京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

花園・等持院・御室・太秦・西院他

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右京区山ノ内宮前町、叡山電鉄嵐山線に乗ると「山ノ内駅」付近で北側に見えてくる小さなお寺が、念仏寺(念佛寺 ねんぶつじ)です。念仏寺は、伝教大師の母・妙徳尼ゆかりの史跡として知られます。


念仏寺は、山号を紫雲山(しんざん)という天台宗寺院で、「山ノ内 根元地水子供養寺 念佛寺」と称しています。比叡山延暦寺の開祖・伝教大師最澄の母・妙徳尼の生誕地及び菩提寺として千二百有余年の歴史のある寺院と伝えられ、宗派等に関係なく水子供養の菩提所として信仰されています。


さて、妙徳尼は、左大臣藤原魚名(ふじわらのうおな 藤原四兄弟の房前の子。721〜783)を祖とする藤原北家の傍系の出身で、本名は藤子といい、正四位下河辺備前守正雄の妹に当たると伝えられます。この下河辺一族は、この山城国山之内(山ノ内)の地を本拠としていたようです。そして、藤子(後の妙徳尼)は江州滋賀郡(滋賀県)古市郷(大津市坂本付近)を領する豪族・三津首百枝(みつのおびとももえ)に嫁ぎます。三津首氏は、中国後漢の孝献帝(こうけんてい)に連なる登萬貴王(とまきおう)の子孫といわれる漢人系渡来氏族でした。

藤子(後の妙徳尼)は、子に恵まれなかったため、度々この里方の山之内(山ノ内)の館に帰って地蔵菩薩に一心に祈願していました。すると、幸運にも一子を授かりました・・・これが三津首広野(みつのおびとひろの)、後の伝教大師最澄です。

妙徳尼は、夫・三津首百枝と死別した後、自身の生地である山ノ内に戻って、比叡山延暦寺で修行している息子(伝教大師最澄)の身を案じながら日々を送っていましたが、当時、比叡山は女人禁制の霊峰だったため、母といえども訪ねて行く事は出来ませんでした。そこで、最澄は母のために慈母観音菩薩像を自ら刻んで贈りました。こうして、妙徳尼は、日夜この観音像を拝んで我が子最澄の行く末を祈願し、また、儚くも散った多くの水子の冥福を祈って余生をこの地に過したということです。

弘仁八年(817)五月、妙徳尼が七十一歳で亡くなると、最澄は、延暦寺で母の法要に百僧をもって供養して追孝の気持ちを表したと伝えられます・・以来この行事は五十年目毎に引継がれて、昭和四十八年(1978)五月には、千百五十年忌の百僧供養が行われています。
その後、最澄は母の菩提を弔うために、この地に延暦寺を象った寺塔を建立して寺院を創建し、最澄自身の自作の利剣名号の阿弥陀如来像を安置して比叡山之内(山ノ内)と称しました。これが現在の念仏寺で、本尊の阿弥陀如来像は鉄で鋳造されたもので、秘仏となっています。また境内には旧い石碑があり、これらは妙徳尼の実家・下河辺氏の先祖の墓碑ということです。


念仏寺では、毎月二十四日に、秘仏地蔵菩薩と妙徳夫人母子尊像、そして、それらを囲むように壁一面に多くの水子供養地蔵尊が祀られている本堂で、弥陀四十八願万灯籠水子供養を行い、秘仏の御開扉が行われます。また、「一日尼僧修行」という京都らしい体験修行も受け付けています。

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前回の村上天皇陵の参道入口から南へ約200メートル、右京区宇多野福王子町にあるのが、村上天皇の皇子にあたる第六十四代・円融天皇の陵墓「円融天皇後村上陵(えんゆうてんのう のちのむらかみのみささぎ)です。
後世、「天暦の治」と讃えられた父・村上天皇の時代に比べて、藤原氏による摂関政治の一齣に過ぎない印象の円融天皇の治世ですが、その陵墓も、山上にある村上天皇陵に比べてやや地味な印象がします。


さて、円融天皇(在位969〜984)は、村上天皇の第五皇子として、天徳三年(959)に誕生し、名は守平(もりひら)といいました。
少し、前時代に戻りますが、親王の兄で、康保四年(967)に十八歳で即位した第六十三代・冷泉天皇は、病弱で少し精神的な病気の症状もあったため、政務の補佐が必要と考えられました。そのため、父の村上天皇の時代に途絶えていた関白位が復活され、氏の長者として藤原実頼(ふじわらのさねより 朱雀天皇時代の関白・藤原忠平の長男)」が関白太政大臣に任命され、同時に左大臣に源高明(みなもとのたかあきら)、右大臣に藤原師尹(ふじわらのもろただ 藤原忠平の五男)が就任しました。
この時、左大臣となった源高明は、「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルの一人ともいわれます。そして、高明の妻が村上天皇の中宮・藤原安子(ふじわらのあんし)の妹だったことから、藤原安子やその父で村上帝時代の最大の実力者だった藤原師輔(ふじわらのもろすけ 藤原忠平の次男)の後援を得て栄達してきましたが、天徳四年(960)の師輔、応和四年(964)の安子の死後は後ろ盾を失っていたようです。

即位はしたものの、冷泉天皇は病弱だったために、その後継者の選定は急がれる問題でした。
冷泉天皇には同母弟としてニ歳下の為平(ためひら)親王、九歳下の守平親王(後の円融天皇)がありました。本来なら年長の為平親王が皇太子となるはずでしたが、為平親王が左大臣・源高明の娘を娶っていたために、将来、高明が天皇の外戚として権勢を振るうことを恐れた関白太政大臣・藤原実頼や右大臣・藤原師尹が、高明の影響を排除するために守平親王を擁立したのでした。こうして、守平親王は、康保四年(967)に僅か九歳で立太子されました。そして、二年後の「安和の変(あんなのへん)」で左大臣・源高明は失脚させられます。

「安和の変」は、現在の歴史学では、藤原氏による最後の他氏排斥事件として定義されます。
事件は、安和ニ年(969)三月、宮中に仕える左馬助・源満仲と源満仲(みなもとのみつなか 清和源氏の二代目とされます)や前武蔵介・藤原善時(ふじわらのよしとき)が同じく宮中官人の中務少輔・橘繁延(たちばなのしげのぶ)ら数名の謀反(為平親王を奉じて乱を起こそうとしたとも)を右大臣・藤原師尹(ふじわらのもろただ)らに密告したことに端を発します。
直ちに藤原師尹は公卿達を集めて会議を行うと共に、関係者を逮捕させました。そして、謀反人の中に源高明の家来・藤原千晴(ふじわらのちはる「承平・天慶の乱」で活躍した藤原秀郷の子)が含まれていたことから、主人の源高明も謀反に加担していたとして拘束され、大宰府へ流刑となりました。こうして藤原氏による有力他氏の排斥が完了し、今後は藤原氏一族(北家)内での権力争いが起こることになります。(尚、源高明に代わって左大臣に就任した藤原師尹はその後間もなく死去しています。)




さて、安和の変から間もなく、安和ニ年(969)九月、円融天皇は冷泉天皇の譲位を受けて十歳で即位します。幼少の天皇の補佐として、長老の藤原実頼が摂政に就任しました。また、同年、生後間もない先帝・冷泉天皇の皇子・師貞親王(後の花山天皇)が皇太子とされました・・・師貞親王の立太子は、その母が藤原伊尹(ふじわらのこれまさ・これただ)の娘だったことによります。藤原伊尹は、村上天皇時代に活躍した藤原師輔(ふじわらのもろすけ 藤原忠平の次男)の長男で、摂政・藤原実頼が翌天禄元年(970)に死去した後は、摂政太政大臣を引き継いだ人物です。そして、これ以降、ほとんど藤原師輔の家系が摂関職を独占していくことになります。
天禄三年(972)、伊尹も摂政就任後一年で病により関白を辞して死去し、その同母弟の兼通と兼家の間で関白職を巡って争いが起こりました。この兼通・兼家兄弟の対立は、後の藤原道長と甥の伊周の対立と並んで、藤原氏一族(北家)内の権力争いとして有名です。

兼家は、長兄の伊尹の政権下で次兄・兼通よりも重んじられて出世が早く、自身も次の関白は自分にと望んでいました。これに対し、弟の出世を恨んでいた兼通は、早くから自分に有利となるように策を練っていたようです。「大鏡」によると、弟に関白職を奪われることを恐れていた兼通は、村上天皇の時代にその中宮・藤原安子から「摂関は、必ず兄弟の順序にするように」という書付を賜って大事に保管していましたが、この時とばかり幼い円融天皇にこの遺言を献じました。亡き母の文字を見て心を動かされた円融天皇は、母の言葉に従って、兼通の出世を早めて天延二年(974)に関白に任じました。念願の太政大臣となった兼通は、憎い弟兼家の昇進を一切停止させ、天皇にも讒言して弟に対し様々な妨害行為を行いました。

さて、貞元二年(977)、兼通は重い病気となり伏していると、兼家邸から牛車がこちらに来ると家来が知らせます。さすがに犬猿の仲の弟でも見舞いに来てくれたとのか思った兼通は、弟の来訪を待ちました。しかし、兼家の乗った牛車は兼通の屋敷の前を素通りしてしまいました。実は兼家は、兄の命も後わずかと考えて、円融天皇に自身を後任の関白にと奏請するために御所に向っていたのでした。これを知った兼通は激怒して、重病をおして家来に支えられて参内しました。兼通は居並ぶ公卿の前で最後の除目を行い、親しい左大臣・藤原頼忠(ふじわらのよりただ 実頼の子)を後任の関白にすると共に、兼家の右近衛大将職を解任して降格し、代わりに中納言・藤原済時を右近衛大将に任じました。こうして最後まで弟を憎み続けた兼通は死去しました。

その後、後任の関白・藤原頼忠は、不遇の兼家を憐れんで、天元元年(979)に自身が太政大臣になった際に、兼家を抜擢して右大臣に昇進させます。また、同じく円融天皇の近臣・源雅信(みなもとのまさのぶ)は左大臣に任じられました。
こうして、元々兄に劣らず権力欲の強かった兼家は、徐々に朝廷内に勢力を築いていきます。天皇家と外戚関係に無かった藤原頼忠は、貞元三年(978)に娘の藤原遵子(ふじわらのじゅんし・のぶこ)を円融天皇に入内させますが、これに対抗して、兼家も天元元年(978)に娘・藤原詮子(ふじわらのせんじ・あきこ)を入内させ、同年詮子は懐仁親王(後の一条天皇)を生みました。同五年(982)中宮に冊立されたのは頼忠の娘遵子の方で、兼家は大いに失望しましたが、その後、遵子は皇子を生むことはなく、懐仁親王(後の一条天皇)を生んだ詮子を通じて兼家が最終的な勝利を得ることになります。但し、円融天皇の時代には、兼家と藤原頼忠、源雅信といった政治勢力が拮抗していたようです。

さて、兼家は円融天皇が詮子を中宮としなかったことに失望して、娘詮子や懐仁親王と共に邸宅(東三條殿)に籠もって、天皇の使者に対しても不平な態度を見せた程で、天皇との関係も決して良好ではありませんでしたが、円融天皇は、皇位を皇太子・師貞親王(花山天皇)に譲った後は、懐仁親王(一条天皇)を皇太子にすると兼家を慰めたといわれます。こうして、永観二年(984)に円融天皇は譲位して師貞親王(花山天皇)が即位し、懐仁親王(一条天皇)が立太子されました。
尚、花山天皇もわずか二年で、兼家の策略で退位させられ、寛和ニ年(986)に兼家は念願の当時七歳の一条天皇を即位させ摂政に就任します。そして、同時にもう一人の孫・居貞(おきさだ)親王(後の三条天皇  冷泉天皇の第二皇子で、母は兼家の娘・超子(ちょうし・とおこ))を皇太子にしました。こうして以後、兼家の家系は、歴代天皇家の外戚として子の道隆・道兼・道長と摂関職を独占して栄華を極めることになります。


最後に、譲位後の円融天皇についてです。円融上皇は永観二年(984)に寛和元年(985)に出家して、前年(永観元年 983)に創建した勅願寺・円融寺に住みました。
この円融寺は、石庭で有名な竜安寺(京都市右京区)の前身ともいうべき寺院で、現在の竜安寺のある地に創建され、円融法王の死後に次第に衰退したようです。そして、平安時代末期には、徳大寺実能(藤原実能)がその旧地に山荘を築き、山荘内に徳大寺と名付けた持仏堂を建立しました。その後、室町時代に徳大寺家から山荘を譲り受けた細川勝元によって竜安寺が創建されることになります。

円融法王は、正暦二年(991)に円融寺で死去して、円融寺の北原で火葬されました。(竜安寺の裏山に円融天皇火葬塚があります)その遺骨は村上天皇の村上陵の傍らに葬られたと伝えられ、明治二十二(1889)に村上天皇の村上陵とともに地定されました。村上天皇陵と同じく円丘墳墓の陵墓周辺は住宅が少なく周囲を回ることも可能です。

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右京区鳴滝宇多野谷、前に採り上げた妙光寺の西に接しているのが、第六十二代村上天皇の陵墓「村上天皇村上陵(むらかみてんのう むらかみのみささぎ)」です。
村上天皇の陵墓も、中世までの多くの天皇陵と同じく、その後所在が不明となりました。そして、明治二十二年(1889)に全国の天皇陵を急いで地定した際に、現在の場所に定められましたが、実際の埋葬地である可能性は少ないと考えられています。それはともかく、宇多野谷の山沿いの参道を登った所にある陵墓は、市街地に有る陵墓と違って自然に囲まれて良い雰囲気です。


さて、村上天皇(在位946〜967)は、第六十代醍醐天皇の皇子で、延長四年(926)に誕生し、名は成明(なりあきら)といいました。同母兄にあたる第六十一代朱雀天皇が皇子女に恵まれなかったため、天慶七年(944)に成明親王は皇太弟となり、天慶九年(946)出家して仁和寺に入った朱雀天皇の譲位を受けて即位しました。村上天皇の治世は、当初は朱雀帝時代に引き続いて藤原忠平(ふじわらのただひら)が関白を務めましたが、天暦三年(949)の忠平の死後は摂関を置かず、同じく摂関を定めなかった父醍醐天皇の治世(延喜時代)と並んで、その治世は、後世「延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)」と呼ばれる天皇親政の模範とされました。

「延喜・天暦の治」は、後世、天皇が直接政治を行い、良き臣下がそれを補佐するという古代律令制の理想的な政治形態と考えられ、南北朝時代の後醍醐・後村上天皇が両天皇(醍醐・村上)の治世を理想としていたことでも知られます。しかし、実際には親政は形式上で、政治は藤原北家の左大臣・藤原実頼(ふじわらのさねより)や右大臣・藤原師輔(ふじわらのもろすけ)兄弟が行いました。
20年に渡る村上天皇の治世は、平将門や藤原純友が乱を起こした(承平・天慶の乱)兄の朱雀天皇の治世程の大事件が無かったこともあり、反乱の影響で疲弊した朝廷や地方の財政再建に務めた時代といえるでしょう。そして、現在の歴史学では、「延喜・天暦の治」は藤原道長の時代に全盛期を迎える藤原摂関政治への過渡期と位置づけられています。

また村上天皇は、歌人としても知られ、琵琶などの楽器にも精通していました。特に天暦九年(955)〜天徳二年(958)にかけて藤原伊尹(ふじわらのこれまさ)、清原元輔(きよはらのもとすけ)等に命じて勅撰和歌集「後撰和歌集(ごせんわかしゅう)」の編纂させたことや、天徳四年(960)三月に村上天皇が清涼殿で行い、その優雅さから後世の歌合の手本となったといわれる女房歌合わせ「天徳内裏歌合わせ(てんとくだいりうたあわせ)」は有名です。

村上天皇は、康保四年(967)五月、四十二歳で崩御して、村上と呼ばれていた山城国葛野郡田邑郷に葬られました。現在の村上陵は、信憑性には欠ける天皇陵ですが、その円丘墳墓は住宅に囲まれていないため、山沿いに周囲を巡ることも可能で、陵内裏側には小池もあることが判ります。(写真)

妙光寺(特別公開)

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五月八日〜十四日まで、臨済宗建仁寺派大本山・建仁寺では、「妙光寺特別展」と称して、普段は京都国立博物館に寄託されている俵屋宗達の国宝「風神雷神図屏風」が特別公開され、妙光寺に関する寺宝も合わせて公開されました。
有名な「風神雷神図屏風」は、元々京都の豪商・打陀公軌(うだきんのり、うつだきんのり 糸屋十右衛門)が、建仁寺の末寺の妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼し、その後、妙光寺から建仁寺に寄贈されたものです。
また、この期間に右京区宇多野上ノ谷町にある妙光寺も特別公開されたので、今回再訪問してみました・・・尚、妙光寺に関しては、以前に、「野々村仁清の墓のあるお寺」として採り上げましたが、文章を一部再掲載させていただきます。



右京区宇多野上ノ谷町にある妙光寺は、近年まで無住の状態が続いたため、現在再興中のお寺です。
境内はまだ造成中といった雰囲気で、観光的に魅力のあるお寺ではありません。しかし、歴史的には由緒ある寺院になります。

さて、妙光寺は、正覚山と称する臨済宗建仁寺派に属する寺院です。
鎌倉時代の弘安八年(1285)、内大臣・花山院師継が長男忠季の早世を悼んで、その山荘を寺院として、心地覚心(しんちかくしん 無本覚心とも 法燈国師)禅師を開山に迎えて創建した寺院で、寺号は亡長男忠季の幼名・妙光に由来します。

開山の心地覚心(無本覚心)禅師は、東大寺や高野山で修業し、四十三歳の時、宋に渡って霊洞山護国寺の無門彗開(むもんえかい)禅師に師事しました。帰国後は、多くの学僧を育成して92歳で亡くなるまで日本の禅宗に多くの影響を与え、亀山天皇から「法燈国師」、後醍醐天皇から「法燈円明国師」の称号を賜っています。
また、心地覚心(無本覚心)禅師は、日本の食文化の恩人でもありました。
禅師は宋からの帰国後、紀伊国(和歌山県)由良の西方寺(後の興国寺)の開山となり、入宋中に習得した穀物を材料とした末醤(未醤)の製法を教え、日本人の食生活に欠かせない調味料である味噌・醤油を普及させた始祖とも呼ばれています。また、また尺八を吹きながら旅をする虚無僧(こむそう)で有名な虚無僧宗門(普化宗)の祖でもあります。


妙光寺は、広大な寺域を持った花山院家の菩提寺として栄え、また師継、子の師信、孫の師賢と続く花山院家は、持明院派・大覚寺派の天皇家の継承争いでは、大覚寺派として後の南朝と結び付きます。
こうして妙光寺は、大覚寺派の亀山天皇、後醍醐天皇、後村上天皇の勅願寺となり、その縁で、南北朝の動乱の建武年間には、後醍醐天皇が三種の神器と共に妙光寺に逃れ、また室町時代の足利義教暗殺後の嘉吉年間にも三種の神器が妙光寺に奉安されたため、本堂には「神器の間」があります。(写真)
そして至徳三年(1386)には五山十刹の制度の十刹(等持寺・臨川寺・妙光寺・安国寺・真如寺・宝幢寺・普門寺・広覚寺・大徳寺・龍翔寺)の一つにも選ばれます。しかし、南朝との関係が深く足利政権下で庇護を受けられなかったこともあり、応仁の乱以降の度々の戦乱で荒廃しました。

その後、臨済宗建仁寺派寺院となり、寛永十六年(1639)、中興開山となった三江紹益(さんこうしょうえき)和尚が、敦賀出身の豪商・打陀公軌(うだきんのり 糸屋十右衛門)の援助で再興しました。この時、打陀公軌が再建祝いに俵屋宗達に依頼したのが、国宝「風神雷神図屏風」です。その後「風神雷神図屏風」は妙光寺に伝えられますが、文政期(1818〜29)に本山の建仁寺へ上納されました。
その他、万冶三年(1660)には、妙光寺への後水尾天皇の御幸もあったと伝わります。さらに幕末には、建仁寺の天章慈英(てんしょうじえい)和尚が、妙光寺を勤皇の志士達の密議の場として提供し、天章和尚の工作は明治政府成立の原動力にもなりました。


かつての妙光寺は、内壁に中国渡来の印金裂を総貼りした開山堂があり、別名「印金堂」と呼ばれて広く知られ、与謝蕪村も「春月や 印金堂の木の間より」の句を残しています。しかしこの名所も昭和初期に老朽化によって崩壊し、現在は方丈裏に開山堂を設け開山・心地覚心(無本覚心)禅師像を祀っています。そして、境内の北東のかつての印金堂の跡地には、今も瓦等が散らばっています(写真)また、方丈では当時のものでは無いですが印金裂が展示されていました。

妙光寺は、山沿いのかなり広い境内を有していますが、方丈や開山堂、庫裏等のわずかな建物以外は、本堂跡、印金堂跡、池、応供石(かつての妙光寺八景のようです)が点在している程度です。他には、南北朝時代に三光国師が勧請し、幕末の文久年間に天章和尚が造営した鎮守堂や、南北朝時代に三種の神器が奉安された際に、この井戸水を供えたという甘露水があるだけで、方丈の庭園でさえまだ整備されていない状態です。(特別公開は料金300円で抹茶お菓子付きというのも、見所のないお寺だからでしょう。)




現在の妙光寺で、少しは有名なのは、境内の東端にある小さな墓地にある野々村仁清の墓でしょう。

野々村仁清は、江戸時代初期の慶長頃に丹波の国野々村(現京都府南丹市美山町大野)に誕生したと伝えられ、名を清右衛門といいました。若くして丹波焼きの陶工として、京都に出て東山粟田口で修行を積み、また尾張瀬戸でも数年間技法を学びました。そして、正保四年(1647)頃、京都御室の仁和寺門跡や金森宗和の知遇を得て仁和寺前に窯を築きました。そして、仁和寺の「仁」と、清右衛門の「清」から「仁清」と名乗るようになったといわれます。繊細で優美な仁清の作品は、主に茶道具や懐石道具で、貴族や大名、豪商等に愛用されました。また、弟子のひとりだった尾形乾山にも大きな影響を与えています。ただ、仁清は情報が乏しい人物で、没年も埋葬地も不明です。

妙光寺の墓地には、前にも書きましたが、「仁清之墓」の立て札がある緑系の花崗岩の非常に小さい墓石があります。この墓石はいわばレプリカで、方丈に昭和初期に妙光寺境内から発見された本物の墓石が安置されています。(写真)それまで、仁清が妙光寺に埋葬されたという伝承はあったそうですが、妙光寺の過去帳には仁清に関する記述がない等のため、学会ではこの墓は正式には認められていないとういうことですが。(尚、墓石には没年として「天和二壬戌年(1682)」と刻まれているようです。)

最後に、妙光寺に接する村上天皇陵の参道沿いには、印金堂跡、開山の心地覚心(無本覚心 法燈国師)禅師の墓、また木々の陰には、妙光寺の再建に尽力した豪商・打陀公軌一族の堂々とした墓があります。(写真)

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右京区宇多野馬場町にある光孝天皇後田邑陵(こうこうてんのう のちのたむらのみささぎ)は、第五十八代光孝天皇の陵墓です。
光孝天皇は、前回に採り上げた第五十五代文徳天皇の弟で、その陵墓もそれ程離れていません。文徳天皇陵が丘陵に造られた雄大な天皇陵であるのに対し、こちらの方は住宅地に囲まれていて魅力の点では落ちる印象です・・しかし有名観光寺院の仁和寺の直ぐ南西に位置しているので、仁和寺を訪れたついでに訪問しやすい天皇陵ではあります。



光孝天皇(830〜87 在位884〜7年)は、人生も終わり頃になって偶然、皇位を継承することとなった天皇として知られます。

仁明天皇陵、文徳天皇陵を採り上げた時に詳しく書いたので、ここでは簡単に・・
少し遡りますが、承和九年(842)に絶大な権力を持っていた嵯峨上皇が死去すると、直ちに「承和の変」が起こりました。時の仁明天皇(嵯峨天皇の子)は、謀反人として伴健岑、橘逸勢らを流刑に処し、事件に関係したとして恒貞親王(淳和天皇の子・仁明天皇の従兄弟)も皇太子を廃されました。
この「承和の変」の結果、仁明天皇の外戚・藤原良房は大納言に昇進し、仁明の子・(藤原良房の孫)道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となります。
こうして仁明・文徳・清和・陽成と続く直系相続が行われ、政治の実権は完全に藤原北家の藤原良房、基経が握りました。特に第五十六代・清和天皇は祖父でもある良房によって、第五十七代・陽成天皇は叔父でもある基経によって共に僅か九才で天皇に擁立されるという完全な傀儡だったのでした。

しかし、その後、成長した陽成天皇は次第に摂政の基経と対立し、実権を握る基経によって十七才で退位させられました。陽成天皇は宮中で撲殺事件を起こすほど暴君だったために退位させられたとも伝えられて、後世、暴君を倒した基経は王朝を護った忠臣という評価まであったようですが、現在の研究では、思い通りにならない若年の天皇(実際は幼帝を操る皇太后高子(基経の同母妹ですが)の勢力)を追い落とした基経が、自身の行為を正当化するために陽成天皇暴君説を喧伝させたというのが真相に近いと考えられているようです。



こうして、陽成天皇を退位させた基経は貴族たちと会議を開いて、皇位継承者を探しました。
この時、嵯峨天皇の晩年の子で臣籍降下していた源融(源氏物語の光源氏のモデルともいわれます)は、自分も天皇家の出身だから・・と主張しますが、臣籍降下した者が天皇になるなど前例の無いことであると、基経に直ちに退けられたという話も伝わっています。
他に「承和の変」で皇太子を廃されて出家していた当時五十九歳の恒貞親王(淳和天皇の子)にも皇位を要請して拒絶されたともいわれますが、基経の意中では候補者は既に決っていたようです。
(会議の席で参議・藤原諸葛が剣の柄に手をかけ太政大臣(基経)に異論のあるものはこの場で切って捨てると恫喝したとも伝えられますが、そういう脅しが無かったとしても基経に逆らう者はいなかったでしょう。)

基経は、三代溯って仁明天皇の第三皇子で五十五歳の時康親王を担ぎ出します。
基経と時康親王とは母を通じて従兄弟という関係にあり、すでに老境にあった時康親王は、これまで日々の暮らしにも苦労する程だったとも伝えられ、それだけに倹約を旨とした穏やかな性格だったようです。
こうして即位した光孝天皇は、文事を好んで政治には関心が無く「全てを基経に任せる」と語りました。そして皇位に即けてくれた基経に感謝し、また憚って、即位以前の自分の皇子皇女をすべて臣籍に降下させることまでしました・・これは基経の血を引いていない皇子を皇太子にしないためだったいわれています。
このようにして始まった光孝天皇の治世は、基経が政治の全てを仕切っていたこともあってか大きな事件の無い平和な時代だったようです。しかし、仁和三年(887)、在位三年で天皇は新しい女御(藤原佳美子=恐らく基経の娘)との間に子が無いままに病に倒れ、臣籍降下していた源定省(定省親王、後の宇多天皇)を親王に復位させ皇太子にした後に死去しました。もちろん、定省親王を皇太子に推薦したのは基経で、定省親王が基経の異母妹・尚侍藤原淑子(基経の政治的な協力者でもあったようです)の猶子だったことが理由でした。こうして、基経はさらに次代でも権力を握る事になります・・・。



さて、政治は全て基経に任せて、自身は和歌をよくし文事を好んだ光孝天皇は、後世に一つの大きな遺産を残しました・・即ち、仁和寺の建立です。仁和寺は仁和二年(886)に光孝天皇が大内山の麓に「西山御願寺(にしやまごがんじ)」という一寺の建立を発願したことに始まります。
そして光孝天皇の死後、先帝の志を継いだ宇多天皇が仁和四年(888)に完成し、合わせて光孝天皇の一周忌供養が行われました。西山御願寺は光孝天皇の時代の「仁和」の年号を寺号として定められ、大内山仁和寺(おおうちやまにんなじ)と呼ばれるようになりました。


最後に、光孝天皇の陵墓についてです。元々陵墓は仁和寺の西に位置していましたが、多くの天皇陵と同じく、その後所在が不明となりました。平安時代には百余もの塔頭を持っていた仁和寺が、その後火災と戦乱で衰退したために、陵墓を護持していたその塔頭が失われたことが原因と思われます。
ようやく江戸時代末期に始まった天皇陵の捜査を経て、明治二十二年(1889)に全国の天皇陵を、とにかく急いで地定した際に、現在の場所に定められましたが、実際の埋葬地である可能性は低いと考えられています。


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