京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

中京・下京

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下京区の小さな寺院を採り上げます。
京都市内を散策していると、知らない寺社などに出会って、何となく面白そう、由緒がありそうだなと写真を撮ったものの、後で調べてもわからないということも多々あります。
今回も情報の少ない観光名所とはかけ離れた史跡ですが、地元の信仰を集めてきたことが窺えます。


下京区醒ケ井通仏光寺下る東側荒神町にある小さな寺院が観音寺です。
正式には、堤境山寿福院観音寺という天台宗寺院で、本尊の十一面観音菩薩像は、開基の伝教大師最澄が自ら彫ったと伝わります。この寺院は、三宝大荒神を祀ることで知られますが、前回に書いた、上京区荒神口通寺町東入る荒神町にある清荒神(護浄院)の跡地にある寺院で「元荒神」として知られます。

清荒神(護浄院)と重複しますが・・元々奈良時代末期の光仁天皇が、皇子の開成親王が摂津国勝尾山の修業中に感得して自ら刻んだ三宝大荒神を本尊として勝尾山に創建した寺院でした。その後、勝尾山が遠くて勅旨代参が大変ということで、明徳元年(1390)、後小松天皇の勅命により、乗厳(じょうげん)律師が、洛中醒ケ井高辻(下京区)の地に勧請し、以降、「清荒神」と呼ばれるようになりました。もっとも、観音寺自体は、それ以前の平安時代からこの地にあったと伝えられています。
その後、慶長五年(1600)、皇居守護のために東南の地に遷座するようにとの勅命によって現在地に移され、「常施無畏寺(じょうせむいじ)」の号を賜りました。
移転後も、醒ヶ井の跡地では三宝大荒神への信仰が残ったようで、江戸時代初期には既にこの地域を荒神町と呼んだという記録があり、観音寺も荒神さんとして親しまれてきたようです。

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今回も、前回の住吉神社と同様に平安時代末期〜鎌倉時代初期を代表する歌人・藤原俊成(ふじわらのとしなり しゅんぜい)ゆかりの神社、下京区烏丸通松原西入る玉津島町にある新玉津島神社(にいたまつしまじんじゃ)です。


新玉津島神社の祭神は、玉津島明神、即ち、稚日女尊(わかひるめのみこと)、息長帯日女尊(おきながたらしひめのみこと)、衣通姫尊(そとおりひめのみこと)です。
創建は、平安時代末期の文治二年(1186)、藤原俊成が紀州(和歌山県)の和歌浦の玉津島神社から、和歌の神様の衣通姫(そとおりひめのみこと)の分霊を左京五条室町の自邸内に勧請したことに始まります。その後、新玉津島神社は荒廃していたようで、室町幕府初代将軍・足利尊氏が再興し、二代義詮にも引き継がれたようです。また俊成邸はこの頃、歌人としても知られる中納言・二条為明(1295〜1364)が拝領し、貞治二年(1363)に為明が後光厳天皇から「新拾遺和歌集」の選定の命を受けた時、和歌所が置かれ、貞治六年(1366)に歌合せが催されています。神社もこの頃には再建されていたのでしょう。その後、応仁の乱により荒廃しますが、前回に取り上げたように室町時代末期に正親町天皇が、同じく俊成邸跡地の住吉神社を再興したのと合わせて新玉津島神社も現在地(玉津島町)に再興されたようです。江戸時代の名所図絵には、住吉の松が植えられた広い境内が描かれていて、当時は現在とは違って由緒ある神社らしい雰囲気が漂っていたことが想像できます。


さて、現在、新玉津島神社の鳥居横には「北村季吟先生遺蹟」の石碑が建立されています。
江戸時代の国学者・歌人の北村季吟(1624〜1705)は、松永貞徳(1571〜1653)に俳諧や和学を学び、特に多くの古典の注釈書を著しました。この石標は、季吟が天和二年(1682)から元禄二年(1689)に幕府歌学方として江戸に下るまで、新玉津神社の社司として社殿修復に努めながらこの地で過ごしたことを示しています。
また、青年時代の松尾芭蕉は、二才年上の伊賀国上野の城代の子息・藤堂良忠(俳号は蝉吟 とうどうせんぎん 1642〜66)に仕えていましたが、藤堂良忠(蝉吟)が北村季吟の弟子だった関係から、芭蕉も季吟に師事して俳諧の道に入りました。そして、二十五歳の若さで藤堂良忠(蝉吟)が亡くなったことに世の無常を感じ、仕官を退いて俳諧に専念する人生を送ることを決意したといわれます。
延宝二年(1674)に芭蕉は季吟から俳諧の秘伝書「埋木」を与えられたとも伝えられ、これによって俳諧の免許皆伝を得た芭蕉は、いよいよ江戸で宗匠として職業俳諧師の道を進むことになったのでした。このような関係で、新玉津島神社は芭蕉関連史跡としても知られているようです。
他に新玉津島神社境内には、末社として天満宮と秋兼神社を祀っています。

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以前に、平安時代末期〜鎌倉時代初期を代表する歌人・藤原俊成(ふじわらのとしなり しゅんぜい)を祀る俊成社(下京区烏丸通松原下る俊成町)を採り上げました。今回も、同じく藤原俊成ゆかりの神社、下京区醒ヶ井通高辻下る住吉町にある住吉神社です。


住吉神社の祭神は、住吉大神で、即ち田霧姫神(たぎりひめのかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、底筒男神(そこつつおのかみ)、中筒男神(なかつつおのかみ)、表筒男神(おもてつつおのかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)、武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)の諸神を合祀しています。
社伝によると、住吉神社は平安時代末期の保元二年(1157年)、後白河天皇の勅命によって藤原俊成が摂津国(大阪)住吉より、左京五条室町(五条烏丸)の邸宅内に住吉明神の分霊を勧請し、新住吉(にいすみよし)と称して祀ったことが始まりと伝えられます。住吉明神は航海の神として知られると共に(また安産の神としても崇敬されました)、いつしか和歌の神としても崇敬され、この理由で歌人の第一人者の俊成の邸内に祀られたのでした。
また、俊成は同じく歌道の神として玉津島明神も邸内に勧請しています。(次回にこの新玉津嶋神社を採り上げます。)尚、歌道流派により違いがありますが、住吉明神、玉津島明神、柿本人麻呂はいつしか「和歌三神」と崇拝されるようになりました。


以来、住吉神社は、朝廷をはじめ多くの人々の崇敬を集め、和歌所の別当が奉斎して隆盛を極めましたが、応仁の乱の兵火にかかって社殿全て焼失しました。ただし御神体だけは無事で、その後、永禄十一年(1566)に、正親町天皇が神社の荒廃を惜しんで現在の醒ヶ井通の地に遷座させ社殿を造営しました。その後は歴代の天皇の崇敬篤く、歌道の伝受に際しては勅使が派遣されて代拝していました。
正徳三年(1713)中御門天皇から神輿その他を拝領し、また寛延二年(1749)と明和三年(1766)には菊花御門の提灯を拝領しています。その後、天明の大火(1788)で焼失しますが、寛政十年(1798)に金五十両を賜って再建、文久四年(1864)には孝明天皇より神輿修復費用として銀二十枚を賜っています。その後、元治元年(1864)の禁門の変の際の火災により類焼、同年九月に金百円を賜って再建。また、有栖川宮その他皇族からの寄付も度々あったようです。
明治時代に社殿が再び荒廃したために、明治三十二年(1899)に、藤原俊成の祖先になる伯爵冷泉為紀が平安時代以来の名跡を保存するために広く寄付をつのり、 同十一月に現在の社殿が建立されたということです。


また境内には末社として人丸神社と熊丸稲荷神社があります。
人丸神社は、住吉明神、玉津島明神と並んで「和歌三神」といわれる柿本人麻呂を祀っています。
人丸神社は、江戸時代の「拾遺都名所図会」では、「人丸御霊社(ひとまるごりょうのやしろ)」の名前で掲載されています。それによれば、明和六年(1769)に藤原俊成の祖先になる前大納言・冷泉為村が、「和歌三神」の内、新住吉社と新玉津社があるのに、柿本人麻呂を祀る神社が現存しないことを惜しんで俊成邸跡付近を探したところ、ただ御霊祠と呼ばれていた小社を見つけて、これこそかつて俊成が勧請した神であるとして崇敬したことから、町内でもそのことを知って社殿を修造したと記されています。

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下京区松原通新町下る藪下町にある小さな神社が、松原道祖神社(まつばらどうそじんじゃ)です。
この神社は、天明の大火(1788)や元治元年(1864)七月の禁門の変の火災によって焼失し、その際、所蔵する古文書類も焼失したために、創建時期や由緒も不明となってしまったようですが、平安時代の説話集「宇治拾遺物語」や「今昔物語」にも登場していて、この話題性から観光サイトなどでも採り上げられることもあるようです。


松原道祖神社(まつばらどうそじんじゃ)は、平安時代以前の創建とも伝えられ、平安京の五条大路(現松原通)に祀られたことから、「五条の道祖神」と呼ばれ、また「首途の社」とも呼ばれてきたということです。

祭神は、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)です。前にJR京都駅近くの「道祖神社」について書いた文章の転載になりますが・・
猿田彦神は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、葦原中国(あしはらなかつくに=日本国土)を治めるために高天原から日向国・高千穂峰に降った・・いわゆる天孫降臨の時に、その道案内をしたことから、道の神・旅人の神とされます。また、天鈿女命(あめのうずめのみこと)は、天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になった際、岩戸の前で踊りを披露して天照大神を誘い出したことから、踊り=芸能の女神とされました。この二神は、天孫降臨の際に出会って結ばれたことから、通常、夫婦神として一緒に祀られています。また、猿田彦神は、村の境界や道の辻などに祀られる、元々中国伝来の「道祖神(どうそしん)」と同一視されるようになり、子孫繁栄や交通安全の神として信仰されるようになりました。

松原道祖神社も五条大路の道の神として、また、塞(さい 厄災を塞さぐ)の神として崇め祀られて来たと伝えられ、現在では、道の神から転じて交通安全や、塞の神から厄除開運の神として、また夫婦円満、家内安全、商売繁盛等の様々なご利益があると信仰されています。また戦前は付近の民家内に祀られていたそうですが、戦後間もなく、地元住民の熱意等により現在地に祀られたということです。




ここで、松原道祖神社が「五条の道祖神」として登場する「今昔物語集」巻二十、「五条の斎」として登場する「宇治拾遺物語」巻一の内容について書いてみます。

まず、「今昔物語集」第二十の三、「天狗、仏と現じて木末に坐せる語」です。(尚、「宇治拾遺物語」巻二の十四「かきの木に仏現ずる事」は、場所は五条天神になっていますが同様の話です。)

「昔、醍醐天皇の時代に、五条の道祖神が鎮座している傍に実のならない大きな柿の木がありました。ある時、突然、この木の梢に仏様が出現したことがあったということです。この仏様は淡い光を放って様々の花を降らすなど不思議な出来事をおこしました。この奇跡に、たいへん尊いことだと貴族から庶民に至るまで都中の人々が、仏様に参詣するために牛車や徒歩で集まって大騒ぎとなり、その後六、七日が経過しました。

ここに、右大臣源光(みなもとのひかる)という人がいました。深草の天皇(仁明天皇)の皇子で、たいへん賢く才能ある人物で、この仏が出現したことに疑いを持ちました。「本物の仏が、急に木の梢に現れる事などあるはずが無い。これは天狗などの仕業であろう。そうであるなら彼らの術は七日間が限度だ。今日にでも、私自らが行って正体を見てやろう。」と思って、正装で牛車に乗って出かけました。そして、集まっていた人々に道を空けさせて、牛車を降ろさせ簾を上げて見れば、確かに木の梢に仏がいて、金色の光を放ち、様々の花をまるで雨のように降らして素晴らしく尊い様子です。

しかし源光は、たいへん怪く思って、二時間もの間、この仏をじっと見つめ続けました。仏はしばらくは光を放って花を降らしていましたが、源光が見つめ続けるうちに、たちまち大きなトビ(とんび 屎鵄)が翼を折れた姿となって、木の上から地面に落ちてきました。周りの人々はこれを見て奇怪な事だと驚き騒ぎます。そして子供たちが寄ってきて、このトビを叩き殺してしまいました。光は、「やっぱりそうであろう。本物の仏がどうして木の梢に出現するのだ。皆このことを考えずに、有り難がって騒ぐとは馬鹿げたことだ。」といって屋敷に帰りました。現場で見ていた人はもちろん、これを伝え聞いた世間の人も、右大臣様は本当に賢い人だと感心して誉めたということです」
・・・・もっとも、仏様が木の上に出現するのは怪しいと思っても、天狗ならやりかねないというあたりは、現代人から見ると可笑しく思われますが・・。

尚、このエピソードからは、源光(みなもとのひかる)という人物、当時としては合理的な考え方のできる意思の強い人物のように感じられます。この源光は、藤原時平と共に菅原道真を失脚させた張本人の一人で、失脚させた道真の後釜として右大臣に就いたのですが、その後、狩猟中に泥沼に転落して溺死するという悲惨な死に方をして、当時の人に道真の怨霊に呪い殺されたといわれることになります。




次に、「宇治拾遺物語」巻一の一「道命阿闍利、和泉式部の許で読経し、五条の道祖神が聴聞した事」です。

「昔、大納言・藤原道綱の子で道命阿闍利(どうみょう 974〜1020)という色事の好きな僧がいました。読経がたいへん上手く、和泉式部といい仲になって、毎夜式部のもとへ通っていましたが、その日も、式部の家で夜目醒めて、読経をして八巻を読み終える頃には、夜明け近くになっていました。

ふと、傍に人の気配がします・・・道命が「誰だ」と問いかけると、相手は「私は、五条西洞院の辺りに住む老爺でございます」と答えます。そこで、「一体、何用なのか。」と尋ねれば、「今日、聞かせていただいたお経は、生涯忘れないでしょう。」と言います。
道命が「法華経を読むのはいつものことなのに、なぜ、そのような事を言われるのか。」と聞くと、翁、すなわち「五条の斎」は、「身を清めてから、お経を上げられる時は、梵天様や帝釈天様などが来られて聴聞されるので、私などはとうてい近寄って聴聞することはできません。今宵は、身を清めるための行水もされなかったので、梵天様や帝釈天様もお聞きに来られなかったので、私のようなものが近くまで来られたわけで、忘れがたい思い出となりました。」といったということです。・・・」
お経を唱える時は、常に身を清くして唱えるべきであるという教訓話です。
ここに登場する翁=「五条の斎」は、梵天や帝釈天などよりかなり格の低い神様として描かれていますが、この神が五条の道祖神だといわれています。

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下京区綾小路通高倉西入神明町、京都の繁華街四条烏丸の東南、通り一つ入った所にある小さな神社が神明神社(しんめいじんじゃ)です。祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)で、菅原道真を祀る文子天満宮(あやこてんまんぐう)を合祀しています。


さて、神明神社は、平安時代末期に近衛天皇がしばしば行幸したと伝わる関白・藤原忠通の邸、「四条内裏、東洞院内裏」に祀られていた鎮守社と伝わります。
藤原忠通については、父の忠実、弟の頼長との勢力争いが、保元の乱の一つの原因になったことで知られます。また、非常に長期に渡って摂政関白を務めたことでも知られ、子としては、近衛家の祖・基実、九条家の祖・兼実、歴史書「愚管抄」を著した慈円らがいます。
神明神社はその後、天台宗寺院の護国山立願寺円光院によって管理され、明治時代の神仏分離令によって、寺院は廃寺となり神社だけがこの地に残ったということです。 また、社頭に榎の大木があったので「榎神明」とも言われたと伝わります。


以前にこのブログで、平安末期に源三位源頼政が怪鳥「鵺(ぬえ)」を退治した後に、血の着いた鏃を洗ったのという「鵺池」と、死んだ鵺を弔ったという「鵺大明神」(共に上京区知恵光院通丸太町下る主税町)を採り上げましたが、この神明神社も頼政と鵺に関する伝説の地です・・神明神社には社宝としてこの鵺退治に使われたと伝わる二本の「鏃(やじり)」が伝えられているのです。

「平家物語」によると、平安時代末期の近衛帝の時代(1142〜55)、毎夜、御所に「鵺」という怪鳥が出没して不気味な声を発して天皇を悩ませました。弓の名手として知られた源三位頼政は、勅命によってこの鵺退治を命じられます。頼政は神明神社に参籠して退治の成功を祈願し、見事この怪物を退治することが出来ました。頼政が射落とした怪鳥は、頭は猿、胴は狸、手足は虎、尻尾は蛇という姿だったと伝わります。頼政は神明神社の御加護に感謝してこの時に使った二本の「鏃(やじり)」を奉納したということで、以来、神明神社は厄除け、火除けの神と言われるようになったということです。(また、神明神社が鵺退治の舞台、屋敷跡というも伝えもあるようです。)

謡曲「鵺」はこの鵺退治に関する物語です。
ある旅の僧が、津の国芦屋の里で一夜を明かしていると、うつほ舟(丸木舟)に乗った舟人が漕ぎ寄せて来ました。僧が舟人に尋ねると、自分は近衛天皇の時代に源頼政に討ち取られた鵺の亡霊であると答えて、その時の様子を語って姿を消し去ります。僧が読経をして供養をしていると、鵺の姿となった亡霊が再び現れ、供養に感謝して、自身を討ち取った頼政の栄光と、退治されてうつほ舟で冥土に流されていく自分の有様を語り、供養を受けながら消え去っていくという展開です。


また、明治三十年(1897)頃から豊国小学校内に祀られていた文子天満宮(洛陽二十五天満宮の一つと石標に刻まれています)の神霊を戦後合祀し、その縁で毎年九月十五日(例祭の前日)に子供神輿が区内を巡幸するようになったということです。


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