京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

清水寺・三十三間堂・東福寺他

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をけら詣(八坂神社)

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午前3時・・除夜の鐘&初詣から帰ってきましたので、取り急ぎ、簡単に書いてみます。
知恩院の除夜の鐘の後は、八坂神社にお参りするというのも大晦日の定番コースなのでしょう。私も久しぶりに、このパターンで八坂神社にお参りしてきました。



八坂神社の「をけら詣(おけら参り)」は、京都の大晦日〜正月にかけての行事として有名ですね。

大晦日の午後7時に、除夜祭が行われた後、7時半頃から境内に吊されたおけら灯籠に「をけら火」が灯され、参拝者の願いを記した「をけら木」と一緒に、明け方5時頃まで焚かれます。
参拝者は、境内で売っている「吉兆縄」を買って、縄に火をもらって、火が消えないように縄をくるくると回しながら持ち帰り、元旦の雑煮を炊くと一年が無上息災で暮らせるようと厄除け行事です。

大晦日の午後11時頃から、八坂神社の正面の四条通りが歩行者天国になって、広い車道が大群衆に埋め尽くされるような状態になってきます。鉄道地下鉄、一部のバス路線が終夜稼動していますので、どんどん人が増えて境内に入るには順番待ちの状態になりますので、少し早めに行く事をお勧めします。



やさしい炎の光は、冷え切った体だけでなく心も暖かくしてくれるようです。
一度は体験して欲しい京都らしい素敵な一時です。

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除夜の鐘(知恩院)

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先程、除夜の鐘&初詣から帰ってきましたので、簡単に書いてみます。

知恩院の鐘は、大きさは高さ3.3メートル、口径2.8メートル、重さ約70トン、その大きさからも日本三楼鐘の一つと呼ばれています。この鐘、あまりの大きさのため17人の僧侶により撞かれ、1人が親綱を持ち、仰向けにぶら下がるようにして、残りの16人は子綱を持って「えーい、ひとつ」「そーれ」の掛け声のもと撞かれます。(たいへん危険な撞き方ですから、一般客は撞けません。)

午後10時40分から、約1分間隔で撞かれますが、見物客は数万人を数えるために、見物時間は5分程度で移動しなければなりません。写真は今ひとつですが(最初フラッシュ禁止と聞いていたもので)
迫力があって、一度は実際に見ていただきたいと思います。

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今回は、東福寺の方丈庭園です。

禅宗寺院の方丈には、多くの優れた庭園が保存されてきましたが、方丈四方を囲む庭園があるのは、東福寺だけということです。
東福寺の方丈庭園は、釈迦の生涯に起きた8つの出来事を示す「八相成道」に因んで、別名「八相庭」とも呼ばれています。南庭(前庭)は、逢来(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛洲(えいじゅう)、壷梁(こりょう)の四仙島と八海、五山を表現しています。西庭が井田市松(北庭は小市松)、東庭が北斗七星を表現しているといわれます。





庭園の作者は、重森三玲(しげもりみれい、1896−1975)で、昭和十四年(1939)制作の作庭家としてのデビュー作になります。東福寺が鎌倉時代の創建ということで、鎌倉時代の庭園の風格を基本とし、これに現代芸術の抽象的構成をとり入れて表現したものということです。

当時、日本全国の庭園を調査していいた庭園研究家の重森三玲は、東福寺の境内調査を手がけていた時、寺の造園計画が持ちあがり、ボランティアで庭づくりを引き受けることになります。
彼はそれまで自身で作庭した経験はほとんど無かったのですが、全国の実測調査の結果、「江戸中期以降の庭園は芸術性が落ちている。そして、現在は将来に誇れるような庭が造られていない。」と痛感していました。この全国の庭園調査の実績と、元画家を目指していた芸術家としての発想でこの仕事に取り組んだのでした。(重森は、フランスの画家ミレーに憧れ「三玲」と改名した程の芸術家志向だったのです。)





一番中心となる方丈南庭(前庭)は、白砂の広がる「八海」の中に、巨石の長石で、「逢来(ほうらい)」、「方丈(ほうじょう)」、「瀛洲(えいじゅう)」、「壷梁(こりょう)」の四仙島を表現しています。荒海の砂紋の中に迫力ある石が配置されていて躍動感あるものになっていますが、重森三玲は、この巨石を探すのに、中々見つからず苦労をしたようです。
右方(西部)には「五山」が築山として表現され、苔と砂紋が大胆に斜線で区切られているのが特徴になっています。




西庭は、さつきの刈込と砂地によるもので、刈込を大きく市松模様に図案化しています。
田畑を井田の形に作る井田(せいでん)の抽象表現が意図されていて、さつきを用いる事で季節毎の色彩効果も狙っているようです。


廃物も無駄にしないという禅宗の精神から、重森は残りの2つの庭を造りました。
北庭(方丈裏)は、作庭以前に南の御下賜門内にあった敷石を利用しました。これを細かい市松模様として幾何学的に配置します。この斬新な手法はモンドリアンの絵画に先駆けるともいわれたようです。この北庭は通天橋の美しい楓が見える場所で、また南庭が石庭なので、それと対照的な庭として意図されたものでした。

東庭も、廃材を利用した庭です。もと東司(重要文化財旧便所)の柱石の余材を利用したもので、北斗七星を表す抽象的構成として表現されています。




東福寺の方丈庭園、特に市松模様は、今でも斬新な感じがします。
この方丈庭園は、近代の禅宗庭園として世界各国に紹介されていて、「“ZEN”スタイル」などと海外のミニマルスタイル系の本にも登場しています。好き嫌いはある庭だと思いますが、海外に禅のイメージを広めた功績はあるのかもしれません。
私も、どちらかといえば伝統的な庭園しか関心が無かったのですが、少しずつですが、新しい庭にも興味が出てきました。この斬新なデビュー作の後、重森は、その後国内に約200の庭園を造る昭和を代表する作庭家になっていきます。


先日、この重森三玲の旧宅を訪問しましたので、その様子を次回にご報告します。

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京都東山三条付近に、並河靖之七宝記念館があります。


ここは、明治・大正時代に七宝焼作家として活躍した並河靖之(1845ー1927)の旧邸で、伝統的な京町屋の建物そのものが記念館になっています。制作された七宝作品などの貴重なコレクションが、旧工房や旧窯場等と共に製作当時の環境の中で展示されているようです。
本当の目的は、庭園の見学だったのですが、今年最後の開館日に行って来ました。(来年の3月18日まで休館なのです。)作品が展示されている住居スペースや窯場等は撮影禁止ですが、庭園は撮影自由です。




並河靖之について少し・・
弘化二年(1845)に川越藩家臣の家に生まれた靖之は、青蓮院宮侍臣の並河家の養嗣子となり、家業を受け継ぎ青蓮宮(後の久邇宮朝彦親王)の侍臣となりました。明治維新前後から、中国七宝の模倣に着手し、ついに明治六年(1873)、第1号を完成。その後、日本の窯業界に影響を与えたドイツ人化学者ワグネルや、富岡鉄斎ら文人との交流などにより繊細で独特の作品を生み出し、国内外で受賞を重ね、最高の名誉である帝室技芸員に任命された人物です。





並河邸は、明治二十七年(1894)の建造で、表屋を含む主屋と、旧工房・旧窯場で構成されています。(いずれも国の登録有形文化財及び京都市指定歴史的意匠建造物です。)外観は京都の伝統的な商家の構えをしていますが、背後に2階建ての母屋が連なっているのが特徴になっています。京町家と書院造というふたつの様式が併存する珍しい形式で、欄間や障子、欄干などに青蓮院や修学院離宮の「写し」もあり、青蓮院宮に仕えた靖之の趣向が反映されたものになっています。
また、外国からの訪問客が多かったため、鴨居の高さも6尺(約2m)と高めに設定され、和室に椅子とテーブルが設置されたモダンな応接室には、当時珍しかった輸入品のガラス障子が用いられて開放的な空間を形づくっています。旧工房や旧窯場は、一時居住空間となっていましたが、当時の写真を元に復元されています。





庭園は、京都市の名勝指定を受けている名庭です。
作庭は、近代造園の先駆者、7代目小川治兵衛(屋号は植治。1860ー1933)で、建物と同様、明治二十七年(1894)に完成しました。
植治が自身の様式を確立したと言われる平安神宮神苑(明治二十八年)、山県有朋の無隣庵庭園(明治二十九年)に先駆ける貴重な庭園となっています。表玄関の通り庭や坪庭、池を中心とする平庭で構成されていて、伝統的な庭の様式が全て組み込まれた密度の濃い庭園になっています。

植治の庭園の最大の特徴は、琵琶湖疎水の水を取り入れた躍動的な水の流れのデザインといわれますが、この庭園は、明治二十三年(1890)に竣工した琵琶湖疎水の水が個人庭園に引かれた、最初の例でした。縁側下まで池が広がる庭園は、智積院などしか思い浮かばない感じです。
また、庭内には全国各地の名石とされた庭石が多数用いられていて、ここには植治というより並河靖之の趣味が多分に入り込んでいるようです。一番、目を引くのは大きな一文字の鞍馬石の手水鉢と巨大な2つの沓脱石です。この沓脱石は、元は膳所城の櫓の葛石として用いられていたということです。(写真)





七宝焼に関しては、あまり関心が無かったのですが、好きな方には喜ばれる場所かもしれません。並河旧家は、伝統的な京町屋がそのまま残されていて、町屋に興味のある方にお勧め・・そしてもちろん、京都の庭園に興味のある方は一度は見ておきたい庭園だと思います。(京都市指定の名勝庭園は、公開されているものが少ないので、その意味でも貴重な庭園です。)

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今回は、東福寺の塔頭の龍吟庵(りょうぎんあん)です。
この秋の特別拝観で行ったのですが、この冬の「京の冬の旅・非公開文化財特別拝観」でも公開されるようです。(期間1月13日〜3月18日)




龍吟庵は、本坊の横から木造の橋、偃月橋を渡るとすぐです。(尚、この偃月橋も重要文化財に指定されていて、通天橋・臥雲橋とともに東福寺三名橋と呼ばれています。)
このお寺は、鎌倉時代の正応四年(1291)に、東福寺の第三世住持の大明国師(無関普門)が創建したお寺です。しかしこの年、大明国師は、亀山上皇に請われて、南禅寺の開山になったものの、秋頃から病を得て東福寺帰り、龍吟庵で死去したのでした。

現在の方丈は、室町時代の建築で、国宝に指定されています。単層入母屋造も杮葺屋根の趣のある建物で、正面は七間(約12.7m)梁間は五間(約9m)の書院造に寝殿造風の名残を多く残した、現存最古の方丈建築のようです。この方丈には、足利義満直筆の「龍吟庵」の扁額が掛けられています。
方丈は、写真で見ると外観も優雅なのですが、拝観者は方丈に上がるわけで、距離を置いて眺められないのが残念です。また方丈の背後には、昭和に建てられた開山堂があり、堂内には大明国師座像(重文・鎌倉)を安置しています。この開山堂にも足利義満直筆の「霊光」「勅諡大明国師」の扁額が掲げられています。また庫裏、表門も桃山時代の建造で重文指定です。





庭園は、方丈を囲む形で、東西南の三ヶ所に設けられていて、いずれも枯山水の庭となっています。全て昭和の作庭家、重森三玲の昭和三十九年(1964)の作です。

方丈正面の南庭は、ただ白砂を敷き詰めただけのシンプルを極めたものです。
西庭は、龍吟庵の寺号に因んで、龍が海から顔を出して黒雲に乗って昇天する姿を、石組で表現した枯山水庭園です。中央にある3つの大きな石が、龍の頭です。白砂と黒砂で雲を表し、竹垣が稲妻を表しています・・一番の力作ですが、好き嫌いがありそうです。
東庭は、赤砂を敷き詰めた珍しい庭です。中央に長い石を置き、その前後に白黒の2石を置いています。これは開山の大明国師が幼少時代に、熱病にかかって山中に捨てられた時、二頭の犬が国師を狼の群れからから守ったというエピソードに基づいて作庭されています。外側の6つの石が狼ですよ。



これまで現代の庭園にはあまり関心が無かったのですが、数件の重森三玲作の庭園を見ていると、作庭年代により、時代の流行や変化、出来不出来もあるように感じてきました。
龍吟庵の庭園も有名なのですが、現代から見ると、やや具象化に傾き過ぎて、こちらの想像力を減退させるように思うのですが、どうでしょうか?

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