京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

京都御苑周辺

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京都市上京区寺町広小路上る北之辺町にある廬山寺は、紫式部の曽祖父にあたる権中納言・藤原兼輔の邸宅跡と伝えられ、紫式部もここで「源氏物語」を執筆したともいわれています。
この廬山寺については以前に少し書きましたが、今回はその境内墓地について書いてみます・・・
さすがに採り上げるには地味過ぎるかとも思いましたが、観光で廬山寺を訪れる人は多くても、墓地に行かれる方も少ないかと思った次第です。また、豊臣秀吉が築いた「御土居(おどい)」の一部がこの墓地にあることも注目されます・・・つまりこの廬山寺の東側は、秀吉の時代には京都郊外(洛外)と考えられていたのでしょう。



さて、廬山寺の墓地には40人程の皇族をはじめ公家等の墓がありますが、その中で最っとも目立つのが慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのうろざんじりょう)で、15人の皇族の墓と共に管理されています。慶光天皇というのは、江戸時代末期の閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう 1733〜94)のことで、明治時代になって「慶光天皇(慶光院)」の諡号と太上天皇の称号が贈られたことから、天皇に準じたこの御陵が造られました。

閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう 慶光天皇)は、幼名は寿宮(ひさのみや)といい、元禄時代の東山天皇が宝永七年(1710)に皇子・直仁親王に創設させた新宮家、閑院宮家の第二代当主になります。閑院宮家は、伏見宮・有栖川宮・桂宮と並んで四宮家と呼ばれ、その屋敷は現在の京都御苑の南西(当時は公家町)にありました。(明治時代に宮家が東京に移った後、近年は閑院宮邸跡として整備され一般公開されています。ブログで採り上げました)
典仁親王(慶光天皇)は、歌道や書道に優れた人物で、短冊等が残されていますが、特にその子が天皇になったことで歴史に名を残すことになりました。閑院宮典仁親王(慶光天皇)自身よりも、その息子の天皇の方が話題性のある人物なので、長くなりますが続けます・・・





さて、第百十八代・後桃園天皇(在位1770〜79)は、病気がちで安永八年(1779)に二十二歳で崩御しました。天皇には男子が無く、宮家の中から閑院宮家の美仁親王(はるひとしんおう 閑院宮第三代)やその弟・師仁親王(もろひとしんのう)、伏見宮貞敬親王(さだゆきしんのう)といった候補者の中から、先帝の皇女・欣子内親王を妃にするという条件で、当時九歳の師仁親王が選ばれ、既に亡くなっていた後桃園天皇の養子という形で皇位を継承しました・・これが第百十九代・光格天皇(在位1779〜1817)です。
九歳で即位した光格天皇は、南北朝時代の後花園天皇が伏見宮から皇位を継承した時以来の宮家(閑院宮)出身の天皇だったこともあって、周囲から軽く扱われる経験をしたこともあったようです。そのためもあってか、長じては朝廷権威の復権に務めました。幕末に尊皇運動が盛んになりますが、光格天皇は自らその先駆者として民衆たちに天皇の存在感を示し、明治時代の王政復古を準備した人物とも評されています。


ここで話は変わりますが、江戸時代初期に幕府が定めた「禁中並公家諸法度」は、日本史上初めて天皇の身分や立場さえも法律で規定されたたもので、朝廷が徳川幕府(直接は京都所司代)の実質的制約下に置かれたことを意味します。
禁中並公家諸法度は、宮家(親王)の宮中での地位を三公(太政大臣・右大臣・左大臣)より低く定め、三公を独占する五摂家(近衛家・一条家・九条家・二条家・鷹司家)が朝廷内の実権を握るように定めていました。そして、この三公の選出権は江戸幕府が握り、幕府の推薦・任命を受けた者のみが選出されていました。また、同じく幕府が任命した上流公家が務める武家伝奏職があり、主に幕府の意を受けて、政治的要求等を朝廷に取り次ぐ役割を持っていました。このように、五摂家や武家伝奏が幕府の威光を背景としていたために、天皇でさえ、五摂家当主達の決定事項に異を唱えることが出来ない場合が多かったのでした。




さて、天明七年(1787)六月、民衆達が天皇に救済を求める運動が起こりました・・御所千度参り(ごしょせんどまいり)です。
御所千度参り(ごしょせんどまいり)というのは、天明の飢饉(1782〜88)のために食糧難で苦しんだ民衆が、彼らの訴えを聞こうとしない京都所司代に見切りを付けて、御所の周囲を廻って、御千度参りをした事件です。京都だけでなく大阪等諸国から多くの人々が集まり、その数は七万人に及びました。人々は御所の築地塀の周囲を廻り、御所を向いて祈りながら、門から訴えや願い事を記した紙で包んだ賽銭を投げ込みました。また、この参拝者を目当てに物売りの出店が数百件も出て、非常に賑わったということです。

御所では後桜町上皇がりんご三万個を民衆に配らせたり、有栖川宮や五摂家らが茶や握り飯を振舞うなどの対応を行いました。光格天皇は、食糧難で苦しむ民衆をなんとか救済したいと考え、「禁中並公家諸法度」に反する行為ではあるものの、朝廷が民衆に直接米を配るか、それがだめなら幕府が米を配って救済することは出来ないかと考え、京都所司代を通じて幕府へ民衆救済の申し入れを行いました。幕府はこの法度への違反行為に対して対応を検討しますが、結局、緊急時の非常措置として、八月、救済米を約千石を放出することが決定しました。こうして、民衆救済に消極的だった幕府に対し、天皇や朝廷が民衆の救済運動を推進したことは、それまで幕府の統治下で忘れられていた天皇・朝廷の存在を民衆に強く印象付けることになり、やがて尊皇運動が高まる原因となりました。

また、天明八年(1788)の「天明の大火」によって御所が焼失した際は、光格天皇は、幕府と交渉して、新御所を平安京大内裏の古様式に則って再建しました。(現在の京都御所は、安政元年(1854)の火災の後に復興されたものですが、光格天皇時代の御所を事実上再現しているといえます。)さらに、伝統ある古来の朝儀の復興を図りました。これらもまた民衆の注目を集め、尊皇思想を高めていきます。




さて、先程書いたように、禁中並公家諸法度は、天皇の身分を法律で規定し、幕府の任命した五摂家当主達や武家伝奏が実質的に朝廷の権力を独占していました。これに対し、天皇や他の中小公家が反抗する事件も幾つか起こっています。そして、光格天皇も幕府とある問題で対立することになります・・・「尊号一件」と呼ばれる事件です。

元々、禁中並公家諸法度では、宮家(親王)の宮中での地位を三公(太政大臣・右大臣・左大臣)より低く定め、事実上、宮家(親王)は、三公を独占する五摂家(近衛家・一条家・九条家・二条家・鷹司家)の下と考えられていました。光格天皇は、何とか父親の閑院宮典仁親王の地位を高められないかと考え、「太上天皇(上皇)」の尊号を贈ろうとしました。
しかし、天明八年(1788)天皇の意を受けた公家・中山愛親らが幕府に通達すると、老中松平定信によって、天皇に即位していない人間に天皇号を贈ることは前例の無いことであるとして却下されます。

歴史的には、鎌倉時代の承久の乱後に即位した後堀河天皇が幼かったために、その父・守貞親王が「後高倉院」として政治を行ったこと、南北朝時代末期の後花園天皇の父・伏見宮貞成親王が、子が天皇に即位したことで「後崇光院」と尊号を贈られたことなどの前例があり、朝廷ではこれら前例を持ち出しましたが、幕府はこれまでの前例は戦乱時等の臨時措置であると主張して認めませんでした。(尚、守貞親王については、以前に「光照院門跡」を採り上げた際に、伏見宮貞成親王については「後崇光太上天皇伏見松林院陵」を紹介した際に詳しく書いています。)

朝廷と幕府の尊号論争は結論を得ず、寛政三年(1791)、光格天皇は上級公卿の多数決を得て尊号宣下を強行しようとします。この幕府との決定的対立になるかもしれない事態を憂慮した前関白・鷹司輔平の斡旋で、結局、幕府は閑院宮典仁親王が光格天皇の父であることを考慮して千石の特別加増等を行うことを認め、光格天皇は周囲の説得で仕方なく父への尊号贈与を諦めることになりました。

尚、光格天皇自身は、文化十四年(1817)に子の仁孝天皇に譲位して太上天皇(上皇)となりました・・歴史的に最後の太上天皇(上皇)になります。そして、天保十一年(1840)に六十九歳で崩御し、京都市東山区今熊野泉山町の後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)に葬られました。一方、光格天皇の父・閑院宮典仁親王は、寛政六年(1794)に亡くなりましたが、明治十七年(1884)に明治天皇(光格天皇の曾孫)の直系の祖先でもあることから、慶光天皇(慶光院とも)の諡号と太上天皇の称号が贈られることになりました。




さて、慶光天皇廬山寺陵には、慶光天皇(閑院宮典仁親王)の他に、
慶光天皇妃 成子内親王、
東山天皇後宮・新崇賢門院藤原賀子、
東山天皇皇子・直仁親王、
東山天皇皇子直仁親王妃・脩子、
東山天皇皇曾孫・美仁親王、
東山天皇皇曾孫美仁親王妃・因子、
東山天皇皇玄孫・孝仁親王、
東山天皇皇玄孫孝仁親王妃・吉子、
東山天皇五世皇孫・致宮、
東山天皇五世皇孫・愛仁親王、
光格天皇皇子・俊宮、
光格天皇皇子・猗宮、
光格天皇皇女・多祉宮、
光格天皇皇女・治宮、
仁孝天皇皇子・胤宮の墓があります・・・

つまり、ここには、「慶光天皇」の諡号を贈られた、二代・典仁親王の陵を中心に、閑院宮歴代当主の墓(初代・直仁親王、三代・美仁親王、四代・孝仁親王、五代・愛仁親王)とその妻子の墓が集められているわけです。敷石の敷き詰められた中心が慶光天皇(典仁親王)の陵です。(ただし、距離があるので手前の墓数基のみ撮影)

他に墓地内には、
土塀で仕切られた仁孝天皇皇子・鎔宮と孝明天皇皇女・壽萬宮の墓があります。(写真)


他に墓地には、後水尾天皇皇女・永光院墓、
後水尾天皇皇子・霊照院墓、
後水尾天皇皇子・若宮墓、
後水尾天皇皇女・宗澄女王墓、
後西天皇皇女・円光院墓、
霊元天皇皇子・嘉智宮墓、
光格天皇皇女・受楽院墓、
霊元天皇皇女・智光院、
霊元天皇皇子・三宮墓、
光格天皇皇女・開示院墓、
東山天皇皇子・寿宮墓、
中御門天皇皇女・三宮墓、
中御門天皇皇子・信宮墓、
中御門天皇皇女・周宮墓、
東山天皇皇孫女・蓮香院墓、
東山天皇皇曾孫女・弥数宮墓、
東山天皇皇孫・梅芳院墓、
東山天皇五世皇孫女・茂宮墓、
東山天皇皇玄孫女・鎮宮墓、
東山天皇五世皇孫女・永宮墓、
東山天皇皇玄孫女・苞宮墓、
東山天皇皇玄孫女・敬宮墓があるということです・・・あまりの数の多さに、その幾つかのみの写真を掲載します。


最後に、豊臣秀吉が洛中を囲むように造った土塁「御土居(おどい)」の一部が、廬山寺の墓地に残っています。(写真)「御土居(おどい)」については、京都市内に10ヶ所程度残っていて、多くは国史跡に指定されています。これまでも一部採り上げていますが、また機会があれば書いてみます。

阿弥陀寺の「信長忌」

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今回は、以前に「織田信長の墓といえばこのお寺(阿弥陀寺)」としてブログに採り上げた阿弥陀寺の再登場です。6月2日に行われた「信長忌」の様子を掲載します。
「信長忌」は、天正十年(1582)六月二日、本能寺で明智光秀に襲撃され自刃した織田信長の忌日法要になります。

上京区寺町通今出川上る鶴山町にある阿弥陀寺は、織田信長の墓があることで知られるお寺です。(京都市内の信長の墓としては、本能寺、阿弥陀寺、大徳寺総見院、妙心寺玉鳳院、大雲院の5つが知られていて、ブログにはこれらの墓の写真を掲載しています。)寺は普段は非公開(信長の墓のある墓地は普段も見られます)ですが、6月2日の「信長忌」に因んで、本堂が一般公開されました。
(以下沿革については「織田信長の墓といえばこのお寺(阿弥陀寺)」の文章を再掲載します)


阿弥陀寺は、蓮台山と号する浄土宗寺院で、本尊として丈六の大きな阿弥陀如来を祀っています。創建は、天文年間(1532〜54)、清玉(せいぎょく)上人が近江(滋賀県)の坂本に開創しました。その後、永禄年間(1558〜70)織田信長の帰依を得て京の地に移し、当初、西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)に大きな境内(八町四方)と塔頭十一ヶ寺(十三ヶ寺とも)を構えていたということです。また正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、東大寺大仏殿再建の勧進職を命じるとともに、当寺を勅願所としていました。
さて、清玉上人は織田家と深い親交があったため、天正十年(1582)六月二日の本能寺の変の際、本能寺等に駆けつけて、信長、信忠父子及び家臣百有余名の遺骸を阿弥陀寺に埋葬したと伝わり、本堂には織田信長・信忠父子等の木像が安置されています。その後、天正十五年(1587)に、秀吉の命で、蓮台野から現在の地に移り、その後、延宝三年(1675)、天明八年(1788)の「天明の大火」で類焼し再建されています。また京都四十八願寺巡拝の十六番札所でもあります。


さて、寺伝によれば、明智光秀が謀反を起し本能寺に攻め寄せているという報せを聞いた清玉上人は、塔頭の僧徒二十人余りを引き連れて本能寺に駆けつけました。
既に本能寺は明智軍により四方を囲まれていて表門からは境内に入る事は出来なかったので、裏道よりなんとか境内に入りますが、既に堂宇に火が放たれ、信長公は切腹した後ということでした。
見ると近くの竹林に十人ほどの武士が集まって火を焚いています。彼らは信長公の家臣達だったので、清玉上人が彼らに顛末を聞くと、一同は、信長公は切腹する時に、必ず死骸を敵に渡すなと遺言されたのですが、四方を敵に囲まれ死骸を抱いて逃れる事が出来ないので、やむなく火葬にして隠し、我々は皆自殺しようとしているということでした。
上人は、私は信長公とは格別の由縁ある者なので、火葬はもちろん、将来の御追悼をしましょうといって武士達に乞い、皆さんは自殺するよりも、むしろ信長公の為に敵と戦って戦死する方が公も望まれるでしょうと語りました。主君の火葬や供養を上人に委ねた武士らは大いに安堵して戦いに参加していきました。
そして、彼らが門前の敵と戦っている隙に、上人は火葬した白骨を法衣に包んで、本能寺の僧徒らが逃げるのに紛れてうまく帰寺する事が出来たのでした。そして白骨を深く土中に隠し置いたということです。

また、信長公の嫡男・信忠公も、同時に二条城新殿で明智軍と戦って自害し、死体を敵に渡さないために火中に投じたと聞いた上人は、何とかして信忠公の遺骸も得ようと苦慮します。
同日昼八つ時(午後二時頃)、明智光秀が七条河原で休憩していると聞いた上人は、陣中見舞いと称して、多くの餅や焼飯らを携えて赴いて光秀に献上し、本能寺や二条城における戦死者の中には阿弥陀寺の檀家の者も多いので、彼らの遺骨を阿弥陀寺に葬りたいと願い出ると、光秀もその志に感じて、許可を得ることが出来ました。
そこで、上人は直ちに寺僧を多数引き連れて、本能寺と二条城に戻って信忠公の遺体や討ち死にした者達の死骸を持ち帰って、暫く時を経て、塔頭の僧達と密かに信長公をはじめ戦死者の葬儀を行いました。


その後、光秀を滅ぼして政権を握った秀吉が、信長公の遺骨が阿弥陀寺にあると聞いて、信長公の一周忌を行おうと清玉上人に法事を頼んだ所、上人は、相当の法事は既に行ったとしてこれを受けず、また法事料として三百石の朱印を下附されたのも辞退しました。
秀吉は三度まで使いを派遣して、永代墓所供養のために寺領を受けるように命じますが、上人は断固として受けませんでした。上人は、信長公亡き後の秀吉の振舞いは織田家の乗っ取りを狙うもので、一周忌を自分自身の宣伝効果のために利用しようとしていると嫌って、申し出を断ったのでした。
ついに怒った秀吉は、紫野大徳寺境内に新たに一寺(信長公の法名を採って総見院)を建立して寺領を与え、遺骸が無いので信長の木像を二体作りそのうち一体を火葬にし一体を寺に祀ることにしました。
その後、阿弥陀寺は、天正十五年(1587)に、秀吉の命令で、蓮台野から現在の地に移されますが、秀吉の恨みを買っていたので広大な寺域を削られ現在のような小さな寺となったと伝えられます。




さて、特別公開された本堂には、巨大な本尊阿弥陀如来を中心に、右に運慶作と伝わる地蔵菩薩像や開山・清玉上人の木像が安置されています。また、本尊の左には、厨子に納められた織田信長・信忠父子、信長の庶兄・信広の木像が安置されています。信長像は青木加賀の法邦の作ということです。
また真偽の程は定かではありませんが、本能寺で信長が使ったとされる手槍、後陽成天皇の勅額、鼓、弓掛、鞍掛、本能寺打討死者の位牌等の信長の遺品、また羽柴秀吉、明智光秀、松永久秀らの書状等が展示されています。

境内墓地には、信長・信忠父子の墓の他に、本能寺の変で討ち死にした家臣・森蘭丸、坊丸、力丸の三兄弟の墓があります。他に猪子兵助ら12名の家臣の墓があるということですが各々の確認は難しいです。その奥には本能寺の変の討死衆の合葬墓や織田一族の墓(江戸期の一族の名があります)があり、他に墓地には、儒者皆川淇園、俳人蝶夢の墓等があります。


さて、「信長忌」の2日は、午前十時から檀家信徒を中心とする法要が行われ、十一時から信長に関する約一時間の講演会が行われました。昨年の「信長の棺」の著者・加藤寛氏に続いて、今年は「信長燃ゆ」「天下布武」等の安部龍太郎氏の講演でした。その後、信長に関する寺宝の説明がありました。
(尚、安部龍太郎氏は、本能寺の変の理解には、日本国内の事件という視点だけでは無く、世界史的な視点が必要で、事件の黒幕としてイエズス会があると考えられているようです。
それまで信長の天下統一のために、鉄砲の技術や貿易によって信長政権を支えてきたイエズス会が、信長が晩年に自身を神と崇めさせるような態度を示し始めたことから、信長を危険視しし、信長を見限ったことが事件の遠因ということです。イエズス会は、キリシタン大名の黒田如水(黒田官兵衛孝高 本能寺の変を秀吉の政権取りの絶好の機会として、毛利家との和睦や中国大返しを進言した。)を介して、豊臣秀吉に政権を取らせようと事件を仕組んだ・・というような説です。)

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上京区の荒神口通寺町東入る荒神町、府立鴨沂高校の東側にある護浄院は、正式には常施無畏寺(じょうせむいじ)と号する天台宗寺院で、通称「清荒神(きよしこうじん)」の名前で親しまれているお寺です。また、「荒神口」という地名はこのお寺に由来します。
境内には鳥居があり、本堂も神社風で、かつての神仏習合の時代を感じさせます。


寺伝によると、本尊の清三宝大荒神は、光仁天皇の皇子・開成親王が摂津国勝尾山で修業した際に、三宝大荒神の尊影を感得して自らその姿を刻んだとものと伝えられます。
父の光仁天皇は、この日本最初の三宝大荒神を祀る霊場として勝尾山に一寺を創建し、これが現在の護浄院(清荒神)始まりと伝わります。その後、勝尾山が遠くて勅旨代参が大変ということで、明徳元年(1390)、後小松天皇の勅命により、乗厳(じょうげん)律師が、洛中醒ケ井高辻(下京区)の地に勧請し、以降、「清荒神」と呼ばれるようになりました。

また、朝廷は、乗厳律師に南北朝動乱の終結祈願を命じ、これを受けて乗厳が護浄院(清荒神)で祈願した際には如来荒神の尊影を感得し、これは南北合一の瑞相であるとして如来荒神像を白檀木に刻んで本尊脇座に安置しました。これが現在祀られている如来荒神像です。
そして、乗厳律師が朝廷に奏上した通りに、明徳三年(1392)に南北朝合一が達成されたことから、以来、当寺に対する歴代の天皇の崇拝は益々篤く、また当時の御所の女官等の厚い信仰を受けていたとも伝わります。その後、慶長元年(1596)、後陽成天皇が自ら白檀木に刻んで一個の厨子に納めて念持仏としていた七体の如来荒神像を下賜されて、本尊の脇座に合わせて祀りました。

慶長五年(1600)、皇居守護のために東南の地に遷座するようにとの勅命によって現在地に移され、「常施無畏寺(じょうせむいじ)」の号を賜りました。この頃、毎年正月、五月、九月に七日間、国家安泰、五穀豊穣、火難即滅の祈祷を行うように命を受け、以来現在も祈祷を続けています。また、元禄七年(1694)に「護浄院」の院号を賜わっています。その後、天明八年(1788)の大火によって本堂他焼失しますが、その後再建されています。明治時代には明治天皇も護浄院(清荒神)を篤く崇拝し、明治五年(1872)まで勅使参向、月並御代拝は明治末期まで続けられていたということです。



光仁天皇の皇子・開成親王が刻んだと伝えられる本尊の三宝大荒神は、悪魔降服の尊体で、「荒神経」では、信仰者はその威力によって「七難即滅」「七福即生」、一切の苦悩から救われると記しています。
国家レベルでは国家安泰、五穀豊穣、火難即滅等。一般の家庭では、火の守護神として炊事場のかまどの上に祀られ、家内安全、家業繁栄、除災招福、火難即滅のご利益があるとされています。
また同じく、後陽成天皇が、当時の住職大空上人から「般若経は、七難即滅、七福即生の宝典」と勧められて、自ら白白檀に刻んで一個の厨子に納めて念持仏としていた脇座の七体の如来荒神像も、信仰者に「七難即滅」「七福即生」、のご利益をもたらす仏像です。さらに同じく脇座の、南北朝動乱の終結祈願を命じられた乗厳律師が白檀に刻んだ如来荒神像は、一般家庭の不和難事を解消するご利益があるとされています。

他に、観音堂に祀られている准胝観音菩薩は、洛陽三十三所観音巡礼第三番札所になっています。「仏母准胝尊」ともいわれ、人々の悩みに答えて救う慈悲深い観音菩薩で、子授けのご利益があることでも知られています。また、尊天堂に安置されている福徳恵美寿神は、元々御所に安置されていましたが、東京への遷都の際に堂上家から護浄院の七福殿に移され「京都七福神」の一つに数えられています。さらに、同じく福禄寿尊は「京の七福神」の一つとして知られています。

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4月5日から13日まで、国指定重要文化財でもある京都府庁旧本館が一般公開されています。また期間中に様々な府民共同のイベントや展示催事が行われます。(当然ながら無料なのでお勧めです。)


上京区下立売通新町西入る薮之内町・京都府庁内にある京都府庁の旧本館は、釜座(かまんざ)通の正面に位置する堂々とした重厚で美しい建物です。
この旧本館のある京都府庁周辺は、近畿農政局や京都地方検察庁その他の京都府警察本部等が集まる官公庁街ですが、東には京都御苑、西には町家の残る西陣地区、北には、これも明治の赤レンガの洋風建築が建ち並ぶ同志社大学などがあり、クリームイエローの優美な旧本館も、これら地域一帯の建造物と溶け込んで京都らしい風景を作っています。
また、公開されている旧本館の庭園の中庭中央の枝垂れ桜は、初代円山公園のしだれ桜の孫に当たるもので、その他の桜と共に西洋風の建物とマッチしてたいへん美しく絵になっています。
(以下、京都府庁旧本館に掲示されている資料から転載させていただきます。)



さて、元々この地は、幕末に幕府京都守護職が置かれた所でした。
幕末に京都の警備を担当していた京都守護職は、京都市中に数ヶ所の広大な屋敷を構えていましたが、現在の府庁に当たる敷地もその一つでした。この上屋敷は、度重なる増改築を経て、慶応元年(1865)に完成しましたが、規模は現在の府庁の敷地ほぼすべてを占め、正門や敷石、玄関等はたいへん豪華なものだったと伝えられています。また、屋敷の東西、南北には、二階建ての長屋がずらりと並び、藩兵などが非常時の出動に備えて待機していました。(尚、この広大な屋敷の建設に伴って、地域にあった九つの町が全て消滅したということです。)

明治維新直後のことです・・・慶応四年(1868)閏四月二十九日、それまでの京都裁判所が名を変え、初代府事(知事)に長谷信篤(ながたにのぶあつ)を迎えて、京都府がスタートしました。
政庁(府庁)は、最初は二条城の南側にありましたが、明治二年(1869)に京都守護職上屋敷跡(現府庁敷地)に移転しました。その後、明治四年(1871)に、この敷地が新設の京都府中学校に充てられることになったため、府庁は一旦二条城の中に移転します。この京都府中学校は国学、漢学、洋学等を教え、学務局(学校の運営管理を行う機関)の役割も持っていました。そして、敷地の中央に洋風建築の正堂(学務局)を置き、その周囲に四つの教室棟と池を設けていました。

その後、明治十八年(1885)に、京都府中学校は寺町丸太町上るに移転し、京都府庁が再び現在の敷地に戻ることになりました。そして、これらの建物を約十五年間使用し、正堂を正庁に、教室棟を事務室に充てましたが、行政事務の拡大と細分化、さらに官吏の増加によって旧校舎の転用では非常に手狭で、府会の議事堂も無く新しい庁舎の必要性に迫られました。
しかし、ことは容易では有りませんでした・・明治二十七年(1894)第六代知事の渡辺千秋(わたなべちあき)が府庁の新築のために調査を開始するも、知事の交替で中断します。明治三十二年(1899)に、今度は第八代知事の内海忠勝(うつみただかつ)が、工事費四十二万年で府庁舎改築計画を府会に提案しますが、予算超過で否決されてしまいます。
ようやく、翌三十三年(1900)に第九代知事・高崎親章(たかさきちかあき)が工事費を三十三万円余に削減して府会に提案し、条件付で可決となりました。




明治三十四年(1901)四月に建築掛を府庁に設置、九月ボーリング調査を実施、十一月に地鎮祭を挙行し起工しました。設計は文部技師の久留正道(くるまさみち 1855〜1914)の指導の下,京都出身の建築家・松室重光(まつむろしげみつ 1873〜1937)が担当し、外観としては和風建築ではなく、正統派の西洋建築の意匠が求められたため、既に完成していた東京府庁舎や兵庫県庁舎を参考に、より優れた建築を目指して設計されました。
そして、翌三十五年(1902)三月に地上工事を開始。明治三十七年(1904)十二月二十日に竣工、三十八年(1905)一月九日に落成式が行われました。

工期に三年余、総事業費は当時では破格の約三十六万六千円を要して完成した建物は、煉瓦造地上で2階一部地下室付、屋根は天然スレート瓦、延床面積約六千百平方メートルで、創建当時は正庁や知事室、議場、貴賓応接室、議長室等大小五十五室で構成され、中庭には西欧風の整形式庭園として、しだれ桜を中心に中高木が植えられました。
建築の基本モチーフはルネサンス様式に属し、明治30年代の日本を代表するた西洋建築物として、大正期後半までは議事堂を一体化した府県庁舎建築の典型としてそれ以降の建物の模範とされました。また、庭園は明治から大正を代表する作庭師・七代目小川治兵衛(植治)が設計を担当、家具は当時「日本の洋家具の父」と言われた東京の杉田幸五郎が製作納入しています。



その後、昭和四十六年(1971)までは京都府庁の本館として、また、現在も議場は府政情報センター、他の部屋も人事委員会事務局等の執務室や会議室として使用されています・・・こうして創建時の姿を留めて、尚且つ現役の官公庁建物としては日本最古のものとなっています。
近年、建造後約百年が経過する中で、屋根の老朽化が進んだことから、平成九年(1997)から屋根の全面葺替工事を行い、平成十一年(1999)八月に完成しました。

以上のように、京都府庁旧本館は、明治中期の日本人建築家による本格的西洋建築の一つの到達点を示す作品でもあり、現在までその形態を損なうことなく府県庁舎の姿を留めていること、さらに後世の府県庁舎建築の模範となったという歴史的意義があることから国の重要文化財に指定されています。




さて、旧本館の中庭には、初代円山公園のしだれ桜の孫に当たるという枝垂れ桜を中心にピンクや白の花が咲き乱れています。
また、庭の一角には、三本の石の柱が置かれています。この石柱は、庭のアクセントとなる景石として持ち込まれたものと考えられていて、中央の石柱には「天正拾七年(1589)五月吉日」の文字が刻まれています。これらは明治十年(1877)の五条大橋の改修で余った橋脚が京都府庁に移されたと記録されていることから、元々豊臣秀吉が建造した五条大橋の橋脚だったと考えられています。
小川治兵衛(植治)がこのような西洋式の庭園を作庭したというのも以外でしたが、花で埋もれそうな中庭を眺めていると、桜が洋館にも似合うということを改めて感じました。
また、今回は、桜のある中庭中心で、建物内部の写真は少ししか掲載していませんが、雰囲気のある重要文化財の建物の中で、美しい桜の咲く中庭を眼下に仕事ができる府職員さん・・・レトロ好きな私としては非常に羨ましいです。

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前回の京都御苑の近衛邸跡の桜の写真を追加します。

先日のNHK大河ドラマ「篤姫」の最後で、篤姫ゆかりの史跡として、この近衛邸跡が登場していましたが、幕末までこの地にあった近衛邸跡には、池庭の遺構が残っています。

物凄いボリューム感のある桜の木と、池に桜の花が浮かんでいるのが印象的で、思わずたくさん写真を撮ってしまいました。


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