京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

花園・等持院・御室・太秦・西院他

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等持院2

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等寺院の続きです。

西庭の茶室清漣亭から芙蓉池庭を眺めてみます(写真1、2)
この清漣亭から眺める景色もいい感じですね。当時は茶室の窓から衣笠山の風景が眺められたようで、将軍義政もここでほっこりしてたのかもしれません。



さらに、等持院で有名なのは、歴代の足利将軍の木造ですね。(写真4、5)

等持院は足利将軍家の菩提寺のため、境内の霊光殿には足利尊氏が念持仏としていた本尊の地蔵菩薩像、達磨大師像と夢想国師像が正面に、さらにその左右には、足利歴代将軍像と、徳川家康像が安置されています。
歴代将軍の姿は、生前の似絵(一筆書きの似顔絵のような感じ)に基づいて作成されて、生前の姿に近いと思われます。痩せたお顔や太ったお顔・・実に各人特徴があり興味深いです。
(この霊光殿内も写真OKです。)


尚、5代足利義量と14代足利義栄の像はありません。(京都通なら知っておきたいネタです)

5代義量は、父4代義持から将軍位を譲られるも2年後父より早く18歳で死去した、ほとんど存在感の薄い実権の無い将軍だったためでしょうか。
また、14代義栄は、三好、松永氏により擁立されるも、信長に支援された義昭に先に入京され、慌てて阿波に逃れて死去した人物で将軍の実績が無い簒奪者扱いされているからでしょう。

また、境内には足利尊氏の墓と伝えられる宝匡院塔があります。(写真6)



等持院は、竜安寺や金閣寺と近いため合わせて見られる方も多いと思います。
この日も数組の拝観者が来られていました。交通の便も良く、夏場でもまずまずの観光客のある(詩仙堂などと同クラスのような感じです。)お寺だと感じました。



学生時代のサークル仲間の評判では、竜安寺とセットで見る場合が多く、竜安寺と比較して少し深みの無い庭という低い評価でしたが、紅葉の時期は素晴らしく、また夏場でも落ち着いた雰囲気を十分楽しめる良い寺院だと思います。
堅苦しい雰囲気は無く、京都入門編としてもぴったりです。



私は、等持院には、これまで、金閣寺方面から、「きぬかけの道(衣笠宇多野線)」経由で竜安寺とセットで訪問してきました。また、北野白梅町から京福電車北野線を使うこともありました。

今回、白梅町から歩いて10分程で、等持院、さらに、そこから竜安寺、妙心寺、仁和寺と簡単に歩けることを知りました。何だこんなに近いのかという感じです。
これならもう少し散歩気分で色々行けそうです。

等持院1

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前回の達磨の絵のお寺は、等持院でした。

等持院は学生時代含め少なくとも3回以上は来ているように思います。

学生時は、仏像や建築より庭園に興味があり、庭園で有名な寺院では、天龍寺、竜安寺、南禅寺、智積院、詩仙堂、曼殊院、三千院等が好きでした。等持院もお気に入りの寺院のひとつでした。



等持院の沿革を少し・・
足利尊氏は暦応二年(1339)に、室町御所近くに等持寺という禅宗寺院を創建し、その2年後の暦応四年(1341)に天龍寺の夢窓国師を開山としてその別院の北等持寺を開きました。
北等持寺は、足利尊氏の死後、その墓所となって、名を等持院と改め、禅宗十刹の筆頭寺院となります。その後、応仁の乱で焼失した等持寺と合併され、足利将軍家の菩提寺となりました。

その後の等持院は、応仁の乱以降の戦乱により堂宇は焼失し、豊臣秀頼らが再建。その後も改築が加わり、現在の方丈は、元和2年(1616)福島正則が妙心寺塔頭から移築したものです。
南庭に沿った方丈縁側は鶯張りで、歩くと良い音で鳴ります。




庭園は、夢窓国師作と伝えられる室町時代のものです。

西庭は、衣笠山を借景とし、芙蓉池を中心とした池泉回遊式庭園です。
足利義政時代の長禄元年(1457)寺院を復興した際に、池の北側に茶室清漣亭が加えられ「義政好み」と呼ばれるものになりました。その後も方丈焼失の復興により、石組なども改造されてきているようです。庭には椿、さつき、くちなし、芙蓉等の様々な花が植えられた華やかな雰囲気を楽しめます。


残念なのは、現在は、立命館大学の校舎のため、借景となる衣笠山が見えない事で、
庭に少し奥行きが感じられないことです。
もし衣笠山まで遥かに見渡せればこの庭はより素晴らしい印象になっていたでしょう。
(写真4、5)



一方、東側の池泉廻遊式庭園は、夢窓国師による創建時の雰囲気を維持しています。
心字池(心という字をかたどって作られた池庭)を中心に中ノ島を浮かべた静かな雰囲気で、西庭の派手さは有りませんが、心静かな気持ちになります。(写真5、6)


次回に少しだけ続きます。

桂春院(妙心寺塔頭)

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大学時代の思い出ですが、大学1回生の時、友達作りを兼ねて幾つかのサークルを掛け持ちしていました。でも、夏休み頃になると、各サークルの合宿が重なって金銭的にもピンチとなり、その年の暮れには自然淘汰されていきました。そして最終的に残ったのが、毎週、京都の史跡を研究探訪する少しヤワなサークルです。
私は京都生まれで、歴史好きでしたが、それまで普通の高校生らしく、お寺には興味が無かったので、近くの銀閣寺ぐらいは知らないとマズイかな?という程度で、大学で知り合った同じ学部の友人と、部室を訪ねたのがきっかけでした。

このサークル、系列女子大と合わせて200人以上の大サークルで、大きな組織を維持するためにも、リーダーを選挙で選ぶようなお堅いところもありました。
6〜7班体制で、1回生から4回生までを班分けして、1年間は各班単位で活動するというもので、リーダーは各班の3回生の代表で、どのお寺に行くかは、班の2回生が交代で決めることになっていました。
2回生は、毎週金曜日の夜、大学教室を借りて、翌日に行くお寺の歴史・沿革をレジメにして班メンバーに配り、約1時間の歴史や文化的なテーマ討論を司会運営します。
そして土曜日昼頃に、京都御所に集合して各班毎に各お寺を訪問するのです。3回生はお目付け役といった感じで一番楽しい時代です。就職活動中の4回生も気分転換に時々顔を出したりしていました。

お寺を見た土曜日夜は、3週間に一度はコンパで盛り上がります。
その他、仲間の誕生会をしたり、夏の全体合宿で長崎、鎌倉、金沢などの史跡を訪ねたり、秋の大学祭で模擬店を出したり、追いコン、他にも琵琶湖や伊豆の貸し別荘泊まり、滋賀や奈良の山のお寺の宿坊経験。冬は、京都の冬の旅という観光アルバイトもやって、サークル員はあちこちのお寺で観光客にお寺の説明をしたりしていました。
他に全員、毎週の同人誌を発行する出版委員会、大学祭(EVE祭)の企画運営委員会、それに何だっけ?スポーツ大会とか合宿を企画する・・何とか委員会というのに参加したりしていて、とにかく何やかやで忙しかったです。(学校行っているのに授業に出なくて、おかげで一般教養の単位を落としました。)

さて、サークル活動を真面目にやっていると、京都(奈良、滋賀少し)の観光寺院は、ほとんど4回生までに何度も行くことになりました。
いくら京都の観光寺院が多くても、毎週どこかへ行くわけで、毎年班分けが替わるごとに、新しい2回生が行き先を決めるので、同じ寺院に行くことにもなってしまいます。
私も3回生になると、「またかよ〜。去年も行ったとこだよ。他に行くとこ無いのかい。」とか、訪問場所を決めた2回生にボヤキながらも、楽しく参加していました。





前置きが、長〜くなりました。


今回は、そんなサークル活動で行ったはずなのに、まったく記憶から抜け落ちていた寺院・・妙心寺の桂春院です。


大体、大徳寺や妙心寺、東福寺といった京都の禅宗大寺の中にある小さな塔頭というのは、似たような感じのお寺が多く、名前も似ているので混同してしまうことがあります。
こういった小さなお寺の良さっていうのは、年齢と共に段々わかるようになるものかもしれません。
他に忘れていたのは、大徳寺の瑞峯院でした。
常時公開されている大徳寺の大仙院、高桐院、龍源院、それに芳春院(呑湖閣や前田家のまつ様で知られる芳春院もその頃は一般公開されていたと記憶しています。)は、好きな塔頭で覚えていたのですが、瑞峯院は大学時4回も行っているはずなのにイメージが出てきませんでした。
よほど相性が悪いのか??
さて、サークル活動4年間で、大徳寺の瑞峯院と並んで、一番忘れていたのが、妙心寺の桂春院です。
妙心寺の一般公開されている塔頭では、退蔵院はかなり覚えていて、大心院は少しだけ・・桂春院はどんなお寺だったか、まったく思い出せません。
それで気分が悪いので、行ってきた次第です。



訪問した際は、妙心寺本堂では、ちょうどお盆の法要が行われていて、桂春院では訪問者は私1人でした。
この時期、本堂周辺の修理や庭木の手入れをしているお寺がいくつか有りましたが、ここも天井から少し音がして屋根を修理しているようです。


桂春院は、織田信長の長男信忠の次男、津田秀則により大徳寺内に創建され、その後、秀吉の家臣で長浜城主だった石川貞政(1575―1657)が、関が原以降、徳川家の直参旗本になり、寛永九年(1632)に亡父の追善供養のため現在の建物を建造したものだそうです。

狩野山雪の襖絵、茶室の既白庵などが見所で、特に、清浄、思惟、真如、侘の4つの庭が夫々の趣を感じさせます。特に真如の庭の手前のツツジの刈り込みが、夏の日差しで金色に輝いて見えます。
この黄金色・・・・今年の夏の思い出の色になりそう。
侘の庭は、茶室への路地庭ですが、狭い空間をうまく利用して良い雰囲気です。


なるほど、忘れてしまうような特徴の無い雰囲気もあり・・それでも少しずつ思い出してきました。
あの時は、なんとなく見回って出てしまったような。
今度は忘れないように、庭をあちらこちら撮影しました。もう忘れる事はないと思います。

写真は、真如の庭、侘の庭です。

法金剛院

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今回は法金剛院です。


法金剛院は、律宗の唐招提寺に属しているお寺です。(そういえば、この前の壬生寺もそうでした。)
関西花の寺25寺霊場会にも入っていて、(京都市内では法金剛院のみ)世界から集められた蓮で非常に有名なお寺ですね。
毎年7月〜8月上旬には、池中や鉢に植えられた蓮の花が境内を埋め尽くしてこの世に極楽浄土を再現した見事さです。今回訪問した時は、少し終わり頃でしたが、なんとか間に合ったようです。また春は枝垂桜、秋の紅葉も美しいです。



お寺の歴史は古く、平安時代の830年(天長7)に右大臣清原夏野が山荘を建立し、その死後、双丘寺(ならびがおかでら)と称したのがはじまりで、境内に花々を植えて、歴代天皇が花を愛でに行幸したそうです。仁明天皇はその美しい景勝から、境内にある山に、五位の位を授けられ、この山を五位山と呼ぶようになりました。
その後、天安ニ年(858)に文徳天皇が定額寺(=簡単に言うと、貴族や僧侶などが建立した寺で、国家により公認されお墨付きを受けた寺)になり、天安寺と称して大伽藍を建てることになります。



その後一時衰えると、大治四年(1129)に、末法思想が広がるなか、鳥羽上皇の中宮、藤原璋子(待賢門院)が、ここに御堂の建立を決め、浄土世界から連想された法金剛院という名前で天安寺を復興します。翌大治五年(1130)に完成した寺院には、五位山を背景にして、中央に池を堀り、池の周囲に御堂を建造した優雅なものでした。



この庭園は、極楽浄土を再現する目的で造園させた池泉回遊式浄土庭園で、庭園の北にある「青女の滝」は、林賢と静意という石立僧が作ったもので、2m近い巨石を並べたものです。(写真では大きさがわかりにくいですが)
当時の書によると、璋子(待賢門院)が、舟で池を渡って御堂へ行く際に、滝を高くすることを思いつき、仁和寺の僧侶、徳大寺法眼静意に五、六尺高くするよう指示したといわれます。同じく仁和寺の石立僧、伊勢公林賢も工事に協力し(彼は、大原三千院の往生極楽院横の有清園の作者とも伝わる人物)完成させます。


庭園は昭和43年(1968)から発掘調査されて、昭和45年(1970)に池を復元、埋もれていた「青女の滝」もこのとき発見され復元されたものです。
現存数少ない平安時代の庭園で、作者が明確であり遺構がそのまま残っている貴重なものとされています。




ここで、この浄土庭園を造らせた藤原璋子(待賢門院)について少しだけ・・・

藤原璋子(待賢門院)は藤原氏の出身ですが、幼少期に父を失い、白河天皇を父代わりに成長します。元永元年(1118年)、17歳で2歳年下の鳥羽天皇の中宮となり、翌年には皇子(後の崇徳天皇)を生み、その後も計五男二女を儲けます。(4男は後の後白河天皇)この若い夫婦に何の問題もないようですが、そうではありませんでした。



鳥羽天皇は、父の堀河天皇が29歳の若さで亡くなったため、5歳で即位し、政治の実権は、院政を布いていた祖父の白河上皇が握っていました。
白河上皇は、女性関係が派手で、平清盛の本当の父親だという説もある人物です。
自分が育て、孫の后にした璋子との間に関係を持っていたようで、皇子(崇徳天皇)の本当の父は、当時66歳の白河だった可能性が極めて高く、当時から上皇の胤だと囁かれていたのです。
当時15歳の鳥羽天皇もそう思っていたようで、祖父の上皇から押し付けられた藤原璋子(待賢門院)に対してどう思っていたかは、その後の歴史が物語ります。鳥羽は、実権を握る祖父を恨みながら、ぐっと我慢していたようです。



保安四年(1123)白河上皇の命で、この不義の子(と鳥羽が考えた)5歳の皇子が崇徳天皇として即位。鳥羽は我が子、崇徳天皇を「叔父子」呼ばわりして忌み嫌ったといわれます。自分の子ではなく、自分の叔父さんだと言っていたのです。鳥羽は自身の臨終の席にも呼ばなかった程でした。



大治四年(1129年)白河上皇が77歳で死去。鳥羽上皇が院政を行います。
彼は祖父の政治を否定し、まず白河上皇に蟄居させられていた藤原忠実を政界に復帰させ、群臣の反対を押し切って、長承2年(1134)、藤原忠実の娘で、39歳という高齢の藤原泰子(高陽院)を皇后にします。これは藤原氏との結びつき強化のための皇后樹立でしたが、年齢的に皇子出産は不可能に近いため、美貌を謳われる17歳の藤原徳子(美福門院)を寵愛します。
徳子(美福門院)は、美貌だけでなく才知にも長けた女性で、鳥羽が唯一心から愛していた女性のようです。



藤原璋子(待賢門院)は、ライバル徳子(美福門院)を激しく憎みますが、鳥羽上皇と藤原忠実は、藤原徳子(美福門院)の女児を藤原泰子(高陽院)の幼女にするなど着々と結びつきを固めていて、彼女や幼帝崇徳にはどうしようもなく、すでに勝負は付いていたのでしょう。



保延五年(1139)徳子(美福門院)に待望の皇子(近衛天皇)が誕生し、鳥羽上皇は大いに喜びます。永治元年(1141)鳥羽は、「叔父子」22歳の崇徳に退位を強要し、わずか2歳の近衛に天皇位を譲位させます。
この年、徳子(美福門院)を呪詛したという騒動が発覚、璋子(待賢門院)の関係者が関与するものだったため、息子の皇位を奪われた璋子(待賢門院)が仕組んだという噂が広がります。こうして宮中の権力を奪われた璋子(待賢門院)は、翌康治元年(1142)に法金剛院において落飾し、3年後に死去します。
彼女の墓は、法金剛院の北、五位山中腹の花園西陵に眠っています。



美貌で信仰心の深かった璋子(待賢門院)を慕う人も多かったようで、
西行は、「なんとなく芹と聞くこそあはれなれ、摘みけん人の心知られて」(芹摘む人とは、高貴な人へのかなわない恋をするという意味)と詠みました。
また、女院の死を知り、「紅葉みて君が袂やしぐるらむ 昔の秋の色をしたひて」と詠んでいます。




長くなりましたので、その後の政治状況に関してはまたの機会にしますが、
藤原璋子(待賢門院)は、白河上皇の死と、鳥羽上皇の院政開始という人生の転機の年、
彼女にとっても人生の暗転が始まった年に法金剛院を造りました。
そこに特別の意味は無いのかもしれませんが、その後の彼女の人生を思うと、彼女に何某かの心境の変化があったようにも想像させられます。




さて、その後の法金剛院は、鎌倉時代に円覚上人が復興するも、応仁の乱以降の戦乱で境内は縮小してしまって今日に至ります。庭があまりにも有名で忘れがちですが、本尊阿弥陀如来、十一面観音菩薩他多くの重文の仏像宝物を持つお寺でもあります。



久しぶりに訪問した感想としては、法金剛院は、夏の朝早い時間帯に、色とりどりの蓮の花を楽しむのがやはり一番かもしれません。(前に蓮の花をご紹介しましたので、今回は庭の全体像です。)
蓮に満ち溢れた池庭を眺めていると、藤原璋子(待賢門院)が夢見た極楽浄土の世界のほんの数%位は感じられたようにも思うのです。

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