京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

花園・等持院・御室・太秦・西院他

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双ケ岡(雙ケ岡)その1

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仁和寺の南、妙心寺の西に広がる小丘は、雙ケ岡(ならびがおか 現在は、「双ケ丘」が一般名称です。)と呼ばれ、国の名勝に指定されています。



北から南に向かい、次第に低くなる三つのお椀を伏せたような形の丘(古生層の独立丘陵)で、北から一の丘、ニの丘、三の丘になります。南北約700m、東西約170〜350mあります。

今回は歩いているうちに接近し過ぎて、双ケ岡(雙ケ岡)の遠景は撮れませんでしたので、代わりに案内板の写真を掲載します。(機会があれば、遠景を追加します。)
この特徴ある優雅な姿は、古くから数々の詩歌等に詠まれてきました。鎌倉時代に「徒然草」を著した吉田(卜部)兼好が庵を結んだという伝承もよく知られています。また一の丘頂上などからの眺望はすばらしく、街中にある丘なので、山道もそれ程荒涼とした寂しさは感じません。散策や森林浴などにも良い都会のオアシスのような場所でもあります。





さて、一の丘に登ります。やや急坂ですが、大文字山等と比べるともちろん楽勝です。昨年、上高野の崇道神社裏山の小野毛人(おののえみし)の墓まで登った時、一乗寺の石川丈山の墓まで登った時と、同程度の疲れという感じです・・といってもわからないことと思いますが^_^;
頂上は標高116m、ここが双ケ丘の最高地点で、周辺の眺望がやはり素晴らしいです。
特に北側は少し木々が多いですが、仁和寺の境内が見えます。よく写真に登場するのはこの場所からの撮影のようです。(写真)





この頂上付近には、「右大臣贈正二位清原真人夏野公墓」という石碑があります。(写真)
清原真人夏野(清原夏野)は、平安時代初期の貴族で、天武天皇の皇子舎人親王の曾孫で、繁野王と称していましたが、後に「清原真人」の姓を賜って臣籍降下し、清原氏の始祖となった人物です。
この双ヶ丘周辺は風光明媚なため、平安時代には貴族の別荘が幾つか造られました。清原夏野も、双ヶ丘に山荘を持ったことから、「双岡大臣」の異名があったようです。そして、夏野の死後この地の一角に建てられた双丘寺が、後に現在の法金剛院となっていきます。この石標は墓の位置を表示しているのではなく、双ヶ丘が夏野の別荘地でこの地で亡くなったことを示しているだけのようです。




本物の歴史的な遺構としては、一の丘頂上には、古墳時代後期(6〜7世紀)の豪族首長の古墳があります。(写真)
この一号墳は、奈良県飛鳥の石舞台古墳に匹敵する大きさで、この地を治めた秦氏の墓と考えられています。一の丘山頂付近で南西方向に開口していて、昭和55年の発掘調査により、巨石を使用した横穴式石室をもつ円墳であることが判明しています。規模は直径約44メートル、高さ約8メートル。石室の全長14.6メートル、羨道(長さ8.5m、幅2.4m、高さ2.3m)、玄室(死者の棺を安置する所。長さ6.1m、幅3.6m、高さ5m)で、遺物として金環、須恵器、土師器、鉄製品、石棺の破片などが出土しています。


今度はここから二の丘に向かいます。(写真は1の丘を降って二の丘を眺望した風景)

次回に続きます。

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右京区花園の妙心寺から御室の双ケ岡(雙ケ岡・ならびがおか)に向かいました。
その途中の小さな史跡を少しだけ・・。




今宮神社といえば、大徳寺の北にある有名な神社を思い出しますが、花園にも今宮神社があるのを知ったのは、昨年、法金剛院を訪ねた時でした。こちらは小さな神社ですが、少しだけ寄ってみました。(写真)

この今宮神社は、素戔嗚命(すさのおのみこと)を祭神とする御霊社で、元は花園社等と呼ばれていたようです。平安時代末の三条天皇の時代、長和四年(1015)に託宣により疫病流行を鎮めるため創建されたと伝えられ、この時には疫病を逃れようとした群衆が集まったとも伝わります。その後、後霊泉天皇の永承七年(1052)に再び疫病が広まり御霊会を行った記録があるようです。
その後、法金剛院や仁和寺の鎮守社となりましたが、明治の神仏分離により、厄除神今宮大名神として、現在は花園・安井一帯の産土神となっています。
現本殿は大型の一間社流造で、寛永二十一年(1644)に、仁和寺第二十一世覚深法親王が徳川家光の援助の元に、仁和寺の寛永再興の一連として造営したもので、仁和寺寛永再興の規模を知る上で貴重な遺構ということで、京都指定文化財になっているようです。(尚、現在の建物は、昭和三十五年(1960)、四十一年(1966)、五十三年(1978)に修理されています。)




今宮神社の前には、上西門院(鳥羽天皇と待賢門院の娘、統子内親王)の御陵「花園東陵」があり、さらに、法金剛院の裏山になる西側には、鳥羽天皇の皇后・待賢門院璋子の御陵「花園西陵」(写真)、江戸時代の諸皇子の御陵「仁和寺宮墓地」などがあるようです。

私は、この辺りはあまり知らない地域なので、少し周辺を散策していると、「向阿上人終焉の地」の石標があります。向阿上人・・・このブログに前に書いた、清浄華院の事実上の開祖として知られる鎌倉時代末の名僧、証賢上人(1265〜1345)のことです。この向阿上人の終焉の地は西光庵という浄土宗寺院で、上人の墓があるようですが、観光寺院では無く非公開です。(写真)





さらに双ケ岡中学校の北には、長泉寺があり、門の前に「兼好法師旧跡」の石標があります。(写真)
この地域は双ケ岡(雙ケ岡)の麓になり、吉田(卜部)兼好は、晩年に双ケ岡の二ノ丘西麓に草庵を結んで、「徒然草」を著したと言われ、この石標はその庵跡を示すものです。また長泉寺境内には兼好の墓があります。(吉田兼好は、これまで伊賀で亡くなったというのが通説でしたが、双ケ岡(雙ケ岡)で死去したという説もあり、伊賀で死んだ後、墓を本人が希望した双ケ岡(雙ケ岡)に移したの等も説があるようです。)
それはともかく、双ケ岡(雙ケ岡)西麓辺りあった墓を、江戸時代の宝永年間(1704年頃)にこの長泉寺に移したと伝えられています。また長泉寺には兼好の木造や、直筆の歌集や徒然草が納められています。普段非公開ですが、事前に連絡を取る事で、墓や寺宝を拝見させていただくことも可能なようです。



次回は、双ケ岡(雙ケ岡)です。

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前回の続きです。


退蔵院の寺宝としては、室町時代の山水画の元祖とも言われる禅僧・如拙(じょせつ)が描いた有名な国宝「瓢鮎図(ひょうねんず)」があります。
退蔵院の最高の寺宝ですが、京都国立博物館に寄託されているので、レプリカが方丈前に展示されています。(写真)レプリカではありますが、繊細な線のタッチは感じられます。(京博では「雪舟展」とか「美のかけはし展」等で展示していて、私も本物を見る機会があったのですが、機会があれば是非本物をご覧ください。)




さて、「元信の庭」の後は、もう一つの庭園が待っています。
小さな露地門を潜ると、回遊式庭園「余香苑(よこうえん)」が広がります。まず中央に枝垂れ桜を配し、右手に灰色砂の「陰の庭」と、左に白砂の「陽の庭」という2つの彼山水庭園があります。
桜の後ろには羅漢石のある築山、そして東屋(あずまや)があり、清水が滝(竜王滝)から流れ入る広い池(瓢箪池。瓢鮎図から採られた)が広がります。名勝庭園「元信の庭」をチラ見で後にした人も、このわかりやすい大きな庭には大いに満足されるようです^_^;

この広い庭園は、明治の小川治兵衛(植治)、大正・昭和の重森三玲と共に現代を代表する作庭家・庭園研究家の中根金作の設計によるもので、昭和三十八年(1963)に着工し、3年の年月を経て完成したものです。
尚、京都に残る中根金作の庭園としては、前回に登場した妙心寺の大心院庭園、南禅寺の天授庵庭園、御香宮神社庭園、城南宮の楽水苑、二条城の清流園庭園、大徳寺の芳春院庭園(前に登場しました)などがあります。




この余香苑は、やはり中根金作の代表作のひとつで、伝統的な回遊式庭園の手法に色々なアイデアが取り入れられているようです、特になだらかな傾斜に清流を流し周囲に高い樹木を配置することで、正面から庭園を見渡すと、遥かな丘から川が流れてくるような実際以上の奥行きを感じ、庭園全体を広く見せる効果を上げています。そして周辺には四季折々の花が咲き、桜、藤、サツキ、ツツジ、紫陽花、蓮、紅葉等が楽しめます。庭園内の茶室・大休庵で抹茶を頂きながらゆっくりきれいな庭を鑑賞することができます。
また、庭園には、水琴窟もあり澄んだ音を楽しめます。(京都寺院にある「水琴窟」の中でもやや地味な印象)その他、かくれ茶室「囲いの席」もあり、普段は非公開ですが、特別公開されることもあるそうです。




禅宗寺院の中の塔頭というと、修行の場として重々しい雰囲気を思い浮かべますが、退蔵院は開放的な回遊式庭園「余香苑」を持つことで観光寺院化してきたのでしょう。この一般受けする現代庭園は、古風な「元信の庭」の対比としても面白く感じます。観光寺院として押さえるべきツボを押さえたような退蔵院は、京都初心者にもリピーターにも親しみやすいお寺ですね。

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妙心寺の塔頭・退蔵院は、狩野元信による名勝庭園、如拙筆の国宝「瓢鮎図(ひょうねんず)」、中根金作の現代庭園「余香苑」等で知られています。2回に分けて掲載してみます・・今回は名庭として知られる「元信の庭」を中心に書いてみます。




退蔵院は、室町中期の応永十一年(1404)、幕府評定衆を務めた越前の豪族・波多野重通が、妙心寺第三世・無因宗因(むいんそういん)禅師に帰依し、禅師を開山として千本松原に創建したと伝わります。当時、妙心寺は、大内義弘が起した応永の乱(1399)の際、将軍足利義満から大内氏と関係を疑われて弾圧を受け、寺領を没収され名を竜雲寺と変えられていました。その後、永亨四年(1432)以降に、第七世・日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)禅師が寺領の返還を受け再興に取り組みます。退蔵院は、この復興の過程で妙心寺山内に移設され、その後、応仁の乱で妙心寺と共に焼失しますが、中興の祖・妙心寺三十四世亀年禅愉禅師によって現在の地に再建され今日に至ります。

本堂(方丈・玄関)は慶長七年(1602)頃の建築で、国の重要文化財に指定されていています。(玄関は江戸初期に富豪比喜多宗味より寄進されたものということです。)本堂中央には、本尊の観世音菩薩と開山の無因禅師像が安置され、桃山時代の狩野派の画家、狩野了慶の筆による五十一面の襖絵、杉戸絵十面があります(その内、杉戸十面は川面稜一氏による模写復元です。)なお本堂は昭和四十七年(1972)から解体修理され、昭和五十年(1975)に竣工したものです。また表門(四脚門様式)は江戸中期の建物です。
方丈内は通常非公開ですが、特別公開の際に公開されます。





さて、退蔵院の庭園としては、まず方丈の前の庭園があります。室町時代の狩野派の画聖・狩野元信が最晩年に作庭したと伝えられ、通称「元信の庭」と呼ばれています。京都屈指の名庭のひとつとして史蹟・名勝に指定されています。

方丈の西と南に面して作庭され、南側の庭は一面に苔のある平坦な敷地にアカマツを植栽しただけの簡素なもので、禅宗寺院の方丈前庭に多く見られる形態のようです。
西面の庭は枯山水様式で、絵画的な風景を枯山水で表した鑑賞庭園です。枯山水庭園は、一般的に禅僧や造園家が作庭することになっていますが、この方丈庭園は、珍しく狩野派の画家(元信)が作庭しているということで、方丈の部屋から鑑賞すると「生きた襖絵」になるように工夫が施されていると言われます。私は学生時代に方丈の障子を開けて鑑賞する機会がありましたが、通常は方丈内には上がれないため、今回は斜め横からの鑑賞になります。

実は、学生時代に見た印象としては、予想外の小ささと、石組と刈り込みの配置バランスが私の理解を超えていて、期待はずれの印象だったのですが、今回再見すると、その後、多くの庭を繰り返し拝観しているためでしょうか・・特に石の数や配置の重要性に気付いてきたためか、この庭はやはり京都を代表する名庭だと感じました。
竹林と木々を背景とする50坪程度の狭い空間ですが、かってはこの場所から「双ヶ丘」が眺められ、「双ヶ丘」を借景とした奥行きを感じさせる庭だったとも考えられています。
まず目に付くのは、池の中央部に大きな亀島で、石組と刈り込みにより、本物の亀の姿を感じさせます。少し離れた西側に三尊石、南西部に蓬莱島、すぐ手前は鶴島になり、北西部の築山の奥には立石による枯滝があり、そこから栗石を敷いて渓流を表現し、大海に流れ込む様子を表現しています。細かく見ると、中島の岬には二ヶ所の石橋が渡されていて、繊細な造形がわかります。
京都の庭に関する本で、この庭の実測図面を見たことがあるのですが、この無造作に置かれたような多くの石が、上から見ると計算された位置に置かれ完結した空間になっていることがわかります。だから本当は書院の部屋から眺めたいです。




この庭は、見た人に印象を聞いてみたい庭でもあります。以前、私もそうだったのですが、数多い石の配置は、わかりやすい現代庭園に慣らされている感性を超えている所があり、なぜここにこの石が置かれているのか?と色々考えさせてくれる楽しい庭です。現代人が(退化させて?)失ってしまった絵画的想像力を試しているようなところがあり、芸術に関心のある方には必見の庭だと思います。
どちらかといえば、我々は雄大な池泉回遊式庭園に開放感を感じ、竜安寺の枯山水庭園のようなシンプルな空間美を好みますが、「元信の庭」は、狭い空間を最大限に生かしていて、枯山水庭園としては竜安寺庭園の対極とも言える芸術的な名庭です。



次回に続きます。

大心院(妙心寺塔頭)

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妙心寺の塔頭・大心院は、宿坊として広く一般に開放されているお寺です。
また、本山妙心寺の他に通常一般公開されているのが、塔頭の退蔵院、桂春院、それとこの大心院しかないことを思えば、非常に貴重な存在です。退蔵院や桂春院のような名勝指定の名庭が無く、文化財的には3番手扱いのような気もしますが、親しみやすい雰囲気のお寺だと思います。




さて、大心院は、文明十一年(1479)、室町幕府の管領・細川政元が上京区大心院町(清蔵口 烏丸通と堀川通の間 一般に西陣と言われてる地域)に、妙心寺十世・景川宗隆(けいせんそうりゅう・本如実性禅師)を勧請し、その弟子の景堂玄訥(実相無相禅師)和尚を実際の開祖として創建したと伝わります。歴代住持は優れた人物が多く、第二世・明叔慶浚和尚も、甲斐の武田信玄に請われて恵林寺の住職にもなったことでも知られる名僧でした。

その後、戦乱の中で荒廃しますが、天正年間(1573〜91)、第五世・芳沢祖恩和尚の時、細川藤孝(幽斎)が、妙心寺山内の現在地に移し、妙心寺塔頭として復興、その後も藤孝(幽斎)の子の忠興(三斎)や蒲生氏郷をはじめとする蒲生家からも庇護を受けて発展します。
東京高輪の東禅寺(とうぜんじ)の開祖でもある第七世・嶺南崇六(れいなんすうろく)和尚(嶺南和尚の名に因んだのが、いつしか嶺が霊となった港区の霊南坂です。)も優れた人物ですが、現在の大心院の本堂は、寛永十一年(1634)、蒲生氏郷の孫の忠知が、この嶺南崇六に帰依して建立したものです。(尚、登場した住職の幾人かは、龍泉菴の時にも出てきました。大心院は龍泉派に属します。)

その後、幕末まで本山妙心寺の役寺を務めていたようですが時代を経るごとに衰退し現在に至ります。近年ようやく本堂、書院、霊屋、表門が京都府指定の登録文化財になりましたが、国の指定は無く、本堂修復のための国の補助金が無いため改修費用を自力で集めなければならず・・と案内板に書かれていました。それで宿坊などで頑張っておられるのかもしれません。





建物は、寛永年間に建てられた本堂と玄関、龍泉菴から移されたと伝えられる同時期の表門、明和五年(1768)建立の書院があり、また寛文六年(1666)に建立された祖堂は、その後まもなく本山妙心寺に売却されましたが、平成十五年(2003)に再び返却されたものということです。
寺宝として、鎌倉時代の李龍眠様(りりゅうみんよう。中国宋代の画家・李公麟による仏画様式)の「羅漢図」(重文)や友清の白衣観音、小栗宗丹の中国故事人物図等を所蔵しています。

大心院の庭園は、昭和四十年(1565)、昭和を代表する作庭家の中根金作が、前年の同じく妙心寺・退蔵院「余香苑」に引き続いて作庭したもので、山門を潜ると、開放的な前庭が広がります。(写真)本堂の前の方丈南庭も、土壁を背景に、祖堂に続く石畳と白砂、苔が並行して中々面白い庭です。(写真)また書院(旦過寮・宿坊)前の西側にも、一段高くなった白砂が広がる枯山水式庭園があります。

そして、一番有名なのは、書院(旦過寮・宿坊)の南にある方丈東庭で、「阿吽庭(あうんてい)」と呼ばれています。(写真)石で菩薩を象徴した第2の本堂ということです。
長方形の地割の中に、東南隅に築山を設け、苔と多くの木々が植えられています。築山の中心には三尊石組が置かれ、その周辺にも数個の石を配置し、築山の下部には白砂に州浜形の曲線を描いて波を表現しています。苔と白砂、また五色の色の違う全部で17個の岩との対比が美しい枯山水庭園です。
その他、方丈と書院との間にある坪庭には、立派なキリシマツツジが植えられて、4月下旬頃に赤い花を咲かせるそうで、お寺のパンフレットの表紙にも写真が掲載されています。





大心院といえば、京都らしい宿坊体験ができる場所としても知られます。
妙心寺では古くから、全国各地に流派を広げてきましたが、この全国の数多くの妙心寺派の寺院の僧侶が、本山妙心寺に出張・出仕の際は、塔頭寺院を宿舎とし、塔頭では宿泊する僧侶の世話をしていたそうです。
また行脚の雲水にも一夜の宿を提供していて、その部屋を「旦過寮(夕方に到着し明日に去るの意味)」と言ったそうです。これが妙心寺宿坊の原型のようですが、この形を留めているのは今では大心院のみになっています。大心院では、近世以降は檀家信徒のお参りにも使用されるようになり、現在では広く一般にも利用できるようになっていて、団体での座禅、法話、企業研修、ゼミ、同窓会、結婚式等でも利用されているということです。

私も滋賀と奈良、それと高野山でお寺に泊まった経験はあるのですが、地元京都では無いので、他の方の情報も参考にさせていただきました・・・大心院の宿坊ですが、まず、電話で空き部屋を確認した上で、往復ハガキで申し込むようです。一泊の朝食付きが基本ですが、夕食の精進料理についても要相談で可能ということです。部屋はきれいで風呂とトイレは共同、午後10時に消灯のようです。翌朝は午前6時から、清々しい空気と光の中で本堂で朝のお勤めがあります。形式はご住職のお話を聞く形で行われ、参加は自由のようですが、これを聞かないとせっかく宿坊に泊まった意味は無いような感じです。

大心院は、玉鳳院や微笑塔(開山堂)という妙心寺山内の最も重んじられ特別視される場所の一画にあるので、由緒ある場所に泊まる体験も良いかもしれませんね。

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