京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

清水寺・三十三間堂・東福寺他

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

イメージ 1

イメージ 2

この夏に行ったばかりの高台寺と圓徳院に行ってきました。


今回は庭の説明を少しだけ書いてみます。・・
圓徳院は、北政所が慶長五年(1605)に伏見城より化粧御殿とその前庭を移築して移り住んだ高台寺の塔頭です。甥の木下利房が譲り受け、寛永九年(1632)に木下家の菩提寺として開かれました。


南庭は近年の造作ですが、注目すべきなのは、国の名勝指定を受けている北庭です。
桃山時代の池泉回遊式庭園ですが、枯山水となっていて、200もの大きな岩を使っているのは珍しく、桃山時代らしい豪華な雰囲気です。
これらの石は大名達に集めさせたもので、大名を識別する印が刻まれているようです。また、この庭は伏見城にあった際は池庭だったのですが、この東山の土壌が池を作ることに難しいということと、江戸初期にかけて枯山水が流行したこともあり枯山水庭園になったということです。
紅葉はピークを過ぎていましたが、豪快な庭となかなか合っていると感じました。


圓徳院の境内には商業スペースがあり、多くの人で賑わっています。この商業施設はセンスが良いとは思えないのですが、圓徳院の北庭は中々見事だといつも思います。

正法寺

イメージ 1

イメージ 2

京都市東山区、霊山の中腹に正法寺というお寺があります。
西山にも同名のお寺があって、そちらの方が有名なようですが、このお寺も隠れた紅葉スポットで、境内から京都市内を一望できるお寺です。場所は、東山の二年坂から東へ真っ直ぐ、霊山護国神社の近くになります。



正法寺は、延暦年間(782ー806)に、伝教大師最澄が創建した延暦寺の別院で霊山寺(りょうぜんじ)という名前でした。その後、鎌倉初期の元久年間(1204―1206)に法然上人がここを念仏道場としますが、室町時代の永和ニ年(1376)国阿上人が入寺して、時宗霊山派の本山とします。(現在は時宗・国阿派)この時、寺名を正法寺と改名します。




足利義満や後小松天皇などが、国阿上人に帰依したため、盛時には数十の塔頭が建ち並んだ大寺院だったようです。江戸時代になると、塔頭の中には京洛一帯を眺望できる名所として、書院造庭園を開放し庶民の遊宴地となるものもあってたいへん賑わったそうです。しかし、その後火災に遭うなどして衰退し、現在は境内にわずかの建物が残るのみです。本堂には、本尊の国阿上人像を祀り、本堂裏には国阿上人石塔が残ります。



このお寺まで来る観光客は少ないですが、境内から京都市内を一望できる穴場的な場所ですよ。
(境内自由)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

東福寺の塔頭芬陀院は、雪舟作の庭があることから別名雪舟寺として知られるお寺です。
丸窓越しに見る東庭の光景は写真で見られた方もあるかと思います。



芬陀院は、後醍醐天皇の元享年間(1321―22)に、五摂家のひとつ、一条家の当主内経が、定山祖禅和尚を開山として創建したお寺で、以来一条家の菩提寺となっています。
堂宇は、江戸時代の元禄四年(1691)に火災で焼失、再建後も宝暦五年(1755)に再び焼失しますが、桃園天皇の皇后、恭礼門院の御所の一棟を下賜されて移築、さらに明治三十二年(1899)に改築したのが現在の建物です。尚、唐門は恭礼門院の御所のより移築されたものです。





方丈の南庭は、雪舟等楊(とうよう)の作と伝えられる枯山水庭園で、作庭年代は、寛正・応仁(1460−1468)頃と考えられています。
雪舟は京を訪れた際には必ず芬陀院に起居していて、当時の関白一条兼良の好意を得て、この庭を造ったと伝わります。江戸時代の2度の火災により荒廃していたものを昭和十二年(1937)に重森三玲が復元修理し、さらに昭和三十二年(1957)に中根金作が白砂、樹木など周辺整備を行いました。
こうして昭和の造園芸術の大家2人の復原により、ほぼ作庭時に近いものに蘇った庭園は、近畿地方唯一の雪舟作の庭園ということになります。




南庭は「鶴亀の庭」と呼ばれ、右に亀、左に折り鶴が配置されています。この石組みの亀が作庭の夜に動き出したという伝説も伝わります。東庭は、重森三玲が作庭したもので、鶴島を中心に蓬莱の連山を表現しているということです。また、東庭の北には、昭和四十四年(1969)に関白一条昭良(恵観)ゆかりの茶室「図南亭(となんてい)」が復元されました。この茶室西側には一条昭良ゆかりの勾玉(まがたま)の手水鉢、屑屋型(くずやがた)石灯籠が置かれています。




今回は、通天橋の紅葉を見物した観光客が多く、ゆっくり出来ませんでしたが、紅葉時期を外せば、普段は静かなお寺なので、オフシーズンにでもゆっくり眺めるのが良いと思っています。
以前に来た時も、特に印象深いということは無いのですが、自分の家の縁側にいるような、ゆっくりとした時間の流れを感じることが出来ました。こういう何気ない雰囲気のお寺が一番飽きが来ないということかもしれません。

正覚庵(東福寺塔頭)

イメージ 1

イメージ 2

東福寺の塔頭、正覚庵は「筆供養」のお寺として知られます。
観光スポットでは無いですが、少しだけ・・。


境内には、江戸時代の文化年間に、古くなった筆の労に感謝するために作られたという筆塚があり、毎年11月23日に、この前で大護摩が焚かれ、会社や家庭から奉納された古筆、鉛筆など2万本以上が、愛用した筆に感謝の気持ちながら火中に投げ込まれます。
その煙を浴びると字が上達するということで、その後に筆神輿が山内を巡行します。
普段は静かなお寺ですが、この日ばかりは参拝者でいっぱいになるようです。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

東福寺の塔頭、即宗院です。
通常非公開ですが、秋のみ一般公開されるお寺ということで初めて寄ってみました。



即宗院は、室町時代初期に、島津家6代目の島津氏久が剛中玄柔を開山として東福寺内に建立しました。その後、島津家の菩提寺として長く庇護を受けることになります。堂宇は、永禄十二年(1569)に焼失しますが、慶長十八年(1613)に再建されました。明治時代に廃仏毀釈の影響で島津家の庇護を失い衰退しますが、昭和になり庭が復原され現在に至ります。


このお寺は幕末に重要な役割を演じました。
西郷隆盛が清水寺成就院の僧月照と共に、現在境内に跡が残る茶室・採薪亭に隠れ住んで倒幕の謀議をこらし、明治維新の大業を達成することになったからです。明治になり、西郷隆盛は戊辰戦争の戦死者425名の薩摩藩士の追悼碑を建立し、6基の碑が寺の裏山に建っています。(写真)


京都市指定の名勝庭園は、元々平安時代末に関白藤原忠道が造り、その子兼実が山荘として使っていた寝殿造系庭園でした。現在の庭園は室町時代の作と伝えられますが、平安期の地割りや滝跡の石組が残る貴重なものということです。この庭園は明治以降に荒廃しますが、昭和になって整備され以前の姿を取り戻しました。
境内奥には、西郷隆盛と僧月照ゆかりの茶室「採薪亭」跡、滝石組み、植え込みや灯篭等が配置されて、静かで落ち着いた庭園になっています。


即宗院は、林に囲まれた回遊式庭園の鑑賞が中心で、特に寺宝が有るというわけでも無いようです。それでも、観光客がちらほら程度の静かな雰囲気は良かったです。この静けさに惹かれたのか、池を前にした座禅石の上で、外国人青年がじっと瞑想しているようでした。
秋のみ特別公開といっても、東福寺・通天橋の紅葉を満喫した人の、1000分の1程度の人が来られるくらいでしょう。確かに地味なお寺ですが、東福寺山内では他に無いような、小さな公園のような庭園は良い感じです。


.
hir**i1600
hir**i1600
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事