京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

京都御苑周辺

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京都御苑の桜も今が見頃です。

京都御所の紫宸殿の左近の桜で知られるヤマザクラは、山地で見られる野生種で、京都御苑内各地に植えられています。また、御苑の北西の「近衛邸跡」付近と御苑西の「出水の小川」付近には、観賞用のシダレサクラ(イトザクラ)が植えられ、「出水の小川」付近には、観賞用のサトザクラ(ボタンザクラ)も多く植えられています。
写真は「近衛邸跡」付近の様子です。



次回に「近衛邸跡」付近の写真をもう少し追加してみます。

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京都御苑の梅林では、梅の見頃を迎えて連日多くの方が来られています。
この梅林は、御苑の西南にあってそれ程大きくないのですが、散歩やピクニック気分でお弁当を広げるも良しで、誰でも気楽に楽しめます。
最近、急激に気温が上がっためか、ややピーク過ぎの花のも多かったのですが、撮影してみました。
(尚、紅白のコントラストが綺麗な2本のみは、梅林の少し南にあります。)

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上京区新町通上立売下ル上立売町にある三時知恩寺(さんじちおんじ)は、浄土宗知恩院派の門跡尼寺で、北朝の崇光天皇の御所「入江殿」に由来することから「入江御所」ともいわれます。
このお寺も、門跡寺院らしい奥ゆかしさというか、同志社大学の新町校舎に対面しているのですが、知らない人は気がつかずに通り過ぎてしまうかもしれません。(由緒ある門跡寺院として通常非公開ですが、数年前に「京都の冬の旅」で特別公開されています。)


三時知恩寺の創建は、室町時代の応永年間(1394〜1428)、北朝第四代後光厳天皇の皇女・見子(俔子 けんし)内親王(入江内親王)が、一条西洞院(上京区)にあった北朝第三代崇光天皇の御所「入江殿」を賜ったのが始まりと伝わります。見子内親王は深く仏教に帰依し、宮中に安置された唐から招来した善導大師像を賜って本尊として祀りました。そして足利義満の女・覚窓性善尼を開山として知恩寺と称したと伝わります。見子内親王が、浄土教の大成者として知られる唐の高僧・善導大師像を深く信仰したように、三時知恩寺は浄土宗の道場として発展していきます。


その後、第百一代称光天皇の皇女・了山尼公が入寺して、唐僧の善導大師が記した「往生礼讃偈」に基づいて1日を6つに分け、読経や念仏、礼拝を行う「六時勤行(ろくじごんぎょう 六時礼讃)」の道場としたということです。また、「三時知恩寺」という寺号も、この「六時勤行」に由来しています・・・
室町時代末の戦乱期に即位した第百四代後柏原天皇は、仏教に深く帰依し、この宮中で昼夜六時行われる勤行の内、昼間の三時(みとき)はこの寺で修行するように定めたので、寺号を「三時知恩寺」と改めたと伝えられます。
室町末期の正親町天皇の頃(在位1557〜86)に現在地に移ったと伝えられますが、正親町帝即位以前の1520年代代に画かれたとされる現存最古の「洛中洛外図屏風(歴博甲本)」に、近衛邸の傍として既に現在の上立売の地に描かれています。また歴史書「応仁記」の応仁の乱の記述等に拠っても、より早い時期に移転していると考えられるようです。以来、明治維新まで皇女や近衛家息女の入寺が続きました。


現在の入母屋造檜葺きの本堂や書院をはじめとした建物は、江戸時代の天明八年(1788)の天明の大火で焼失した後に、第百十六代桃園天皇の皇女・恭礼門院の旧殿を賜って再建されたものです。
本堂には本尊阿弥陀如来像、側に俊仍が宋から請来したという善導大師像が安置され、書院前には枯山水庭園「蓬莱の庭」があります。
また、寺宝として国の重要文化財に指定されている近衛予楽院(近衛家熙)画像や京都市指定文化財の狩野永納筆の「花鳥風屏風(京都国立博物館寄託)」、丸山応挙の書院襖絵「えり漁図」、石田幽汀筆「松島橋立図屏」、皇室ゆかりの御所人形等を所蔵しています。

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上京区室町通武者小路下る福長町にある福長神社は、昨年、御所周辺の史跡を巡った際に前を何度も通り過ぎてきた神社です。住宅に挟まれた小さな敷地の神社なのでこれまで無視していたのですが、元々は由緒ある神社なので、今回採り上げることにします。


さて、京都御苑の西、堀川通までの間の地域には、いくつかの由緒ある神社があります。
護王神社、菅原院天満宮、霊光殿天満宮です。(霊光殿天満宮は少し前にブログに採り上げました。また、護王神社と菅原院天満宮はかなり以前に少しだけ書きましたが、その内に、もう少しきちんと書いてみたいと思っています。)、今回の福長神社もこの地域にあり、福長町という町名の由来にもなっているのですが、小さいために地図に記載されていないこともあるようです。

福長神社は、福井(さくい)神、綱長井(つながい)神、稲荷神を併せて祀っています。
神社名は、福井・綱長井の二神を合祀することによりますが、稲荷神を合祀したため「福長稲荷」とも呼ばれてきました。(因みに元の祭神が、一般生活に関わりが少ない等でその後信仰されることが少なかった場合は、神社が衰退してしまうため、稲荷や八幡、天神等の有名な祭神を合祀することで信仰者を集め、現在まで存続してきた場合が多いようです。)

さて、現在はこのような小さな神社になっていますが、元々は平安時代に遡る古社でした。
福井神と綱長井神は、平安京の大宮と猪熊の間(一条猪熊)の神祇官西院に祀られていた二十三座中、「座摩巫祭神(いかすりのみかんこのまつるかみ)」五座=(生井神、福井神、綱長井神、波比祇神、阿須波神)内の二座として各々別に祀られていました・・・尚、「座摩」は普通「ざま」と読みますが、正式には「いかすり」と読むのが正しく、土地や住居地を守ることを意味する「居所知(いかしり)」に由来するともいわれ、座摩巫祭神の五神は宮所を守護する役割を持っていました。
福井、綱長井の両神は、生井神と共に宮中内の水神(井戸や泉の神)で、生活に欠かせない飲料水を守護する神としてたいへん重んじられていたようです(福井(さくい)とは幸井・栄井の意味で、井戸水の枯れること無い繁栄を願い、綱長井は釣瓶を吊す綱が長く、深く清い井戸を意味しています。福井神は従四位上、綱長井神は従四位上の神階に至りました)

その後、桃山時代の天正十五年(1587)に聚楽第が造営されると、両神は合祀されて福長大明神としてその敷地内に入ったと考えられています。そして、聚楽第が廃された後に現在地に移されました。天明八年(1788)の天明の大火で焼亡した後は、小さな社地になってしまいましたが、日本でも希な水神としての信仰が篤く、明治以降も無格社ですが公許の神社として取り扱われてきたということです。そして、現在も地元の方によって大事に維持管理されているようです。

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京都市上京区烏丸通り今出川上ル御所八幡町にある大聖寺(だいしょうじ)は、臨済宗系の門跡尼寺で、「御寺(おてら)御所」とも呼ばれる京都の門跡尼寺の最上位に位置する由緒ある寺院です。(特別な拝観を除いて、原則非公開)
この地は、室町時代の将軍足利義満の「花の御所」跡でもあり、直ぐ北隣に近年建てられた赤煉瓦7階建ての同志社大学寒梅館とコントラストを成す古風な姿が印象的です。
大聖寺では現在も「御所ことば」が用いられているといわれますが、学生が多数行き来する街中に(大聖寺の壁沿いには自転車が多数駐輪されている状態)、このような極めて由緒ある寺院が佇んでいることに、京都らしいというか何とも不思議な感覚に陥ります。(冷泉家とかもそうですが。)



御寺(おてら)御所と呼ばれる大聖寺は、山号を岳松山という臨済宗相国寺派の尼門跡です。
開山は無相定円尼(むそうていえんに)=日野宣子(1325〜82 大納言日野資名娘、義満正室日野業子の叔母)です。日野宣子は、無学祖元の弟子・意翁円浄(いおうえんじょう)に参禅して貞治七年(1368)に出家、大聖院無相定円尼と号し、将軍義満によって安禅所として室町邸内に建てられた岡松殿に迎えられました。そして、永徳二年(1382)に無相定円尼が亡くなった後、その遺言によって義満は岡松殿を寺院とし、その法名に因んで寺号を大聖寺としました。
その後は、日本で最初に女性として禅僧となったと伝えられる無外如(むげにょ)大禅尼が弘安八年(1285)年に創建したと伝わる尼五山の景愛寺(けいあいじ)の塔頭となったようで、明応七年(1498)に景愛寺が焼失し衰退した後も、大聖寺はその伝統を継承して現在に至ります。

大聖寺も、創建以来、応仁の乱等の兵火に度々遭って移転を重ねました。一時は長谷(ながたに 現左京区岩倉長谷町)に移転し、文明十一年(1479)に毘沙門町(現上京区)、そして元禄九年(1696)にようやく創建時代の花の御所・岡松殿址だった現在地に戻りました。代々の門跡は,江戸時代末の光格天皇の皇女まで歴代内親王が二十四代450年に渡って入寺し、特に室町時代末の正親町天皇の皇女が入寺した際に、尼門跡寺格第一位の綸旨(りんじ)を受け、以来現在まで尼門跡筆頭の地位を保ってきました。明治以降は公家華族の息女が門跡を継承しています。

境内南にある枯山水の庭園は、現在の地に戻った翌年の元禄十年(1697)、前年に亡くなった明正天皇の形見として、天皇の河原御殿の資材を移して作庭されたもので、その後に改修されているようですが、東西に約30mある枯流れを中心にした御所風の優美な庭になっています。江戸時代中期の作庭記録が残るすぐれた意匠の庭園として貴重なもので京都市指定名勝に指定されています。
また、宮御殿は光格天皇(在位1780〜1817)の皇女入寺の際に千両を下賜されて御所風に建立されたもの、本堂は昭和十八年(1943)に青山御所より移築されたものです。
寺宝として、重要文化財指定の弘安四年(1281)自賛の一翁院豪画像、弘安九年(1286)の無外如大自筆の譲状があります。また、歴代の尼門跡遺愛の調度品や御所人形、衣裳、宸翰等皇室ゆかりの品々が多数残されているということです。また玄関前庭の壁沿いには花の御所跡を記す石標が置かれています。





さて、長くなりますが、今回は「花の御所」について書いてみます。

日本の歴史区分としての「室町時代(1336〜1573)」は、京都の「室町」と呼ばれる地域に幕府が置かれ、「室町殿(むろまちどの)」、「室町第(むろまちだい)」、「室町御所」等と呼ばれたことに由来しています。京都を中心とした武家政権が誕生したのは初めてで、朝廷との関係を含めて色々複雑な政治状況があった時代として知られます。
さて、足利政権では、南北朝時代には初代将軍足利尊氏は二条高倉、二代足利義詮はその後新築された三条坊門万里小路(現中京区柳馬場通・御池周辺)にあった「三条御所」に住み、三代義満も当初は三条御殿を住まいとしていました。一方、北小路(現今出川通)室町と呼ばれる地域には、それ以前に北朝第三代の天皇だった崇光(すこう)上皇の仙洞御所(=上皇の御所)がありましたが、永和三年(1377)に焼失し、その後跡地に建てられた菊亭(今出川)公直の邸宅(今出川殿)も焼失しました。


義満はこれらの遺構を利用して、室町に新しい御所を造営したようです。
義満は、永和四年(1378)三月に、まず北小路亭(菊亭跡地を中心とした地域 下御所、南御所)と呼ばれる新しい邸宅を完成させて三条御所から移り、さらに康暦元年(1379)、その北の花亭と呼ばれた邸宅(院御所跡地を中心とした地域 上御所、北御所)に移りました。
康暦二年(1380)六月には両邸宅はほぼ完成し、翌永徳元年(1381)三月には後円融天皇が行幸しています。邸宅内には鴨川の水を引いて一町余の池を造り、その周辺には多くの花が植えられていました。この庭園の美しさからも、両邸宅を合わせて「花の御所(また全体として「花邸」とも)」と呼ばれました。義満はこの華麗な邸宅に天皇以下公卿達を招いて蹴鞠や詩歌・管弦などをしばしば催したのでした。


この「花の御所」の範囲は、南は北小路(きたこうじ)、北は毘沙門堂大路(びしゃもんどうおおじ、現上立売通)、東は烏丸小路(からすまこうじ、現烏丸通)、西は室町小路(現室町通)の東西一町・南北二町(東西約110m、南北約220m)と考えられていて、
現在の今出川町・築山南半町(つきやまみなみはんちょう)・築山北半町・岡松町・御所八幡町(ごしょはちまんちょう)・裏築地町(うらつきじちょう)・上立売東町(かみだちうりひがしちょう)にあたるということです・・・地図上で確認してみると、烏丸通を挟んで隣の同志社大学&中学キャンパスを合わせたより小さいことに気がつきます。
日本の歴史上、これほど小さな区域(もちろん室町御所があったからですが)の名前が一つの時代=室町時代の名称となったことに驚きますが、これでも当時の天皇(当時は北朝)の御所の倍ほどの大きさだったようで、天皇の御所を意識して、より大きな権力を持っていること示すために倍の大きさで築いたと考えられています。そして、ここが紛れもなく当時の日本の政治・文化の中心地だったのでした。



補足というか、御所の変遷についてです・・・
平安京時代の内裏(皇居=天皇の住い)は現在の京都御所から約2km程西にありましたが、平安中期頃からは度重なる内裏の焼失によって、主に藤原氏等の摂関家の邸宅を一時的に皇居とする「里内裏」が置かれるようになり、安貞元年(1227)の火災以後は、元の位置に内裏が再建されることはなかったということです。
現在ある京都御所の直接の元となったのは、この里内裏の一つ「東洞院土御門殿(ひがしのとういんつちみかどどの 土御門東洞院殿とも)」です。
元弘元年(1331)、北朝の光厳天皇がここで即位して御所とし、その後南北朝合一によって名実ともに皇居に定まり、以降明治時代までの約500年間、歴代天皇の住まいとなりました。その間、度々火災に遭って再建されながら徐々に拡充されました。また桃山時代から江戸時代には、御所周辺には宮家や公家たちの屋敷が集められて公家町が形成されることになります。そして、明治時代になって、御所を囲む旧公家町全域を公園化して現在の京都御苑として整備されました・・・
とにかく義満の時代には天皇の御所は、現在の京都御所の数分の一の小さなものでした。(「京都御苑」ではなく、「京都御苑」の中心にある「京都御所」の大きさと比較してです。)




さて、応永元年(1394)、義満は将軍職を子の義持に譲って隠居しますが、政治の実権は握り続けました。応永四年(1397)に西園寺家から京都北山の別邸を譲り受けて「北山第(北山殿)」を造営し、室町第から移り住みます。こうして政治・文化の中心地は北山第に移ったのでした。
また、父義満と不和だった四代将軍義持は、義満の死後に父の築いた室町第から三条坊門に移り住んでいます。その後、父嫌いの兄と違って父義満の政治を自らの手本にと考えていた六代将軍義教は、永享元年(1429)に室町第の御会所と御会所泉殿を増築し、永享三年(1431)から数年をかけて庭園に至るまで全面的な増改築を行いました。こうして再び室町第が政治・文化の中心地となり、永享九年(1437)には後花園天皇が行幸しています。

その後、八代足利義政の時代にもさらに新邸を建造し、長禄三年(1459)十一月に室町新邸に移っています。応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱では、東西両軍が室町第周辺で衝突したことは良く知られています。その後、義政は、文明五年(1473)に子の義尚に将軍職、翌六年(1474)には室町新邸を譲って、今出川の小川御所に移りました。しかし、文明八年(1476)には室町第周辺に集まっていた土倉・酒屋に放火され室町第も全焼してしまいました。

文明十一年(1479)には、管領畠山政長を惣奉行として造営が開始され寝殿を造りますが、翌年に再び類焼し、文明十三年(1481)にまたもや畠山政長を惣奉行として造営が開始されたようです。しかし記録が少なくどの程度まで再建されたかは不明です。
同年、義政は小川御所を出て岩倉長谷に隠居して、翌文明十四年(1482)から東山殿の造営を開始、一方、将軍義尚は、室町第焼失後に伊勢貞宗邸を住まいとしていましたが、義政不在の小川御所へ移っています。その後は政治の実権は細川氏に握られて戦乱相次ぎ、十代将軍義稙(義材)と十一代将軍義澄の対立など将軍自身が各地を流浪する状況では室町第の再建などできるはずもありませんでした。

十二代将軍義晴は、大永五年(1525)に北小路の御所の西北方に柳原御所を造営しますが、やはり実権を握る細川晴元に圧迫されて、近江への逃亡と京都への帰還を繰り返します。それでも、義晴は、天文十一年(1542)、束の間の京都帰還の間に室町第の再建を始めます・・・これが室町第の最後の再建になりました・・・
天文十五年(1546)にその跡を継いだ十三代義輝は、父と同様に近江周辺での亡命生活を繰り返し、再建された室町殿はほとんど使われることはありませんでした。結局、義輝は永禄二年(1559)に新たに二条新邸、永禄三年(1560)さらに近衛御所を造営し移転しました・・・こうして、「花の御所」の時代は終わりました。

尚、その後、永禄十一年(1568)、織田信長が十五代将軍として足利義昭を奉じて入洛した時は、当初、義昭は本圀寺を仮御所としていましたが、翌永禄十二年(1569)に信長によって旧二条城(二条御所)が造営されています。

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