京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

中京・下京

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土御門家ゆかりの史跡が続きますが、下京区梅小路石橋町にある稲住神社(いなずみじんじゃ)は、土御門家の祖といわれる安倍晴明を祭神とする神社です。

境内にある駒札によると、この神社のある付近は、明治以前には池がある広場だったということで、農家が稲束を積んでいたことから、「稲積社」と呼ばれ、これが転じて「稲住神社」という社名となったようです。神社の創建由来については不明で、元々江戸時代から土御門家屋敷内に安倍晴明を祀っていたものか、土御門家の屋敷跡だからと後に安倍晴明を祀るようになったのかも判明しません。


ともかく、前回の梅林寺の時に詳しく書きましたが、この梅小路(梅小路八条)一帯は、平安時代以来、陰陽道を以って朝廷に仕えた土御門家の邸宅があった地域でした。駒札を引用すると、その屋敷は一町(約百十メートル)四方あって、北部が住居、 南部が祭場となっていました。そして、この祭場には、祭壇や本宮、権殿その他の建物があり、 代々の天皇の即位に当っては、聖寿の長久を祈る天曹地府祭を行なったということです。
また、貞亨元年(1684)に、貞亨暦を作って幕府の天文方となった渋川春海(しぶかわはるみ しぶかわしゅんかい)は、暦を完成させる際に、陰陽頭だった土御門泰福(つちみかどやすとみ)に協力を求めて、共にこの地に星台を建て渾天儀で天体を観測してその正確を証明した場所でもあるということです。


境内には奥に本社、手前に魔王尊社があります。本社には安倍晴明の他にも、龍王や弁財天、薬一大明神等を合祀しているようです。また、木の根をご神体とした魔王尊社が境内中央に斜めに鎮座しているのが特徴的で、一見、小屋か何かが無造作に配置されているような印象もあります。

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JR京都駅の西にある下京区梅小路一帯は、陰陽道の大家として知られた土御門家(つちみかどけ)の邸宅があった地域です。
土御門家は、平安時代の陰陽師として知られる安倍晴明の子孫で、梅小路東中町の梅林寺、梅小路東西中町の円光寺、梅小路石橋町の稲住神社等がゆかりの史跡として残っています。今回は土御門家の菩提寺として知られる梅林寺(ばいりんじ)を採り上げます。(尚、これまで観光とは縁の無かったこれらの史跡ですが、陰陽師ブーム以降は、無断で境内に入る観光客が増えて困っているということで、予約して訪問することをお勧めします。今回私も予約していないため、写真は外観のみ)



さて、土御門家は、室町時代初期に活躍した安倍晴明の十四代目の子孫・安倍有世(あべのありよ 1327〜1405)の流れを汲む陰陽師の名門です。
安倍有世は、将軍足利義満から重用されて、陰陽師としては初めて刑部卿という公卿に昇進しました。以後、有世の子孫も公卿に任じられ、その曾孫・有宣(ありのぶ 1433〜1514)の頃、朝廷より土御門家の称号を許されて、これを家名としました。しかし、その後この有宣から、有春、有脩の三代にわたって歴代土御門家は、応仁の乱後の都の戦乱を避け、先祖・有世の時代以来の所領のあった若狭名田庄村(福井県おおい町)に移り住んで、若狭の守護大名・武田氏の庇護を受けることになりました。

その後、ようやく戦乱が収まり、有脩の子・土御門久脩(つちみかどひさなが 1560〜1625)は都へ戻りますが、関白秀次事件に連座して蟄居の身となります。しかし、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの後、久脩は徳川家康に見いだされて復権し、京都の梅小路の邸宅に居住します。その後、土御門泰重、泰広を経て、土御門泰福(やすとみ 1655〜1717)の時代の天和三年(1683)、霊元天皇の勅許によって、土御門家は全国の陰陽師の統括と暦作成の権利を得ます。こうして、土御門家は全国の陰陽師を支配下に置いて全権を握ることになりました。

しかし、貞享元年(1684)に、渋川春海(しぶかわはるみ しぶかわしゅんかい)が、初の日本独自の暦「貞享暦」を作成し、それまで約八百年間使われてきた中国唐伝来の「宣明暦」から切り替えると、江戸幕府は天文方を設置して渋川春海を初代天文方に任命します。こうして、編暦業務は、朝廷の陰陽寮(土御門家を陰陽頭とする)の所轄から幕府天文方に移ることになりました。
しかし、権限を奪われることに抵抗した泰福の子・土御門泰邦(1711〜84)は、宝暦五年(1755)に「宝暦暦」の作成に成功して、改暦権限は再び土御門家が取り戻しました。しかし、この「宝暦暦」は、精度で劣り問題が多かったことから、その後、寛政九年(1797)の「寛政暦」、天保十五年(1844)の「天保暦」と、幕府天文方が精度の高い暦を作成して主導権を奪回することになります・・・既に伝統ある陰陽師の名門土御門家の時代は終わりつつあったのでしょう。

最後の抵抗を試みたのは、幕末の土御門晴雄(つちみかどはるお 1827〜69)でした。
晴雄は、明治維新の混乱に乗じて、新政府に旧幕府の天文方を廃止させ、再び天文観測や暦の権限を土御門家が手中に収めます。さらに晴雄は西洋の太陽暦(グレゴリオ暦)導入に強く反対し、太陰太陽暦の継続を提案しますが、明治二年(1869)に病死してしまいました。こうして、安倍晴明の流れを汲む陰陽道の名門・土御門家の時代は終わりました。明治三年(1870)に明治政府は、陰陽寮を廃止し、天文・暦学は大学や天文台、海軍等など移管されることになりました。


さて、梅林寺は、土御門家を檀越として、江戸の元禄年間(1688〜1703)頃に創建されたと考えられています。境内墓地には歴代の安倍家(土御門家)の墓があり、「宝暦暦」作成した正二位・土御門家泰邦の墓もあります。また、皇女和宮付上臈だった安倍邦子の墓などもあり、安倍家(土御門家)歴代の位牌も安置しています。
土御門家はその広大な屋敷内に、天文観測を行った星台を設けられていましたが、現在の梅林寺の前庭にも天体観測で用いられた天球儀「渾天儀」が置かれたという東西南北を現す十字が刻まれた台石が残っていて、石には土御門泰邦の名前が彫られています。
また、山門横には、平安時代中期の作といわれる大日如来像が祀られていて、これは平安時代初期に創建され、東寺と並ぶ官寺だった西寺の旧仏と伝えられているということです。

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下京区五条通高倉東入る堺町、五条通に面した所にある西念寺(さいねんじ)は、総本山を永観堂とする浄土宗西山禅林寺派の寺院です。この西念寺の山門脇にあるのが、千喜万悦天満宮(せんきまんえつてんまんぐう)という変わった社名の天満宮です。
(尚、この神社の前は、いつも隣の会社の自動車が邪魔をしています。)

社名の「千喜万悦」とは、「千万は無量」という意味の語呂合わせの当て字で、数で表せない、これ以上無いといった喜びの意味です。ほとんど知られていないような小さな天満宮ですが、ご利益がありそうな名前ですね。


さて、この天満宮の前を通る広い五条通は、平安時代には六条坊門小路と世ばれ、嵯峨天皇の皇子で、源氏物語の光源氏のモデルといわれる源融(みなもとのとおる 822〜95)が広大な邸宅・六条河原院を営んでいた地になります。河原院はその後衰退していきましたが、これまでもブログに採り上げて来たように、この跡地には今も多くの由緒ある寺社が点在しています。

今回の千喜万悦天満宮も、河原院跡地に建つ史跡の一つですが、創建や由緒等は不明です。ただ、ご神体は天神像に加えて、菅原家の繁盛の様子を描いた絵図になります。この絵図は、寛平元年(889)に、菅原道真が宇多天皇から右大臣に任じられ、また同三年(891)には、公達や重臣たちと共に列座することを許された時、喜びのあまりこの慶事の様子を道真自身が指図して描かせたものと伝わります。ここから社名の「千喜万悦」という名前が付けられたようです。
その後、天満宮は五条通の拡張によって、現在の西念寺門前に遷座したということです。

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中京区西ノ京という地域には、「太子道(たいしみち)」という細い道路が東西に走っています。
この太子道という道名は、聖徳太子ゆかりの太秦の広隆寺への参詣道だったことに由来しています。現在は上京区の出世稲荷神社から右京区太秦安井までで道は途絶え、広隆寺までは通じていません。また今では特徴の無い小さな道に過ぎませんが、かつての平安京の大炊御門大路に該当し、当時は人々が多数行き来していた道だったのかもしれません。


さて、この太子道に面して小さな史跡があります・・・中京区西ノ京北壺井町、太子道と佐井通が交差する南東角に、コンクリートの塀で囲まれた古い井戸があり、傍には「古蹟・壺井地蔵尊」と記された石標が立っています。石段を数段降りると、井戸の上の小さなスペースに地蔵菩薩像が祀られていて、他にも小さな石仏が安置されています・・・・これが壺井地蔵です。

山城国(京都)の地誌「雍州府志」等で知られる江戸時代初期の医者・歴史家の黒川道祐によれば、この地の壺井という井戸の中から地蔵菩薩像が発掘されたので、壺井地蔵と称して安置されたと伝わります。虫がいたり、少し不気味な雰囲気もあるのですが、今でも近所の方が大事に守って花を生けておられるようです。また、この地は、付近に西土手刑場(西ノ京刑場)があり、この壺井の井戸水で末期の水を飲ませたという説もあるということです。


この壺井地蔵から、太子道を西へ少し歩くと、民家のようなお堂があります・・これが壺井堂です。
庭先に供養塔や祠などが祀られていて、「茶所」と記された石標があります。堂内には、壺形の台座に座る木造地蔵菩薩像が祀られています。仏像は後世の作ですが、壺井地蔵の伝説を現在に伝えているようです。

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中京区西大路下立売西入る西ノ京御輿岡町(みこしがおかちょう)、西大路通から妙心寺道を少し西に入ると、広いスペースと大きな鳥居が見えてきます・・・これが北野天満宮(かつては北野神社)の御旅所です。言うまでもありませんが、御旅所というのは、神社の祭礼の際に、祭神を神輿に遷して巡幸した後、神輿を一時鎮座しておく仮宮のことです。
京都の大きな神社の御旅所は、広い敷地を持つ場合も多く、地域のシンボル的な存在になっています。このブログでも前に今宮神社の御旅所を採り上げていますが、今後も幾つかピックアップしてみたいと思います。


さて、いつも参拝者の絶えない北野天満宮と違って、その御旅所は、京都市指定の保存樹・クロガネモチの大きな木が目立つ静かな空間といった印象です。
しかし、これから秋十月に行われる「ずいき祭」では、神幸祭(しんこうさい)から還幸祭(かんこうさい)までの間、三基の鳳輦や、ずいき神輿がこの御旅所に駐輦して、着御祭(八乙女舞 やおとめたまい)や表千家宗匠による献茶祭、甲御供奉饌などの祭典・行事で賑わうことになります。


この北野天満宮の「ずいき祭」は、御旅所の駒札によると、慶長十二年(1607)、天満宮の本社造営の際、西ノ京の氏子らが、造営を祝って新鮮な農作物で神輿(ずいき御輿)を作って、九月四日に神前に奉納したのが始まりと伝えられ、以来、現在まで受け継がれてきているということです。

また、北野天満宮のHPによると、この西ノ京他の氏子の祭りは室町時代に遡るとされ、この祭りに、明治時代になって神幸祭(神輿に遷られた祭神が氏子区域を巡行する祭)が取り入れられ、現在の形になったということです。神幸祭は、かつては「北野祭」と呼ばれていた天満宮の官祭(現在、毎年八月四日に例祭が行われています。)の一部で、その頃は本殿祭と神幸祭が一体となって行われていましたが、応仁の乱によって神幸祭が途絶えてしまったようです。
その後、明治時代初期に、神幸祭の復興を願った氏子有志達の努力によって、氏子達が諸具や祭典にかかる費用を負担することを条件として、明治八年(1875)京都府から私祭として許可されたということです。

こうして、再興された神幸祭は、毎年の十月一日、本社北野天満宮から祭神(天神様)をお遷しした神輿がこの西ノ京御輿岡の御旅所へ渡御し、三日間の駐輦の後に、十月四日に本社に還幸されることと定められました。また、祭礼期間中は「ずいき御輿」が御旅所に供えられ、還幸祭にあわせて氏子区域を練り歩くことも定められました。そして、かつての「北野祭」の八月四日は例祭として本殿祭だけが斎行されるようになりました。


北野天満宮のHPによると、「ずいき祭」の中でも、還幸祭は特別の意味がある重要な行事ということです。一般的な神社の祭礼でいう、祭神が本社にお帰りになるという意味だけでなく、「おいでまつり」という別名があるように、「大宰府で御隠れになった菅原道真公の御霊が神として初めて北野の地においでになる」という北野天満宮御鎮座の由来を回顧し、再現する意味もあるということです。歴史伝承を再現したページェント(宗教劇)的な性格もあるということなのでしょう。
そして、かつては、氏子達も神幸祭の行われる一日には普段どおりの仕事をしていても、還幸祭の行われる四日には親類等を招いて御馳走を作って行列に供奉したり、沿道から御輿を拝んだということです。



さて、御旅所の中に小さな神社が祀られています・・これが、御輿岡神社(みこしがおかじんじゃ)で、この土地の守り神として大巳貴命(おおなむちのみこと=大国主命(おくににぬしのみこと))、医薬・病気平癒の神として少彦名命(すくなひこなのみこと)、そして学徳成就の神として菅原大神(菅原道真公・天神)を祀っています。

北野天満宮の創建以前、この御旅所の一帯は、古くは「神楽岡(かぐらおか)」と呼ばれる大きな森林地帯で、鎮守の神として、早くから大巳貴命と少彦名命の二神が祀られていたと伝えられます。
その後、平安時代の天暦元年(947)、北野の地に天満宮が創建され、初めてこの場所に神輿が渡御したことによって御旅所と定められ、地名も「御輿岡(みこしがおか)」と改められたということです。
こうして、この地にあった鎮守社も、菅原大神(菅原道真公・天神)を合祀して、御輿岡神社と呼ばれる北野天満宮の境外末社となったと伝えられています。


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