京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

京都御苑周辺

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本満寺、佛陀寺、十念寺、阿弥陀寺、西園寺、天寧寺、上善寺・・上京区の寺町今出川〜寺町鞍馬口にかけて南から北へ、主なお寺の並びです。
この地域のお寺は桃山時代に豊臣秀吉の命で移転させられてきたお寺が多く、観光寺院はありませんが、話題性のあるお寺も多いので連続で簡単に採り上げてみます。
本満寺は、前に山中鹿之介の墓があるお寺として紹介しましたので、佛陀寺からです・・と言っても、佛陀寺はこれらのお寺の中でも最も話題が無いのでついでという感じですが。




京都市の案内板によれば、寺町通り今出川上る鶴山町にある佛陀寺(仏陀寺 ぶっだじ)は、大蔵院とも号し、平安時代の朱雀、村上両天皇を開基とする歴史ある勅願所で、現在西山浄土宗のお寺です。
天慶九年(946)、朱雀天皇は、弟の村上天皇に皇位を譲位した後、父帝・醍醐天皇の菩提を弔うために、日蔵道賢上人を戒師(出家者に戒を授ける法師)として落飾し、「佛陀寿」と号しました。そして平安京の大通・朱雀大路にあった仙洞朱雀院で日々仏事に努めました。
朱雀天皇の崩御後、村上天皇は仙洞朱雀院を寺院として改め、先帝の遺志をついで別院大蔵院を創建し、先帝の法号にちなんで佛陀寺と名付けました。

その後、佛陀寺は応仁の乱で焼失し、邦諌上人が後土御門天皇の帰依を受け、文明八年(1476)に土御門西洞院に再興して以来、天皇の勅願所となり、浄土宗西山西谷流の寺院となります。その後、天正十九年(1591)頃、秀吉の御土居築造により現在の地に移りました。現在の建物は万治四年(1661)と天明八年(1788「天明の大火」)の2度の大火で類焼した後の再建と言うことです。
尚、本尊は平安時代後期の作と推定される木像阿弥陀如来坐像で、定朝様式の端正な仏像と言うことで重要文化財に指定されています。境内は整った印象で、緑が多く椿その他の花が咲いていました。また門前横には近年王城地祭地蔵尊が造られています。

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上京区寺町通り広小路上ル北之辺町にある本禅寺(ほんぜんじ)は、法華宗陣門流の大本山で、山号は光了山(こうりょうさん)といいます。京都御苑の東には、北から本禅寺、清浄華院、廬山寺と3つのお寺が並んでいて、これまで他の2寺は採り上げたのですが、本禅寺はどうしようか迷いました。
一般的にはマイナーなお寺だからですが、法華宗の大本山でもあり、大久保彦左衛門のお墓があるということで書いてみます。




さて、本禅寺は、応永十三年(1406)、日陣上人が本國寺の法兄日伝上人との法論の結果、分立して四条堀川油小路に創立したお寺で、その後、法華宗の洛中二十一ケ寺の一つとして栄えますが、これまでも何度も出てきました・・天文五5年(1536)の「天文法華の乱」で比叡山延暦寺の攻撃を受けて焼失します。堺に逃れた後帰洛を許され、天文九年(1540)五世日覚上人が後奈良天皇から永代勅願寺の綸旨を賜り、西陣の知恵光院通今出川上ル桜井に再建します。
その後、豊臣秀吉の命により天正十九年(1592)に現在の場所に移りました。江戸時代の天保十年(1839)に有栖川宮家の祈願所にもなりました。現在の本堂は天明八年(1788)の天明の大火で焼失した後に、嘉永五年(1852)再建されたもので、その後大正十二年(1923)にその他堂宇と共に再建されています。また明治十七年(1884)、勅願所だった故に明治政府より、菊花紋章入り幔幕と提灯2張を贈られ、永代定紋使用を許されたということです。

立像堂に日蓮上人の念持仏の釈迦如来を祀り、また梵鐘は慶長十一年(1606)の銘があるものです。この鐘は豊臣秀頼が摂津(大阪)の法安寺(生玉大明神)に奉納した後、大阪の陣で徳川勢の陣鐘として使用され、戦後大久保彦左衛門忠教によって当寺に納められたと伝わります。寺宝として後深草天皇、伏見天皇、寛性法親王(仁和寺)の消息が重要文化財に指定されその他多くの寺宝を所蔵しています。
また、境内の墓地には、大久保彦左衛門忠教、甥の大久保忠隣ら大久保一族、江戸時代中期の画家岸駒(がんく)、江戸後期の俳人桜井梅室(さくらいばいしつ)の墓があります。

秀忠の家老として実権を握るも、大御所家康派の本多正信・正純父子と対立して失脚した大久保忠隣(おおくぼただちか)の方が歴史的には重要人物でしょうが、「天下のご意見番」として講談などで有名な叔父の彦左衛門忠教の墓をアップします。
お墓に案内標示は無いですが、大久保家のお墓は立派なので比較的見つけやすいかと思います。


広い境内は駐車場になっていて数十台の自動車でいっぱいです。観光客にお勧めすることは難しい感じのするお寺ですが、周辺の寺院のついでに寄っても・・という感じでしょうか。

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続きです・・。
前回に鬼のアップ画像を出しましたが、少し節分行事「鬼法楽」の流れを書いてみます。


「鬼法楽」は、廬山寺での大師堂で午後2寺頃から、護摩供、鬼踊り、邪気払いの法弓、福餅・蓬莱豆撒き、古札焼き式、厄除開運祈祷等が行われ、祀られている不動明王、弁財天など拝見できます。
大師堂の前には特設舞台が作られていますが、その周りは既に人で一杯なので、大師堂付近で拝見することにします。
「鬼法楽」は午後3時〜4時25分までの予定ですが、その前後に「鬼のお加持」が行われます。
(午後2時〜2時20分、午後4時15分から約30分程度)
これは肌色衣装の鬼が、松明と宝剣を持ち、横に僧を従えてお加持をしてくれます。体の悪い部分に鬼が宝剣で触れる事で病気が無くなるということで、多くの方が順番に加持を受けていました。(写真)


続いて、2時半から約15分、2008年が源氏物語の千年紀になるということで、インド舞踊の奉納が行われました。(写真)
その後、3時からいよいよ鬼法楽がスタートです。太鼓と法螺貝の音を合図に、赤、緑、黒の3匹の鬼が登場します。赤鬼は火のついた松明と宝剣、青鬼は大斧、黒鬼は大槌を持っています。大師堂前の特設舞台で、体をゆすって踊り、足拍子をとりながら、堂内に入ります。恐い形相ですが愛嬌もあって可愛い感じもします。


堂内では厄除け開運、福寿増長の護摩供の修法が執り行われ、大師堂の側から見ていると、その周りを三鬼が踊りながら修法の妨げをする様子が少し見えました。
やがて、護摩供の秘法に弱った鬼たちがヨロヨロと出てきて元の道を戻っていきます。
その後、追儺師が邪気払いの法弓の矢を四方に放ち、蓬莱師や福娘、年男、寺侍が蓬莱豆と福餅(餅を3個捕りました)を撒きます。(写真)
この一連の行事全体により、鬼は門外へ逃げ去ったということになります。鬼法楽が終われば、大部分の参拝者は帰っていきますが、この後またに「鬼のお加持」が行われ、午後5時から、古札焼き式が行われるようです。

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2月3日、紫式部の邸宅跡として知られる京都の廬山寺では、「節分絵・追儺式鬼法楽」が行われました。この夏に久しぶりに廬山寺に行った時から、通称「鬼おどり」と云われるこの鬼法楽を見ておきたいと思っていました。


鬼法楽は、廬山寺の開祖・元三大師良源(諡号は慈恵大師)が村上天皇の時代に300日の護摩供を行った時に出現した悪鬼を護摩の法力と大師が持っている独鈷、三鈷の法器で降伏させたという故事によるものということです。
赤、青、黒の三鬼は人間の心にある三種の煩悩、貧欲・瞋恚・愚痴の三つの悪しきものを表現していると言うことで、この三つの煩悩を、新しい年の運勢の変り目の節分の日に追い払って、福寿を祈念し開運をはかり新しい節を迎えるということになります。

今回は、吉田神社で鬼の画像が撮れなかった悔しさの反動?とりあえず鬼の顔をいっぱいアップします^^;

少しだけ次回に続く。

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清浄華院(しょうじょうけいん)は、京都市上京区寺町広小路上る・・前に登場した「源氏の庭」で知られる廬山寺の北の並びにあるお寺です。観光寺院では有りませんが、歴史上の有名人のお墓が多いので訪ねてみました。



清浄華院(しょうじょうけいん)は、一般には浄華院(じょうけいん)、浄山(じょうざん)と呼ばれているようで、浄土宗の7大本山の一つです。(他の本山は、京都では金戒光明寺と知恩寺。東京の増上寺、長野県の善光寺、神奈川県の光明寺、福岡県の善導寺になります。もちろん総本山は、京都の知恩院です。)また「法然上人二十五霊場」の一つ(23番)でもあります。(「法然上人二十五霊場」と言うのは、法然上人の誕生から入滅に至る主な遺跡二十五ヶ所になります。列挙しませんが京都には13寺あるようです。)




さて、清浄華院は、平安時代初期の貞観二年(860)に、清和天皇の勅願により、天台宗の慈覚大師円仁を開山として、京都御所内に禁裏内道場として建立(完成は3年後)したと伝わります。
承安5年(1175)浄土宗開祖・法然上人は清浄華院を宿舎として布教活動に努め、後白河法皇や高倉天皇、後鳥羽上皇らの信仰を集めます。法然上人は後白河法皇より清浄華院を賜り、この時から浄土宗の念仏道場となりました。そういったことで、清浄華院では、法然上人を道場の中興の祖としているそうです。
その後、第四世礼阿上人、そして特に第五世向阿(証賢)上人は大いに布教に努めました。この向阿上人を事実上の開山とする考えもあるようです。その後も、御所内の禁裏道場という性格から、皇室との関係が深く、伏見天皇皇孫の八世敬法大僧正をはじめ皇室から住職を迎えることも多かったようです。創建時の三条坊門高倉(中京区御池通高倉)から、室町時代に土御門烏丸(上京区烏丸下長者町)へ移転しますが、応仁の乱で焼失。現在の地には、天正十八年(1590)秀吉による寺町整備により移りました。江戸時代初期に末寺の金戒光明寺が独立し寺域が縮小します。天明八年(1788)の天明の大火など焼失を繰り返し、現在の建物は、明治二十二年(1889)焼失後、同四十四年(1911)に再建されたものです。





創建当初より皇室との縁が深かったため、本堂(御影堂)には、本尊の法然上人像をはじめ、清和天皇、村上天皇の像、歴代天皇の尊牌を安置しています。
また、不動堂には「身代り不動」と呼ばれる不動明王像を安置しています。「身代り不動」とは、僧証空が師の臨終に際し身代りになろうとしたところ、信仰する不動明王が現われ証空の身代りになって師の病難を救ったという伝説に由来します。寺宝として重文指定の、宅間法眼筆「泣不動縁起(証空絵詞)」、唐普悦筆「阿弥陀三尊画像」等があります。
また、境内墓地にも、江戸時代の皇族の陵墓が多く、宮内省所管の御陽成・後水尾・孝明天皇等の皇子・皇女の御陵墓11基、妙香華院、実相心宮等の各宮家の墓、さらには、立入宗継、玉松操、町田秋波、山科言継、姉小路公知などの歴史上の有名な人物の墓があります。

○立入宗継・・・「時代祭」の「織田公上洛列」の先頭に登場することで知られる室町末期の京都の商人。 御所の貴重品管理を行う禁裏御倉職(みくらしき)に任ぜられ、正親町天皇の命で織田信長の上洛を促した人物。

○玉松操・・・・幕末に活躍した国学者で、岩倉具視の片腕として王政復古策を立案した人物。しかし明
治政府と合わず退官し病死。

○町田秋波・・・江戸中期の千家流の茶人で、名古屋に千家茶道を初めて伝えた人物

○山科言継・・・戦国時代の公家で、財政難の禁裏復興のため織田家など諸大名との交渉役を努めた。

○姉小路公知・・幕末の公家で、尊皇攘夷の急先鋒として有名。御所の猿ヶ辻で暗殺される。

(写真は、立入宗継、玉松操、町田秋波、姉小路公知の墓です。)





皇族の陵墓は立派な造りですぐわかるのですが、歴史上の有名人の墓を探すのはかなりたいへんでした。小さな札があるのですが、広い墓地のあちこちに点在していて、数十分ウロウロしました。
(一応今後訪問される方のために・・・立入宗継の墓は墓地の南側、町田秋波は入口すぐ、姉小路公知、山科言継の墓は北東、玉松操の墓は北にあります。)


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