京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

清水寺・三十三間堂・東福寺他

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東福寺の塔頭、最勝金剛院(さいしょうこんごういん)は、九条家の墓所を管理する非公開寺院ですが、秋には長い参道付近が紅葉に色付いて、東福寺を訪れた観光客にもお馴染みの場所かと思います。


さて、最勝金剛院は、東福寺山内の最も西(伏見区深草車阪町)にあり、東福寺創建以前に遡る由緒ある寺院の名を継いでいます。
現在の東福寺のある地域一帯は、平安時代中期の延長三年(924)に関白藤原忠平が氏寺として法性寺を建立した場所でした。代々の藤原氏は法性寺の造営に努め、平安末期の藤原忠通とその子兼実の頃に全盛期を迎えました。(忠通は法性寺の傍に別荘を構え「法性寺殿」、その子・兼実(九条兼実)は「後法性寺殿」と呼ばれました。)当時の法性寺は、現在の東福寺の約5倍という広大な寺域(南北は稲荷山〜東福寺周辺、東西は鴨川〜山科に至る)に多くの大伽藍を構えていました。
最勝金剛院は、久安六年(1150)、この法性寺の山内東方一帯に、摂政藤原忠通夫人・宗子が建立した塔頭寺院で、法性寺山内で最大の面積を持つ寺院でした。

しかしその後、法性寺は鎌倉時代初期には衰退して、嘉禎二年(1236)に摂政九条道家(九条兼実の孫)は、法性寺跡地に19年の歳月をかけて東福寺を建立しました(建長七年(1255)完成)
その後の最勝金剛院は、東福寺に吸収されてその塔頭となり、代々の九条家に継承されましたが室町時代に衰退してしまいました。

現在の最勝金剛院は、九条家一族の墓の管理と由緒ある寺院の復活を兼ねて、昭和四十六年(1971)、旧地付近の現在の地に再興され、東福寺の特別由緒寺院となっています。中央の八角堂が兼実を祀る廟で、その他九条家以下歴代十一人の墓がその東方に有ります。

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清水寺から東山五条に続く五条坂付近は、京焼、清水焼の発祥の地として知られ今も多くの陶器を扱う店が並んでいます。
若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)は、この陶器の町の中心にある小さな神社で、毎年八月の祭礼には陶器市で賑わいます。(陶器市は昨年少しだけ採り上げました)



東山区五条橋東五丁目にある若宮八幡宮は、本殿に応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祀り、左相殿に仲恭天皇を祀ります。昭和になって陶祖神の椎根津彦命(しいねつひこのみこと)を合祀したことから、陶器の町の陶器神社とも呼ばれ親しまれています。

平安時代の天喜元年(1057)河内源氏の棟梁・源頼義(八幡太郎義家の父)が後冷泉天皇の勅を奉じて、六条醒ヶ井(さめがい 左女牛)に創建したと伝わります。
仏教では、釈迦の入滅から二千一年目を末世末法の世に入るとしていて、日本では、仏教が伝来した欽明天皇十三年(552)が釈迦入滅一千五百年に当たると考えられてきました。そう考えると、天喜元年(1053年)は、二千一年目に当たることになり、後冷泉天皇は末法の世になっても国家が繁栄することを祈願して八幡宮を建立させたということです。畿内の八幡神の本拠・石清水八幡宮に対して、八幡の若宮と称し、また当初は六条八幡、左女牛八幡(さめがいはちまん)とも呼ばれていました。

八幡宮造営を任された源頼義は、子の義家と共に、翌天喜二年(1054)からの前九年の役で安倍氏を討伐して、八幡神の御加護により功を挙げました。当時京都の源氏の本拠地は六条堀川付近にあり、その傍に建立された神社は以降、源氏の守り神として、源氏一族や多くの武士からの信仰も厚く、源頼朝は建久元年(1190年)と同六年(1195)の二度の上洛の際、臨時の大祭を斎行し、弟の義経も神社の傍に居館を構えています。
室町時代には、足利尊氏以下の歴代将軍の崇敬を集め隆盛を極めましたが、応仁の乱により社殿は荒廃します。その後、十三代将軍義輝や弟義昭の発起により諸国の戦国大名の寄附により再建され、さらに、豊臣秀吉によって天正十一年(1583)に御旅所のあった東山に、さらに同十六年(1588)に大仏方広寺の北に移されています。

そして、慶長十年(1605)、照高院門跡道澄(近衛家出身で、聖護院門跡等を務め、三井寺を復興するなど活躍)が、徳川家康の支援も得て現在の地に移しました。その後、承応三年(1653)、後光明天皇が造営したものが現在の本殿です。
江戸時代以降も徳川家康以降の歴代将軍の崇敬を受け、明治十年(1877)に、東山区本町十六町目(東福寺の西)にあった塚本杜から仲恭天皇の神霊が移さています。
また、陶器の町の中心地らしく、昭和二十四年(1949)に陶祖神・椎根津彦命が合祀され現在に至ります。毎年八月の祭礼(8月7日〜10日)では、協賛行事として氏子の陶器業者を中心に五条通一帯で行われる陶器市で大いに賑わいます。



さて、本殿は、承応三年(1654)の再建と伝えられ、三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の庇を取り込んで前室とし、その前に向拝一間を付けた前室付きの流造です。屋根は元々は桧皮葺きでしたが、現在は銅板葺になっています。前室付きの流造本殿は、滋賀県下には多いそうですが、京都では珍しいということで京都市指定有形文化財に指定されています。その他、本殿下右手に陶祖神社、左側に天神社、稲荷社、祖霊社が並んでいます。

他に境内には、孝明天皇の御胞衣埋納所、至徳3年(1386)に足利義満が寄進した御影石の八角手水鉢、区民の木に選ばれた御神木のクスノキ(高さ20.3m、幹周2.95m)、足利尊氏が病気にかかった際に、若宮八幡宮に祈願して治癒したことを喜んで、神社に奉納した珍宝七種の一つの蓬莱石などがあります。この蓬莱石は長らく本殿の片隅に埋もれていたものが御神託により昭和になって発見されたということです。

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京都市東山区の東山七条付近は、京都国立博物館、三十三間堂、養源院、智積院、豊国神社、方広寺といった観光名所の集まる地域です。
この地域の主要な寺社はこれまでも色々採り上げてきましたが、今回は耳塚の北にあるマイナーなお寺です。(観光寺院では無く情報も少ないので、京都市の観光情報に基づいて書きます。)


東山区正面通本町東入本町4丁目にある「烏寺(からすてら)」は、正式には熊谷山専定寺(くまがいざんせんじょうじ)という、浄土宗西山禅林寺派に属するお寺です。
寺伝によれば、鎌倉時代の初め、専定(せんじょう)法師という旅僧が、この辺りの松の木の木陰で休んでいると、二羽のカラスが木の梢にとまって、「今日は、蓮生坊(源平の戦いで知られる熊谷直実の出家後の法名)の極楽往生の日だ。我々もお見送りしようではないか。」と語り合って南の空へ飛び立ったということです。専定法師が不思議に思って蓮生坊の庵を訪ねたところ、カラスが話していた同日(承元二年(1208)九月十四日)同刻に亡くなっていました。そこで法師は、この地を有縁の霊域と感じて草庵を結んだのが当寺の起りといわれています。

かつては、この故事を伝えるため、境内の松の梢に土焼のカラスが置かれていて、すぐ東にある方広寺の「大仏(方広寺)七不思議」の一つに数えられていたということです。(尚、方広寺境内には、七不思議に数えられる梵鐘内部の「淀君の幽霊」、石垣の大石「泣石」、五輪塔「馬塚」等があります。)

本堂内に安置されている本尊・阿弥陀如来坐像は、元々後白河法皇の念持仏と伝えられ、平安時代後期の作風を残し、また金箔で像内化粧を施してあるという貴重なものということで京都市の文化財に指定されていますが、拝観は出来ないようです。

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前回の「仲恭天皇九条陵」のすぐ下の広場には、幕末の鳥羽伏見の戦いで戦死・病死した長州藩(周防・長門 山口県)出身の兵士48名の墓が立ち並んでいます。
鎌倉初期の仲恭天皇とは時代もまったく異なる兵士の墓ですが、天皇陵を背に2列に整然と並んだ墓を見ていると、まるでこの天皇のために戦った兵士達のように思えてくるから不思議です。



さて、慶応三年(1867)十月、将軍徳川慶喜の大政奉還後も、薩摩の大久保利通や公家の岩倉具視らはあくまで武力による倒幕を計り、十二月の王政復古の大号令を発令、幕府の事実上の廃絶が決定されます。その後も薩摩藩の挑発行動が続いたことから、大阪城にいた徳川慶喜はついに幕府の強硬派の意見に従って薩摩を討つため上洛を決意します。明治元年(1868)正月元日、幕府軍は鳥羽街道と伏見街道に分けて大阪から京都に進軍を開始します。正月三日の夕方に下鳥羽付近で幕府軍と竹田・城南宮周辺に布陣した官軍が遭遇し戦闘が開始、続けて伏見でも戦端が開かれました。
この時、長州藩は東福寺を本陣として南の伏見街道を約2100人で防御していました。三日から五日にかけて続いた激戦の結果、幕府軍は退却しました。この戦闘で戦死、病死者した石川厚狭介(あさのすけ)以下48名の遺体は、本陣のあった東福寺の山上のこの地に葬られました。その後、明治三十三年(1900)の三十三回忌の際に、現在の墓が整備されたということです。静かな墓地には、長州兵戦没者の功を記した石碑「祟忠之碑」や巨大な一基の大石灯籠が立っています。(写真)


最後に、「仲恭天皇九条陵」と「鳥羽伏見戦防長殉難者之墓」の辺りからは、京都の町並みが見渡せて、中々良い感じです。東福寺の東にあるこの陵墓周辺は既に新興住宅地化しているのですが、天皇陵のあるこの高台に登ってみるとそんなことは忘れさせてくれる静寂があって印象的な場所になっています。

同聚院(東福寺塔頭)

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東福寺の塔頭・同聚院(どうじゅいん どうしゅういん)は個人的に好きな寺院です。
禅寺東福寺の数多くの塔頭の中でも、密教系の雰囲気を持つ異色の小寺ですが、圧倒される巨大な不動明王像が祀られていています。この像は外からも僅かに覗けますが、拝観料200円を払うと堂内に上がって間近で拝見できるので、是非拝観をお勧めします。


同聚院は、臨済宗東福寺派に属する東福寺の塔頭です。本尊に不動明王を祀ることから、近畿三十六不動尊霊場の二十一番霊場でもあります。
東福寺が創建される以前、この地域一帯は平安時代中期の延長三年(924)に関白藤原忠平が法性寺を建立した場所でした。法性寺は藤原氏の氏寺として栄え、寛弘三年(1006)には、藤原道長が40歳の祝賀に当って丈六の五大明王を安置する壮大な五大堂を境内に造営しました。その後も代々の藤原氏は法性寺の造営に力を入れ、平安末期の藤原忠通の時代には全盛期を迎え広大な寺域に大伽藍を構えていましたが、鎌倉時代初期には衰退してしまいます。その後、嘉禎二年(1236)、摂政九条道家は、法性寺跡地に大寺院を建立しようと考え、建長七年(1255)に至る19年の大工事の末に東福寺が完成しました。

さて、同聚院は文安元年(1444)に、東福寺第百六十世・文渓元作禅師が、その師の東福寺第百二十九世・琴江令薫禅師を開山に勧請して創建した寺院です。
同聚院の建つ地は、かつて藤原道長が建立した五大堂の遺跡付近だったといわれています。道長の時代には五大堂には2m以上の迫力ある五大明王が祀られていました。(中央に不動明王、東に降三世明王、南に軍荼利明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王)しかし、その後火事等の災害により中尊不動明王を除く四体は失われ、不動明王像のみが法性寺が衰退した後も、幾多の災難を乗り越えて東福寺・同聚院の本尊として受け継がれ今日に伝えられました。


この不動明王像は、藤原時代前期の代表的な彫像で、仏師定朝の父・康尚(こうしょう)の数少ない確実な作品として重要文化財に指定されています。木造彩色、像高265cmの日本最大の木像不動明王像で、膝前や光背は後世のものですが、憤怒の相の巨大な姿の中にも優美さをたたえた名作です。
この像は、古来「十万不動(じゅうまんは、正しくは「十」の下に「万」を組み合わせた一字)」と称されて崇敬を集めてきました。この「じゅうまん」という文字は、「土力(どりき)」または「十万」という二字を一字にした文字といわれています。
「土力(どりき)」とは即ち、土の力=産土を表し、土地を守護する仏という意味、「十万」とは、この不動明王は他と違って常に十万の一族・従者を従えているという意味ということで、古来、霊験あらたかな仏様として信仰を集めたために現在まで大切に守られてきたのでしょう。
また、毎年二月二日に、方寸の紙に「じゅう(「十」の下に「万」の一字)」の字を書いた屋守護(やさご)の符が加持して参拝者に配布されています。この神符を門戸に貼れば、その家は火災や諸難を逃れ、福徳円満で子孫繁栄に恵まれると信仰されています。
最後についですが、同聚院の墓地には、祇園の芸妓出身でアメリカの富豪ジョージ・モルガンと結婚した元祖国際派ともいうべきモルガンお雪の墓があるそうです。


私は、同聚院の迫力と優しさを兼ね備えた巨大な不動明王像に接していると、平安時代以来の信仰の力を感じ、重森三玲の庭園を見所とする東福寺の他の塔頭などつまらなく感じてしまう時があります。

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