京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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今回は少し史跡と外れますが、常照皇寺と山国神社をご紹介する前に、京北地区を流れる桂川周辺の風景をアップしてみます。(最初の写真2枚は、常照皇寺のある山国御陵前の桂川の様子です。それ以外は山国神社から周山への風景です)



桂川は、この右京区京北地域(旧北桑田郡京北町)の北、丹波山地の東端の佐々里峠(左京区広河原と南丹市美山町佐々里の間)を水源とした川です。ここで日本海側と瀬戸内海側へと水脈が分かれることになります。桂川は南下し広河原、花脊を経て、花脊大布施町で西へ向かいます。そしてこの京北地域を東から西に横断して流れます。
この常照皇寺付近から周山街道までの間は、山が開けて田園風景が広がる中を川が流れていて、一番のんびりした桂川が見られる場所かもしれません。この辺り夏には鮎釣りが盛んなようです。

(尚、その後は、京北地域を縦断し、南丹市日吉町(日吉ダム)を経由して南東へカーブを切って亀岡盆地を流れ、保津峡を経て京都市の嵐山に入り、西南へカーブしながら大山崎町付近で宇治川、木津川と合流して淀川となります 流域面積1100km2、延長114km)地域によって川の呼び名は、上流〜嵐山付近では大堰川(おおいがわ)・保津川(ほづがわ)、嵐山付近では大堰川、その下流では桂川・梅津川(うめづがわ)と呼ばれています。





京都府のHPで調べた所、この辺りは近畿自然歩道として整備されていて、周山〜山国神社まで3.8キロ、山国神社〜常照皇寺まで5キロ程のコースのようです。
そこで、天気も良いので京北ふるさと公社バスを山国神社で降りてJR周山駅まで歩きました。

お椀を被せたような天童山(775m 写真)を右手に農道をひたすら歩きました。
途中で国道に出たりしながら川沿いに歩いて行くと、赤い鳥居が遠目にも目立つ神社を発見して寄ってみました。これは稲荷神社で鳥居は明らかに近年の再建らしいものですが情報は無さそうです。
さらに山沿いを歩くと、宝光寺(寶光禅寺)という寺院があります。寺院というより大きな農家のような印象のお寺ですが、少し覗いてみると枯山水の庭が見えます。残念ながらこのお寺も情報は皆無のようでこれ以上のことは不明です。

周山までややコースを外れて迷いましたが、何とか約1時間程度で到着です。田園風景は堪能しましたが、少し夏が早過ぎるというか、日差しが強いのには参ったという感じです。


次回は、常照皇寺です。

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平岡八幡宮の続きです。


平岡八幡宮の境内や参道には約200種類300本の椿が植えられていて、参道の横には「椿の小径(みち)」と名付けられた場所があります。
この「椿の小径(みち)」には献木された珍しい椿が約100本あるそうです。
この日は、桜もまずまず綺麗だったのですが、やはり平岡八幡宮といえば椿なので多数写真を掲載します。

平岡八幡宮その1

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右京区梅ケ畑宮ノ口町にある平岡八幡宮では、現在桜と椿が花盛りです。
3月17日〜5月7日まで「花の天井春の特別公開」が行われていて、拝観料を払うと宮司さんに案内してもらえます。また、3月17〜4月16まで「椿を愛でる会」も行われています。





平岡八幡宮は、梅ケ畑地区の産土社で八幡神(応神天皇=誉田別命 ほむたわけのみこと)を祀る古社です。平安初期の大同四年(809)、弘法大師(空海)が高雄神護寺の守護神として、自ら描いた僧形八幡神像を御神体として、宇佐八幡宮より勧請して創建し神社で、山城国(京都)最古の八幡宮ということです。
平安時代の末期に貴族の衰退と武家の伸張の時代の中で、荘園を失って多くの寺社が衰退し、平岡八幡宮も一時廃絶の時期もあったということですが、神護寺を復興した文覚上人が建久元年(1190)に再興し、さらに鎌倉初期の貞応元年(1220)に文覚の弟子・上覚上人により再興されました。神殿は、創建時はより高い位置にもう一段上段がありそこに築かれていたようですが、この再建の際に現在の位置に築かれたようです。

室町時代の応永十四年(1407)に火災により社殿を焼失しますが、直ちに将軍足利義満により再建されました。足利氏が八満神を氏神とする清和源氏の末裔ということや、また歴代の足利将軍がこの地に参詣や紅葉狩りに訪れていたために再建が素早かったのではないかと言うことです。その後江戸時代末期の文政九年(1826)、仁孝天皇の命で社殿が修復されています・・これが現在の建物になります。(京都府有形文化財指定)
その他、境内には地主社、武内者、貴布弥社、若宮社、源為朝が矢で貫いたという為朝の試し石、山の神岩等が点在していて、また本殿鴨居には琴引き弁才天が掲げられています。






さて、平岡八幡宮と言えば、有名な「花の天井」です。これは、江戸時代末期の文政十年(1827)、画工・綾戸鐘次郎藤原之信によって描かれた神殿内陣の極彩色の天井画44枚です。
また内陣鴨居には、極彩色ののし袋、紅白椿図が描かれています。(写真)

椿の名所としても知られる平岡八幡宮ですが、故事に「願い事をすると、白玉椿が一日で花を開き、願いが成就した」という伝説があり白玉椿伝説と呼ばれています。
社殿内にも紅白の椿が描かれていて、室町時代の平岡八幡宮の神社絵図に画かれたのと同じ位置に(社殿の右手)現在も樹齢200年以上の古木が今も自生しています。またこの社殿横には、葉の形が金魚に似ている金魚椿、おしべとめしべの根元の色が赤いのが特徴の珍しい藪椿も生えています。

白玉椿伝説の白椿は、社務所の横にあり樹齢170年以上の古木で、「一水椿」と名付けられています。(写真)そして、白玉椿伝説にちなんだ絵馬が販売されています。2つ椿の絵が描かれた絵馬で、一つはつぼみの絵、もう一つは開花した絵です。つぼみの絵馬に願い事を書いて奉納し、開花の絵馬は持ち帰ります。そして願い事がかなうと、お礼参りでもう一つの絵馬を奉納するということです。





宮司さんの説明によると、日本人が愛した春の木は、桜では無く「木に春と書くように」椿だったようで、椿は日本書紀に登場するように古くから日本人に愛され、招福・長寿・吉兆の花と考えられてきました。また武家が椿を嫌ったというのは俗説で、散り際の潔さから、武家に最も愛された花と言うことです。特に徳川家では江戸鎮護の花木としていました。白玉椿は茶道でも茶花として人気があるようです。


次回は多くの椿の花を掲載します。

峰定寺(ぶじょうじ)

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京都市内から離れた場所にも、観光客が来る山のお寺があります。


花背と広河原の間にある峰定寺、雲ヶ畑にある金光峰寺(志明院)、京北町にある常照皇寺などで、
これらのお寺は、観光ガイドでも紹介されている名を知られたお寺です。
いずれも、京都市内から車で1時間〜1時間半はかかるので、訪問者は限られますが、それでも他府県から来られる方もいるようです。
今回初めて、市内から1時間半、さらにそこから歩いて30分〜40分とかかるという峰定寺に行ってきました。





峰定寺は、深い自然林と国有林に囲まれた静かな大悲山にあるお寺です。

大悲山(だいひざん)は、奈良県にある修験道の中心地、大峯山(おおみねさん)に対して、「北大峯」と呼ばれ、古来修験道の修行場となってきました。また周辺は、「鞍馬の奥」といわれて、落人(おちうど)達の隠れ里だったそうです。
今でも、ここまで来るのは結構たいへんです。昔は、都から逃れてきた者にとってはまず見つからない場所だったのでしょう。
例えば、治承元年(1177)の鹿ケ谷の陰謀によって喜界ケ島に流された俊寛僧都の妻子が、この山に逃れ付近で病死したため、境内には俊寛僧都と妻子を祭る供養塔が残っています。





さて、大悲山峰定寺は、平安末期の久寿元年(1154)に、大峰熊野の修行者の観空上人によって創建されたお寺です。
観空上人は、鳥羽法皇の帰依を得て、その勅願を受けて三間四面の堂宇を建立しました。本堂及や仁王門の造立には、藤原信西や平清盛が任命されたということです。
本尊は、鳥羽法皇の念持仏の十一面千手観世音菩薩を下賜され、脇士として、二童子付き不動明王立像、毘沙門天立像を奉納せられたということで、これらの仏像は、現在宝物館に収められていて普段は見られません。
特別公開は5月3日前後の連休3日間と、11月3日前後の連休3日間のみです。






特に、本尊の十一面千手観世音菩薩は、今回ご住職の説明によれば、このような美しい観音様は他に無いということでしたが、30cm程度の想像していたより小さいもので、切金(きりがね)文様の残る美しい上品な仏様でした。仏像ファンは一見の価値ありです。
また、二童子を横に従えた不動明王立像も存在感があるもので、他に毘沙門天像、釈迦如来像、金剛力士像等があり、どれも重文に指定されています。
建物は何度か修繕が行われていますが、江戸時代に、当時の後西天皇の命で、聖護院宮道祐親王が修理を指導したことがきっかけで、以後聖護院の直末寺として今日に至るようです。





お寺までの距離は、思ったほど無くて、徒歩で20分強程度で到着。(少し急ぎましたが)
山道を登るのではなく、平坦な舗装道路が続いているだけなので問題はありません。
お寺の門前には、近年、山菜料理店や料理旅館等が増えてきたそうで、山奥という感じも無く、嵯峨野やその他普通の観光寺院の門前と同じです。川沿いに数十mの参道を歩けば、立派な入母屋造の仁王門(平安末期の創建時のものです。)が見えてきます。
仁王門の直ぐ近くには巨大な杉の木があり、その向こうには、新しい宝物館、拝観受付のある書院や神変堂(いずれも昭和初期の建築)が建っています。





さて、峰定寺の特徴は、まず受付で拝観料を払うと、その場で荷物を全て預けるということです。
このお寺は、観光のためというより、あくまでも修行場という姿勢を示されているわけです。
財布は持っていって良いようですが、カメラ等も持ち込むことは禁止です・・・・このように聞いていたのですが、実際はそれ程厳しいものではなかったような感じですが・・きちんとお預けしましたよ(^^)
だから写真撮影したのは、表門から仁王門までで、石段の上の本堂の写真はありません。
(最後の本堂の画像は、お寺のパンフからの掲載です。)
知らないで来た人は、面食らうかもしれませんので、知ってから行った方が良いと思います。





お寺の方は、本堂までは30分ほど石段を登りますので、杖を持っていってくださいと言われます。
先に宝物館で仏像を拝観し、いよいよ仁王門から石段を登ります。
峰定寺が山寺らしい姿を見せるのは、この石段から本堂までの間です。石段はさすがに修験道の道場らしく、湖東三山などのなだらかな石段とは違っていました。
急な山の斜面に作った自然石の石段なので、傾斜角度はきつく、膝を90度に上げて一歩一歩踏みしめないと登れない場所もあります。山を一歩ずつ、杖をつきながら登る・・・これが修験道なのでしょう。(もっと怖いのは降りる時です。足を滑らすと大怪我します。)
ただ、一気に山を駆け登るので、距離自体は短く20分かからない感じです。





いよいよ、重文指定のやや簡素な雰囲気の本堂が見えてきました。
久寿元年(1154)に作られた断崖にせり出した縣崖造の舞台です。清水寺の舞台のような広大な・・・という噂を聞いていましたが、そんなに大きいものではありません。軒下の廊下の幅は2メートルも無く、人をよけて何とか通れる程度です。
(狸谷不動尊とか、西国三十三ヶ所のお寺の方が大きい気がします。)
ただ、恐さはこちらの方がずっと上です。危ないので静かに歩いてくださいという標示があるように、下はまさに断崖で、床板の隙間から崖下が見えています。もし地震でも起これば・・・高所恐怖症の方はご注意ください。






本堂からは、遥かに北山の森が見渡せます。
また、本堂横の阿伽井屋(給水所)も創建時のもので重文指定です。(尚、本堂から奥には修行場があり立ち入りは禁止です。)参道には京都の銘木に指定されている杉の大木などがあり、境内はシャクナゲ等季節の花が植えられ、紅葉も綺麗なようです。
入山時間は、山中のため9時〜15時半まで。団体不可、冬季(12〜3月)も閉山されます。






峰定寺は、アクセスが悪い点がありますが、山岳修行のお寺として面白い存在です。
広い駐車場もあり、カップルやグループ等観光客も10人以上が来られていた感じでした。
断崖に建つ舞台は一度は見られたら良いかと思います。ただ、それ以外に見所は少ないので、寺宝の公開が無い普段は、少し物足りなさもあるかもしれません。
新緑や紅葉は綺麗なようですので、その頃などに行かれるのが良いかもしれません。
アクセス面を考えると、ややお勧めという感じでしょうか★★★★

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小町寺(補陀洛寺)

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京都市左京区に静市(しずいち)という地域があります。


北の鞍馬、南の岩倉に挟まれた広い地域ですが、山間の狭い集落が続き、前回に登場した八瀬以上に観光客がほとんど行かない場所です。
ローカル線の叡山電車で、鞍馬方面に行く時の通過点といった印象しか無い方も多いと思います。



この地域で観光名所的に僅かに知られているのは、小野小町ゆかりのお寺・・補陀洛寺、通称小町寺です。
学生時代に訪問しているようなのですが、お寺の境内のイメージが思い出せません。それで、確認のため行ってみました。




小町寺(補陀洛寺)は、平安時代の天慶八年(945)に、静原(静市区域でも北方地域)の山中に創建された古寺でしたが、焼失し廃寺となり、現在の市原(静市区域でも南方)に再建されました。
京都市内周辺部の寺社の多い地域は、かって葬送の地だった場所も多く、鳥辺野、化野、蓮台野等と同じく、この地域も、市原野と呼ばれる葬送の地でした。




小野小町は、晩年に流浪の果てに、昌泰三年(900)に80歳を過ぎて、この地で亡くなったと伝えられ、恵心僧都(源信)が野晒しになっていた小町の遺骸を弔ったという伝説が残っています。




そういうわけで、このお寺には、小町に関係する様々な史跡があります。
平成11年に再建された本堂には、平安時代の阿弥陀如来像、観音・勢至菩薩像の横に、小野小町の老衰した像(鎌倉時代作)が祀られています。この像は、リアルな老いた姿で知られています。




また境内には、小野小町の供養塔(江戸時代初期)、小町が姿見として使っていたという井戸、小町が倒れていた場所に生えていた穴芽の薄の石碑、小町に恋して百夜通いを行うも、最後の晩に凍死してしまったという伝説で知られる深草少将供養塔(江戸時代)等が点在しています。




また、小野皇太后(後冷泉天皇の皇后)が承保元年(1074)、天皇死後に出家し「常寿院」という名の山荘を開いた場所が、この地という説もあり、境内には、小野皇太后供養塔も立っています。




このお寺は、道路沿いの崖上にあり、石段を20数段登ると、すぐ境内です。
境内は、基本的には自由参拝できるので、勝手に歩かせてもらいました。
小町に関する史跡は、入り口に近い場所に集まっているのですが、奥の方には墓地が連なり、初めの印象より広い境内だとわかりました。
かっては、より大きなお寺だったようですが、今は訪れる人も少ない静かな佇まいです。
(深草少将の供養塔と、小町の供養塔の写真を掲載してみます。)




小町寺は、静かなそれほど目立たない地味なお寺です。
ここを訪れる人は、小町の邸宅跡といわれる、山科区の随心院などと合わせてご覧になるのかもしれません。
小野小町に関心が無い人が、この山間のお寺にまで来るというのはあまり考えられない気もしますが、ローカルな叡山電車で、鞍馬・貴船へ行かれる途中で、少し寄り道しても面白いかもしれません。

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