京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

鞍馬・貴船・鳴滝・高尾・周山他

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観光名所として知られる仁和寺の西にある京都市右京区「鳴滝(なるたき)」と呼ばれる地域は、古くは「小松の里」、「長尾の里」とも呼ばれた村里で、この地で滝となった鳴滝川(御室川)の水音が周囲に響いていた事から「鳴滝」と呼ばれるようになったと伝えられます。法蔵寺(法蔵禅寺)のある泉谷町は、鳴滝の周山街道と北の宇多野谷に囲まれた小さな渓谷地の一部で、仁和寺宮覚性法親王(鳥羽天皇皇子)の「泉殿」旧跡から名付けられた町です。


鳴滝泉谷町にある法蔵寺(法蔵禅寺)は、山号を海雲山という黄檗宗寺院です。
山門前に「尾形乾山宅跡」、「尾形乾山陶窯跡地」という石標があるように、この地は、江戸時代中期の陶工・絵師だった尾形乾山の邸宅跡にあたり、乾山がはじめて自身の窯を開いた場所になります。
近年、法蔵寺境内のこの乾山窯跡が発掘調査され、各地の美術館でも乾山展が企画されるなど現代でも斬新な乾山の作品への関心も高まっているようです。また、法蔵寺の門前の「春日潜庵先生墓」といった石標が示すように、境内墓地には幕末の思想家・春日潜庵の墓もあります。



さて、尾形乾山は、寛文三年(1663)に、京の大呉服商「雁金屋(かりがねや)」の当主・尾形宗謙(おがたそうけん)の三男として生まれ、本名を権平(ごんべい)といい、父の死後に深省(しんせい)と改名しています。また、すぐ上の兄が琳派の大画家となった尾形光琳になります。
尾形家は、雁金屋の初代・尾形道柏(どうはく 光琳・乾山の曽祖父)の代に、当時のファッションの最先端でもあった呉服染色業を始めたといわれます。また、道柏の妻は本阿弥光悦の姉法秀(ほうしゅう)で、その後、尾形家から優れた芸術家が生まれたのは本阿弥家の影響があったのかもしれません。事実、道柏の子・雁金屋二代宗柏や、その子三代宗謙も諸芸に優れた多趣味な人物として知られ、その子、光琳や乾山に至って尾形家は後世に残る偉大な芸術を生み出すことになりました。

貞享四年(1687)の父の死後、権平は深省(しんせい)と称し、遺産を譲られて京都の御室(おむろ)で隠棲生活を始めました。深省(乾山)は、幼少時から書物を好んだ内省的な性格だったといわれ、家業を離れた自由な生活に憧れていたようです。こうして、黄檗宗の独照性円(どくしょうしょうえん)禅師に師事し、また御室焼の陶工・野々村仁清と出会って弟子入りし、その色絵陶技を学びました。

当時、この鳴滝の地には、江戸時代に二条家の山屋敷があり、当主の関白・二条綱平(にじょうつなひら1672〜1732)は、尾形光琳や深省(乾山)の後援者となった人物です。元禄十二年(1699)、この二条綱平から山屋敷を譲り受けた深省(乾山)は、ここにはじめて自身の窯を開きました。また、この場所が都の西北「乾(いぬい)」の方角にあたることから、窯名を「乾山」と名付け、また自らの号としても用いました。

この地では、既に有名画家となっていた兄の光琳の協力のもとに兄弟合作となった数多くの作品を生み出し、制作は十三年に及びましたが、正徳二年(1712)に深省(乾山)が住居を二条丁子屋町(にじょうちょうじやちょう 中京区二条寺町)に移したことで鳴滝乾山窯は終わりを遂げます。
この転居の理由は、鳴滝が市内から遠くて不便だったことや、研究や実験に莫大な費用を投じた放漫経営で財政が逼迫したためといわれています。二条に移ってからの深省(乾山)は、東山の清水等の諸窯に依頼して一般受けする色絵の美しい食器類を多く作って生計を立てました。商売は繁昌しましたが、享保十六年(1731)六十九歳の時、深省(乾山)は江戸へ下って入谷に住居を移し、以来京都に戻ることはなく、寛保三年(1743)に八十一歳の生涯を閉じました。晩年の深省(乾山)が、なぜ江戸に移り住んだのかは今もわかっていません。




さて、法蔵寺です。
深省(乾山)が二条に移った後、鳴滝乾山窯旧地は、書家・桑原空洞(1673〜1744)の山荘となったと伝わります。(最近の研究によると、乾山の後、幾人かの町人がこの土地を転売していた記録が判明したということですが)、その後、書や茶道等に通じた文化人としても知られる関白・近衛家煕(予楽院)と親交のあった百拙元養(ひゃくせつげんよう)禅師が、享保十六年(1731)に近衛家煕(予楽院)の資金援助を受けて桑原空洞の旧宅を譲り受け、黄檗宗の寺院に改め創建したと伝えられます。

法蔵寺の方丈は、近衛家煕(予楽院)永代祈願所として寄進したものを改めたものと伝えられ、幾度かの修理を経て現在の建物となっています。近年まで無住の時代が続いたため、今では小さなお寺に過ぎませんが、趣のある門前は楓が映える隠れた紅葉の小さな穴場です。寺宝としては、近衛基煕の念持仏観音菩薩像、百拙元養禅師が描いた自画自賛像や黄檗高泉像、釈迦・文殊・普賢・十六羅漢図十九幅や七条仏師作の十六羅漢像、鳴滝乾山窯時代の陶片等があります。

乾山ゆかりの鳴滝窯跡は、境内背後の墓地の一角にあります。
昭和五年(1930)に発見されて以来、正式な発掘調査が行われて来ませんでしたが、平成十二年(2000)から「法蔵寺鳴滝乾山窯址発掘調査団」が結成され、約五年間に及んだ発掘調査が行われました。1980年代以降に法蔵寺の北側は宇多野霊園という墓地造成が進められて地形が大きく改変されてしまったために、窯跡の正確な位置は不明のままですが、それでも多くの乾山焼陶辺が出土しています。

また、法蔵寺の墓地には、幕末の儒学者・春日潜庵(1811〜78)の墓が、春日家一族の墓に囲まれてあります。
春日潜庵は、文化八年(1811)、公家久我家に仕える諸大夫の家に生まれました。潜庵は久我通明・建通に仕え、また陽明学を学んで私塾を開いて弟子の教育を行いました。幕末期には尊皇譲位論者として横井小楠や梁川星巌、西郷隆盛らと交流し、安政の大獄(1858)で捕えられますが、後に赦免されています。明治元年(1868)五月、奈良県初代知事となりますが、僅か二ヵ月後に旧幕府との通謀罪で逮捕され辞官。疑惑が晴れて出獄した後は教育に専念し明治十一年(1878)に死去しました。

すずめ寺(更雀寺)

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左京区静市市原町にある更雀寺(きょうしゃくじ)は、通称「雀寺(すずめでら)」と呼ばれている小さなお寺です。本堂と地蔵堂が並び、その前に小さな「雀塚」があります。



更雀寺は、山号を森豊山という、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗・西山禅林寺派のお寺です。
平安初期の延暦十二年(793)、桓武天皇の勅願寺として賢憬上人が三条付近に創建し、その後、藤原氏の学問寺大学寮として勧学院と呼ばれました。創建時は大きな寺院だったようですが、その後度々戦乱に遭い焼失します。元応二年(1320)、後醍醐天皇が「更雀寺」の寺号を与え一時再建しますが、応仁の乱以降は再び衰退し、寛永三年(1626)に四条大宮に移転しました。現在の地には昭和五十二年(1977)に移転しました。


さて、このお寺が雀寺と呼ばれるのは以下の伝説によります。
平安時代、一条天皇の時代の長徳元年(995)、「中古三十六歌仙」の一人で歌人として有名な藤原実方が、書の三蹟の一人でもある藤原行成と宮中で口論しました。この時、実方は怒って杓で行成の冠を叩き落し投げ捨てるという無礼な振舞いをしたのでした。これに対し、行成は抗わず役人に冠を拾わせて事を収めました。しかし、この暴力行為が原因で藤原実方は奥州へ左遷されました。
実方は都に想いを馳せながら、奥州で失意の日々を送っていましたが、落馬が原因で長保元年(999)に死去しました。
それからしばらく後、勧学院(更雀寺)の住職・観智上人の夢に一羽の雀が現われ、「私は実方である。この身は奥州で死んだが、霊魂は雀に化身して都を慕って飛んできたので、自分のために読経して欲しい。」と語ったということです。翌朝、庭には雀の死骸があったので、塚を築いて弔ったと伝わります。これが現在まで残る「雀塚」です。(写真)こうして、実方が都を慕って雀に化身して舞い戻って、力尽きて死んだという話は都中の噂になり、いつしか「雀寺」と呼ばれるようになったということです。

更雀寺は、「雀伝説」のみで知られる小さなお寺ですが、その他、境内の地蔵堂に祀られる地蔵菩薩像は、毎年四月に壬生寺で催される「大念仏狂言」の演目「桶取」に出てくる地蔵菩薩で「桶取地蔵」と呼ばれています。

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志明院のついでになりますが、北区雲ヶ畑出谷町岩ノ奥、雲ヶ畑の岩屋山バス亭近くにあるのが、惟喬親王(これたかしんのう)を祀る惟喬神社(これたかじんじゃ)です。



惟喬親王は、前に玄武神社の「やすらい祭」の時にも出てきましたが、第55代文徳天皇の第1皇子になります。若くして聡明でしたが権勢を握る藤原氏との縁が薄く、父文徳天皇は藤原良房を憚って皇太子の地位を、生まれて間もない4男の惟仁親王(後の清和天皇 藤原良房の娘の子)に与えました。
惟喬親王はその後、諸国の国主を歴任した後、近江の滋賀の小椋庄(君ヶ畑)に移り住みます。その後、大原、雲ケ畑、二ノ瀬、東河内大森等に隠栖して、貞観十四年(872)に出家し素覚浄念と号し比叡山・小野郷に隠棲し、そして山崎水無瀬(みなせ)を経て東河内で寛平九年(897)54歳で死去したと言うことです。惟喬親王は諸国を転々として、各地に寺院と伝説を残しました。(小椋庄に金竜寺、雲ケ畑字中畑に高雲寺(惟喬般若)、大森字東河内に安楽寺、長福寺を建立したと伝わります。)




さて、この雲ヶ畑にそびえる桟敷ガ岳は、標高896mあり比叡山より48m高い山ですが、古来この山には惟喬親王に関する伝説が幾つかあるそうで、山名の桟敷も親王がこの山上に高楼を構えて都を眺めたことに由来すると言われ、又相撲の土俵場や御廐(うまや)の址等もあるようです。また付近にある臨済宗永源寺派の寺院、高雲寺は惟喬親王の隠棲跡(高雲宮 惟喬般若)を寺院に改めたものと伝わります。惟喬神社もそうした史跡のひとつで、貞観九年(867)、この山中に隠栖して、高雲宮を造った事にちなんで祀られたもののようです。(尚、親王を祀る神社は他に守谷神社(鞍馬町二ノ瀬)、御霊神社(大森東町)、白山神社(多賀町大君カ畑)、筒井神社(小椋庄蛭谷)、大皇器地租神社(小椋庄君ケ畑)があるそうです。)

志明院(金光峰寺)

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京都市内の観光寺院として最北に位置するのは常照皇寺や峰定寺等だと思いますが、雲ヶ畑にある志明院(しみょういん)もかなり山奥のお寺です。4月から5月にかけては、石楠花(しゃくなげ)が美しいことで知られます。




北区雲ケ畑出谷町にある志明院は、通称岩屋不動、正式には岩屋山金光峰寺(きんこうほうじ)志明院(しみょういん)という真言宗の単立寺院です。鴨川の源流近い雲ヶ畑の山中にある修験道場で、岩屋山不動教本山と称し不動明王を祀ります。

寺伝によれば、志明院は、白雉元年(650)に修験道の開祖・役行者が創建し、その後天長六年(829)に、淳和天皇の勅願により弘法大師空海が再興したと伝えられます。
本尊の不動明王像は淳和天皇の勅願で弘法大師の直作、また根本中院に祀られる本尊眼力不像明王は、宇多天皇の勅願により菅原道真が一刀三礼して彫ったと伝えられます。以来、皇室の勅願所として祟敬深く、秘仏として天皇が即位する際に勅使を迎え開扉されて来たと言うことです。
その後、大永八年(1522)後奈良天皇が、世の中を鎮めんと諸堂開扉の詔を発し、その後勅願成就の御慶として、天皇晨筆の志明院の額と南無不動明王の六字を賜ったことから、志明院を寺号にしたと言う事です。天保二年(1831)、失火により山門を除く殆んどの堂宇が焼失しますが、本尊不動明王は災厄を免れました。その後多くの信者により次第に復興され、現在の主要な建物は明治以降の再建です。





志明院が歴代の皇室からたいへん重視された理由として、鴨川の水源地に位置し、貴重な「御所の御用水」でもある洞窟の湧き水を守ってきたことがあります。また雲ヶ畑周辺の村人達は古来「御所の御用水」を汚さないようにと水を清浄に保ち、自然を守り続けてきたのでした。そして、鴨川の洪水等の発生の度に、朝廷の使者が志明院を訪れて守護神の水神の前で祈祷が行われました。

他に、水の伝説として有名な歌舞伎十八番「鳴神」はこの志明院に関する演目になります。
志明院の僧・鳴神上人は、朝廷が願いを聞き入れない事を恨んで、その法力で竜神を滝壷に封じ込めて、黒雲坊、白雲坊を従えて護摩の洞窟に篭ります。このため世の中は旱魃となって民百姓は苦しみます。
これに対し、朝廷は雲の絶間姫(くものたえまのひめ)という洛中一の美女を遣わします。雲の絶間姫は色仕掛けで鳴神上人を破戒させ、上人が酔っ払って寝込んだ隙に、竜神を封じ込めた護摩洞窟の注連縄を切ります。こうして上人の法力は破れ竜神は天に昇って大雨が降りました。ようやく気付いた鳴神上人が怒って姫の後を追い掛けるというストーリーです。





さて、志明院では山門周辺と山門から覗ける範囲以外は写真撮影禁止で、カメラを受付に預けます。
前に書いた峰定寺も同様でしたが山岳修行の場として、普通の観光寺院とは一線を引いているのです。

山門(楼門)は、室町時代の再建で、左右の金剛力士像は右は運慶、左は運慶実子・甚慶の作と伝えられ現在本堂に安置されています。また、山門の岩屋山の額は小野道風の筆と言うことです。
石段を登る途中にある鐘楼・梵鐘は藤原国久の作で、石段上の本堂には弘法大師空海の開眼と伝わる本尊・不動明王をはじめ大日如来、毘沙門天、歓喜天等を祀っています。

本堂のすぐ西北にあるのが、「飛竜ノ滝」です。
弘法大師が建立して飛竜権現と称し、また鳴神上人の行場だった滝です。細い水が流れ落ちていて、この滝水に浴すれば心願成就すると言われるようです。
さらに奥に進むと、巨大な洞窟が幾つかあります。「護摩洞窟」は、役行者や弘法大師空海が修行した跡で、鳴神上人が護摩行のために篭った洞窟と言うことです。私に驚いて一匹のコウモリが洞窟から飛んで行きました。他にも御遺物経文を埋めたと伝えられている「納経の窟」等があり、これら山肌を切り開いた洞窟や巨岩は迫力があり一見に値します。

また、舞台造りになっている根本中院があります。元は木造だったようですが、今は鉄骨で舞台が造られています・・高さ数メートル程度の舞台の上には、宇多天皇の勅願により菅原道真が彫ったという眼力不動明王を祀り、また隣には洞中より皇室に献上した霊水が湧出したという「神降窟」があります。

この辺りまでが一般観光客コースで、所要時間15分程度でも廻れます。
しかし、志明院の境内は広大で海抜600m岩屋山他三山に渡って四国八十八ケ所の霊場が造られ、全山を廻れば約2時間の行者道があるようです。これらの道はとても整備されたとは言い難い木々が倒れた自然道なので、普通の観光客には無理と思われます。
山中には菅原道真の法跡「桜天満宮」、鎮守社で明神巌窟にある「宇賀稲荷社」、役ノ行者神変大菩薩を祀る「神変堂」、その他「陀枳尼・真天堂」、「脳薬師」、「金掛岩」、「蛇穴」、「六本松」、「飛岩」、「座禅石」、「弁財天」等の様々な修行場や小さなお堂が点在して、俗世を離れた深山の行場だと感じます。また山頂付近には天然記念物の石楠花の林があり、4月下旬から5月上旬が見頃で関西随一とも言われるようですが、登山の覚悟が必要です。





今回、石楠花の季節をねらって初めて訪れた志明院ですが、巨石や大木に囲まれて修行の寺そのものと言った印象です。同じような修験道の行場としては峰定寺がありますが、峰定寺の方が観光という点では洗練されているようです。しかし、志明院も石楠花の名所でもあり4月末はお勧めのお寺になります。夏場も涼を求めて山登り気分で訪れても良いかもしれません。

尚、最大の問題はアクセスです。京都市内から京都バスが1日4回程往復しますが、出町柳駅から朝8時半のバスに乗ると、帰りは夕方5時雲ヶ畑岩屋山発のバスまで有りません。山奥で6時間近く時間をつぶすのはかなり苦痛だと思いますので、(8時半の後は午後3時半発までバスは無いです・・これではもちろんお寺は閉まっています。)
路線バスを使うなら早朝6時過ぎ高野車庫発の臨時バスで来て、朝9時半雲ヶ畑発で戻るのが一番です(お寺は朝7時から開いています)・・京都市外の方は、市内から1時間以上程度の距離ですがタクシーをお勧めします。

了徳寺

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右京区鳴滝本町にある了徳寺は、大根焚(だいこだき)で有名なお寺です。そのために通称、鳴滝大根焚寺とも呼ばれています。(そして普段は、まったく人のいないお寺です。)



了徳寺は、浄土真宗大谷派の寺院で、正式には法輪山了徳寺と言います。建長四年(1254)、正西法師により創建されました。
本尊の阿弥陀如来像は、聖徳太子が太秦の地の桂の木に自身彫ったと言う伝説があり、応仁の乱後に了徳寺に祀られることになったと言うことです。また親鸞上人坐像は、鳴滝で念仏布教をしていた時の80歳の姿の像で、仏師湛慶の作と伝わります。


さて、毎年12月9・10日に行われる報恩講は、通称「大根焚」として知られます。
大根焚の起源ですが・・・建長四年(1254)、親鸞聖人が愛宕山・月輪寺を訪れた帰りに師・法然上人の遺跡を訪ねながらこの鳴滝に来ました。そして、この地の村人達が上人の教えに感動し、特に6人の者が深く帰依しました。この村人らは冬の事でもてなす物が無く塩味の大根焚を差し上げました。
上人は大根焚を大変喜んで、後の世の形見として庭のススキの穂を筆として「帰命尽無碍光如来」の十字の名号を書いて残しました。
以来報恩講の際に、参詣者に大釜で煮た大根が振舞われ、今や京都の風物詩のひとつになっています。使用される約3千本以上もの大根は、亀岡産の篠大根と言われる種類のもので、参拝者に提供されるのは醤油で味付けがされたものですが、親鸞聖人の木像には伝統通り塩味の大根が供えられると言うことです。尚、中庭に廻ると親鸞上人ゆかりの史跡「すすき塚」があります。

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