京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

花園・等持院・御室・太秦・西院他

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京都市右京区龍安寺住吉町・・石庭で有名な竜安寺の南西、衣笠から御室へ抜ける「きぬかけの道」沿いにある住吉大伴神社(すみよしおおともじんじゃ)は、古代の豪族、大伴氏の氏神である伴氏神社に、住吉大神を合祀したと伝わる神社です。(神社の由緒書に基づいて書いてみます。)


住吉大伴神社の祭神は、住吉三神(底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)表筒男命(おもてつつおのみこと))と、大伴祖神の天押日命(あめのおしひのみこと)、道臣命(みちおみのみこと)になります。

古代豪族として知られる大伴氏は、大和国(奈良県)を勢力基盤としていましたが、平安遷都以降にこの地に移住し、その祖先神・天押日命(あめのおしひのみこと)を祀りました。「続日本後紀」には、「承和元年(834)正月賜ニ(山城国)葛野郡上林郷地方一町於伴宿禰等一、為下祭二氏神一処上」とあり、これが住吉大伴神社の創建と考えられています。また「嘉永二年(849)十二月授ニ従五位下神一之処一」とも記され、延喜式神名帳の葛野郡二十座の一つ「伴氏神社大月次新嘗」に当る由緒ある古社だったようです。

大伴氏は、元々、物部氏と共に武門の家として皇居を警衛して騒乱を鎮圧する等の功績を立てた一族でしたが、平安時代初期の大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が、第五十三代・淳和天皇(大伴親王)の諱を憚って伴氏と改称したことにより、神社も伴氏神社といわれるようになったようです。
しかし、貞観八年(866)の応天門の変で、大納言・伴善男(とものよしお)が失脚して伊豆に流罪となって以降、伴氏(大伴氏)は大きく衰退し、伴氏神社の祭祀も廃絶してしまったようです。



その後、平安時代後期には、葛野郡のこの地一帯は、左大臣・徳大寺実能(とくだいじさねよし 藤原実能)に始まる徳大寺家に伝領され山荘が設けられました。そして、徳大寺家が、和歌の神として崇拝していた住吉三神をこの地に祀ったことで、大伴氏の氏神だった衰退していた神社はいつしか住吉神社と呼ばれるようになったようです。(江戸時代の享保十二年(1734)刊の「山城志」では、「伴氏神社・・在龍安寺村 今称二住吉」とあり、嘉永元年(1848)伴信友の「神名帳考證」「伴氏神社・・今龍安寺村にありて住吉といふ」と記されているようです。)
以来、住吉神社は、龍安寺・谷口(龍安寺地域の南、花園、等持院、御室地域に挟まれた小区域)地域一帯の産土神として崇敬されてきました。

住吉神社は、大伴氏の氏神・伴氏神社とは関係なく祀られてきた訳ですが、明治以降、この神社が延喜式の古社・伴氏社と比定されたことから、昭和十七年(1942)八月二十一日に住吉三神及び大伴祖神を合祀し、社名を住吉大伴神社と改称しました。住吉大伴神社では、住吉の神の「和」と大伴の神の「武」、夫々和武合体・中庸を保った和平の神としています。



本殿は、昭和初期の建築で、柱間・間口一門、奥行一間半の縮小型住吉造で全国唯一の建物ということです。(住吉造の本殿は大阪と福岡の住吉神社の二社に残るのみということです)また、昭和五十三年(1978)、拝殿と神饌所の新築に合わせて萱葺の本殿屋根を銅葺に変えました。その他、神輿庫は昭和三十五年(1960)移転改築され、平成十八年( 2006)十月に鳥居を新築しています。

境内には、元々末社として、十禅師権現社、斎ノ宮社、小松尾明神社がありましたが、現在まで残ったのは小松尾明神社で、祭神の天照大神(あまてらすおおかみ)と大己貴神(おおなむちのかみ)を祀っています。(現在、十禅師権現社の祠があり、斎ノ宮社も小松尾明神社に合祀されているようですが)

また、祭神(大伴祖神)の子孫で、歌人の大伴家持の作歌(天平感宝元年五月十二日(749))の「海ゆかば」の石碑が境内外苑に保存されています。この「海ゆかはみつく屍 山ゆかは草むす屍 大君のへにこそ死なめ かへりみはせし」と刻まれた碑は、昭和十八年(1943)七月五日に大政翼賛会京都支部主催により、家持ゆかりの住吉大伴神社で、国民の歌「海ゆかば」選定奉吉祭を行い、昭和十九年(1944)八月に住吉大伴神社の顕彰奉賛会によって建てられたものです。

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京都市北区等寺院中町にある六請神社(ろくしょうじんじゃ)は、観光名所として知られる等持院のすぐ東に鎮座する神社です。等持院を訪れる観光客の中には、何となく側に神社があったことを覚えている人もいるのではないでしょうか。
(鳥居の横には、神社の来歴を解説する京都市の掲示板がありますが、少し解り難い表現が多いのが難です。一応掲示板を引用しながら書いてみます)


六請神社は、伊勢、石清水、賀茂、松尾、稻荷、春日の六大神を祭神とする神社です。これら六神は、平安時代の延喜式二十二社の中でも最も重要視しされた上七社(平野神社を除く)から選ばれているようですが、いつ頃、どのような過程で祀られたのかなど不明な点は多いようです。

京都市の掲示板を参照すると、この神社は平安京以前から衣笠山麓に鎮座していたといわれ、「衣笠御霊」や「衣笠岳御霊戸」とも呼ばれていたということです。御霊とあるように、古代からこの衣笠の地(京都市の西北の衣笠地域は、衣笠山を背景として、南東の山裾に金閣寺から竜安寺に至る有名寺院があることで知られています)を開拓し、亡くなると衣笠山麓に埋葬された人々の霊を合せ祀ったのに始まると考えられています。
そして、かつて、開拓の祖神を、「天照国照神(あまてるくにてるのかみ)」や「大国御魂神(おおくにみたまのかみ)」と呼んでいたことから、衣笠開拓の守護神として祀られていた天照国照が、いつしか六請神社の祭神に天照大神ら六柱を勧請して六請神というようになったということです。
また、六請神となった理由としては、衣笠の地は中世以来埋葬地となっていたことから、霊を守る六地蔵の信仰と習合して六の字が社号に加えられ、伊勢・岩清水・賀茂・松尾・稲荷・春日の六神を祀ったのではないかと考えられるようです。


また、神社の由緒書きによると、六請神社は、桓武天皇の延暦年中(782〜805)に衣笠山麓に鎮座した古社と伝えられます。その後、清和天皇の貞観元年(859)十一月、同六年(864)十一月上の申の日に祭礼が営まれ、室町時代になって、後小松天皇の応永四年(1397)、足利義満が六座の大神を等持院の側に勧請したということです。再び京都市の掲示板を引用すると、この時、等持院の鎮守社として境内に祀られ、明治時代の神仏分離令によって等持院の東の現在の地に遷座しました。
また、六請神社は松尾大社の遥拝所としても知られ、現在も、等持院・小松原(等持院の東、平野の西にある区域)一帯の産土神して崇敬されています。

最後に、境内には、末社の力石大明神が祀られています。
大きな石が祀られていて、この石は古来、祈願して持ち上げられれば、あらゆる力を授かると伝えられます。古くから地元の氏子多数が持ち上げて安産、学力、試験、就職等々の誓願成就の力を得てきているということですが、さすがに重いので、代わりに神社で小石を授かって祀っても同様のご利益があるということです。

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京福電鉄嵐山線の山ノ内駅から北へ百メートル、右京区山ノ内宮脇町にあるのが山王神社(さんのうじんじゃ)です。この神社も、前回の猿田彦神社と同じく京福電鉄嵐山線沿線の小さな観光スポットのひとつですが、境内は日本のクスノキの大樹をはじめ多くの木々で囲まれ、また「夫婦岩(めおといわ)」と呼ばれる巨石もあって、古代からこの地が自然信仰の霊地だったと感じさせます。


山王神社は、祭神として大山咋神(おおやまくいのかみ)、玉依姫神(たまよりひめのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)を祀ります。
神社の創建は、平安時代後期の白河天皇の時代に、近江国坂本(滋賀県大津市坂本)の日吉大社から日吉山王大神をこの地に勧請したのが始まりといわれます。当時、この山之内(山ノ内)の地は、天台宗比叡山延暦寺の寺領で、天台座主・良真僧正が、西の京禅房として普賢寺という寺院を構えていたと伝えられ、この良真が普賢寺の守護神として山王大神を勧請したということです。
祭神の大山咋神と玉依姫神は夫婦神で、大己貴神は有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名で、酒造りや施薬治病の神、縁結び福の神等として広く信仰されています。また祭神として平安末期作の特色を持つ一木造男神像も祀られているということです。尚、現在の本殿は平成二年(1990)九月十九日の台風で本殿が倒壊した後、翌三年(1991)八月に修復再建したものということです。



境内には末社として、境内右奥に赤山神社と若宮神社、左奥に祖霊社とお福稲荷神社、また、鳥居を潜った右手には水琴窟(大地主神)があります。

泰山府君(たいざんふくん)=赤山明神を祭神とする赤山神社は、天台宗の慈覚大師円仁が中国唐に渡った時、山東省赤山にある山神、福寿の神・泰山府君に祈念し、その後無事に帰国した後、天台宗の守護神・方除けの神として比叡山の西麓に勧請したのを始まりとしています。(円仁の遺言により弟子の安慧が左京区修学院開根坊町にある赤山禅院を創建しました)この赤山神社は、平安時代に山王大神をこの地に勧請した際に、合わせて赤山明神を勧請したもので、元々現在地より南東約五百メートルの山之内赤山町の鎮守社として祀られていたものを、明治十一年(1936)に山王神社境内に遷座したものということです。

若宮神社は、湍津姫神(たぎつひめのかみ)と白山姫神(しらやまひめのかみ)を祭神としています。湍津姫神は、山王神社の祭神・大己貴神(おおなむちのかみ)の妃神として美の神として信仰され、また、白山姫神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冊尊(いざなみのみこと)二神の総称で、縁結びの祖神として信仰されています。元々現在地より南約三百メートルの山之内瀬戸畑町の鎮守社として祀られていたものを、明治十一年(1936)にこの神社境内に遷座したものということです。

祖霊社は、歴代の神主や氏子総代、神事係また区域発展に尽くした功労者の遺徳を偲んで功績を称えその霊を祀るために昭和四十七年(1972)九月に創建された社で、春分の日に慰霊祭が行われます。さらに、稲荷大神を祭神とするお福稲荷神社は、昔ある人が境内の大樹の根元に白い蓑笠が落ちているのを見て拾おうとした所、蓑笠ではなく蜷局(とぐろ)を巻いた白蛇だったことから、畏怖して祠を建てて招福を祈って祀ったと伝えられている社です。

境内右手にあるのが、非公開の水琴窟のある小さな庭園です。茶室「清々」を中心としたこの茶園は、「元文年間(1736〜41736〜40)申歳 山王大権現」と刻まれた銘石から、巨岩の運搬や優れた造園技術に近世豪族の影響があると考えられています。そして、山王神社では、平成十三年(2001)六月に、復元された水琴窟の「音」を、大地を司る神として知られる「大地主神(おおとこぬしのかみ)」として祀りました。尚、この庭園は大正八年(1919)に大楠を含む景観的配慮によって整備され、平成十四年(2002)に門を移築して新しい庭園として再整備されています。



神社の境内で最も人目を引くのは、「夫婦岩(めおといわ)」と呼ばれる、夫婦和合、安産、子授けの岩として古来信仰されてきたというしめ縄の飾られた二つの巨岩です。
「夫婦岩(めおといわ)」は、右が男岩(高さ約一・五メートル、幅約一・三メートル)、左が女岩(高さ約一メートル、幅約二・五メートル)とされ、女岩は中央部分が少し窪んでいて、昔からこの両岩を撫でて子授けを祈り、二つの岩の周囲を左から三回廻って安産を祈るという習慣があったといわれています。また、生まれた子供の初宮詣の時には、神酒、洗米、梅干を供えた後、梅干の皮で鼻をつまんで、長生きや出世を祈り、種は女岩中央の窪みに納めて神酒を注ぎ、子孫繁栄を祈る習慣が今も伝えられているということです。また、この巨岩は、平安時代の天台座主の良真がこの地を訪れた際、良真の後を追って比叡山から飛んできたという伝承もあり、比叡山延暦寺とこの神社のつながりを示す伝説とも考えられています。

また、境内西側には、鎌倉時代に親鸞上人が、諸国布教の際にこの地に立ち寄って、この岩の上に座ったといわれる「足跡石・座石」が安置されています。最後に、鳥居付近の水琴窟のある庭の南、境内北西には、樹齢七百年と伝えられる御神木のクスノキが数本あり、神社にちなんで「山王楠」と呼ばれて神社のシンボル的な存在です。

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右京区山ノ内荒木町、京福電鉄嵐山線に最近出来た新駅・嵐電天神川駅の傍、三条通が天神川と交差する付近にあるのが、猿田彦神社です。
古図によれば、昔は三条通側に鳥居があったということですが、現在は三条通にほぼ平行して鳥居があり、境内は、区民の誇りの木に選ばれているクスノキの大木等の木々に囲まれています。普通の小さな神社ですが、観光地嵐山に至る京福電鉄の沿線にあることもあって、京福電鉄では、嵐電天神川駅周辺の小さな観光スポットの一つとして採り上げているようです。


猿田彦神社は、社伝によると、古くから「山ノ内庚申(やまのうちこうしん)」と呼ばれ、「八坂の庚申堂」、「粟田口庚申堂」と並んで「京洛三庚申」の一つに数えられた洛西の古社ということです。
祭神の猿田彦大神(さるたひこおおかみ)は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、葦原中国(あしはらなかつくに=日本国土)を治めるために高天原から日向国・高千穂峰に降った・・いわゆる天孫降臨の時に、その道案内をしたという故事から、また、中国伝来の「道祖神(どうそしん)」と同一視されるようになり、道ひらきの神、人生の道案内の神として信仰され、開運除災や除病招福のご利益があるとされています。社伝によると、平安時代初期に伝教大師最澄が、座禅をするための霊窟を探していたところ、猿田彦神が現れてこの地を示したので、座禅石の横に猿田彦神を祀ったことが創祀とされます。


猿田彦神社は、「山ノ内庚申(やまのうちこうしん)」と呼ばれように、京都の神道系庚申信仰の本拠地の一つだったようです。
庚申信仰は、元々中国の道教の教えから来た信仰で、仏教、神道、修験道等の様々な信仰と結びついて全国に広まりました。元々特定の本尊の無い庚申信仰は、神仏混交の影響から、日吉山王信仰(日吉大社の祭神「大山咋神(おおやまくいのかみ)」は、神社が天台宗延暦寺の鎮守社となったことで、山王信仰へと発展しました)と結びついて山王権現、また仏教系では青面金剛、神道系では猿田彦神を祀ることが多かったようです。

この「庚申」とは、干支の「庚(かのえ)申(さる)」の日を意味し、十干十二支のこの日の夜に、人の体中にいる三尸の虫が、寝ている間に抜け出して、寿命を司る神である天帝にその人間の行った悪行を告げ口に行くといわれ、天帝は罰としてその人間の寿命を縮めると考えられていました。そして、これを防ぐために、庚申日の夜は寝ないで徹夜するという「庚申祭」という風習があり、時代により「守庚申(しゅこうしん)」、「庚申待(こうしんまち)」等とも呼ばれています。
この風習は、平安時代初期頃より中国より伝来して貴族の間に、さらに仏教と結び付いてからは広く諸国に広まり、鎌倉から室町時代には武家に、さらに江戸時代には広く庶民の間でも信仰されました。特に、江戸時代には、村落全体で酒盛りをして一夜を明かすという寄り合い組織「庚申講(こうしんこう)」が全国で作られていました。猿田彦神社の由緒書にも、庚申講の際は、村人が集まって猿田彦大神や青面金剛の軸を掛け、七種の供物を捧げ夜を明かして萬福招来を祈願したと記していて、現在も六十日に一回の庚申日に祭事を行い、新年初めの庚申日の付近の人々の参詣は後が絶えないということです。

また、仏教系神道系に関係なく庚申信仰のシンボルと知られるのが猿です。
その由来は「庚申」の「申(さる)」=「猿」から来ているとも、山王信仰の神使である猿が採り入れられたとも、また三尸の虫に告げられないために「見ざる(猿)、言わざる(猿)、聞かざる(猿)」が阻止するという意味である等と諸説ありますが、この三神猿は、世の諸悪を排除して開運招福をもたらすとして庚申信仰の地では必ずどこかに描かれているようで、猿田彦神社でも本殿前に目立たない小さな像があります。


社殿は、元々安井村松本領にあって、境内には山伏修験者の行場があり、愛宕山に参詣する人々は、境内の滝に打たれ身を清めてから参詣したということです。明治十八年(1885)、現在の三条通の南側に遷座しましたが、今も境内には行場の名残をとどめる大小無数の石が境内北側に存在し、南側には不動明王、観音菩薩、大日如来、役行者等の石仏が祀られています。(昭和五十五年(1980)、この年が六十年毎の庚申の年に当るため、神殿を修復したところ、礎石に用いられていた道標に「あたごへ二里半」の文字が刻まれていることが確認されました。)また、明治大正時代には庚申灯篭が数多く奉献されていたということで、現在では御縁日の庚申日に祭礼が行われていて、特に初庚申のお祭りには火焚神事が斎行され、参詣客で賑わうということです。
また、境内末社として、大国主命を祭神とする大国主社、火伏の神・秋葉明神を祭神とする秋葉社、稲荷大神を祭神とする稲荷社があります。


社宝として、この地の庚申講に用いられてきた御軸「御幣猿立像(伊勢市猿田彦神社に伝来。宇治土公定津神主筆・天保十二十二年六月吉日 利兵衛箱書)」と「庚申清(青)面金剛御姿絵図(当村永代講中 箱書)」、また山口玲熈画の神猿図(大正二年二月八日 初庚申の節に奉納)があり、また鳥居に掲げられた社額は、宇治土公定津神主の筆によるものです。
また、授与品としては、中風・神経痛・腰痛などの病気封じの「こんにゃく(氏名・年齢を書いて祈祷後に神棚に祀って願をかけます。また、昔は就寝の枕上に吊るしたということです。)」、盗難除けの左縒りの連縄「左なわ(持山)(玄関・勝手口・戸窓・金庫などに吊るします)」、手芸の上達を招くという「招福布猿(くくり猿)財布や腰に付けて除難招福を祈る)」、家内安全・商売繁昌・交通安全・開運厄除けの「祈願絵馬」や「御守り」、清め砂などがあります。(尚、庚申以外の日は、御守授与は、嵐電「山之内」北側の山王神社で行っているようです。)

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阪急電鉄西院駅から西へ約一キロ、右京区西院日照町にある西院・野々宮神社は、「西四条斎宮(にししじょうさいぐう)」とも称する神社です。

西院という地域は、西院・春日神社(西院春日町、阪急電鉄西院駅の西)を除けば有名な史跡の少ない地域で、さらに西の梅津や西京極と共に「京都の郊外」といった雰囲気があります。この神社の周囲にも、自動車教習所や中学校、変電所、集合住宅等がありますが、木々に囲まれた神社の境内に入ると、周囲の喧騒を忘れさせる静けさが漂っています。
また、野々宮神社は、江戸時代から西院・春日神社の御旅所となっていて、十月第二日曜日に行われる春日神社の春日際では、神輿二基が千人もの供奉を従えて渡御し、この地で祭典が営まれます。(野々宮神社のHPを引用させていただきます。)


さて、野々宮神社の祭神は、倭姫命(やまとひめのみこと)と布勢内親王(ふせないしんのう)のニ女神で、共に天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王となりました・・倭姫命は、第十一代・垂仁天皇の皇女で、伊勢神宮を創建したという伝説的な皇女として知られます。また、布勢内親王は、第五十代・桓武天皇の皇女で、平安時代としては初めて伊勢へ下った斎王になります。


神社の創建時期は不明ですが、元々この地は、平安時代に伊勢神宮の斎王に選ばれた皇女が、伊勢へ下向するまでの間、心身を清めるための潔斎所「野宮(野々宮)」が築かれた聖地で、各地に残る「野宮(野々宮)」の名称はこの地が発祥ともいわれています。
桓武天皇の皇女で斎王となった布勢内親王を祀るように、平安時代最初の「野宮(野々宮)」があった由緒ある場所ということのようです。


「野宮(野々宮)」の場所は、天皇の即位毎に定められていたために、京都にも嵯峨野周辺に幾つかの跡地とされる神社があります。
最も有名なものとしては、嵐山にある観光地として知られる野宮神社(右京区嵯峨野宮町)が思い浮かびます。この野宮神社の地は、第五十三代・嵯峨天皇の皇女仁子内親王を最初として「野宮(野々宮)」として用いられたと伝えられています。
また、同じく嵯峨野にある斎宮神社(右京区嵯峨宮ノ元町)、斎明神社(神明神社、右京区嵯峨柳田町)も野宮跡といわれ、これらの三つの神社は黒木の鳥居(白木もありますが)が印象的です。


一方、西院・野々宮神社のHPによると、この野々宮神社は、現存する「野宮(野々宮)」跡の中で最もその風情を留めているということです。
確かに、黒木の鳥居は無いとはいえ、他の「野宮(野々宮)」ゆかりの神社のある嵯峨野とは違って訪れる人はほとんどいません。このような末社や社務所も無い、木々に覆われた広い静かな空間が、本来の禊の場「野宮(野々宮)」のイメージに近いものなのかもしれません。


さて、平安時代以後、この「野宮(野々宮)」の地は、倭姫命と布勢内親王を祀る神社となり、その後、皇室や公家から庶民にいたるまで広く崇敬を集めたと伝えられます。また、古くは機織の守護神として織女の信仰が厚く、その後は、ニ女神の徳の偲んで広く女性の守護神として崇敬を集めているということです。
そして、江戸時代以降は、西院・春日神社の御旅所とされ、毎年十月の春日神社の祭典には、天皇の勅使をはじめ多くの公家が参列したといわれ、現在も十月第二日曜日の春日祭では、春日神社宮司斎主のもとに祭典が営まれています。 また、現在の社殿は、安永四年(1774)十一月二十八日に、後桃園天皇より宮中・賢所を拝領して造営されたものということです。

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