京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

京都御苑周辺

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

鞍馬口地蔵(上善寺)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

寺町今出川〜鞍馬口のお寺を、南から順に北へと書いてきましたが、ようやく鞍馬口通に達して今回で終了です。この鞍馬口通に面しているのが上善寺(じょうぜんじ)です。


北区鞍馬口通寺町東入る上善寺門前町の上善寺は、京都の六地蔵の一つの「鞍馬口地蔵」として知られるお寺です。京都では「京都六地蔵巡り」といって、毎年8月22・23日に京都周辺の六ヶ所の地蔵菩薩を巡って、無病息災や家内安全等の祈願をこめてお参りする行事があります。参詣者は、六つの地蔵菩薩にお参りして各寺で頂いた六色の御幡を家の入り口に吊るし護符とします。

六地蔵です・・

○伏見地蔵(大善寺)(伏見区桃山町西山・旧奈良街道)

○鳥羽地蔵(浄禅寺)(南区上鳥羽岩ノ本町・旧大坂街道)

○山科地蔵(徳林庵)(山科区四ノ宮泉水町・旧東海道)

○桂地蔵(地蔵寺)(西京区桂春日町・旧山陰街道)

○常盤地蔵(源光寺)(右京区常盤馬塚町・旧周山街道)

○鞍馬口地蔵(上善寺)(北区鞍馬口通寺町東入る上善寺門前町・旧鞍馬街道)

この六地蔵は、平安時代初期に、歌人の小野篁が亡くなって冥土へ往き、そこで生身の地蔵菩薩を拝して甦った後で刻んだ地蔵菩薩六体であると言われ、当初は六体とも宇治の木幡(こはた)の里に祀られていました。そのため、その一帯が「六地蔵」と呼ばれるようになり、現在に至ります。その後、保元二年(1157)後白河天皇が平清盛に命じて、京都に疫病が侵入しないようにと祈願させ、京都周辺の交通要所の六ヶ所に一体ずつ地蔵を安置させたと言うことです。





さて、上善寺は、千松山遍照院(せんしょうざんへんしょういん)と号する浄土宗の寺院で、平安時代の貞観五年(863)、延暦寺の慈覚大師円仁により、天台密教の道場として、千本今出川(上京区)に創建されたと伝えられています。その後衰退しますが、室町時代の文明年間(1469〜87)に、春谷盛信(しゅんこくせいしん)によって再興され、後土御門、後柏原両天皇の授戒を行ったことにより再び栄え、後柏原天皇により勅願所不断道場に定められました。
その後文禄三年(1594)、第十二世善照上人の時に秀吉の命により現在の地に移り、また第十三世肝誉上人が浄土宗に改め、また正徳二年(1712)に越前藩松平家の菩提所となりました。
境内墓地には越前松平家や、今出川家、四条家、冷泉家、鷲尾家など旧華族の墓、幕末の禁門の変で戦死した長州藩士の首塚があります。





本尊の阿弥陀仏坐像は、行基菩薩作とも伝えられ、寛永十一年(1634)に嵯峨今林蓮華清浄寺から移したものです。
地蔵堂に安置されているのが、「京都六地蔵巡り」で知られる地蔵菩薩で、小野篁が冥土から甦って刻んだ六体の地蔵の一つと伝えられ、「鞍馬口地蔵」、「深泥池地蔵」、「姉子の地蔵」等と呼ばれ親しまれています。この地蔵は、当初の宇治の小幡の里から保元年間(1156〜59)に、洛北の御菩薩池(深泥池)の畔に祀られ、さらに上善寺に移されたものということで、毎年8月の22・23日の両日の六地蔵巡りでは多くの参拝者で賑います。上善寺は六地蔵巡りの札所の中でも一番境内の広いお寺でもあり比較的ゆったりとお参りできるようです。(写真)

また、地蔵堂の周りにも多くの地蔵尊などの石仏が並んでいます。(写真)他に山門の付近には高さ1.6m程の鎌倉時代中期頃に造られた大日如来坐石仏が祀られています。(写真)





六地蔵巡りとは別に、普段このお寺を訪れる人がいるなら、その人は多分幕末ファンでしょう。
高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿と共に吉田松陰門下の四天王と呼ばれた入江九一ら長州藩士の首塚がお目当てだと思います。(写真)
元治元年(1864)七月十九日の禁門の変の際、長州藩兵は、薩摩・会津・彦根・越前等諸藩兵と戦いました。御所の鷹司邸附近では入江九一らが越前藩との戦いで戦死しました。
戦の後、当時堺町御門の警衛隊長であった越前藩士・桑山十蔵が敵軍だった入江九一、原道太、半田門吉、奈須俊平、田村育蔵、緒方弥左衛門、小橋友之輔と無名の藩士1人の合計8人の死体を、主君松平春嶽の許しを得て、越前藩の菩提寺上善寺に葬りました。
それ以来そのことは忘れられていましたが、明治三十八年(1905)、福井県人の田辺政之助という人物が偶然この墓のことを知って、旧長州藩主毛利家に知らせ、毛利家では塚周辺を整備し明治四十年(1907)顕彰碑を立てました。入江九一の正四位をはじめ以下各人に従四位、正五位が贈られています。

尚、この長州藩士の首塚は、墓地の西南にあります。山門を入ってすぐ右が墓地になりますが、墓地への入り口は通常閉ざされているので、一旦お寺の方に申し出て堂内を通らないと行けませんのでご注意。(お寺の方も、首塚見学者は多いので慣れておられるので大丈夫です。)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

これまで寺町通りに並ぶお寺を連続で採り上げました。多くお寺は境内が整った印象でしたが、今回の天寧寺(てんねいじ)も綺麗な境内です。
そして山門から覗くと、比叡山が正面に見えます・・・この山門を額縁に見立てての眺望の素晴らしさから、この山門は「額縁門」と呼ばれ親しまれています。
一般的な京都ガイドには出て来ませんが、「額縁門」は観光の穴場といった感じでしょうか。また、天寧寺は、この前の阿弥陀寺と同様に、以前「京都の冬の旅」で観光客向けに特別拝観を行ったことのあるお寺ということです。





さて、北区鞍馬口通寺町下る天寧寺門前町にある天寧寺は前回の西園寺の隣ですが、ここから北区になります。(西園寺は上京区)このお寺はHPがあるので少し引用させていただきます。

天寧寺は、山号を萬松山と号し、曹洞宗に属するお寺です。
京都の寺院には珍しく、元々は南北朝時代に創建された福島県会津若松市東山町にあったお寺で、開山の傑堂能勝(けつどうのうしょう)和尚は楠正成の八男とも言われます。しかし、戦国時代の天正十四年(1586)米沢から伊達政宗が会津へ侵入し、葦名氏や二本松、白河、二階堂、石川諸氏と戦闘を繰り返し、兵火に遭った天寧寺は全焼してしまいます。
当時の十世住職・祥山曇吉和尚は、戦乱の続く会津での再建を諦め焼け残った本尊や寺宝等を収拾し、京都の寺町頭にあった天台宗松蔭坊の遺跡と言われるこの地に移転したと伝えられます。祥山和尚及び弟子の光吉和尚の努力により文録年間以降(1592〜96)に会津の上杉家家老・直江兼続や京都所司代・板倉勝重らの援助を得て堂宇を整えることに成功し、後陽成天皇や後水尾天皇の帰依を受けたと伝わります。

現在の本堂は天明八年(1788)年の天明の大火で全焼した後の再建で、六間取りの大きな本堂は文化九年(1812)、書院は天保十四年(1843)、山門は嘉永二年(1849)の再建です。これら本堂、書院、表門は江戸時代の伽藍の様子を良く伝え、京都市内には数少ない貴重な曹洞宗の近世寺院建築として京都市指定有形文化財になっています。
本堂には、仏師春日作と伝えられる本尊釈迦如来像を、また観音堂には後水尾天皇の念持仏の十一面聖観音菩薩像、東福門院の念持仏の薬師如来像を安置しています。他に寺宝として「馬祖寵居士問答図(重文指定)」をはじめ金森宗和像、野々村仁清作の「銹絵水仙図茶碗」等があるようです。
また境内墓地には、江戸時代前期の茶人として有名な金森宗和、剣道示現流開祖と言われる善吉(ぜんきつ)和尚の墓があります。





せっかくなので金森宗和の墓を見ることにしました。
宗和流茶道の祖・金森重近(宗和)(1584〜1656)は、飛騨高山城主金森可重の長男で、祖父も信長・秀吉に仕えた武将として知られる長近です。祖父も父も千利休門下の茶人という環境に育った宗和は、秀吉や家康に仕えた後、慶長十九年(1614)30歳の時に父から勘当を申し渡され、家督は弟重頼が嗣ぐことになります。勘当の理由は不明ですが、大阪の陣に豊臣方に加担しようとしたとか、何らかの政治的配慮があったとも考えられているようです。
こうして相続権を失った宗和は、母親の室町殿(京都の室町に住んだため呼ばれます。美濃の武将・遠藤慶隆の娘。ちなみに遠藤慶隆は、山内一豊の妻・千代(見性院)の兄とも言われます。母親もこの時離縁されたため、宗和が面倒を見ていくことになります。)と共に京都に移り住み、大徳寺で禅を学び、剃髪して宗和と号しました。その後公家との交友を介して禁中にも出入りし、茶人としての名声を高めます。

宗和の茶道は「姫宗和」と呼ばれるように優雅で上品な茶風で特に公家中心に大きな影響を与えました。手掛けた茶室・庭園には、前に出てきました大徳寺真珠庵の庭玉軒、麗苑寺の夕佳亭、興福寺慈眼院の六窓庵(東京国立博物館に移築)などがあり、大原三千院の客殿前の庭・聚碧園も宗和の作として知られます。こうして京都文化に大きな影響与えた金森宗和は、明暦二年(1656)、73歳で没しました。天寧寺には宗和の5年前に亡くなった母室町殿と寄り添うように墓があります。(左が母、右が宗和の墓)

また本堂の前の栢(カヤ)の大木は、樹高16.2m、最大周囲4.78mあり、頂には落雷の跡があり、幹には天明の大火の際に受けたと思われる傷跡があります。この「天寧寺のカヤ」は京都市内有数のカヤの大木として京都市登録の天然記念物」に指定されています。




天寧寺と言えば、やはり寺町通から比叡山が額の中に納まったかのように見られる「額縁門」が一番有名かと思います。四季で色々な表情が楽しめるかもしれませんので、機会があれば覗いてみてください。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

京都市北区鞍馬口通寺町下る高徳寺町にある西園寺は、宝樹山竹林院と称する浄土宗寺院ですが、その名前通り藤原北家の流れをくむ公家、西園寺家の名前の元となったお寺でもあります。



西園寺は、鎌倉時代の元仁元年(1224)に太政大臣・藤原(西園寺)公経(きんつね)が、京都の葛野郡北山の衣笠山の麓(現在の金閣寺付近)の山荘北山第に、山を背にして苑池を造り、池畔に本堂や寝殿等の豪華な堂宇を建て西園寺と称したのが始まりです。
また以降、公経の子孫らはこの北山第を領有し、この菩提寺の名前にちなんで西園寺を家名とします。

西園寺家は、鎌倉時代を通じて幕府に接近して朝廷と幕府の間を調整する関東申次を世襲して権勢を握りますが、大覚寺統と持明院統による皇位継承争いの際には持明院統に加担したため、大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼすと西園寺家の権限は縮小されました。これに対し危機感を持った時の大納言・西園寺公宗は北条氏の残党と謀り、後醍醐天皇を北山の山荘に招いて暗殺しようと企て失敗、謀反の罪で処刑されました。こうして西園寺家は南北朝時代に一時衰え北朝に仕えます。




その後、足利三代将軍義満が北山の地を気に入って、西園寺家にこの地を所望して造営したのが北山殿(後の鹿苑寺=金閣寺)になります。一方、北山から室町頭(上京区)に移された西園寺は、天正十八年(1590)に秀吉の命により現在の地に移ります。
現在の本堂は天明の大火(1788)後の再建で、本堂正面には、明治から昭和に活躍した政治家(第12代、第14代総理大臣)西園寺公望の筆による寺号の額が掲げられています。(写真)
また堂内には恵心僧都源信作とも伝えられる本尊木造阿弥陀如来坐像(重要文化財)が安置されています。




境内入口付近の地蔵堂には、旧地北山にあった功徳蔵院の遺仏と伝える地蔵菩薩蔵を祀っています。(写真)地蔵堂の内側の壁には恵心僧都(源信)の「往生要集」に由来する地獄・極楽の図が描かれています。
また境内には妙音弁才天堂があります。(写真)
弁財天は、日本では財宝の神様として七福神の一人に数えられていることで知られますが、妙音天とか美音天とも呼ばれ、元は学問や弁舌音楽などを司るインドの神様で、手にしている琵琶が弁財天の象徴になっています。
元々、西園寺家は、代々天皇や上皇に琵琶の秘曲を伝授していた琵琶の宗家の家柄で(前に、西園寺家と関係する上京区出町にある妙音弁才天と京都御苑内の白雲神社を採り上げた時に少し出て来ました)、開山の西園寺公経が北山第に西園寺を創建した際に妙音堂を建てて弁財天を祀って以降、琵琶の相伝も妙音堂で行われるようになったということです。以降、弁才天は江戸時代には御所の西園寺邸に祀られてきましたが、明治以降は民間にも広く信仰されるようになりました。西園寺では創建以来このように弁財天を祀っているそうです。

また、開山堂には西園寺を創建した藤原(西園寺)公経の木像が祀られています。
公経は、晩年に栂ノ尾(とがのお)高山寺の明恵上人を戒師として出家しました。また歌人として小倉百人一首の詠み人としても知られ、「新古今和歌集」には114首の歌が選ばれています。(写真)
また、墓地には西園寺家代々のほか,下鴨神社の祠官で歌人としても知られる梨木祐之・祐為らの墓があるようです。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

上京区寺町通今出川上る鶴山町に並ぶお寺が続いています。
前回の少し寂しげな足利義教の墓のある十念寺の北隣にあるのが阿弥陀寺です。
こちらは足利義教と違って人気の織田信長の墓があるので、休日、平日に関係なく信長ファンがチラホラ訪れています。有名な本能寺よりははるかに少ない人数ですが、ベストセラーになった「信長の棺」の効果もあって以前より脚光を浴びているようです。
前にも阿弥陀寺の信長の墓を採り上げていますが、この阿弥陀寺の墓は、全国に20ヶ所以上有る信長の墓・供養塔の中で、唯一本物の信長の遺骨が納められた可能性のある墓としても知られているので、再度書いてみます。




京都市の掲示板によれば、阿弥陀寺は、蓮台山と号する浄土宗寺院で、本尊は丈六の大きな阿弥陀如来を祀っています。創建は、天文年間(1532〜54)、清玉(せいぎょく)上人が近江(滋賀県)の坂本に開創しました。その後、永禄年間(1558〜70)織田信長の帰依を得て京の地に移し、当初、西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)に大きな境内(八町四方)と塔頭十一ケ寺を構えていたということです。また正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、東大寺大仏殿の勧進職を命じるとともに、当寺を勅願所としていました。
さて、清玉上人は織田家と深い親交があったため、天正十年(1582)六月二日の本能寺の変の際、本能寺等に駆けつけて、信長、信忠父子及び家臣百有余名の遺骸を阿弥陀寺に埋葬したと伝わり、本堂には織田信長、信忠父子の木像等が安置されています。その後、天正十五年(1587)に、秀吉の命で、蓮台野から現在の地に移り、また京都四十八願寺巡拝の十六番札所になっています。





寺伝によれば、明智光秀が謀反を起し本能寺に攻め寄せているという報せを聞いた清玉上人は、塔頭の僧徒20人余りを引き連れて本能寺に駆けつけました。
既に本能寺は明智軍により四方を囲まれていて表門からは境内に入る事は出来なかったので、裏道よりなんとか境内に入りますが、既に堂宇に火が放たれ、信長は切腹した後ということでした。
見ると近くの竹林に10人ほどの武士が集まって火を焚いています。彼らは信長の家臣達のようだったので、上人が彼らに顛末を聞くと、信長は切腹する時に、必ず死骸を敵に渡すなと遺言されたのですが、四方を敵に囲まれ死骸を抱いて逃れる事が出来ないので、やむなく火葬にして隠し我々は各自自殺しようとしているというだということでした。
上人は、私は信長公とは格別の由縁ある者なので、火葬はもちろん、将来の御追悼をしましょうといって武士達に乞い、各々自殺するよりも、むしろ信長公の為に敵と戦って戦死する方が公も望まれるでしょうと語ると、(信長の供養を頼んだ安心もあったのでしょう。)武士らも大いに喜んで、門前の敵と戦っている隙に、上人は火葬した白骨を法衣に包んで、本能寺の僧徒らが逃げるのに紛れてうまく帰寺する事が出来たのでした。そして白骨を深く土中に隠し置いたということです。また二条城で戦死した長男信忠の遺骨や本能寺の戦死者の遺骨も同様に持ち帰り葬りました。

その後、秀吉が信長の遺骨の行方を聞き、信長の一周忌を行おうと清玉上人に法事を頼んだ所、上人は信長亡き後の秀吉の振舞いは織田家の乗っ取りを狙うもので、信長の一周忌を自分のために利用しようとしていると嫌い、秀吉の申し出を断ったということです。
怒った秀吉は、結局、紫野大徳寺境内に一寺(信長公の法名を採って総見院)を建立し、遺骸が無いので信長の木像を二体作りそのうち一体を火葬にし一体を寺に祀ることにしました。阿弥陀寺は、天正十五年(1587)に、秀吉の命令で、蓮台野から現在の地に移されますが、秀吉の恨みを買っていたので広大な寺域を削られたとも伝えられます。

これらのエピソードからは真実に近い部分も感じられます。
信長の死体が本能寺の焼け跡から発見されなかったということは事実と考えられているので、何らかの形で(遺骸はともかく)火葬された遺骨という形であれば持ち出すことも可能だったでしょう。
秀吉が阿弥陀寺に法事を頼んでいることからも、阿弥陀寺にはこの件に関して何らかの関わりがあったのかもしれません。ただ信憑性に疑問を感じさせるのは、信長以外の信忠や森蘭丸以下の家臣の遺骨までくまなく回収するという点でしょう・・ただ彼らのお墓が阿弥陀寺にあるのも事実ですが・・・。
真偽はともかく、信長の骨を埋葬したという記録のあるお寺は他に無いだけ注目したいお寺です。




さて、阿弥陀寺の墓地には、信長・信忠父子の墓の他に、本能寺の変で討ち死にした家臣・森蘭丸、坊丸、力丸の三兄弟の墓(写真)、その他猪子兵助ら12名の家臣の墓があると言うことですが各々の確認は難しいです。一応、奥に本能寺の変の討死衆の合葬墓や織田一族の墓(江戸期の一族の名があります)があります。(写真)
その他墓地には、儒者皆川淇園、俳人蝶夢の墓等があります。
また、信長・信忠の木像を祀る本堂は普段は公開されていませんが、6月1〜2日に信長忌が行われ、その際に一般公開されているようです。本能寺のような大きな墓では無いですが、信長ファンであればこちらの方にこそお参りするべきでしょうか。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

上京区寺町通今出川上る鶴山町に並ぶお寺の中で、まず目を引くのが十念寺の本堂です。
コンクリートの教会のような造りで、お堂の中を少しガラス越しに見ると仏様が聖母子像のように見えるから不思議です。織田信長時代の南蛮寺のイメージを思わせるこの斬新な建物は、建築家でもある大阪市天王寺の一心寺の高口恭行住職の設計により,平成5年(1993)に完成した近代的な寺院建築です。一心寺は劇場のあるユニークな寺院ということで、十念寺も不思議な感じがするお寺です。





さて、十念寺は、華宮山宝樹院と号し、浄土宗西山光明寺派に属しているお寺です。
室町時代の永享三年(1431)に、後亀山天皇の皇子・真阿(しんな)上人が、足利六代将軍義教の帰依を受け、当時元誓願寺小川にあった誓願寺の山内に住房宝樹院を建てたのが始まりということです。その後、宝樹院が十念寺に改まった経緯は不明ですが、天正十九年(1591)秀吉の命により現在の地に移転しました。
本堂の本尊・阿弥陀如来座像は、弘法大師空海作とも恵心僧都源信作とも言われる平安時代の作で、東山にあった雲居寺(うんごじ)から移したと伝わります。その他本堂には開基真阿像を安置し、寺宝として室町時代の説話絵の仏鬼軍絵巻一巻が重要文化財に指定されています。(京都国立博物館寄託)、また境内には豊臣秀吉に仕えた医師施薬院全宗、儒医曲直瀬道三、足利六代将軍義教の墓等があります。





このお寺に観光で来られる方は、足利義教か、医学関係で曲直瀬道三&施薬院全宗に興味のある方がほとんどと思いますので、少しだけ足利義教から・・。

 室町幕府の六代将軍足利義教は、はじめ僧籍にあり青蓮院門跡として義円と称しましたが、兄の四代将軍義持が子の五代義量が早世した後、後継者を定めずに死去したことから、僧籍にあった弟3人を含む後継者候補の中からくじ引きによって次期将軍と決まり還俗しました。
義教の治世は専制的な政治で知られます。くじで将軍になれなかった弟の義昭(大覚寺義昭)が南朝と結んだ反乱を鎮圧し、大内氏に命じ九州の大友、少弐氏を平定。また比叡山延暦寺を攻撃し僧を惨殺。永享の乱で宿敵・関東公方足利持氏を倒し、結城合戦で持氏の残党と結城氏朝らを鎮圧。また南朝勢力の中心北畠満雅の反乱を平定し、土岐持頼、一色義貫等を謀反の罪で討伐殺害しました。また側近も伊勢貞経が失脚自殺、相続争いに乗じられ重臣畠山持国も隠居に追い込まれたように「万人恐怖の世」と恐れられる独裁ぶりでしたが、ついに、将軍にやられる前に・・と恐れた播磨守護・赤松満祐によって暗殺されてしまいました(嘉吉の乱)
結局、信長を連想させる強権政治で将軍の権威を回復したにもかかわらず、信長の死後には秩序ある近世が生まれたのに、義教の死は長い分裂と騒乱の始まりでしか無かったことから、義教の評価は低いのでしょう。

さて、義教の首は赤松氏により播磨へ持ち去られ、遺体は等持院へ運ばれ葬儀が行われました。突然の将軍暗殺のショックから幕府の重鎮らも情勢を窺い、葬儀には主だった守護大名の参列は無かったということです。その後、首は相国寺の季瓊真蘂(きけいしんずい)上人により京都へ戻されたと伝わります。尚、足利義教の菩提のために、嘉吉二年(1442)に室町幕府の重鎮のひとり細川持賢が建立した大阪の崇禅寺と、将軍を殺害後、赤松満祐が本国播磨へ首を持ち帰り盛大な葬儀を行い葬ったという安国寺(兵庫県加東郡東条町)の2ケ所に義教の首塚が伝わります。
十念寺の足利義教の墓は、付近の墓に比べても小さい五輪塔で、将軍の墓とは思えないものです・・ただ花が添えられていたのが救いでしょうか。

一方、十念寺には安土桃山時代の医師・曲直瀬道三(まなせどうさん)の墓があり、顕彰碑も建立されていて、こちらの方は日本の医学中興の祖として忘れられていない存在です。
曲直瀬道三は、永正四年(1507)京都に生まれ、幼少時代に父母を失うなど苦労を重ねながら、医学に目覚め、ついに天下の名医として名を成しました。足利13代将軍義輝、正親町・後陽成両天皇、織田信長、その他戦国大名の診療を行い「医聖」と称された程の人物です。また数百人の弟子達と共にキリシタンの洗礼を受けて、都でも大きな話題となったそうです。





とにかく、十念寺のお墓はわかり難いです。
以前に来た時は、京都一お墓探しが難しいという印象で、まったく見つかりませんでした。
もちろん標示は無く、広い墓地なので案内が無ければ1時間探しても見つからないと自信を持って言えます。今回、足利義教の墓はHPで義教について書かれている方の写真を参考に、なんとか自力で見つけることが出来ました。
しかし、曲直瀬道三の墓はお寺の方に案内を請いました・・以前に訪れた時は、留守番のお婆さんしかいなくて、入り口付近と聞いていますという返事・・・結局それは道三の顕彰碑(写真 これはすぐわかります。)だったということがあったので、今回は無駄な事をしないで案内を頼みました。それでもお寺の方も確かこの辺り?・・状態でやっと判明。秀吉に仕えたもう一人の名医・施薬院全宗の墓はもう案内してもらうのも遠慮で諦めました・・。

今回、足利義教と曲直瀬道三の墓の写真を掲載します。背景の建物やブロック塀、椿の木等参考に自力で発見できるように撮りましたので、ご興味のある方は参考にしてください。場所は共に墓地の東北方向、壁に近いラインで見つかります。道三の墓には細い石標も立っていますので確認ください。


.
hir**i1600
hir**i1600
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事