京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

花園・等持院・御室・太秦・西院他

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車折神社

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右京区嵯峨朝日町にある車折神社(くるまざきじんじゃ)は、京都の中堅クラスの落ち着いた雰囲気の神社です。特に境内摂社の芸能神社は、多くの芸能関係者が作品ヒット祈願や、芸の上達を願って参拝することでたいへん有名です。




さて、車折神社は、祭神が平安時代末期の高倉天皇に仕えた学者・清原頼業(きよはらのよりなり)というのが珍しいです。菅原道真(天神)など怨霊として恐れたことから神として祀られた人物は御霊神社等に幾人かありますが、学者として業績を称えられて神となった稀有な例と言うことです。(因みに、この珍しい車折神社は日本で唯一ここしかないと言うことです。この神社は、岐阜県各務原市にある同名の神社とは無関係だと強調されています。)

清原頼業(1122〜89)は、天武天皇の皇子・舎人親王の子孫になる清原氏の出身で、一族中からは清原元輔やその娘の清少納言ら学芸に秀でた人物が多かったようです。こうして清原氏は、経書を講じる明経博士の筆頭・大外記(だいげき)の職を世襲しますが、特に頼業は高倉天皇の時代以降、大外記の職を24年間も任め、和漢の学識と実務手腕に秀でたと言うことです。
頼業は文治五年(1189)に死去し、清原家の領地であった現在の車折神社のある場所に葬られました。その後この廟所を中心に頼業の法名「宝寿院殿」に因んだ「宝寿院」という寺院が創建されました。宝寿院は室町時代に至って天龍寺の末寺となったようです。この廟が車折神社の前身で、後に清原頼業の高徳を慕って人々が参詣し、それが発展して現在の神社となったと言うことです。

また頼業は生前に特に桜を愛でていたことから、その廟付近には多くの桜が植えられ「桜の宮」と呼ばれていました。そして鎌倉初期の後嵯峨天皇が嵐山の大堰川に行幸した際に、この神社の前で牛車の轅(長柄)が折れたので、祭神の怒りに触れたのではと考えた天皇は「車折大明神」の神号と「正一位」の神階を贈ったと伝えられ、以後、「車折神社」と称することになったと言うことです。
尚、現在の社殿は、宝暦年間(1751〜63)に造営されたもので、現拝殿は、昭和63年(1988)に新築された銅板葺総檜造の建物で、天井画は山口華楊(やまぐち・かよう)の実兄である画家・山口玲熙(やまぐち・れいき)の作です。






さて、芸能の神として知られる芸能神社は、車折神社の境内摂社の一つで、芸能大神・天宇受売命(あめのうずめのみこと)を祀っています。
 天宇受売命は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天の岩戸に隠れてこの世が暗闇になった際、岩戸の前で演舞して、天照大御神を岩戸から外に導いたことに貢献したことで知られ、以降芸能・芸術の祖神として古来より崇敬されてきました。車折神社では、大正六年(1917)より、祭神の天宇受女命を境内社・地主神社に合祀していましたが、芸能関係者の要請もあり、昭和三十二年(1957)に分祀して創健した神社と言うことです。芸能神社は朱塗りの2000枚以上の芸能関係者の名前が記された玉垣で囲まれていますが、初穂料金1枚8500円(2年間)でプロアマ関係なく芸能芸術に関係される方ならどなたでもと言うことです。

その他、表参道・裏参道周辺には、八百萬神社(神社境内に祀られている以外の全ての神々を祀る)、水神社(水の神・水波能女命(みずはのめのみこと)を祀る)、愛宕神社(火の神・愛宕大神を祀る)、清少納言霊社(清原家一族の清少納言を祀る)、葵忠社(贈従五位福田理兵衛を祀る)、祖霊社(当社歴代の神職と信徒総代等を祀る)、地主神社(嵯峨天皇を祀る)、弁天神社(滄海神社 弁天(市杵島姫命)を祀る)、神明神社(天照大神を祀る)、天満天神社(天満大神を祀る)、清めの社(大地主大神を祀る 写真)等の摂末社があります。
また、早咲きの河津桜(かわづざくら)、画家・冨田溪仙(とみたけいせん)が奉納した「溪仙桜(けいせんざくら)」等の桜が境内を彩り、紅葉の名所でもあります。






また近代日本画の巨匠・富岡鉄斎は、生涯で幾つかの神社の宮司を任めましたが、車折神社の宮司も約6年間任めました。そのため神社には鉄斎の作品が約百余点保管され、作品と愛用の品を春秋に特別公開しています。(現在春の公開中です。3月21〜5月5日まで。拝観料1500円(抹茶・お菓子・解説付き)
その他、車折神社は、学問向上、商売繁盛、事業繁栄、金運財運向上等の万能神として、多くの人々から崇敬を集めますが、江戸時代からの風習として、「祈念神石(きねんしんせき)」という神の石を持ち帰って祀る祈願方法が有名です。お守りと一緒に社務所で社殿前の石を受け取って持ち帰り、願い事が成就するとその石に加え、もう一つ石を拾って倍返しする面白い慣習です。

最後に5月第3日曜には例大祭「三船祭(みふねまつり)」が行われます。昭和御大典を記念して昭和3年(1928)より始められた祭りで、嵐山の大堰川で御座船・龍頭船・鷁首船など20数隻を浮かべて、祭神の清原頼業ゆかりの平安時代の船遊びを再現し、多くの拝観者が集まります。






木々に覆われた落ち着いた境内と芸能神社、桜や紅葉、富岡鉄斎、また付近の方の近道・・・車折神社は色々な見所のある面白い神社です。

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京都で蓮華寺というと、左京区上高野にある観光寺院の方を思い浮かべますが、今回掲載したのは、右京区御室大内、仁和寺の東隣にあるお寺の方です。
正しくは五智山(ごちさん)蓮華寺と言って真言宗・御室仁和寺派の別格本山になり、また近畿三十六不動第十五番霊場でもあります。有名な仁和寺の隣にあってもこのお寺に寄られる方はほとんどいません。しかし、見事な石仏群があり一見に値します。また、土用の丑の日に行われる「きゅうり封じ」でも知られているお寺です。





さて、蓮華寺の創建ですが・・大同元年(806)唐から帰国した弘法大師空海が、北嵯峨の現在の後宇多天皇陵(蓮華峯寺陵)地(右京区嵯峨広沢池の北方)に近い岩屋の中で不動明王を感得してその姿を石に刻んだと伝えられます。これが五智不動尊で、大師は不動尊に諸悪退散・諸病平癒の祈願を込めたと伝わり、これが「きゅうり封じ」の始まりです。

その後、天喜五年(1057)、藤原康基がこの不動像をはじめ阿弥陀如来、観音菩薩等の諸仏を安置して、周防国の鷲頭の庄を寺領として蓮華寺を創建したと伝えられます。やがて徳治年中(1306〜08)、後宇多天皇が中興し蓮華峰寺と改め理趣教の根本道場としましたが、応仁の乱で焼失。後に鳴滝音戸山に移りましたが衰退しました。

江戸時代初期の寛永十ニ年(1635)、江戸材木商の樋口平太夫家次が、五智不動尊の霊夢を見て発心して常信と号し、秩父三十四ヵ所、西国三十三ヵ所、坂東三十三ヵ所を裸足で木食行するなど六年間修行します。そして、寛永十八年(1641)、仁和寺宮覚深法親王(後水尾天皇兄)の庇護により、荒廃していた蓮華峰寺を再興、木食上人但称の造立した石造五智如来等の石仏群像を造立して、五智山蓮華寺と称しました。その後は、乗円や曇寂らの優れた学僧が輩出し、御室御所・仁和寺の下、別格本山として指南役を務めました。
そして、昭和三年(1928)中興第十八世僧正慈海和尚の時代に現在地に移転し、昭和三十三年(1958)、鳴滝音戸山山上に取り残されて損傷していた石仏群が、台石と共に原形のまま境内に移設整備されました。






蓮華寺の境内は、それ程広くないですが綺麗に整備されています。境内東の不動堂には本尊・五智不動尊を祀っています。(写真)境内中心には約2m50cmの大きな五智如来石仏が一列に並び、またその後ろには11体の観音菩薩、地蔵菩薩、僧侶等の石仏が並んでいます。五智如来石仏は砂岩で造られ、右より薬師如来・宝生如来・大日如来・阿弥陀如来・釈迦如来になります。石仏ファンはもちろん、写真ファンにも撮影対象として魅力的な石仏だと思います。

最後に弘法大師が、病苦を和らげ難病から逃れ、丈夫で長生き出来るようにと願を込めて五智不動尊を祀って生み出したと伝わる秘法「きゅうり封じ」です。土用の丑の日、お寺できゅうりに名前、年齢、願い事を書いて(きゅうり一本1000円)、本堂でご住職にお加持をしてもらい、そのきゅうりを持ち帰って3日間朝晩痛いヶ所をさすりながら真言を唱え、4日目の朝に人の踏まない正常な土に埋めるか川に流すという願いがかなうと言うことです。

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右京区竜安寺山田町にある転法輪寺(轉法輪寺 てんぽうりんじ)は、正式名を獅子吼山(ししくさん)転法輪寺、通称を「関通(かんつう)さん」と呼ばれる浄土宗寺院です。
仁和寺の東北にある小さなお寺で、もちろん観光寺院では無く信仰ある参拝者が訪れるのみですが、特徴ある中国風の鐘楼門が目立ちます。





「関通さん」という通称は、江戸時代の浄土宗捨世僧の関通上人が開山のために呼ばれているのですが、上人の「開通」と名は本名では有りません。
開通上人は、元禄九年(1696)に尾張に生れ、幼少より仏教を学んで13歳で剃度し、その後江戸で修行します。享保八年(1723)上人28歳の時、江戸増上寺での留学を終えて故郷への帰路、箱根の関所に来た時に、箱根の関所の通行手形による旅人の往来を見て、人間界の苦しみの関所も、本願念仏の手形があれば必ず脱出できると悟り、「関通」を自身の名としたと言われます。
その後幾つかの寺院の住持となりますが、後に諸国に念仏を広めるために一箇所に留まらない生涯を送りました。そして明知七年(1770)75歳で亡くなりました。
(尚、関通上人は、質素を旨とし念佛一筋を説いたので、この流儀を関通流といい、その好みの佛具(五具足)を関通型と言うそうです。)この転法輪寺は、この開通上人の京都での活動の拠点であり、臨終の地でもあります。

元々、関通上人は、京都洛陽の東三本木の辺りにある轉輪寺(現・上京区東三本木通丸太町上るの円通寺)で念仏道場を開きますが、その後信者の増加により新たな道場を探し、宝暦六年(1756)、阿弥陀様は西方におられるべきとの考えから、西方の北野にあった円通寺(先程出てきた円通寺とは別寺院)という廃寺を譲り受けます。2年後の宝暦八年(1758)、に堂宇を創建し、本尊阿彌陀如来を新彫し開眼供養並を行いました。その後、江戸時代には京都市内の西の果てだった北野も、徐々に町中になったため、大正時代になって、転法輪寺の阿弥陀様は西方におられるべきとの考えから、より西方の御室へと移転することとなったと言うことです。






尚、本尊の木造阿弥陀如来座像は、高さ二丈四尺(約7メートル)あり、光背中央には櫻町天皇の御追福のために納められた鏡が飾られ、胎内には櫻町天皇直筆の御名号や関通上人の御念持佛(阿彌陀如來)一体等が納められていると伝わります。他に阿弥陀如来を安置しています。

また本尊阿弥陀様の真後ろに、子供の姿で裸の阿彌陀如来像が祀られています。この裸形阿弥陀如来像は、高さ約90センチ、名工・賢問子作と伝わり、以下の伝説があるそうです。
第三十五代の女帝・皇極天皇がまだ第三十四代舒明天皇の皇后だった時に、子供が無くて深く嘆いて春日明神に祈って、ようやくその加護よって懐妊しました・・しかし生まれて来るのは皇女だと知り、胎内の皇女を望んでいた皇子へと変えていたただきたいと二十一日間祈願すると、春日明神が皇后の夢に現われました。そして阿弥陀如来の力を借りて願いを適える様にしようと言って、突然光明の中から裸の子供の形をした阿弥陀仏が現われて、皇后の口の中に入った途端いに夢から覚めました。そして無事皇后は皇子を生み、それが第三十八代天智天皇となったということです。皇子誕生を喜んだ皇后が、夢の中に現れた阿弥陀仏を尊像として作らせたものがこの仏だと伝えられます。


さて、転法輪寺のシンボルになっているのが、中国風の鐘楼門です。
楼門の上段には大きな釣り鐘が釣られています。鐘の大きさは高さ九尺(2m70cm))横四尺二寸(1m20cm)あります。この鐘は、宝暦十四年(1764)櫻町天皇の菩提のために造られた名鐘と伝えられますが、現在は大鐘を支える柱の幾つかが歪んでいるために撞くことは出来無いようです。
転法輪寺は普通の小さなお寺ですが、この鐘楼が目立つので採りあげました。

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京都の桜の最後を飾ると言われる「御室桜」です。
少し時期遅れになりましたが、とりあえず少し写真を掲載します。どうしても桜園のあちらこちらから見える五重塔と桜の組み合わせばかりになって新鮮味が無いのですが・・・・(仁和寺の庭園等についても後日アップします。)


仁和寺の桜は、「御室桜」と呼ばれ、国の名勝に指定されている京都を代表する有名な桜です。
その起源は平安時代に溯ると言われ、当時の天皇や貴族らに愛された桜と伝えられます。その後、応仁の乱で仁和寺が焼失し桜も失われますが、寛永年間(1624〜43)徳川家光が仁和寺を再興した際に、かっての歴史にちなんで境内の一部に桜を植えたのが現在の桜の元となったと伝わります。

さて、仁和寺の中門を入ると、左手に桜園があります。
御室桜の特徴は、開花時期が4月20日頃と遅いことと、樹高が2〜3mと低く根元より単弁の香り高い白花を咲かせることです。品種は11品種約200株植えられていますが、その大部分は有明(御室有明)という品種で、この御室の地固有の桜になります。木の丈が低いことから、お多福の鼻(花)が低いことにかけて「お多福桜」とも言われます。


桜の花に埋もれる感覚を味わえるのも、低木の御室桜の魅力ですね。
掲載した写真は今ひとつですが、京都の桜の最後を飾る御室桜は豪華で見応えがありました。

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右京区太秦蜂岡町、広隆寺の東北・太秦映画村の南にある小さな神社が大酒(おおさけ)神社です。
祭神は、秦氏が先祖と称した秦の始皇帝、日本に秦氏を根付かせた弓月王(ゆみづきのきみ ゆんずのきみ)とその孫の秦酒公(はたのさけのきみ)です。
前に秦氏との関わりのある神社「蚕ノ社(木嶋坐天照御魂神社)」を採りあげましたが、この神社も秦氏の氏神を祀る神社として知られます。





神社の伝承によれば、大酒神社は、平安時代の延喜式神名帳の山城国(京都)葛野郡二十座の中に登場し、元は大辟(おおさけ)神社と呼ばれたと記され、大酒明神とも呼ばれていたようです。
「大辟(おおさけ・・・大難(戦乱等)を避ける 「辟」は避けるの意)」と呼ばれたのは、仲哀天皇八年(伝356)、秦の始皇帝の十四世の孫、功満王が中国の兵乱を避け日本に来朝してこの地に秦始皇帝の神霊を勧請したことに由来し、これが故になり「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生れたと記されています。

さらに後に、功満王の子・弓月王(ゆみづきのきみ)が、応神天皇十四年(伝372)に、百済より127県の民衆18670余人統率して帰化して天皇に金銀玉帛等の宝物を献上し、さらに弓月王の孫・秦酒公(はたのさけのきみ)は、秦氏諸族を率いて養蚕を行って絹を生み出し、同じく中国から渡ってきた工女の呉服(くれはとり 呉職とも)・漢織(あやはとり)がこの絹を織って絹綾錦を数多く作り出して朝廷に奉ったと伝わります。喜んだ天皇は、埋益(うずまさ)と言う言葉で酒公に「禹豆麻佐(うずまさ)」の姓を賜ったと言われます・・・これと同様な伝承は、秦氏関係の寺社の創建物語では必ず登場してきますね。






渡来系氏族の秦氏が、日本に養蚕や土木、酒造その他数多くの最新技術をもたらしたことの影響の大きさが、このような伝説を生んだと思われますが、日本に大陸の先進文明を輸入するのに大いに功績があったことから弓月王、秦酒公、そして秦氏の先祖・秦の始皇帝が祀られるようになったと言うことです。
また江戸時代までは、絹を織り成した呉服(呉職とも)・漢織を祀る神社が側にあったようですが、江戸時代の明暦年間(1655〜57)に破壊したために大酒神社に合祀したと伝わります。(呉織女=兄媛命(えひめのみこと)、漢織女=弟媛命(おとひめのみこと))
尚、大酒神社という社名は、秦酒公を祀ることから後に「大辟(おおさけ)神社」から改称したと言うことです。

その後も秦氏の活躍は大きく、推古天皇十一年(603)に、広隆寺を建立した秦河勝は、秦酒公の六代目の孫でした。大宝元年(701)に子孫の秦忌寸都理(はたのいみきとり)が松尾大社を建立、和銅四年(713)には秦伊呂具(はたのいろぐ)が伏見稲荷大社を建立しました。また平安遷都も京都に地盤を持つ秦氏の存在が大きく関わっていたのでした。
こうして、古代の京都一帯から、さらに畿内〜日本全国に大陸文明文化を伝え発展させた秦氏の影響力には驚かされます。言わば古代日本の文明化を担った氏族とも言えます。





さて、大酒神社は、その後広隆寺が建立されると、広隆寺内の桂宮院(国宝・特別拝観あり)境内に鎮守社として祀られ、治暦四年(1068)に神階は正一位となります。
その後、明治初年の神仏分離によって、神社は現在地に移されました。また京都三大奇祭の一つの「広隆寺の牛祭」は、以前広隆寺にあった大酒神社の祭礼と言うことです。

大酒神社は現在は立ち止まる人もいない様な小さな神社ですが、歴史ファンには古代秦氏族の祖神として注目されている場所ですね。


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