京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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中京区姉小路通釜座東入津軽町にある高松神明神社(たかまつしんめいじんじゃ)は、小さな街中の神社ですが、平安時代には歴代の上皇の御所にもなった高松殿に祀られていたという由緒ある神社です。
祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、八幡大神(はちまんのおおかみ)、春日大神(かすがのおおかみ)になります。


さて、平安時代にこの地にあった高松殿は、元々、醍醐天皇の皇子で、西宮左大臣と呼ばれた源高明(みなもとのたかあきら 914〜82)の邸宅で、鎌倉時代末期に書かれた「拾芥抄(しゅうがいしょう)」では、「姉小路の北、西洞院の東、高明親王の家」と記されているということです。
源高明は、延喜二十年(920)、七歳の時に源朝臣を賜って臣籍降下し、平安京の左京一条一坊(姉小路の北、西洞院の東)に高松殿を建造しました。この時に天照大御神を勧請して邸内に祀ったのが、高松神明神社の起こりと伝わります。その後、源高明は、正二位左大臣に至り、後の「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルの一人となったともいわれますが、安和二年(969)の「安和の変」で、藤原氏によって失脚させられ大宰府に流されました。

父の流罪により高明の娘・明子は、幼少時に叔父の盛明親王の養女となり、父のこの邸宅を継承して住んでいましたが高松殿と称され、後に藤原道長の室となりました。また明子と道長の間に生まれた娘・寛子も、小一条院敦明親王(三条天皇の第一皇子)の室となったために、高松殿は小一条院敦明親王(三条天皇の皇子)の御所にもなっています。尚、この敦明親王は、藤原道長の圧力(道長は自身初の外孫にあたる後一条天皇を即位させようとしました。)を受けて皇太子を辞退させられた人物です。

その後、高松殿は、藤原一族に継承され、嘉保二年(1095)には、白河上皇が当時、近臣の藤原顕季が所有していた高松殿を里内裏として院御所としています。また、康和五年(1103)には、宗仁親王(後の鳥羽天皇)が誕生したために、高松殿で一連の祝儀が行われています。この間、記録によれば、高松殿は治安元年(1021)と、保安元年(1120)に焼亡したと伝わります。

さて、その後、高松殿は院政期の久安二年(1146)に、鳥羽上皇の命により新造され、鳥羽上皇の院御所にもなりました。また、この時に造営を担当した長門守源師行は、この功績により後に大蔵卿と昇進しています。
また、久寿二年(1155)には、後白河天皇が高松殿で即位して、以降保元二年(1157)まで御所(里内裏)となり高松内裏とも称されました。
そして、保元の乱(1156)の際には、崇徳上皇方の白河北殿に対して、高松殿は後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らの軍勢がここに参集して、白河北殿へ攻め込んだことで知られます。その後、平治の乱(1159)に高松殿は焼失し、鎌倉時代の後期には廃墟となりましたが、邸内にまつられていた鎮守社高松明神のみは存続したようです。



さて、その後の高松神明神社は、応仁の乱で焼失しますが、その後間もなく再建されたようで、当時はまだ広い境内を所有していたようです。そして、永禄八年(1565)に宥玉法院が社僧となって、「神明寺宝性院(高松神明宮宝性院)」と号する神宮寺となり、真言宗・東寺宝菩提院の末寺となりました。
天正八年(1590)の豊臣秀吉の京都都市改造のために、釜座通と小川通が開かれ、この時に神社境内は半分に縮小し、さらに江戸時代にも元治元年(1864)七月の「蛤御門の変」による兵火等、度々火災に遭って境内や社殿はさらに縮小しました。
明治六年(1873)四月に「高松神明神社」と改称し、村社に列せられ、明治十六年(1883)六月に社殿を新造、明治四十四年(1911)に現在の社殿の大部分が造営されています。



元々、境内には、稲荷社、天満宮、不動明王、弘法大師、地蔵尊、金毘羅社等がありましたが、元治元年(1864)七月十九日の「蛤御門の変」による兵火により地蔵尊を残して全て焼失してしまいました。

この唯一残った神明地蔵尊は、大阪の陣で活躍した智将・真田幸村ゆかりの地蔵尊と呼ばれています。
この石地蔵は、寛政六年(1794)、当時の「神明寺宝性院(高松神明宮宝性院)」の社僧が、紀州(和歌山県)九度山の伽羅陀山(真田庵)に安置していた真田幸村の念持仏を拝領して、持ち帰った地蔵尊と伝えられます。そして、地蔵堂の台石をさすり、子供達の頭を撫でるとし智恵を授かるとして、「幸村の智恵の地蔵尊」として信仰されてきたということです。この地蔵尊は直接見られませんが、側に写真が貼られています。
また境内にあるモクレン科の常緑樹オガタマノキは、天明時代(1781〜88)から境内のこの場所にあるとされ、高さ9.5m、幹周り1.22mあります。

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下京区東洞院通塩小路下ル東入高倉町、JR京都駅から徒歩数分のところにある小さなお寺が、正行院(しょうぎょういん)です。
開山の円誉上人が猿を救ったという伝説があり、境内には多くの猿の人形などが納められています。また門前にある「輪形地蔵(わがたじぞう)」も交通安全のご利益があるお地蔵様です。(尚、今回訪問した時は、本堂が改修中だったために、本堂の写真が無いです。次回はお寺に事前連絡して、本堂内を参拝させていただきたいと思います。)


さて、正行院は、室町時代の天文七年(1538)に創建された浄土宗捨世派(しゃせいは)の寺院です。「猿寺」という通称の由来です・・
開山・円誉道阿(えんよどうあ 1496〜1584)上人が、北山の中川(現・北区の周山街道沿いの集落)の里に庵を結んで念仏修行している時のことです。上人は、いつも山に棲む動物たちを可愛がっていましたが、ある時一匹の猿が上人のために自然薯(じねんじょ)を採ろうとして谷底に落ちて死んだということです。円誉上人はこの猿を弔って、災難除けと来世には人間に生まれ変わる仏縁結縁を願って、山の他の猿たちの首に「南無阿弥陀仏」の名号を書いたお守りを付けてやったということです。

その後、元亀二年(1571)、完又十郎という猟師が北山で大きな猿に出会って弓矢で狙うと、猿は首の輪を引っ張りながらしきりと又十郎を拝みます。不思議に思った又十郎が、「命は助けるので、その首輪を置いていけ。」と言うと、猿は首輪を置いて逃げました。首輪の中に「南無阿弥陀仏」と書かれた紙切れを見つけた又十郎は、人に尋ねて、これが円誉上人が書いたものと知り上人を訪ねます。そして、円誉上人から猿のお守りの由来を聞いた又十郎は、猟師として殺生を重ねてきた我が身を省みて改心し、正行院の住職となっていた上人の弟子になって動物供養に生涯を送ったと伝えられます・・・この縁起から、正行院は、「災難さる」の猿寺と呼ばれるようになったということです。その後、明治頃までは広い寺域があったようですが、京都駅周辺の都市化によって縮小しました。

 本堂は、伏見城が壊された際、寛永年間(1624〜44)に徳川家光によってその遺構を寄進されて改築されたものと伝えられ、堂内には猿をひざの上に乗せた上人像を祀っています。その他「見ざる」「言わざる」「聞かざる」「為(な)さざる」などの八猿はじめ五百以上の猿の人形が置かれているということです。


また、門前西側の地蔵堂に祀られているのが「輪形地蔵(わがたじぞう)」です。
かつて、ここ七条の東洞院から伏見に至る竹田街道では、牛車や馬車の通行を楽にするため、車輪が地面にめり込まないように車の通る場所に石を敷いていましたが、周辺の住民たちは、その石を「輪形の石」と呼んでいました。ある夜村人が、夢枕のお告げで、その輪形の石を掘り出してみたところ、立派なお地蔵様が出てきたということです。村人達は、そのお地蔵様を「輪形地蔵」と呼んで、車馬の危難を救い交通安全のご利益があるとしてこの地に祀ったと伝えられます。

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前回の不動堂明王院の北隣にあるのが道祖神社です。
縁結びの神様、旅の安全を守る神様として知られ、JR京都駅に最も近い神社ということでアクセスも良いためか、JRでの出発前などに参拝される方も多いようです。


油小路通塩小路下る南不動堂町にある道祖神社の祭神は、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)の二神です。 
猿田彦神は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、葦原中国(あしはらなかつくに=日本国土)を治めるために高天原から日向国・高千穂峰に降った・・いわゆる天孫降臨の時に、その道案内をしたことから、道の神・旅人の神とされます。また、天鈿女命(あめのうずめのみこと)は、天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になった際、岩戸の前で踊りを披露して天照大神を誘い出したことから、踊り=芸能の女神とされました。この二神は、天孫降臨の際に出会って結ばれたことから、通常、夫婦神として一緒に祀られています。また、猿田彦神は、村の境界や道の辻などに祀られる、元々中国伝来の「道祖神(どうそしん)」と同一視されるようになり、子孫繁栄や交通安全の神として信仰されるようになりました。



さて、道祖神社は、前回登場した不動堂明王院と同じく、宇多法皇の離宮の一つ、亭子院(ていじのいん 東七条御所)に関係する史跡のようです。亭子院は、平安時代の昌泰二年(899)に、宇多天皇が京都西洞院に建造した離宮で、東西二町(約220m)南北四町(約440m)という広大な敷地だったと伝わります。道祖神社はこの離宮の鎮守社として創建されました。
応仁の乱の兵火によってかつての亭子院敷地にあった不動堂明王院なども焼失したようですが、この神社は存続したようで、南不動堂町の現在地には、豊臣秀吉の時代に移されたと伝わります。
山門横には道祖神像、境内には末社の天満宮、稲荷社、幸神社が並び、縁結びと旅の安全を守る神として信仰を集めています。

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下京区油小路通塩小路下ル南不動堂町、JR京都駅の北西にある不動堂明王院(ふどんどうみょうおういん)は、古今見た者は誰もいないという井戸の底に封じられた不思議な不動明王像を祀るお寺で、新撰組の幻の屯所として幕末ファンにも知られるお寺です。


さて、寺伝によると、不動堂明王院の創建は、弘仁十四年(823)、弘法大師空海が嵯峨天皇の篤い帰依を受けて京都南に東寺を開いた際に、東寺の鬼門(東北)にあたるこの地を選んで東寺守護のために一体の不動明王像を祀ったことに由来すると伝わります。
この不動明王像は、弘法大師空海がこの地でたまたま発見した一基の不思議な霊石に自ら彫刻したもので、大師はこれを石棺に納めて地中の井戸深くに安置したということです。


その後、昌泰二年(899)時の宇多天皇は仏道に深く帰依して法皇となりますが、京都西洞院に現在の不動堂明王院も含んで、東西二町(約220m)南北四町(約440m)と伝わる広大壮麗な亭子院(ていじのいん 東七条御所)という離宮を営みました。その亭子院の造営の際、法皇は、この地に霊石不動尊像が安置された井戸があるのを知って、人に命じて取り出させようとしましたが、霊力のためか井戸の石を見たものは誰もが眼を痛めるので恐れをなして終に取り出すことは出来ませんでした。そこで法皇は、勅命によって井戸を封じ何人も伺うことを許さず、この不動尊を「霊石不動明王」と名付けて大きな堂宇を造り、護念持仏として日夜崇敬したということです。

室町時代に応仁の乱の兵火によって亭子院をはじめ、堂宇は全て焼失しましたが、井底に安置されたままの霊石不動像は多くの信仰を集め、篤志家たちの手によって堂宇が再建されました。その後、江戸時代の明和元年(1764)十一月に本堂が改築修理され、現在に至っています。
なお、宇多法皇が法皇として仁和寺に入寺した関係上、不動堂も仁和寺の直属道場として天明年間(1780年代)までその下にありましたが、現在は西山浄土宗に属して現在に至ります。


弘法大師の一刀三礼と伝わる本尊・霊石不動明王像は、現在も井戸の底に封じられた霊像のため、古今誰一人として直々拝することはできません。そのため、特に御前立として同じく弘法大師の一刀三礼と伝える不動尊像を安置してこれを拝することとなっています。この不動像は世俗の伝承によると「高野山波切不動尊」「成田不動尊」と併せて空海作の三体不動尊と呼ばれているということです。尚、不動尊の右に弘法大師像、左に役行者像が安置されています。
また、不動堂明王院では、毎月28日には、厄除け、家内安全、交通安全、病気平癒等を願って「護摩焚き」が行われています。


最後に、不動堂明王院は「新選組の幻の屯所」だったともいわれます。
大正時代に記された京都の地誌「京都坊目誌」によると、新撰組の三番目の屯所となった「不動堂村の屯所」は、「堀川の東、木津屋橋の南」とあるだけで正確な場所は不明とされてきました。この屯所では真ん中に広大な広間があり、左右に一般隊士から幹部までの部屋が両側に続いていて、また浴場や獄舎まであったと伝わり、西本願寺の屯所に比べて御殿のような壮麗なものだったということです。 しかし、屯所を移って半年後に、近藤勇が高台寺党の残党に右肩を撃たれ、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が大敗したため、不動堂村の屯所は幕を閉じました。
不動堂村の位置は諸説ありますが、この村名は「不動堂明王院」にちなむ地名であるとして、不動堂明王院が屯所だったとも考えられるということです。(尚、平成十五年(2003)、霊山歴史館の調査により、この屯所は堀川塩小路にあったと判明したとして、不動堂明王院から油小路通を隔てたリーガロイヤルホテル京都の敷地に不動堂村屯所跡の石碑が建立されています。)

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前に、清水寺から東山五条に続く五条坂付近の鎮守社として若宮八幡宮を採り上げました。今回はその旧社地に祀られた同名の神社です。

若宮八幡宮の来歴については、五条坂の神社と重複しますが書いてみます。
若宮八幡宮は、平安時代の天喜五年(1058)、河内源氏の棟梁・源頼義(八幡太郎義家の父)が後冷泉天皇の勅を奉じて六条醒ヶ井(ろくじょうさめがい 左女牛)に創建したと伝わります。畿内の八幡神の本拠地・石清水八幡宮に対して、八幡の若宮と称し、六条八幡、左女牛八幡(さめがいはちまん)とも呼ばれていました。

平安時代には五条大路までが市街地で、源氏の京都での本拠地は六条大路付近にあったようです。堀川六条には後に源為義、義朝等河内源氏の棟梁が館を構え、義経も宿所にしていました。それ以前の源頼義や義家は若宮八幡宮のある現若宮町に館を構えていたようです。(現在、若宮八幡宮の石碑の側面には「八幡太郎源義家誕生地」と刻まれています。)館の傍に建立された神社は以降、源氏の守り神として、源氏一族や多くの武士から信仰されました。

「吾妻鏡」によると、源頼朝は、文治三年(1187)一月に六条以南、西洞院伊東の一町を左女牛御地を六条若宮に寄進したと記されていて、この寄進地は現在の若宮町周辺一区画になります。また同年(1187)六月十八日には若宮八幡宮で放生会を行うようとの沙汰があり、八月十五日に鎌倉の鶴岡八幡宮と共に放生会が行われたのが今日の例祭のはじまりということです。もちろん、頼朝は、建久元年(1190年)十一月と同六年(1195)三月から六月の二度の上洛の際、石清水八幡宮と共に若宮八幡宮に参拝し臨時の大祭を斎行しています。

さらに室町時代には歴代の足利将軍家からの崇敬を受け栄え、当時は楼門や三十塔等もある壮麗な神社だったようですが、応仁の乱により焼失しました。その後、十三代将軍義輝や弟義昭の発起により諸国の戦国大名の寄附により再建され、豊臣秀吉の京都改造により天正十二年(1584)に当時の御旅所のあった東山に、さらに同十六年(1588)に大仏方広寺の北に移されました。そして、慶長十年(1605)、照高院門跡道澄(近衛家出身で、聖護院門跡等を務め、三井寺を復興するなど活躍)が、徳川家康の支援も得て東山五条坂に移しました。

現在の若宮町の八幡宮は、その後も旧地に祀られていた小祠を若宮町住民らが社殿を再興して祀ったもので、末社として若宮稲荷神社も祀ります。
若宮八幡宮は、今では源義経ゆかりの京都の史跡の一つとして知られた神社です。


ついでですが、若宮八幡宮のすぐ北西、下京区若宮通六条上る上若宮町にある福若稲荷神社の写真も掲載しておきます。昭和の創始という小さな上若宮町の鎮守社のようです。

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