京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

京都御苑周辺

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御所の三名水

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京都御苑には、「京都御苑の三名水」と呼ばれる井戸が有ります。
懸井(あがたい)、染殿井(そめどのい)、祐井(さちのい)です。



まず、「懸井=県井(あがたい)」についてです。

「懸井(あがたい)」は、京都御苑の西北、宮内庁京都事務所の裏側にあります。
古来「京都三名水」のひとつとして知られた井戸ですが、水が枯れ、現在のものは1996年に近くで掘り直したものだそうです。(災害時の非常飲料水用に、水は浄化・消毒済みですが、「井戸水ですので飲まないように」と注意されています。)



懸=県(あがた)という名は、近くに懸社(あがたのやしろ)という小さな社があったためと伝えられています。
平安時代には、この井戸の近くに県宮という官吏任命を携わる役所があり、毎春に任命式が行われていました。地方官吏を希望する人々は、この井戸で身を清め、神社に祈願してから参内したそうで、懸井(あがたい)は、古い和歌にも詠まれています。


その後、古い祠と井戸が人知れず残っていたようで、江戸時代に、この辺りを邸宅とした一条家が、邸内の古い井戸を修復したと考えられています。復活した名水は明治天皇の皇后、昭憲皇太后の産湯にも使われたそうです。



「染殿井(そめどのい)」についてです。

「染殿井(そめどのい)」は、京都御苑の東北、「母と子の森」の南の京都迎賓館の裏側に有ります。

この地は、平安京当時の北東端にあたり、平安時代前期、藤原氏として最初の摂政に任じられ、その後の摂関政治の基礎を築いた藤原良房の邸宅「染殿第」があった場所とされています。


また、染殿第は良房の娘・明子(文徳天皇妃・清和天皇生母)の御所であり、清和天皇は譲位後ここに移り、清和院と称しました。(現在の清和院御門の名の由来)
現在の井戸は枯れて遺構ですが、染殿第にちなんで、「染殿井(そめどのい)」と呼ばれてきたようです。近くの梨木神社の名水「染井」と同一の水源と考えられています。




最後は、「祐井(さちのい)」です。
京都御苑の東北隅に中山家の邸宅跡があり、その中に井戸があります。


他の井戸と違い鉄柵で囲まれて、柵の外からしか見ることが出来ません・・・それはなぜか?
実は、この地は明治天皇の誕生・成長した地なのです。それで立ち入り出来ないように管理されているのです。(そういうわけで、柵の間からなんとか撮影したのが、「明治天皇生誕地」木標と「祐井」です。)



嘉永五年(1852)に中山家の当主、忠能の娘慶子が明治天皇を生むと、当時の風習どおり、天皇の子として幼少期まで母方の実家で育てられました。
明治天皇の幼名は祐宮というのですが、人の名を井戸に付けるのは、その井戸から産湯の水を汲んだためといわれることが多いので、「祐井(さちのい)」は、明治天皇産湯の井戸とも呼ばれているそうです。



ところが、「祐井(さちのい)」の横に明治10年に建てられた碑文があり、それによれば、事情は違うようです。
嘉永六年(1853)京都は大変な日照りで、中山家の井戸が全て枯れてしまったので、2歳の明治天皇の養育に支障をきたすと、新しい井戸を掘ったところ、清らかな水が沸いていて皆ほっとしたそうです。明治天皇の父、孝明天皇はこのことを聞き大変喜んで、新しい井戸を「祐井」と命名したというのが真相のようです。
また、明治天皇の産湯は、賀茂川の水に井戸の水をブレンドして使っていたということが明治天皇の公式伝記というべき「明治天皇紀」に記されているそうです。


でもガイドブックなどには、「産湯」と書かれているものが多く、まあ伝説というのはこういうふうに伝わっていくものでしょうか。




ついでに、「京都三名水」について・・・

先ほど登場した、京都御苑の「懸井(あがたい)」と、梨木神社の「染井(そめい)」、それと「醒ヶ井(さめがい)」ということになっています。
京都御苑の「懸井(あがたい)」は使用不可でしたが、他の2つは一般に開放されています。


梨木神社の「染井(そめい)」は、京都御苑内の「染殿井(そめどのい)」と同じく、藤原良房の邸宅「染殿第」があった場所とされていて、現在まで唯一現存している貴重な井戸です。(梨木神社はまた別に取り上げます)


「醒ヶ井(さめがい)」は、「左女牛井(さめがい)」とも記され、本来は五条堀川下ルにあった井戸ですが、現在は石碑のみが残っています。
平安時代の源氏の六条堀川邸内の井戸で、千利休、織田有楽斎などに愛用され,天下一の名水と言われた井戸ですが、第二次大戦中の堀川通の拡張工事により取り壊されます。
しかし、平成3年に、四条堀川付近の醒ヶ井通の角にある京菓子屋「亀屋良永」が、社屋改築の際に湧いた豊富な地下水を「醒ヶ井(さめがい)」と名付け復活させています。

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同志社大学の創始者、新島襄の旧邸が、無料公開されています。


新島七五三太(しめた)は、アメリカ密航の際に、アメリカ人から「ジョーJoe」と呼ばれたことから、名前をジョー(襄)と名乗ります。
この新島旧邸は、老朽化により解体修理されたものですが、明治の偉大な教育者の生活感を感じられるお勧めの場所です。




京都御苑の東南、寺町通と丸太町通の交差点近くに、このエンジ色にペイントされた木造2階建てのコロニアル風の洋館は建っています。
明治十一年(1878)に、新島のアメリカ留学時代の友人シアーズの寄付で建てられたもので、設計者は不明だそうですが、同志社英学校の教員テイラーや新島のプランが随所に組み込まれていると考えられています。
内部にはテーブルやイス、ベッドなど新島生前のままの家具が置かれています。(足踏みオルガンは参館者が弾いてもいいです。)特に、洋書に囲まれた書斎が良いので、デスク上の小物類を撮影しました。
障子や襖、お風呂やおトイレなど和風の部分も多く、和洋折衷の建物としては、明治でも最初期のものだそうです。当時斬新な暖房装置もあり、2階にはベッド以外の家具はあまり置かれていませんが結構広いです。
明治23年(1890)の新島死後は、八重夫人がひとりで住んでいたそうですが、明治40年(1907)に同志社に寄付されました。昭和60年(1985)に京都市の有形文化財に指定され、平成2年(1990)に全面解体修理を実施し一般公開されるようになりました。




窓からの風が清々しいです。
建物には生活動線の無駄が有り、これがかえって新鮮で良いです。
こういう古い時代の建物には、どこか遊びの感覚が有って、現代の効率重視の味気ないマンションなどには住みたくなくなります。
公開日時は3〜7月と9〜11月の水土曜(祝日除く)と11月29日、春秋の京都御所公開期間のみです。無料なので特にお勧めです。

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京都御苑内には、3つの神社があります。
北から、白雲神社、宗像神社、厳島神社です。
どれも気付かずに通り過ぎてしまうような小さな神社ですが、由緒ある古い神社のようです。



白雲神社は、京都御苑西南の梅林の近くにある小さな神社です。
森に囲まれていて、知らない人は歩いていても気付かないかもしれません。

この神社は、貞応三年(1224)に、鎌倉初期の公家、西園寺公経(藤原公経)が、現在の金閣寺の付近に西園寺を建立した際、妙音堂というお堂を建てたのが始まりで、江戸時代に、西園寺家の邸内に移築されて西園寺家の鎮守社となりました。



祭神は、妙音弁財天と称する市杵島姫命で、西園寺家は、琵琶の宗家のため(例えば、冷泉家は歌、四条家は料理、五条家は相撲など、公家が諸芸の宗家とされていました)芸術神として祀っていたのでしょう。


明治以降、西園寺家は東京に移り、妙音堂は白雲神社と改名されて現在に至ります。現在も、「御所の弁天さん」の名で親しまれているようで、この日も、数人御参りする方が見受けられました。


ついでですが、明治ニ年(1869)、後に内閣総理大臣となる西園寺公望が、現在神社の残るこの西園寺家の邸内で開いた私塾立命館は、過激思想を恐れた京都府庁の圧力で開校わずか1年で閉鎖させられますが、現在、立命館大学の名として伝わることになります。





宗像神社についてです。

京都御苑の西南、白雲神社の南には、築地塀と森に囲まれた場所があります。これが宗像神社です。こちらは長い土塀に囲まれているので少しは目立つかもしれません。

ここは、平安遷都の際、後に太政大臣になる藤原冬嗣が延暦十四年(793)に、平安京の守護神として筑前国の宗像神社を勧請したのが始まりで、その後、藤原北家の一族、花山院家の鎮守社として邸内に祀られます。



やがて、周辺の公家邸と共に京都御所の中に編入され、明治時代の公家町消滅後も、宗像神社は府社宗像神社として現在まで残ることになりました。
祭神は宗像三女神に天石戸開神(あまのいわとわけのかみ)と倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を合祀しています。


また、境内は森に囲まれ、特に、境内北の大楠は、樹齢六百年とも推定され、京都市内でも最高齢の大樹の一つということです。
この森の楠には、フクロウの仲間のアオバズクが夏に営巣していることでも有名で、平成四年、「アオバズクのいる森」として、「京都府の自然200選」に選定されました。(現在は選定から外れているようですが)





最後は、厳島神社です。

宗像神社の南、京都御苑の最南端にある「捨翠亭」の前の「九条池」には厳島神社が祀られています。

九条池と捨翠亭は京都御苑でも人気のあるスポットなので、また別に掲載しないといけないと思うのですが、今はサルスベリの花が咲いているこの池上の島にある神社について簡単に・・。
捨翠亭は、五摂家(近衛、九条、一条、二条、鷹司という摂政関白に任ぜられる公家のトップの家柄)の一つ、九条家の邸址で、この神社は九条家の鎮守社でした。
九条池の島の中に祀られているので、「池の弁天さん」という名でも知られていいます。



安芸の宮島で知られる厳島神社が、ここに祀られるようになったのは、
まず、平清盛が、平家の一門の氏神である安芸の厳島神社を、兵庫の築島に勧請したのが始まりといわれ、その後、室町時代に将軍足利義晴が、管領細川高国の邸内に移させ、さらに江戸時代の明和八年(1771)九条邸内に移されたということです。
祭神は、厳島神社の宗像三女神に、平清盛の母祇園女御を加えています。変った形の石鳥居は,京都三珍鳥居の一つで、室町時代の作ということです。



九条池の高倉橋から見る神社の前のサルスベリの花は、京都御苑屈指の美しい風景のひとつと言われるのですが、少し花の終わり頃かもしれません。(写真を追加しました。)

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京都御苑の西南角にある、閑院宮邸跡の建物と庭園の修復工事が終わり、今年4月から一般公開されています。私も初めて寄ってみました。



閑院宮邸跡は、江戸時代から続いた閑院宮家の屋敷跡で、京都御苑に現存する、唯一の公家屋敷跡です。

昨年完成した京都迎賓館が、長年グラウンドとして親しまれてきた饗宴場跡に造られることになったため、一時はこの閑院宮邸跡の場所を代替グラウンドにする計画があったそうですが、学術調査により、歴史的価値が高く保存すべきということになり、平成15年度から3ヶ年をかけて、全面的な改修と周辺整備が行われてきたのが完成したのです。




総工事費7億をかけたのが妥当かはともかくとして、公家屋敷の雰囲気を壊さない範囲で建てた建築物ということで、建物内は広くて綺麗です。
中庭もあり、当時の閑院宮家が、これだけの広大な敷地を持っていたというのも初めて知りました。
修復整備された建物と庭園は新し過ぎて、どこかの公園のようにも感じてしまいますが・・。



京都御苑内に初めて、御苑の歴史や自然についてパネルや実物展示等により解説して情報提供する場が出来たのは良いとは思いました。御苑内の史跡にそれほど興味が無かった私も、展示パネルを見て寄ってみようと思ったからです。
参館終了近い時間帯でしたが、参観者は10名以上いて、新しく出来た施設を興味深げに見ておられました。



閑院宮邸跡は、京都御苑内でも、特にお勧めする程の施設とまでは行かないですが、入館無料なので、機会がある方は訪ねられても良いかもしれません。
毎週月曜日のみ休館。参館時間は、午前9時から午後4時30分まで(受付は4時まで)です。

相国寺

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先日、土塀探しに向かった相国寺について少し・・


相国寺では、9月15日から、また秋の方丈の公開が始まるようで、今回は見られませんでした。(方丈、法塔、浴室が見学できます。)また、1年間増改築で休館していた承天閣美術館は、来年5月「若冲・動植綵絵展」で大々的にオープンするそうですが、(これは見たいですね。)
現在「伝来の茶道具展」を一部先行オープンしているようです。



相国寺の公式HPを見られた方は、気が付かれていると思いますが、金閣寺も銀閣寺も相国寺に属している塔頭(境外塔頭ですね)なので、大本山相国寺のHP中で紹介されてるだけで単独HPが有りません。
観光名所的には一見地味な相国寺ですが、世界遺産の銀閣寺と金閣寺を配下に従えるかなりの顔役だというわけです。(^^)




相国寺は明徳3年(1392)に創建され、義満により京都五山の第2位に選ばれた禅宗大寺院として、多くの僧を輩出しました。彼らは五山文学と言われる漢文学を生み出し、また漢文学の発展により、木版印刷の技術も向上。中世文化を盛んにしたのでした。


ここで京都五山について少し・・・
五山というのは、インドの祇園精舎など五精舎に起源を持ち、中国の宋時代に、禅宗の保護や秩序維持を目的に、特に格式の高い五つの寺を五山と定めた制度が、日本に伝わったと言われています。


日本では平安末〜鎌倉初に栄西らが伝えた禅宗は、鎌倉末期には広く幕府の支持を得て大寺院が建立され、北条氏により鎌倉五山が定められました(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)。
鎌倉幕府が滅亡すると、京都の後醍醐天皇が、京都を主、鎌倉を従として、五山を制定(南禅寺、東福寺、建仁寺、建長寺、円覚寺)さらに、京都の大徳寺を南禅寺と並ぶ首位に置きます。



これに対し、室町幕府を築いた足利尊氏は、天竜寺を創建してこれを加え、武家として鎌倉幕府を模倣しながら、鎌倉を主、京都を従として(建長寺&南禅寺、円覚寺&天竜寺、寿福寺、建仁寺、東福寺)を五山とします。



現在の京都五山が定まったのは、足利義満が、自身創建した相国寺を五山に加えるため、南禅寺を別格の五山之上という最高位に昇格させ、京都主、鎌倉従の五山制に再び改めたことによります。
これにより五山は、最高位の南禅寺の下に、第一位=天竜寺、第二位=相国寺、第三位=建仁寺、第四位=東福寺、第五位=万寿寺と変更され最終的な決定となり、江戸時代末まで続きます。
武家政権が禅宗寺院の格付けを決定し統制する体制が定まったということですね。
万寿寺は衰えましたが、他は現在まで京都の代表的な寺院として残りました。



五山の下の十刹は、等持寺(尊氏死後併合により、現・等持院)・臨川寺(現在非公開)・真如寺・安国寺(丹波・現綾部市)、宝幢寺(塔頭の鹿王院が現存)・普門寺・広覚寺・妙光寺・大徳寺(今では五山並のお寺ですね!)・龍翔寺(現・大徳寺の塔頭)が定められていました。




さて、相国寺は、足利義満が創建したこともあり、彼の一番のお気に入り寺院だったように思われます。
しかし、完成からわずか2年後の応永元年(1394)に早くも全焼。義満はすぐに再建させるも、義満死後に再び全焼。応仁の乱以降も焼失を繰り返し、天正12年(1584)に復興されたのが、現存する法堂になります。その後、江戸時代にも火災に遭い、天明8年(1788)の「天明の大火」で法堂以外が全焼。他の伽藍の大部分はその後江戸末の再建ということです。
このお寺がどこか新しく感じ、世界遺産に登録されなかったのはそういう理由なのでしょう。



それでも、大きな堂々とした法堂(以上のような歴史から重文指定。国宝指定されていません)は見事です。周辺の松の木が大きく伸びてアクセントになっています(写真)
「洪音楼」という名で知られる鐘楼は、江戸期の再建ですが、「袴腰付鐘楼」ともいわれ、国内数少ない大型の見事なものです。(写真)
境内には、千利休の孫の千宗旦に化けて活躍した、宗旦狐ゆかりの「宗旦稲荷」、「後水尾帝歯髪塚」など面白い史跡があります。



また、境内西部には広い墓地があり、長州藩長藩士戦亡霊塔(禁門の変の戦死者20名の首塚供養塔)や、藤原定家、足利義政、伊藤若冲の墓が並んでいます。(大体300年程度ずつ時代の違う3人が、仲良く兄弟のように並んでいるのも面白いです)
また保元の乱で知られる藤原頼長の墓と伝えられている五輪塔もあります。
境内の外ですが、すぐ隣りには薩摩藩戦死者墓(禁門の変と、鳥羽・伏見の戦いで戦死した72名の薩摩藩士が合葬)もあります。(少し写真を掲載。)



京都の禅宗寺院の中でも、最も明るく解放的な印象の相国寺の境内。これまで身近過ぎて無視していたのですが、これからは、たまにその清々しさを味わいに訪ねたいと思います。

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