京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

中京・下京

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前回の火除天満宮(ひよけてんまんぐう)から少し南へ歩くとおにぎり屋さんがあります。
このおにぎり屋さんの横には鳥居があります・・そう、敷地の一部がおにぎり屋さんになっているこの神社が京都大神宮です。おにぎりを買って境内で食べる人もいるのでしょうか・・人通りの多い寺町電気街の中の憩いのスポットのような神社です。


下京区寺町通四条下る貞安前之町にある京都大神宮は、明治時代に創建された神社なので、歴史的な由緒などあまりありません。
祭神は天照大神(あまてらすおおかみ)と豊受大神(とようけのおおかみ)及び八柱大神で、明治六年(1873)七月に、伊勢神宮の内宮、外宮より分霊して祀りました。また、社殿は元一条家の書院を移築しています。
創建当初は、明治維新の大教宣布運動を担った伊勢神宮が、地域の強化活動の根拠地とした布教所「風講社」として発展しましたが、戦後に京都大神宮と改めて、地域の神社として今日に至ります。末社として稲荷神社があります。

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下京区寺町通四条下る貞安前之、商業ビル(カメラのナニワ京都店)の片隅にある小さな神社が、火除天満宮(ひよけてんまんぐう)です。ビルのテナントのような可哀想な神社ですが、人通りの多い四条寺町電気街という立地からか、エピソード的に面白いからか、下京区の小さな神社の中では割りと知られているようです。(また神社のHPもあり引用させていただきます。)


火除天満宮は、安土桃山時代の天正七年(1579)、天正5年(1577)頃から九州で多発した兵乱を避けるため、筑紫国大宰府(福岡県)から、一人の老神官が菅原道真の像を背負って入洛し、六条通周辺に祀ったのが始まりといわれます・・・・この創建話は中々印象的です。
天正五年(1577)頃といえば、九州では肥前の戦国大名・龍造寺隆信が肥前の統一をほぼ完成し、豊後の大友義鎮(宗麟)と薩摩の島津義久が日向を巡って戦いを始めようとしていた頃でした。龍造寺・大友・島津の三強がいよいよ九州統一を賭けた決戦を行おうとしていた時期、大宰府周辺にも動乱が及んでいたのかもしれません。


その後、火除天満宮は、天正十五年(1587)に烏丸二条の地に大雲院(だいうんいん)が創建されると、その鎮守社として迎えられました。
この大雲院(現東山区)については、かなり以前にブログに採り上げましたが、天正十五年(1587)に、貞安上人が本能寺の変で非業の死を遂げた織田信長・信忠父子の菩提を弔うため、正親町天皇の勅命により信忠が自殺した御池御所(二条城)の地、二条烏丸に創建したお寺で、寺号の「大雲院」は、織田信忠の法名にちなんでいます。火除天満宮が大雲院の鎮守社となった理由については残念ながら不明です。
天正十八年(1590)年、豊臣秀吉による京都整備計画により、大雲院も四条寺町下るの現在地に移され広大な寺域を得て栄えました。神社も同じくこの地に遷座、慶長二年(1597)、現在地に社伝が完成し、遷座の御祭儀修行の記録があるということです。その後、天明八年(1788)の大火によって、大雲院は焼失しましたが、この時天満宮も類焼にしたと思われます。(その後、大雲院と共に再建されたようです。)


さて、元治元年(1864)の禁門の変の兵火は、南は七条から西は堀川、東は鴨川に至る市中を焼き尽くしましたが、この四条寺町一帯だけが奇跡的に類焼を免れたと伝わります。
また、明治以降もこの付近は三度の火災に見舞われましたが、この神社周辺は類焼を免れたと伝わり、学問成就と共に火除けの神として多くの信仰を集めてきたということです。尚、境内には洛陽天満宮二十五社の第九番の石碑が残っています。

その後、明治の神仏分離令により、火除天満宮は大雲院から分離しました。
そして、大雲院は、昭和四十八年(1973)、四条寺町付近が商業地化したために布教の地としては不適切との判断から、東山の円山公園の傍の現在地へ移転しました。そして、旧雲院跡は、高島屋京都店に隣接する駐車場になっていて火除天満宮の前には大雲院の旧跡を示す石標があります。

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前回の佛光寺のすぐ北にあるのが、佛光寺に属する浄土真宗佛光寺派の寺院、大行寺(だいぎょうじ)です。本堂も新しく、特に目立った所のない小さなお寺ですが、寺宝として快慶作の観音菩薩像や珍しい仏足石を所蔵しています。また信者の方のイベント会場としても用いられ地域で親しまれているようです。


下京区仏光寺通高倉東入る西前町にある大行寺(だいぎょうじ)は、山号を長谷山(ちょうこくざん)北ノ院という真宗佛光寺派のお寺で、寺伝によれば、江戸時代の文政四年(1821)十二月、学頭信暁(しんぎょう)僧都(勅許上人)が創建したと伝えられます。
この信暁僧都は、本山佛光寺の歴代門主(第二十三代随応上人、第二十四代随念上人、第二十五代真達上人)の師範を勤めた学僧で、佛光寺教団の歴史で二人しかいない最高の学頭を授けられた人物ということです。
大行寺は、当初、高倉西奥之町にあった豊臣秀吉が月を鑑賞するために築いた月見御殿跡に建立されたということですが、幕末の嘉永六年(1853)十二月に現在の地に移されました。元治元年(1864)の禁門の変の兵火等の度々の火災に遭って焼失し、現在の本堂は昭和四年(1929)六月に再建されたものです。


本堂に安置する本尊・阿弥陀如来立像(像高82.1cm)は、寄木造で玉眼入の来迎の弥陀です。足下に「巧匠法眼快慶(こうしょうほうげんかいけい)」の銘が記されていて、鎌倉時代初期を代表する仏師・快慶晩年の作として、国の重要文化財に指定されている名作です。
また、境内にある仏足跡(石)は、足指の指先にそれぞれ「卍」印の入った特徴のあるもので、大行寺型と呼ばれ、現在四系統ある仏足跡(日本の仏足跡の模様は、貞極系・大行寺系(酉阿系)・良定・東雲山水系・薬師寺系の4系統に分類されます。)の一系統を代表するものになります。
元々この仏足跡は、信暁学頭により安政三年(1856)に建てられましたが、元治元年の兵火に遭って粉砕し、その断石のみが残されていましたが、昭和六十二年(1987)十二月に原図を基に復元されたものです。他に「弘誓琴(ぐぜいきん)」と名付けられた水琴窟があります。

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京都市下京区は、JR京都駅から、阪急京都線が通っている四条通までをおおよその範囲としていて、京都のビジネス街の中心地になっています。
この地域ではなんといっても、東本願寺と西本願寺という巨大寺院が目立ちますが、他にもまずまず大きな寺院がありました・・今回採り上げた佛光寺は、真宗佛光寺派の本山で、西本願寺の南に接する同じく真宗系(真宗興正派本山)の興正寺と並んで下京区屈指の大きなお寺です。(尚、この両寺は元々同じお寺として創建されました。)



下京区高倉通仏光寺下る新開町にある佛光寺(ぶっこうじ)は、山号を渋谷(汁谷)山(じゅうこくさん)という真宗佛光寺派の本山で、創建は、浄土真宗の開祖(宗祖)・親鸞上人が山科(京都市山科区)に結んだ草庵に遡ると伝わります。
鎌倉時代初期の承元元年(建永二年 1207)、「承元の法難」によって、浄土真宗の開祖(宗祖)・親鸞上人は、三十五歳の時に京都を追放され、越後国(新潟県)へ流刑にされました。

「承元の法難」は、直前の年号から「建永の法難」とも呼ばれ、比叡山延暦寺や奈良興福寺といった旧仏教勢力の圧力によって、浄土宗開祖・法然上人を中心とする専修念仏教団が弾圧された事件です。
念仏を唱えることで、全ての人々が平等に救われると説いた法然上人の教えは、旧仏教の側から見れば、自分達の教義を否定するものと受け止められ、念仏が新興階級の武士や農民、またこれまでの旧仏教の教義では救いの対象から漏れていた女性達に広く受け入れられ広まっていくことに脅威を感じました。旧仏教寺院は専修念仏の停止を朝廷や鎌倉幕府に訴えました。特に、元久二年(1205)に、興福寺の僧・解脱貞慶上人が、法然上人らの弾圧を願い出た「興福寺奏状」は弾圧のきっかけとなりました。

また、前に安楽寺(左京区)の時に書きましたが、「承元の法難(建永の法難)」の直接の原因となったのは、法然上人の弟子の僧・住蓮と安楽の六時礼讃声明を聴いて感激した後鳥羽上皇の二人の女官(松虫姫と鈴虫姫)が、上皇の留守中に出家してしまったという事件でした。自分に無断で出家したことを知った上皇は激怒し、法然門下の教団に弾圧を加えました。吉水道場の閉鎖や念仏布教の禁止はもちろん、住蓮と安楽は死罪、法然上人は土佐へ、親鸞をはじめとする主な弟子達も流罪となりました。

その後、親鸞上人は、建暦元年(1211)に赦免され、翌二年(1212)に京都に戻って、山科の地に草庵を結んだと伝えられ、これが佛光寺(興正寺も)の始まりということです。そして、時の順徳天皇より「興隆正法寺」の勅額を賜わって、興隆正法寺(興正寺)と号しました。
その後、安貞元年(1227)に親鸞上人は興隆正法寺(興正寺)を弟子の二世・真仏上人に任せて関東布教を始めました。(但し、寺伝以外の資料では親鸞が、関東布教の前に京都に戻って「興隆正法寺(興正寺)」を創建したことは証明されていないようで、後世、教団を正当化するための伝説であるとする見方もあるようです。)


その後、「興隆正法寺(興正寺)」は、三世源海、四世了海、五世誓海、六世明光の各上人が継承し、鎌倉時代末期になって、中興の祖となった第七世・了源上人が、教化活動の拠点を京都に置いて真宗教団を組織し、西日本一帯への布教活動を行いました。(親鸞創建伝説の一方で、史実的には、山科の興隆正法寺(興正寺)の事実上の創健者は、了源上人といわれています。)

そして、元応二年(1320)に、寺院を山科から東山の汁谷(しるたに、しぶたに 現・方広寺、京都国立博物館付近)に移しました。またこの頃に寺号を「佛光寺」と改めています。
この、佛光寺という寺名の由来については以下のような物語が伝えられます・・・
ある時、後醍醐天皇が南の方角から金色の光が差し込んでくるという夢を見て、付近を探させた所、賊によって盗まれていた興隆正法寺(興正寺)の阿弥陀如来像が発見されました。この仏像のことを聞いた了源上人が、阿弥陀如来像の座光を持って宮中へ参内しました。仏像は座光にぴたりと納まったので、後醍醐天皇も喜んで仏像を渡し、寺号を「阿弥陀佛光寺」を略して「佛光寺」と改めさせたと伝えられます。またこの時に、後醍醐天皇の勅命により、都から遠い山科の地から、東山汁谷の地に移して勅願所としたとも伝えられます。

それ以降、佛光寺は、了源上人の活躍もあって、元亨元年(1321)に覚如上人が親鸞聖人の墓所・大谷廟堂を寺院として創建した同じ浄土宗の本願寺よりも、遥かに大きな勢力を持っていました。しかし、了源上人は、東海地方への布教の途中で、建武二年(1335)十二月に伊賀(三重)の七里峠で賊に襲われて四十二歳で殺害されました。(本願寺その他対立する諸宗教集団による暗殺説もあるようですが)その後、了源の長男、源鸞が第八世を継承しますが、その死により了源上人の裏方(妻)・了明尼公(りぉうみょうにこう)が第九世を継承しました。南北朝時代に女性が一山の門主の地位に就くということは、画期的な出来事だったようです。(尚、その後、幕末から明治にかけて、もう一人の女性、第二十七世・真意尼公(しんにこう)が、元治の禁門の変の兵火で焼失した佛光寺の再建に尽くしました。)

こうして、室町時代には勢力を拡大した佛光寺に対し、比叡山延暦寺による弾圧も強まり、さらに応仁の乱で佛光寺は諸堂を焼失し、以降寺勢は次第に衰退していきます。一方、それまで小さな勢力だった本願寺には、現在の本願寺教団の基礎を築いた中興の祖、蓮如上人が登場して、精力的な布教活動を行って勢力を急速に拡大しました。
そして、佛光寺と本願寺の力関係が逆転する事態が起きます。
文明十三年(1481)に、佛光寺の第十三世光教の後継者である経豪上人が、宗派内の対立から、当時の仏光寺四十八坊のうち、四十二坊を率いて蓮如上人に帰依して従ったのです。そして経豪は蓮如の「蓮」の一字をもらい受け、蓮教と名乗り、山科西野に佛光寺の旧名「興正寺」を寺号とした寺院を再興しました。これが現在、西本願寺の南に接する真宗興正派本山の興正寺です。
一方、末寺わずか六坊となってしまった佛光寺は、経豪(蓮教)の弟・教誉上人を継承させ十四世としました。佛光寺教団が分裂したことで、その後は本願寺が大きな勢力を持つ時代となっていきます。尚、その後、天正十四年(1586)に、佛光寺は豊臣秀吉によって五条坊門(現在地)に移り今日に至ります。




さて、広い境内に大きな堂宇を持つ佛光寺ですが、本尊阿弥陀如来像を安置する本堂の阿弥陀堂は、単層入母屋造本瓦葺(間口15.6m、奥行21.25m)の建物です。内陣の須弥壇上には本尊・阿弥陀如来立像、両脇壇に聖徳太子像と法然上人坐像を祀り、また、両余間には竜樹・天親・以下六高僧の坐像と後醍醐天皇の位牌を安置しています。尚、現在の建物は明治三十七年(1904)の再建です。
親鸞上人坐像等を祀る大師堂(御影堂)は、単層入母屋造本瓦葺のたいへん巨大な建物(間口26.5m、奥行33.1m、間口10.2mの向拝を付ける)です。内部の須弥壇上に親鸞聖人の坐像、両脇壇に中興了源上人の坐像と前住上人の絵像を安置し、両余間に九字と十字の名尊号を掲げています。現在の建物は明治十七年(1884)の再建です。

また佛光寺には堂々とした四つの門があります。阿弥陀堂門(本堂門)は、明治十二年(1879)に建立された四脚門で、屋根は切妻造ながら前後に唐破風をつけた銅版葺です。正面の御影堂門は、扉や脇、腰の各所を彫刻で装飾した。切妻四脚門です。他に普段は開かれない勅使門と玄関門があります。

本尊の阿弥陀如来像(高さ99.5cm)は、平安時代末期の作と考えられていて、寄木造の彫眼、納衣に盛上彩色と載金とで精微に袈裟の文様があります。また、聖徳太子立像(高さ94・5cm 重要文化財指定)は、現存する太子像の中で最高作品の一つとされているということです。
像は寄木造で体内を内刳し、眼に玉眼を入れています。胎内に、了源上人が山科に念仏道場を建てた際に新造した太子像であるという記録と、了源上人の師、佛光寺第四世了海上人の遺骨が納められています。像を刻んだ仏師は、尾張法印湛幸で元応二年正月二十八日に開眼されています。

その他、注目したい寺宝としては「光明本尊」があります・・・親鸞上人没後、南北朝時代にかけて多く作られ、特に仏光寺派末寺に伝来しているものが一番多いものに、「光明本尊」があります。「光明本尊」とは、畳一枚程の大型の絹布の中央に、南無不可思議光如来の九字(あるいは八字)の名号を書き、その両側に印度・中国・日本の三国の高僧と聖徳太子の像を描いたもので、その一つの「光明本尊(滋賀県浅井町 西通寺蔵)」は、名号の両脇に釈迦・弥陀二尊、さらに多くの高僧を配して後ろから光明が輝く独特の本尊図で、文和5年(1356)に法橋良円が描いたもので、現存する「光明本尊」のでも傑作といわれています。

また、「絵系図(重要文化財指定 本山佛光寺蔵)は、了源上人の時代に、念仏道場に所属する門徒達の肖像を描いて名簿代わりとしたもので、師弟関係を明確にするため系図の形をとっていることから、絵系図と呼ばれているということです。了源上人が本願寺の存覚上人(本願寺三世覚如上人の子で、優れた学僧でしたが、布教方法等で父と対立し、義絶和解を繰り返し本願寺を継承することはありませんでした)の指導を受けて製作したのが始まりと考えられているそうです。

最後に、東山区にある佛光寺本廟は、宗祖親鸞聖人御廟所を中心とした真宗佛光寺派の墓所になります(東山区粟田口鍛冶町)

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前に松原道祖神社(下京区松原通新町下る藪下町)を採り上げましたが、松原道祖神社は平安時代の説話文学に登場するという話題性に富んでいました。一方、今回の火尊天満宮(ひみことてんまんぐう)は、鎮座地も松原道祖神社とそれ程離れていないし、周辺の神社の中で松原道祖神社と小ささを競い合うようなかわいい小社ですが、こちらは圧倒的に情報が少ないようです。


下京区油小路通綾小路下る風早町にある火尊天満宮(ひみことてんまんぐう)は、この地区でもたいへん小さな神社です。祭神は神話の「山幸彦と海幸彦」でも知られる山幸彦=彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と天神(菅原道真)です。

元々この地には、中世から火伏・防火に霊験のある神社として知られる愛宕神社が町内の北東にあって、「火伏せの社」といわれて信仰されてきたと伝えられます。そして、この愛宕神社の祭神が彦火火出見尊でした。
また、江戸時代の寛政初め(1790)頃に、この地域の華族・風早氏の邸内に鎮座していた菅原道真の像を移して合祀しました。この縁でこの地域は風早町と呼ばれるようになり、神社もいつしか火尊天満宮と呼ばれるようになったということです。


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