京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

中京・下京

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中京区の、いや中京区と下京区を合わせて数十社はある小さな神社の中で、私が一番好きな神社が、中京区三条通神泉苑町西入下る今新在家西町にある武信稲荷神社(たけのぶいなりじんじゃ)です。
それ程広くない境内には数多い末社が立ち並んでいて、少し隠れ家的なこの空間がなぜか落ち着きます。また、この神社には、坂本龍馬とおりょうが、神社の榎の木を愛の伝言板として用いたというロマンティックな逸話があることでも知られます。(神社のHPを転用させていただきます。)




武信稲荷神社の祭神は、稲荷大神即ち、神宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)、佐田彦大神(さだひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)です。
稲荷大神は農作物の神から転じて、現在は産業守護神、商売繁昌、学術技芸の神としても信仰され、家内安全、健康長寿、病気平癒、交通安全、火難、盗難等に大きな御加護と御利益があるとされます。


さて、武信稲荷神社は、平安時代初期の貞観元年(859)二月、西三条大臣といわれた右大臣左近衛大将・藤原良相(ふじわらのよしすけ)によって創建されました。
当時、この付近一帯には、藤原良相が一族の療養院として建てた「延命院」という医療施設があり、この延命院と観学院(現・千本三条東、西ノ京観学院町にあった学問所)の守護神として祀ったのがこの神社ということです。その後、一族の藤原武信という人物が、この御社を厚く信仰したことから、「武信稲荷」と称されるようになったと伝えられます。
また開基の藤原良相が一族の長として一族の名付けをしていたことから、古くから名付け・命名に関わる神社としても知られ、現在も希望者に赤ちゃんの命名・名付けを行っています。



境内には数多い末社があります。
本物の釘抜きを祀った釘抜大明神(釘抜地蔵)は、昔、神社近くに住んでいた鍛冶屋が、病気や災難で苦しんでいましたが、稲荷大神に祈りながら鉄を打ったところ、鉄が自然に釘抜きの形になったので、ここに祀ったものとされます。体の病苦のある箇所をさすり、釘抜を撫でると病気が治るとされます。
また、白蛇弁財天は、古くからこの土地にいた白蛇姿の弁天様が、信仰の厚かったある行者にお告げがあったことから、有志の人々によって祀られた神社です。その他、白清大明神&七石大明神&太郎松大明神、常吉大明神、金毘羅社&天満宮、起上大明神、法華経御塚、御山遥拝所があります。


中でも一番有名なのは、宮姫社(弁財天)で、御神木の榎(エノキ)の大木に宿る弁財天を祀っています。この榎の木は、樹齢約850年で、平安時代末期に平重盛が安芸の宮島厳島神社から苗木を移したと伝えられています。この付近は壬生(水生)という地名からも窺えるように、かつては地下水位が高く、このような地質がこの古木を育成したと考えられています。
旧京都最大最古の霊樹ということで、高さは23メートル、胸高幹周り4メートル。幹は九つに分かれ四方に大きく枝を伸ばしていて、樹冠は東西22メートル、南北26メートルあり、市街地にこのような古木があることは貴重として京都市天然記念物に指定されています。
弁財天が宿るといわれるこの榎の御神木に触れると、大木の生命力とエネルギーを受けられるとされ、触れた手で体をさすると病気が治るともいわれています。また、榎は「えん(縁)の木」とも呼ばれ、御神木に宿る弁財天を祀る宮姫社(弁財天)は、縁結び、恋愛の神としても知られていて、恋愛成就のために木の幹に手をあてる参拝者も多いということです。(写真は次回に掲載します)



また、前に六角牢獄跡について書きましたが、神社の南には江戸時代に幕府直轄の六角牢獄があり、蛤御門の変の際に六角牢獄で処刑された平野國臣ら三十数人の志士の最期を、この榎の大木に登って町の子供たちが見ていたとも伝えられています。

さらに、この榎の木を舞台にした坂本竜馬と恋人おりょう(お龍)の伝承があります・・・
当時、六角牢獄には幕府に捕らえられた勤王の志士が多数収容されていましたが、おりょうの父・楢崎将作(ならさきしょうさく)も勤王家の医師であったため捕らえられていました。おりょうは父の身を案じて、龍馬と共に何度も牢獄を訪れるも面会できず、龍馬自身も狙われる身のために面会は難しく、二人はこの神社の木の上から様子を探ったということです・・。
楢崎将作は結局、文久二年(1862)に獄死しているので、この伝承によると、二人の出会いはそれ以前ということになりますが、通説では龍馬とおりょうが出合ったのは、元治元年五月(1864)とされています。


この元治元年五月の龍馬との出会いは、おりょう(お龍)の回想録「反魂香」によれば、(少し長いですが)、以下のようだったようです・・・

「大仏騒動(大仏殿付近で起こった以下の事件)は、元治元年六月五日の朝に起こりました。
その頃、大和の天誅組の乱に敗れた志士が、京都大仏南門今熊の道にある河原屋五兵衛の隠居所を借りて、表札には「水口加藤の家人住所」と記してしばらく隠れ住んでいました。
(この龍馬とおりょうが初めて出合った場所は、東山区の三十三間堂の傍、方広寺の「大仏」付近だったようです。当時、方広寺には天保十四年(1841)に再建された大仏殿が建っていました。この大仏殿は、昭和四十八年(1973)三月に焼失してしまいました。)


この隠れ家に出入りしていたのは、才谷梅太郎(坂本龍馬)、中岡慎太郎、元山七郎、松尾甲之進、大里長次郎、管野覚兵衛、池倉太、平安佐輔、山本甚馬、吉井玄蕃、早瀬某等で、この頃はまだ海援隊を組織する前でした。幕府の浪人探索が厳しいので、彼らはいつも居所を変えて潜伏していました。

隠れ家では、山本甚馬が年寄りなので飯炊き担当でしたが、男所帯ではやはり大変で、山本も時々家を留守にしなければならないので、誰か年寄りで一人気の利いた女を、留守番に頼みたいと浪士一同は思っていました。
当時、おりょうの母・お貞は、夫に死別していたので、わずかな家財をまとめて四条の裏通りに借家してわびしく暮していました。このお貞の知人に、以前世話をした米一のお菊という後家がいて、彼女は夫の死後も大勢の奉公人を使って米屋を営んでいました。お菊はこの家に出入していたので、浪人達から留守番の女を一人世話してくれないかと相談されていました。
お菊からこの事を聞いたお貞は、元々勤皇派の奈良崎将作の妻だったため早速承知し、長女のおりょうは、お菊の世話で七条新地の扇岩という旅宿の手伝として預け、次男の大一郎は親戚でもある粟田の金蔵寺へ預け、末っ子の君江は自分が連れて大仏へ引き移りました。


お貞が、浪士達のいるこの家に引越して坂本龍馬に面会をした時に、一家の不幸や身の上話しをしたために、龍馬も気の毒に思いました。
また龍馬はこの家で、おりょうに一、二度会っていて、少しは心も動いたものですから、龍馬は「お前の娘を私にくれないか、そうすれば、及ばずながら力にもなってやろう」とお貞に言いました。
お貞も、娘にはその内、所帯を持たすつもりだったので、同じ所帯を持たすのなら坂本様のような人をと、喜んでおりょうにこのことを話し、ついにおりょうは龍馬の妻となることが決りました。しかし、この家におりょうを置く訳にはいかないので、やはり扇岩へ預けることにしました。

元治元年六月一日の夕方、龍馬が扇岩へ来て、おりょうに「今度江戸の勝先生のもとへ、急ぎの用で行かなければならない。明朝出発するので、留守中は気をつけるのだぞ」と言います。
そして、その夜は別れの盃を交え、翌朝、望月(亀弥太)・大里(近藤長次郎)の二人に送られて、伏見で東西に別れました、これが望月との最後の別れで、僅か三日後には亡くなるとは・・。



龍馬が二日の朝出発し、その他の浪人達は毎日居所を変えて行き来していました。
五日に起こった騒動(いわゆる池田屋事件)の際は、元山七郎(北添佶摩の変名)、望月亀弥太の二人が三条の長門屋(=池田屋)という長州の定宿にいて、他の者らは皆、近国や遠国へ行っていました。すると早朝、会津方がどのように探り出したのか、長門屋(=池田屋)へ押し寄せて来たのです。(また一手は大仏の隠れ家へ、一手は大高某の家へ向かいました。)

元山(北添佶摩)はその場で討死し、望月は血路を開いて土佐藩邸へ逃れましたが、門が固く閉ざされていて叩いても開けてくれず、追ってきた会津方がすぐそばまで迫っています。望月は藩邸に入れず敵が迫る中で、必死に走って長州藩邸へ来てみると、ここでは門が開いています、喜んで門から飛び込もうとした瞬間、敵が突き出した槍に腰を貫かれ、さすがの望月も思わずその場へ倒れました。望月は、もはやこれまでと、手にした刀を自身の腹に突き立て、哀れ二十三歳の生涯を終えたのでした。

五日の朝、おりょうがふと目を覚ますと表が騒しいので、何事が起こったのかと、衣服を着替えて外へ出ると、出会い頭に、お妙が妹の君江を連れて来たのに逢いました。
どうしたのかと尋ねると、「今朝、大仏の所(志士達の隠れ家)へ会津の奴らが押し寄せてきて、家財道具を全部取り上げ、お母さんを縛って千本屋敷へ連行したので、君江さんを貴方の所へ届けにきました。」ということでした。
驚いたおりょうは、お妙と君江を連れて大仏の家へ来て見ると、家中踏み荒らされて槍で突き荒らした跡ばかりでした。さすがのおりょうも、ただ呆然としているところに、何も知らない大里が帰ってきたので、おりょうは今日の事件のことを手短に話し、「お妙さん、大里さんがここにいては危ない。あなたが道案内して、伏見まで逃してください。」と言うと、お妙は大喜びして、好きな大里の側にしばらくいられるという乙女心で、先に立って大里を案内し、大里はそのまま伏見へ落ち行きました。

おりょうは、君江を河原屋の本家へ預け、自分は河原町の大高某の家へ急いで行きました。この大高という男も勤王の志士の一人で、職業は具足師と称しながら、家に秘密の部屋があって三藩の浪人を匿っていたのです。来て見ると、この家にも敵が押し寄せたようで、主の大高は斬り殺され、三人の子供達が途方にくれて泣いていて、妻は気が動転して笑ったり泣いたりの有様で、お良は思わず涙を流しましたが、ようやく気持ちを取り直して、再び大仏の家へ引き返してくると、嬉しいことに母が帰っていました。訳を聞くと、何も知ら無い者ということで釈放されたということでした。二人は無事を喜びましたが、いつまでもここにいられないので、一先ず、金蔵寺へ移りました。

さて、八月一日の夕方、龍馬が帰って来たので、金蔵寺の住職智息院が仲人となって本堂で内祝言をしましたが、ここにうかうかしていて敵に覚られてはお互いの身のために良くないというので、色々相談した結果、お貞は杉坂の尼寺へ、大一郎は金蔵寺へ、君江は神戸に滞在中の勝(海舟)の元へ、おりょうは伏見の寺田屋へ預けることになりました。それから寺田屋の騒動となって、おりょうは龍馬、西郷(隆盛)、小松(帯刀)等と共に薩摩へ下ってかの有名な霧島山へ上るのです・・・。」


文字数オーバーのため、次回に少しだけ続きます。

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下京区高辻通西洞院西入る北側永養寺町の一角には、「道元禅師示寂の地(どうげんぜんじじじゃくのち)」という石碑が建てられています。
この石碑は、この地で曹洞宗開祖・道元禅師(1200〜53)が亡くなったことを示しています。


道元禅師は、正治二年(1200)に京都で生まれました。
通説では、父は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、政界を牛耳った辣腕政治家、内大臣・土御門通親(源通親 久我通親)といわれます。三歳で父を、八歳で母を失い、十三歳で比叡山に登って翌年に出家。その後、建保五年(1217)、京都建仁寺で栄西禅師の高弟・明全禅師に師事します。貞応二年(1223)に明全と共に入宋し、天童如浄禅師から曹洞宗を学び法嗣の認可を受けて、安貞二年(1228)に帰国。天福元年(1233)、京都深草に日本初の曹洞宗寺院として興聖寺(こうしょうじ 後、宇治に移転)を開きました。寛元二年(1244)、越前(福井県)に大仏寺を建立し、同四年(1246)に永平寺と改めました。尚、道元禅師が生涯をかけて著した大著「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」は、最も難解で深遠な日本最大の哲学書ともいわれます。


さて、建長四年(1252)から病気の身となった道元禅師は、翌五年(1253)、に、病気療養のために、弟子の孤雲懐奘(こうんえじょう 道光普照国師 1198〜1280 永平寺第二世)禅師に永平寺住職を譲って上洛し、高辻西洞院の俗弟子覚念の屋敷に滞在しました。
そして、建長五年(1253)八月二十八日夜半、五十四歳で亡くなりました。遺体は、弟子等によって、東山赤築地(東山区鷲尾町)に運ばれて荼毘に付されました。(東山区鷲尾町には「道元禅師荼毘御遺跡塔」が建立されています。尚、墓は永平寺にあります。)

さて、道元禅師の終焉の地には、昭和十三年(1938)に、京都史蹟会によって「道元禅師遺蹟之地(どうげんぜんじいせきのち)」という石標が建てられ、その後、昭和五十五年(1980)に、永平寺二祖・孤雲懐奘(道光普照国師)禅師の七百回忌を記念して、「道元禅師示寂聖地」という石碑が建立されました。




(尚、最後の写真2枚は、道元禅師示寂の地のすぐ横の露地の奥に祀られている由緒不明の小さな稲荷神社です・・こんな神社の写真を撮るのは私だけでしょうね。)

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下京区七条通賀茂川西入稲荷町、七条大橋の袂にある小さな神社が、松明殿稲荷神社(たいまつでんいなりじんじゃ)です。この神社も、小さな特徴の無い神社ですが、伏見稲荷大社の境外末社で田中社ともいわれるということです。


松明殿稲荷神社の祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冊命(いざなみのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)で、他に天智天皇像(木像)と大友皇子像(木像)を安置しています。
社伝によると、創建は平安時代の天暦二年(948)で、「松明殿(たいまつでん)」という珍しい社名は、同十年(956)に勅命によって燎祭(りょうさい)が行われた際に「炬火(たいまつ)殿」の号を賜ったことに由来するということです。
また、江戸時代の安永九年(1780)刊行の「都名所図会」では、伏見稲荷大社の春の稲荷祭の際は、当神社の氏子が松明を灯して七条河原で神輿を迎えていたことから、「松明殿」の名で呼ばれたと記されています。また、当初は、黒門通塩小路辺り(現姉小路公園の東の古御旅町付近)にありましたが、その後、七条東洞院、鴨川西七条北等を経て、宝永八年(1711)に現在の地に移ったということです・・先程の「都名所図会」に記されている松明で神輿を迎えたという様子はこの頃のことになるようです。
尚、境内には末社として天満宮を祀っています。


また、境内西側には、五条坂の安祥院(あんしょういん)の僧で、様々な社会事業でも知られる江戸時代中期の僧・木食正禅(もくじきしょうぜん)養阿の銘のある手洗石及び井戸があります。

木食とは米穀を断って木の実を食べて修業することで、この苦行を修めた僧は、木食上人と呼ばれていました。木食正禅養阿(1687〜1763)上人は、この苦行を修めた江戸中期の僧です。
養阿上人は、丹波(京都府)桑田郡保津村の武士の子として生まれ、二十四歳で仏門に入って「朋厚坊正禅」と改名し、泉涌寺雲龍院で修業しました。高野山で木食行を修めた後、信濃(長野県)や美濃(岐阜県)を行脚し、京都に戻って七条大宮に「梅香庵」という草庵を結びました。
そして、「南無阿弥陀仏」を唱えて念仏行脚するなど念仏聖として、一般寺院から敬遠された罪人や身寄りの無い不遇な人々の魂を供養するため、洛中洛外の無縁墓地を回りました。当時京都には十一ヶ所の無常所(南無地蔵、大谷、西ノ土手、粟田口、最勝河原、元三昧の六つの墓地と、狐塚、阿弥陀ケ峰、中山、千本、七条金光寺の五つの三昧堂)があり、上人はこれら無縁墓地や刑場傍の墓地で墓参りを三年間続け、またこれらの内十ヶ所で死者の供養のための名号碑を建立しています。

さらに、享保十年(1725)、五条坂の安祥院(東山区五条通東大路東入遊行前町)を再建し、また様々な社会事業を行いました。元文三年(1738)に三年もの月日を掛けて東海道五十三次の難所といわれた京都への入口に当る峠道・日ノ岡峠(蹴上から山科へ抜ける旧国道1号線)の改修工事を完了、ここに峠道の管理所、休憩所として最初の庵と同名の梅香庵(木食寺)を建てています。
元文六年(1741)に「法橋」の位を授かって、「養阿」と号し、延享四年(1747)頃には、急坂のある渋谷街道(現・東山区から山科に抜ける渋谷道)の補修工事を行っています。そして、宝暦十三年(1763)に亡くなり安祥院に埋葬されました。

松明殿稲荷神社には、宝暦二年(1752)夏に、七条周辺の人々のために養阿上人が寄進した井戸と手洗石が残っています。民衆のために生涯を尽くした偉大な僧の貴重な遺跡です。

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下京区烏丸仏光寺下る東側大政所町にある大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ)は、祇園祭の草創期から祇園社(八坂神社)の祭神の御旅所(神社の祭礼の際、本宮から出た神輿を迎えて仮に奉安する場所、仮宮)となっていた場所です。桃山時代に、現在の四条寺町の御旅所が出来た後は、八坂大神を祀る小社として今日に至ります。



「日本三大祭」、「京都三大祭」の一つとして知られる祇園祭は、平安時代の貞観十一年(869)、都に蔓延した疫病退散を祈って、当時の国である五畿七道六十六ヶ国に因んだ六十六の矛(鉾)を神泉苑に立て、牛頭天王(ごずてんのう=素戔嗚尊(すさのおのみこと))を祀った「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」に始まるといわれています。
当初は、疫病が流行した時だけ行われていましたが、円融天皇の天禄元年(970)からは毎年六月に行われるようになり、現在まで千年余にわたって各山鉾町の人々によって受け継がれてきています。
祇園祭といえば七月十七日に行われる山鉾巡行が有名ですが、実際は七月の一ヶ月に渡り様々な神事・行事が行われます。確かに山鉾巡行は祇園祭のハイライトですが、最も重要な神事は、神霊を乗せた神輿を御旅所に迎え入れる「神幸祭(しんこうさい)」と、再び神霊を本社に送る「還幸祭(かんこうさい)」になります・・これは全国の他の祭でも同様ですね。


現在の八坂神社の御旅所は、四条寺町の四条通南側にありますが、これは天正十九(1591)豊臣秀吉の命により移されもので、それ以前は、少将井御旅所(しょうしょういおたびしょ 冷泉東洞院)と、大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ 高辻烏丸=現下京区烏丸高辻上る大政所町)の2カ所にあり、祭の際には、三基の神輿はこの両御旅所に分かれて迎えていました・・・
少将井御旅所(井戸があったと伝えられます)には、現在の東御座(櫛稲田姫命 くしいなだひめのみこと=婆利女(はりめ))が渡御し、大政所御旅所には、現在の中御座(素戔嗚尊 すさのおのみこと=牛頭天王)」と西御座(八柱御子神 ヤハシラノミコガミ=八王子)が渡御していました。
この内、少将井御旅所は、現在では町名(中京区烏丸通竹屋町下る少将井御旅町)を残すだけになっていて、大政所御旅所には旧地を示す小社が建っています。


さて、今回はこの大政所御旅所です。
祇園祭創生の頃、円融天皇の天延二年(974)、高辻東洞院に住む秦助正(はたのすけまさ)という人物が、夢の中で八坂大神の神幸を見て、さらに自宅の庭から八坂神社まで蜘蛛が糸を引いている光景を見たことから、不思議に思って朝廷にこのことを奏上した結果、祇園社祭神の神託により助正の家が御旅所となり、その後大政所といわれるようになったということです。
以来御旅所として毎年用いられましたが、室町時代末期の天文五年(1536)に戦国の騒乱のため焼失したということです。その後、天正十九年(1591)に、豊臣秀吉の命により四条寺町に御旅所が移された後、町内の人々が旧地に小祠を建てて、八坂大神を祀って大政所町の鎮守社としました。尚、現在も、祇園祭の還幸祭では、大政所御旅所に三基の神輿が立ち寄って、神職がその前に玉串を奉納します。

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今回は、下京区麸屋町通五条上る下鱗形町、五条通から数メートル北にある朝日神明宮(あさひしんめいぐう)・・右はビル、左はガレージに挟まれた小さな神社です。
京都のビジネス街である下京区の神社は、非常に小さいものが多いですが、調べてみると、昔は大きな敷地を持っていたというものがほとんどです。時代の推移と共に縮小してしまったのが残念ですが、歴史の荒波の中で消滅した社寺も多い中で、小さいなりにもよくぞ今日まで生き残ってきたということでしょうか。京都市の立て札等で由緒が記されている社寺はせめて、一つひとつ採り上げたいとも思っています。


朝日神明宮の祭神は、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、倭姫命(やまとひめのみこと)です。

社伝によれば、平安時代の貞観年間(858〜876)、丹波国桑田郡穴生村(現・亀岡市)に造営され、その後、室町時代末期の元亀三年(1572)に現在地に遷座したと伝えられ、かつては、南北は五条通から松原通(約300m)、東西は河原町通から富小路通(約200m)に到る広大な森に囲まれた社域を有し、「幸神の森(さいのかみのもり)」と呼ばれていたということです。

また、当時は末社として、竈(かまど)神社、稲荷社、祓川(はらいかわ)社、恒情(こうじょう)神社、人丸(ひとまろ)社、飛梅(とびうめ)天神、八幡春日(はちまんかすが)社、猿田彦(さるたひこ)社の八社がありましたが、天明の大火(1788)と元治元年の禁門の変の兵火(1864)によってその大半が焼失し、現在は猿田彦社(幸神社)ただ一社だけが残り、神石二個を安置しています。
江戸中期以降、明治維新まで増穂氏が、代々朝日神明社の神主を務め、中でも増穂残口(ますほざんこう 1655〜1742)は京都をはじめ各地で国学を教え、古事記や日本書紀等を研究して通俗的神道講釈を試みた人物で、その著作は後の尊王攘夷運動などにも影響を与えました。


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