京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

清水寺・三十三間堂・東福寺他

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妙法院(特別公開)

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東山区東山七条にある妙法院(みょうほういん)は、有名な蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置く由緒ある大寺院です。普段は非公開ですが、ゴールデンウィークにかけて特別公開されたので初めて訪れてみました。(少し遅くなりましたが記事を掲載します。建物内部の写真は撮影禁止ですが、出来るだけ周りの写真を掲載します。)



妙法院は、山号を南叡山とする天台宗門跡寺院で、元々は比叡山の山内寺院として山上にあった本覚院という寺院を前身とします。この本覚院(妙法院)の歴史は、開山を伝教大師最澄として比叡山の西塔に小坊を構えていたことを除けば諸説があるようで明らかではありません。
妙法院の基礎が築かれたのは平安時代後期になります。永暦元(1160)年、後白河法皇は、院の御所としてこの東山に法住寺殿を定め、院内に蓮華王院(三十三間堂)を造営、また鎮守社として熊野及び日吉の神をこの地に勧請し、新熊野社(いまくまのしゃ 現・新熊野神社)、新日吉社(いまひえしゃ  現・新日吉神宮)を建設しました。この際、藤原氏出身で延暦寺西塔本覚院の僧・昌雲が、新日吉社を管理する検校に任じられて妙法院と号する里坊を開いたのが始まりと伝わります。(比叡山時代にすでに妙法院と号していた等諸説があるようですが)その後、弟子の実全が継承し基礎が築かれました。

こうして妙法院は、後白河法皇を中興第一世とし、昌雲、実全を経て、尊性法親王(後高倉院皇子)が入寺してからは門跡寺院としての地位が確立し、鎌倉時代初期には現在の建仁寺北辺一帯に寺域を構えて「綾小路宮」等と呼ばれました。以降は、代々の法親王が歴代門主を務め、慶長十九年(1614)に現在の地に移り(移設した時期には慶長初期等諸説あり)豊臣家滅亡後は、方向寺大仏、蓮華王院(三十三間堂)、新日吉社等を管領し東山屈指の大寺院として栄えました。
幕末の文久三年(1863)八月十八日には、公武合体派により宮中を追われた三条実美ら勤皇派七卿が妙法院の宸殿で密議をこらし、有名な「七卿落ち」の舞台にもなりました。(毎秋には七卿の記念法要が行われているようです)明治以降に、方広寺と新日吉社は独立しましたが、蓮華王院(三十三間堂)は現代まで妙法院の所管となっています。



妙法院の境内は、門跡寺院らしい風格ある建物が立ち並んでいます。
国宝に指定されている大庫裏は、豊臣秀吉が方向寺大仏の「千僧供養」を行った際の遺構と伝えられ、文禄四年(1595)に建立されたと伝わります。本瓦葺入母屋造、正面に唐破風の玄関が設けられ、藁梁間十三間、桁行十二間、軒高は約六十尺の桃山時代らしい堂々とした大きな建物です。庫裏の内部から見上げると巨大な梁が交差して迫力があります。

重要文化財指定の大玄関は、元和六年(1620)徳川秀忠の娘・東福門院(後水尾天皇の中宮)が入内した時の殿舎を賜って移築したもので、三つの間は狩野派による壮麗な松の図が飾ります。
また同じく重文指定の大書院も、東福門院入内の際の建築で、内部の壮麗な障壁画は狩野松栄、光信の筆とされます。また、瓢箪型の池がある書院前庭は伏見桃山城の内庭を縮小したものと言われます。また白書院は歴代法親王が対面所として用いた建物で、江戸初期の数奇屋建築で四条派の祖・呉春の襖絵が飾ります。さらに内仏殿・護摩堂、聖天堂が渡り廊下でつながっています。七卿落ちの舞台ともなった宸殿は、皇室の位牌を祀る奉安殿で、皇室ゆかりの寺院らしい趣を感じさせる場所になっています。

また本尊・普賢菩薩を安置する本堂(普賢堂)は、少し離れて宸殿の南側に独立して建っています。本尊の普賢菩薩像は藤原時代の作と伝えられますが、普賢菩薩を本尊とする寺院は全国でも珍しいと言うことです。この本堂は元は境内の北辺にあったものを宝暦年間(1751〜63)に現在の地に移されました。また東大路通りに面している唐門は桜町天皇から拝領したと伝わります。
最後に、宝物庫(龍華院)内には重文指定の秋草蒔絵文台、後小松天皇の宸翰、秀吉の遺品等を展示していますが、特に特別拝観の目玉として、国宝・「ポルトガル国印度副王親書」が展示されていました。天正十六年(1588)にインドのポルトガル領ゴアの副王から豊臣秀吉に宛てた美しい羊皮紙の書簡で、日本のキリスト教弾圧政策の緩和を求めた内容です。





妙法院は青蓮院、三千院と並んで「天台三門跡」と呼ばれてきた由緒ある寺院だけに堂々とした大庫裏や宸殿内部等は一見に値します。庭園その他は想像していたよりも小さい印象でしたが、機会があれば一度は見ておきたい京都らしい大寺院です。

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現在、東山区知恩院山内林町、知恩院の隣にある得浄明院(とくじょうみょういん)が特別公開されています。(4月29日〜5月13日)毎年春に「戒壇めぐりと一初鑑賞会」と称して一般に公開しているものです。



得浄明院は、山号を本額山という信州善光寺の京都別院の尼寺で、明治二十七年(1894)に建立されました。開山は善光寺第百十七世・誓圓尼公(伏見宮邦家新皇第三王女)で、その兄の久邇宮朝彦親王が境内堂宇を整えました。建物は大小の差はありますが、善光寺と同様の造りとなっていて、一光三尊阿弥陀如来の分身を本尊として祀ります。開山の誓圓尼が、信州まで参拝するのは大変としてこの地に創建したものです。

今回の特別拝観では、善光寺と同じく本堂下の「戒壇巡り」を体験できます。
本堂下に作られた真闇の戒壇を一周し、現当両益・原罪生善などの阿弥陀如来の功徳を得るもので、一周して手探りで「極楽の錠前」に触れると極楽浄土が約束されると言われています。善光寺よりは小規模ですが全く同様に、現代生活では体験できない真の闇の中を巡る体験が出来ます。


春から夏にかけて得浄明院の境内では様々な花が咲きますが、特に独逸菖蒲(どいつあやめ)等他のアヤメに先駆けて、一番早く咲き出すことから名づけられた「一初(いちはつ)」が見頃です。乾いた土に生えるのが特徴で、昔は茅葺屋根の頂上部分にたくさん植えて、屋根を締め付けて守ったようで、これは火災や台風などから家を守るという厄除けの意味もあったようです。「一初(いちはつ)」は約200株が本堂周辺に植えられていて、他にツツジがや他のアヤメが少し咲いていました。
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明智光秀の塚(首塚)

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東山区三条通白川橋下る梅宮町にあるのが、「明智光秀の塚(首塚)」です。
通りの角に和菓子屋・餅寅さんがあり、その横の「東梅宮 明智光秀墳(ひがしうめのみやならびにあけちみつひでのふん)」という石標から数m進むと、小さな祠や首塚と伝えられる石塔等があります。(尚、この和菓子屋・餅寅さんは、この塚を管理していて、店では光秀饅頭を販売しています。)




明智光秀は、信用できる歴史的資料が少ないということもあって、本能寺の変の原因を含め謎の多い人物です。光秀の生涯は、主に元禄時代に書かれた「明智軍記」に拠って描かれることが多いようですが、光秀の時代からずっと後に書かれたその記述は歴史的には信憑性に欠けると考えられています。
それはともかく、天正十年(1582)六月二日、明智光秀は「本能寺の変」により主君・織田信長を自刃に追い込みますが、その後、中国地方から引き返してきた羽柴(豊臣)秀吉との山崎の戦いで敗北します。光秀は本拠地・近江坂本城に逃れる途中、小栗栖(京都市伏見区)で土民の襲撃を受けて深手を負い、家来の溝尾庄兵衛(勝兵衛、茂朝とも)の介錯により自刃したと伝えられ、その最後の地は、現在「明智藪(伏見区小栗栖小坂町)」として残っています。

「明智軍記」に拠れば、その際、首は介錯をした溝尾庄兵衛(勝兵衛、茂朝)によって竹薮内に隠されたと言うことです。また山科区勧修寺御所内町には、胴体を埋めたという「明智光秀之塚(明智光秀胴塚)」が残っています。(溝尾はその後、坂本城に戻って羽柴軍と戦って自害しました。)
その後の光秀の首については、「豊鑑(竹中半兵衛重治の子重門が江戸時代に記す)」等の記述に拠れば、小栗栖村の村人が埋められている光秀の首を発見して、近江三井寺にいた秀吉の元に献上し、京都の粟田口に晒されました。また埋められていた光秀の胴体も探して首と繋いで磔にして晒したとも伝わります。




しかし光秀の首の行方に関しては、幾つかの伝説が残っています(光秀の首は色々な場所に運ばれているようです)亀岡市の谷性寺は光秀寺の異名のあるお寺ですが、ここにも光秀の首塚があります。溝尾庄兵衛は光秀の首を隠した後に、光秀が信仰していた谷性寺に運んで葬ったと言うことです。
また、宮津の光秀の娘玉(細川忠興妻・ガラシャ)の元へ光秀の首が届けられ、それを埋葬したという首塚が宮津市の盛林寺にあります。

今回の「明智光秀の塚(首塚)」に関しては、以下の伝説があります。
光秀は、小栗栖村での臨終の際、「首は知恩院にて灰にせよ。胴は山の中に隠せ」と遺言を残し、家臣の溝尾庄兵衛は、主君の首を三条通白川橋付近まで運んだものの、夜が明けたためにこの地に埋葬し、溝尾も自刃したと言うことです。

また、この塚にはもう少し納得のいく一説があります・・光秀の首は京の粟田口黒谷道に晒された後、粟田口の刑場地に他の将兵数千人の首と一緒に埋められ、その上に塚が造られていましたが、明和八年(1771)、白川橋付近に住んでいた明田利右衛門という人物が、栗田口黒谷の五人組から石塔をもらい受けて自宅に葬って菩提を弔ったということです。




その後、弘化二年(1845)に「東梅宮・明智光秀墳」の道標が建てられ、明治三十六年(1903)に、付近にあった寄席で光秀を演じた歌舞伎俳優の市川団蔵が、光秀が自身名乗っていた戒名「長存寺殿明窓玄智大禅定門」を刻んだ墓石を造ったと言うことです。

さて、細い道の奥に、明治の頃に造られた小さな「光秀公祠」、五輪塔状の光秀の首塚、「長存寺殿明窓玄智大禅定門」と光秀の戒名が刻まれた石碑が立っています。祠の中には、木造の光秀像が、位牌と共に祀られているようです。光秀の木像は厨子の中に納められていて見られませんが、祠には写真が貼られています(写真)(かっては遺骨も祀られていて参詣者に持ち去られようとしたために鍵をかけたと言うことです)

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東山区東大路松原上る下弁天町にある安井金毘羅宮は、崇徳天皇、大物主神(おおものぬしのかみ)、源頼政を祭神として祀る古社ですが、特に縁切り・縁結びのご利益で知られています・・特に縁切りの方が有名ですね!


安井金比羅宮の創建についてですが、神社縁起によれば、元々この地には天智天皇の時代(668〜71)に、藤原鎌足が家門隆昌と子孫長久を祈願してこの地に一堂を設け、藤の木を植え藤寺と称した寺院がありました。その後、聖武天皇の時代(724〜48)に詔勅により堂塔を改修増築、規模を拡大し「観勝寺」と改名しました。
平安時代末の崇徳天皇は、特に藤の花を愛し、上皇となった久安二年(1146)、堂塔の一部を館に修造して寵愛の阿波内侍(烏丸殿)を住まわせ御幸していましたが、上皇は保元元年(1156)の「保元の乱」で敗れ讃岐へ流され、長寛二年(1164)にその地で崩御しました。残された阿波内侍(烏丸殿)は、観勝寺の観音堂に上皇の御尊影を祀り、出家剃髪し帝の菩提を弔ったと言うことです。

治承元年(1177)、後白河法王の時代に、大円法師が観勝寺に参詣したところ、崇徳帝の霊が現われかつての盛況さを示されたので、これに恐懼した大円法師は、直ちに奏上して後白河法王の詔を蒙り、崇徳院を手厚く奉るための神殿を建造し、光明院観勝寺と称しました。この建治年間(1275〜77)に建立された、この観勝寺内の鎮守社が安井金比羅宮の起こりと言われています。


その後、鎌倉時代には亀山天皇が社殿を改修し、以仁王の御子・道尊宮を蓮華法院門跡、神社の別当として以降八世の間、法嗣を継承したということです。しかし、応仁の乱の兵火に遭い、経済的に疲弊した朝廷からの援助を失った光明院観勝寺も衰退しました。その後江戸時代になると、後水尾天皇の勅願によって、関白二条康通の猶子・性演僧正が入寺し寺社を再興します。
元禄八年(1695)には、太秦安井にあった門跡寺院の蓮華光院がこの地に移築された時に、当神社の別当の道恕が、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮大権現より勧請した大物主神と、源頼政を相殿に祀ったことから、讃岐に行かなくても金毘羅宮に参拝できると評判になり多くの参拝者で賑わい、こうしていつしか安井金比羅宮と呼ばれるようになったということです。

その当時は領地300石を所有し社寺共に栄えていたようですが、明治四年(1871)の神仏分離令により、寺院は廃され嵯峨の大覚寺に合併することとなり、境内の一部を供出し縮小しました。これが現在の安井金比羅宮で、社域は1500余坪ということです。
明治六年(1873)に、村社に列し、安井神社と改称、また同十五年(1882)郷社に昇格、そして第2次世界大戦後、昔から親しまれてきた「安井金比羅宮」に復元し現在に至っています。


さて、安井金比羅宮は、縁結び・縁切りの神社として有名ですが、その由来は、主祭神の崇徳天皇が、讃岐の金刀比羅宮で一切の欲を断ち切って参籠したという言い伝えによります。
そして以降、浮気など男女間の縁、病気、酒、煙草、賭事など全ての悪縁を断ち切って、また良縁を結んでくれる祈願所として信仰されてきたと言うことです。

境内には、高さ1.5m、幅3メートルの「縁切り縁結びの碑(いし)」があります。碑の中央には、人が何とか通り抜けられる程の丸い穴が開けられていて、碑の中央にある亀裂を通して神様の力が下の円形の穴に注がれていると説明されます。
祈願者は、まず形代(かたしろ、身代わりのおふだ)に様々な願い事を書いて、碑の表から裏へ穴を通って悪縁を切り、裏から表へ通って良縁を結びます。後で神札を碑面に貼り付けると願いがかなうということで、碑の表面はたくさんの形代が張られて表面が見えない程の状態です。(写真)
人間というものは弱いもので様々な問題を抱えているのだという事を再認識してしまいますが、中には、お参りすれば良縁も切れるのでは・・と心配する方もあるそうで、良縁で結ばれたご夫婦やカップルの縁が切れることはありませんのでご安心をということです。


また、境内には、昭和五十一年(1976)に開館した日本初の絵馬ギャラリー「金比羅絵馬館」があります。(今回の写真は夕方の閉館後のものですが)絵馬は、元々神事や祈願の際に、馬を神霊に捧げる風習から生まれたと言われ、その後、経済的な事情等で段々と板絵へと変化していったと考えられています。この神社では古い絵馬堂の建築を生かしながら改築して多くの絵馬を展示して一般公開しています。

まず1階には江戸〜明治時代にかけて安井金比羅宮に奉納された絵馬が中心で、中には円山応挙に学んだ江戸時代の画家・山口素絢の作品もあります。また2階には、先代の宮司さんが、全国の画家や漫画家、芸能人に絵馬を送って絵を描いてもらった多くの絵馬が展示されています。また宮司さんが、ガラス工芸にも関心を持っていたことから「ガラスの部屋」という小さなギャラリーも設けられています。19世紀のアール・ヌーボー(エミール・ガレ、ナンシー・ドーム)やアール・デコ(ルネ・ラリック)等をはじめとする作品が展示されています。特に現代アメリカのデイル・チフーリの大作「海の神」が最大の見物になっています。

その他境内北側には、「久志塚(櫛塚)」があります。(写真)
これは古い櫛のために作られた塚で、毎年9月の第4月曜日に櫛まつりが行われています。櫛まつりは、古くなったり傷んでしまった櫛やかんざしを感謝を込めて供養するもので、この塚の前で供養祭が行われ、拝殿で舞踊「黒髪」が奉納されます。また春秋には例祭の金比羅大祭が行われます。


安井金比羅宮は、ホテル街に接しある意味で人間の様々な欲が集まっているような街中にある神社です。そして「縁切り縁結びの碑(いし)」や絵馬からも、人は昔から様々な欲と葛藤してきたと言う事が感じられます。何かのしがらみや繋がりと真剣に向き合う時、このような神社の加護が支えになったのでしょうね。

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東山区大和大路通四条下ル小松町山にある禅居庵(ぜんきょあん)は、建仁寺の塔頭のひとつですが通常非公開です。
しかし、境内にある摩利支尊天堂(まりしそんてんどう)は自由に参拝出来ます。摩利支尊天がなまって「まるしてん」とも呼ばれ、地元の人や祇園の花街からのお参りが多いお寺のようです。また日本三大摩利支天の一つ(他は、徳大寺(東京)と宝泉寺(金沢))にも数えられています。




摩利支尊天堂は、鎌倉時代末の嘉暦二年(1327)年、元(中国)から日本に請来されて、後に建仁寺第二十三世となった清拙正澄(大鑑禅師)が、日本に渡る際に携えた自作の「摩利支尊天像」をこの地に祀ったのが始まりとされます。寺院としての禅居庵は正慶二年(1333)、鎌倉南北朝時代の信濃守護・小笠原貞宗が、清拙正澄(大鑑禅師)を開山としてこの地に創建しました。
その後、禅居庵は応仁の乱で荒廃し、天文十六年(1547)に再建されました。
所蔵する紙本墨画松竹梅図は海北友松筆で重要文化財に指定され、また境内墓地に開基の小笠原貞宗の墓があります。現在の摩利支天堂本堂は、織田信長の父、信秀が天文十六年(1547)に寄進したと伝えられ、平成七年(1995)に改修され、鎌倉時代後期の禅宗仏殿の様式を伝えるものとして京都府指定文化財に指定されています。




さて、摩利支尊天は、陽炎(かげろう)を神格化したインドの女神です。
ゆらゆらと消えていく陽炎の不思議な様子から、身を隠し災難を除き、また利益を増す神としてインドで民間信仰され、その後仏教に取り入れられ中国を経て日本に伝来しました。
日本では摩利支尊天は中世以降武士の守護神として崇められ、また江戸時代には開運勝利、七難除けなど庶民の信仰を集め現在も多くの参拝があります。摩利支尊天は、三つの顔と六本の腕を持ち、頭には宝冠、身には甲冑を着け、七頭のイノシシに乗る姿で表されています。
この禅居庵の摩利支尊像は、十二年毎の猪年に本尊の御開帳があり今年正月に公開されたということです。また、境内には摩利支尊天の使者のイノシシの像がたくさんあります。


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