京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

花園・等持院・御室・太秦・西院他

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右京区太秦三尾町にある文徳天皇田邑陵(もんとくてんのう たむらのみささぎ)は、第五十五代文徳天皇の陵墓です。
前に、玄武神社の祭神・惟喬親王について書いた時に、親王の父文徳天皇についても少し書きました。文徳天皇は、平安時代に藤原氏によって擁立された多くの天皇の最初期の例という以外に、歴史的にそれ程重要な天皇では無いと思われますが、太秦にあるその天皇陵は見晴らしが良くて、横には文徳池と呼ばれる溜池もあり中々良い雰囲気の天皇陵だと感じます・・・ただし、多くの天皇陵と同じく実際の文徳天皇の埋葬地では無いようですが。


長くなりますが、前に文徳天皇の父の仁明天皇陵について書いた文章を再掲させていただきます・・・
さて、文徳天皇は仁明天皇の第1皇子ですが、父帝の治世に「承和の変」という藤原氏が台頭する切欠となった事件があり、天皇家皇位(王統)の相続形態に変化をもたらした天皇として知られます。


平安京の創始者・桓武天皇の子孫たち、いわゆる桓武朝は、親から子へという直系相続ではなく、兄弟間(また兄弟の子へ)で皇位を譲り合うという王統の迭立が行われたことが知られています。「藤原種継暗殺事件」や「平城太上天皇の変(薬子の変)」等の大きな事件が起こると、結果として一時的に直系相続を生みますが、皇位迭立は存続して、特に嵯峨・淳和天皇の時代の皇位迭立は兄弟間で相手の子供に皇位を譲るという複雑なものになりました。

○桓武天皇(弟・早良親王を皇太子にするも、「藤原種継暗殺事件」に連座して廃位。代わって子の安殿      親王(平城天皇)を立太子)
○平城天皇(弟の嵯峨天皇に譲位)
○嵯峨天皇(甥の高岳親王(平城天皇の子)を皇太子にするも、「平城太上天皇の変(薬子の変)」に連      座し廃位。代わって弟・大伴親王(淳和天皇)を立太子)
○淳和天皇(甥・正良親王(嵯峨天皇の子・仁明天皇)を立太子)
○仁明天皇(従兄弟・恒貞親王(淳和天皇の子)を立太子するも、「承和の変」に連座し廃位。代わって      自身の子・道康親王(文徳天皇)を立太子)

さて、兄の平城天皇から皇位を譲られた嵯峨天皇は、その後、兄の上皇が再び政治的野心を抱いために、これを軍事的に圧倒し兄を出家させます。(平城太上天皇の変(薬子の変))その後、兄弟の対立が王統を危うくしたことの反省か、また自身の子を皇太子にすることを憚ったためか、嵯峨帝は、弟の大伴親王(淳和天皇)を皇太子にします。即位した淳和天皇は、今度は甥にあたる嵯峨の子・正良親王(仁明天皇)を立太子し、即位した仁明天皇は、今度は従兄弟にあたる淳和の子・恒貞親王を立太子します。このように、嵯峨と淳和の兄弟帝は、子の代まで交代に皇位を譲り合ったのでした。
しかし、主に上皇として絶大な権力を握っていた嵯峨帝の意思によって行われたこの相続形態は、嵯峨の死によって脆くも崩れます。

承和七年(840)に淳和上皇が死去、承和九年(842)に、嵯峨上皇が重病に陥ると、有力貴族の後ろ盾のない皇太子・恒貞親王(淳和天皇の子)の立場を危惧した皇太子に仕える伴健岑(ばんのこわみね)、橘逸勢(たちばなのおとせ)らが恒貞親王を東国へ移すことを画策します。しかしこの計画は露見し、嵯峨帝が亡くなると陰謀関係者は直ちに逮捕されました。仁明天皇は詔を発して伴健岑、橘逸勢らを謀反人として流刑に処し、恒貞親王も皇太子を廃されました。
この「承和の変」の結果、仁明天皇の外戚・藤原良房は大納言に昇進し、仁明の子・(藤原良房の孫)道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となります。こうして、兄弟間(また兄弟の子へ)で皇位を譲り合うという王統の迭立は一旦終わって、仁明・文徳・清和・陽成と続いく直系相続が行われます。




「承和の変」は、自身の子道康親王(後の文徳天皇)を皇太子にしたいと内心望んでいた仁明天皇と、道康親王(文徳天皇)に自身の娘明子を入内させて外戚となっていた藤原良房の政治的野心が合致して見事に成功した政変だったともいわれますが、嘉祥三年(850)の父帝の死後、即位した文徳天皇は、当然、自身の即位に力を尽くした良房(太政大臣に昇格)の存在を無視できず、藤原氏の勢力は一段と強まりました。

文徳天皇は、後継者として幼少より聡明だった惟喬親王(母は紀氏の出身)を皇太子にしたいと望んでいましたが、藤原良房の娘明子との間に生まれたばかりの、生後八ケ月の第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)を皇太子にせざるを得ませんでした。1歳にもならない乳児を皇太子としたことは前代未聞のことで、藤原良房の強い圧力があったことは言うまでもありません。

その後も、文徳天皇は、何とか惟喬親王にも皇位を継承させようと考え、藤原良房との間には暗闘があったと伝えられますが、結局、天安二年(858)に三十一歳の若さで死去してしまいます。
こうして、文徳天皇が死去すると、藤原良房は直ちに僅か九才の惟仁親王(清和天皇)を即位させ、完全に外戚として政治の実権を握りました。その後、院政期までの歴代天皇は、僅かな例を除いて外戚の藤原氏の意向によって選ばれることになります。
その後・・
○清和天皇(9歳で即位。藤原良房が実権を握る。子の貞明親王(陽成天皇)に譲位)
○陽成天皇(9歳で即位。藤原基経により退位させられる。)
陽成天皇を退位に追い込んだ藤原基経は、後継者を探して、再び3代溯った仁明天皇の第3皇子を担ぎ出します。この光孝天皇は、「全てを基経に任せる」と語り、基経の権力は絶大なものとなりました。




さて、文徳天皇陵についてです。
文徳天皇が天安二年(858)に亡くなると、山城国・葛野郡田邑郷にある真原岡という丘陵地に埋葬されたと伝わりますが、その陵墓はその後行方不明となりました。
(天皇陵は古代には大規模な古墳として造られましたが、平安時代になると徐々に小規模となり、やがて仏教思想の影響により火葬が取り入れられ寺院内の御堂に納骨されるようになっていきます。こうして小規模になった京都の大部分の天皇陵は、その後の戦乱の中で管理していた寺院が廃絶したり、都市の発展により山陵の周辺地域が切り開かれていくうちに行方不明となってしまいます。)

江戸時代末期、尊王思想の高まりによって歴代の天皇陵を調査する動きが起こり、文徳天皇の陵墓についても幾つかの候補地が考えられましたが、最も有力候補だったのは、それまで地元で文徳天皇の陵墓として言い伝えられてきた「天皇の杜古墳(西京区御陵塚ノ越町。呼び名は文徳天皇陵と伝えられてきたことから名付けられています。 前にブログに採り上げました。)」でした。
しかし、幕末から明治の国学者で、天皇陵修復に努めた谷森善臣(たにもりよしおみ 1818〜1911)の推定によって現在地と定められ、明治になって円丘の陵墓として整備されました。しかし研究が進んだ現在では信憑性に欠けるものと考えられています。

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前回の続きです。

大宝院の見所は、客殿を囲むように広がる庭園になります。
この庭は「露地庭園」といわれています。露地とは茶室に付随する庭のことですが、実用と美を兼ねて造られます。飛び石、延段(小石を集めて通りとする)、垣、門、燈篭、つくばい、袖擦(そですり)の大木、腰掛待合、蔀戸(ししみど)等を配置して構成されますが、茶の庭は、見て楽しむことを主眼とした一般の庭園と違って用と美の適合を厳しく問われるということです。大法院の庭園は外露地、中露地、内露地の三段構成でまとめられて、庭の南東に茶室、その向かい側には待合いがあり、鑑賞と実用の両方で秀でたものになっています。またこの庭は仏教でいうところの「清浄世界」を表しているということで、大法院のパンフレットには、茶道に関わる人だけでなく、誰もがこの庭を通じて、詫び寂び、禅の世界に触れて欲しいと書かれています。


前回に、大法院はそれ程知られていないかも・・と書きましたが、退蔵院等とセットにしたバスツアーもあるようで、私が訪れた際は、一時観光バスの団体客30人ほどが押し寄せ、それほど広くない本堂に座る事が出来ない状態になり、その後も観光客が次々・・。
大法院は、小さな空間でホッコリした気分を味わえる所が持ち味のお寺で、本当は少人数で静かに庭を鑑賞したい気がします。紅葉時期はどの観光名所も同じですが、出来ればこのお寺も早朝から行った方が良いでしょう。

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現在、妙心寺の塔頭、大法院で秋の庭園特別公開が行われています。(11月1日〜30日)
毎年、春秋に特別公開されている大法院ですが、京都の観光情報サイト等にはあまり出てこないので、京都通の方を除けば、ご存知の方も少ないかもしれません。(妙心寺では非公開塔頭が特別公開される機会が度々ありますので、要チェックです。)

抹茶と茶菓子(拝観料に込み)を頂きながら、客殿を囲む庭(少し大原の宝泉院を連想させます)を眺めて心地よい一時を味わえる大法院ですが、やや知られていないと思われるので、2回に分けて写真を掲載します。



大法院は、江戸時代の寛永二年(1612)、松代藩主だった真田信之(大阪の陣で知られる真田幸村の兄)の孫・長姫(信之の長男・信吉の長女で、千種大納言有能(ちぐさありのり)の正室でした。)が、信之の遺命により菩提寺として妙心寺山内に創建した塔頭です。
長姫の夫・千種有能は名僧・一糸文守禅師(いっしぶんしゅ 仏頂国師)と俗縁があったということですが、それとは別に、長姫は妙心寺四派の一つ東海派玉浦下(ぎょくほか)の妙心寺百七十五世・絶江紹堤(ぜっこうしょうだい)禅師に禅を学んでいたことから、その法嗣にあたる淡道宗廉(たんどうそうれん 大転法輪禅師)を開祖としました。院号は真田信之の法名「大法院殿徹岩一明大居士」に因んでいて、松代藩主真田家からは毎年五十石が施入され、藩寺として外護された塔頭でした。尚、真田家の他に長姫の縁で久我、千種、内藤家の香華寺にもなっています。

また、幕末に活躍した思想家・兵学者として知られる佐久間象山(1811〜64)は、松代藩主真田幸貫の儒臣だったため、元治元年(1864)に京都三条木屋町で攘夷派の熊本藩士・河上彦斎らに暗殺された後、この大法院に墓が造られました(墓所は非公開)
元々妙心寺寺四派の東海派に属した大法院は、その後、光国院の梁南禅棟(りょなんぜんとう)禅師が中興して龍泉派に変わり、またこの時に塔頭・盛徳院を併合しています。
成徳院というのは徳川家康の長女・亀姫の法名にあたり、その菩提寺の盛徳院を併合して以来、大法院には亀姫の像「盛徳院殿像」が安置され、本堂に位牌等が祀られています。


方丈の襖絵は、江戸中期に絵師・土方稲領(ひじかたとうれい)が描いたもので、「叭叭鳥図(ははちょうず)」という名前が付いています。
土方稲領は鳥取池田藩に仕えた画家で、雲谷派(雲谷等顔を開祖とする流派。山口毛利家に仕え、その後西日本では狩野派と二分する一大勢力となります。)の系統に属するようです。「叭叭鳥」というのは中国に生息するカラスに似た鳥で、カラスに似た嘴の許に飾り毛があるのが特徴ということです。人の言葉を真似するともいわれ、九官鳥に近い鳥とされます。
「叭叭鳥図(ははちょうず)」は、梅の老木に群がり飛ぶ有様を現していて、禅語の「長空鳥任飛(長空鳥飛ぶにまかす。)」という言葉・・「自らの心境の思うがまま、自由自在の有様」の意を表現したものということです。




次回に庭園の様子を掲載します。

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この夏に「沙羅の花を愛でる会」で訪れた妙心寺の塔頭の東林院ですが、今回は秋の恒例行事となった「梵燈のあかりに親しむ会」で再び訪ねてみました。
(10月5日〜14日、拝観料500円・抹茶600円、拝観時間18:00〜20:30受付終了)

(お寺の沿革は、前に書いた「沙羅の花を愛でる会」の記事を参照ください。)


「梵燈のあかりに親しむ会」は、毎年秋に行われる東林院の夜間特別拝観で、御住職の手作りのあかり瓦「梵燈(意匠登録)」によるライトアップが行われます。
山門を入った前庭、お馴染みの沙羅双樹の本堂前庭、千両の植えられた中庭、そして方丈前の大きな蓬莱の庭に、58灯の梵燈と約200個の小さな瓦、約100本の竹筒に入れられたロウソクが幻想的な(どうも、何でも「幻想的」の一言で片付けてしまいますが)雰囲気を生み出します。まさに癒しの空間です。多くの観光客が訪れていましたが、皆さん、感動されていたようです。夜の写真撮影は難しく、写真は今一雰囲気が伝わりませんが少し掲載してみます。

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右京区花園妙心寺町にある妙心寺の塔頭東林院は、普段は宿坊と精進料理を提供し、観光客は受け入れていませんが、年数回の特別公開を行っています。ちょうど今は「沙羅の花を愛でる会(6月12〜30日。1,580円(抹茶付)、5,565円(抹茶と精進料理)」が行われています。



東林院は室町時代末期の享禄四年(1531)、細川氏綱が管領として知られる父・高国の菩提を弔うために建立した三友院という寺院にはじまります。その後、戦国大名で秀吉や家康に仕えて連歌の第一人者としても知られた山名豊国が、弘治二年(1556)、妙心寺第五十一世・直指宗諤(じきしそうがく)禅師を開山として妙心寺山内に移して東林院と改め、以来、山名家の菩提寺となっています。その後天保年間(1830〜43)に本堂が再建され、平成九年(1997)に本堂解体修理が行われました。
寺宝として、狩野元信筆の細川高国公肖像画や山名豊国ゆかりの鎧や兜等があります。



さて、東林院は、本堂前の庭園に樹齢三百数十年以上の沙羅双樹(夏椿)の古木があることから「沙羅双樹の寺」と呼ばれます。
日本の沙羅双樹はインドのものとは種類が違うようですが、釈迦が入定した際に、いっせいに花が咲き、その死を悲しんだと言われ、古来仏教とゆかりの深い木として有名になりました。「平家物語」の冒頭でも、儚いものの例えとして登場するように、沙羅双樹は梅雨の季節に白い椿のような花をつけますが、朝に咲き夕には散る「一日花」で、梅雨の雨にうたれるとすぐ散ってしまうことでも知られます。古来諸行無常を感じさせるとして茶人や歌人に賞され、今も多くの人がこの季節に東林院を訪れます。お寺では、人の一生も同様に儚いものだから、毎日を二度と来ない一日として大切に過ごしましょうと解説されています。
「沙羅の花を愛でる会」は、昭和五十二年(1977)に第一回が開かれ、以来、「沙羅双樹の寺」と呼ばれる程になりました。この本堂前「沙羅林」の中心となる高さ15m樹齢三百数十年以上の古木は、平成十四年(2002)に周りの環境変化により急激に衰え、手当てをするもついに枯れてしまいました。幸いに古木の結実した種子から二世の若木が残り、平成十八年(2006)に「・・愛でる会」の三十回記念行事として移植されています。尚、住職が元の古木から観音菩薩像、結界、そして大きな数珠を作成されました。(数珠は古木にかけられています 写真)
「沙羅林」には10数本の沙羅双樹が植えられていますが、特に庭の左には樹齢60年程の木は元気で花を散らせていました。
期間終わり頃で花は少ない印象でしたが一見に値します。

今回の公開は「沙羅林」の鑑賞のみですが、他に書院前の枯山水庭園も知られます。こちらは沙羅の世界と対をなす蓬莱の世界を表し、水琴窟(一壷天)の音色も印象的です。春秋に住職手作りの「梵燈」によるろうそくの灯が幻想的な夜間特別拝観「梵燈のあかりに親しむ会」で公開されます。また中庭は「千両の庭」で、赤や黄色の実をつける正月には「小豆粥の会」が催されます。その他、宿坊に宿泊すれば住職手作りの美味しい精進料理を食することも出来、また「精進料理を体験する会」も随時開催しています。





特別公開を楽しみにされている人が多いためか、東林院の「沙羅の花を愛でる会」には連日多くの観光客が集まっているようです。価格は高いですが、抹茶とお菓子(料理も)は美味しいので機会が有れば訪問されてもよいと思います。一年を通して、四季を感じさせてくれるお寺です。


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