れた観光スポットとしてお勧めできるかと思います。

戒光寺(泉涌寺塔頭)

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10月末に訪問した泉涌寺の塔頭、戒光寺です。
少し遅れていますので、簡単に・・(表門の写真がありませんが、よろしくお願いします。)

このお寺も、前に登場した即成院と同様に、自由に本堂に上がれます。
本堂で、まず目に付くのは、ご本尊の釈迦如来像です。身の丈は5.4メートル、台座を含めると全長約10メートルという物凄い迫力です。
別名、身代わり釈迦といわれ、首から下の病気を代わって受けていただけるというので、参拝者が集まるそうです。この釈迦如来は、鎌倉時代の運慶・湛慶父子の作ということで、重文に指定されています。
即成院が那須与一の墓があるので、「与一さん」と呼ばれているように、このお寺は、大きな仏像の意味の「丈六(じょうろく)さん」と呼ばれているそうです。




さて、戒光寺は、鎌倉時代の安貞二年(1228)に、曇照上人が、京都八条大宮に創建した戒光律寺が始まりで、その後応仁の乱で焼失し、一条戻橋近くに再建。さらに江戸時代の正保2年(1645)に、後水尾天皇により泉涌寺の塔頭として現在地に移転したということです。
境内には、最澄作と伝わる、泉山七福神巡りの一つ弁財天像があり、お参りする人が多いです。




また、このお寺が歴史ファンを集めるのは、すこし離れて、即成院の横になりますが、新撰組から袂を分かった御陵衛士達の墓があるからです。
歴史、新撰組ファンにはお馴染みの事ですが、御陵衛士は、慶応三年(1867)伊東甲子太郎ら新選組出身者の一部が、尊王運動のために新撰組から分離して組織した集団で、東山の高台寺頭塔の月真院に屯所を置いたため、高台寺党とも呼ばれました。元々、戒光寺の長老、湛然の仲介によって孝明天皇陵の守護の任を拝命した事が、御陵衛士の誕生に繋がったようです。
その年11月に、伊東が新撰組の待ち伏せで油小路で暗殺され、彼の遺骸を引き取りに来た衛士らも新選組に包囲されて、激闘の末、毛内監物、藤堂平助、服部武雄の3名が殺害されます。
彼らの遺骸は一旦光縁寺に埋葬されましたが、御陵衛士の生存者らにより、慶応四年(1868)にこの戒光寺に改葬されました。
さらに明治ニ年(1869)には、4人の墓碑の向かって左横に、新撰組に殺害されたり、戊辰戦争で戦死した他の御陵衛士の同志達8人の合祀された墓等も建立されています。



戒光寺は、有名な観光寺院ではありませんが、無料で気楽に本堂に上がれるので、機会があれば大きなご本尊をご覧ください、本当に大きいですよ。
もちろん、新撰組ファンは、伊東甲子太郎や藤堂平助に会いに必ずここにも来られると思います。

法住寺と後白河天皇陵

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10月末に写真を撮ったのに、文章が追い付かず・・・季節がずれてしまいそうな昨今です。
紅葉の時期に、緑の葉っぱもどうかと思い、急いで更新していきます。



それで、養源院の近くの法住寺と後白河天皇陵も続けて書いてしまいます。
観光寺院としては、お勧めレベルとまではいきませんので、簡単にさせていただきます。



養源院のすぐ隣にあるのが、後白河天皇陵と法住寺です。
訪問した10月末は、法住寺本堂の不動堂が改築中で、今回は写真のみ撮影しました。


このお寺は、平安時代中期の公家藤原為光によって創建されたお寺ですが後焼失し、その後、後白河上皇がこの地に法住寺殿を造営し、院政を行った事で知られます。
現在、東山七条にある蓮華王院(三十三間堂)や新日吉神社も、法住寺殿の広大な敷地内に建てられたものです。さて、法住寺殿は、後白河上皇が木曾義仲と対立した事で、義仲の焼き討ちを受け焼失、後白河上皇はこの地を離れ、六条西洞院に移りそこで死去します。後白河上皇死後、焼失した法住寺殿跡地に、法華堂がつくられ、上皇の御陵とさだめられます。




こうして、法住寺は後白河上皇の御陵をお守りするお寺として存続、一時、豊臣政権下で方広寺の敷地内に組み込まれますが、徳川政権下では妙法院との関係を強め栄えます。明治になって、後白河天皇陵が寺域から分離され、宮内省の管轄に置かれました。
寺宝としては、親鸞上人作の阿弥陀如来像、慈覚大師作という平安期の身代不動明王像などで知られています。




後白河天皇法住寺陵の参道は、養源院と法住寺の間にあります。
参道の入り口は土日・祝日は閉鎖されますので、注意してください。御陵は、法住寺境内の裏手にありますので、法住寺と合わせてご覧になるのが良いかと思います。



ついでですが、京都には、天智天皇と、平安朝以降の桓武天皇〜明治天皇までの歴代の天皇陵があります。この間の時代で、京都に御陵が無いのは、
薬子の乱で知られる平城天皇(奈良)
保元の乱の崇徳天皇(香川)
壇ノ浦で水死した安徳天皇(下関)
南朝政権の後醍醐天皇(吉野)と後村上天皇(河内長野)の5人です。



観光寺院クラスとは言えない法住寺ですが、平安後期の院政時代には重要な役割を持ったお寺として、歴史ファンは、東山七条付近を訪問される時に寄られても良いかもしれません。その際は、後白河天皇法住寺陵もどうぞ。

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