京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

京都御苑周辺

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今回は、少し小さな史跡を取り上げました。
京都市上京区の鴨川に架かる出町橋の西にある、妙音堂弁財天(妙音堂)です。



京都には幾つかの「七福人巡り」がありますが、その中に「京洛七福神」というのがあり、弁財天を祀る妙音堂弁財天(妙音堂)は、七福神の1つとして、特に技芸上達、福徳円満のご利益があるとされます。

その他の「京洛七福神」は・・・

ゑびす神社(恵比寿)東山区

妙円寺(松ヶ崎大黒天)(大黒天)左京区(前にブログで取り上げました)

行願寺(革堂)(寿老人)中京区(写真を撮ったまま数ヶ月経過・・・また取り直して出直します)

毘沙門堂(毘沙門天)山科区(前にブログで取り上げました)

護浄院(清荒神)(福禄寿)上京区(前にブログで取り上げました)

長楽寺(布袋尊)東山区

になります。




本殿には、弘法大師筆と伝える、青龍妙音弁財天の画像が祀られています。(現在実物は相国寺の承天閣美術館に保管)この画像が本尊になります。
公家の西園寺家に伝わり大切にされてきたもので、鎌倉時代末に、西園寺公衡(きんひら)の娘寧子(やすこ・広儀門院)が、第93代後伏見天皇の女后に輿入した際に、西園寺家第二伝の念持仏として持参したということです。



少し話が飛びますが・・・・

西園寺寧子(広儀門院)は、日本史上、天皇位に付かずに、また女性でありながら、事実上の日本国王(上皇)になった唯一の人物です。
南北朝時代に、足利幕府内が観応の擾乱によって弱体化した隙に、南朝軍が足利軍を破り、北朝側の全上皇と皇子を拉致し大和へと連れ去ります。これにより、北朝は上皇も天皇もいないという存続不可能な危機的状態となります。この時、ピンチヒッターとして西園寺寧子(広儀門院)が上皇の代理として、事実上の院政を行いました。これにより北朝は継続することになりました。





さて、この弁財天の画像は、それ以降の歴代北朝の光巌、光明、崇光天皇と伝承され、崇光天皇から皇子で伏見宮家の始祖となった栄仁(よしひと)親王へ伝えられ、伏見殿内にお堂が建立されたのが、妙音堂弁財天(妙音堂)の始まりです。
江戸時代の享保年間になって、伏見宮14代貞建(さだたけ)親王の時,伏見宮家の移転により河原町今出川下る東側に遷座しました。18代貞敬(さだよし)親王によって邸内が一新され、妙音堂も改築され,庶民の参拝も許されるようになり、伏見御所の辨財天といわれ信仰されます。
明治になって一旦、東京の宮邸へ移されますが,明治34年,京都の旧信徒、地元の人々の請願により、旧宮邸に近い現在の地に堂宇を建て鎮座されるところとなりました。


小さなお堂の後ろには、白い六角堂があります。また、弁才天は、蛇や龍神と関係深い神様なので、幾つも蛇の絵が飾られていました。出町付近の小さなシンボルという感じです。

冷泉家住宅

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冷泉家住宅の特別拝観に行ってきました。
多くの人が訪れていて、案内の男女の学生アルバイトも大変そうな感じです。




京都市上京区今出川烏丸東入、同志社大学のキャンパスに挟まれて残る冷泉家の住宅は、現存最古の公家住宅として重要文化財に指定されています。
平成六年(1994)〜十二年(2000)まで解体修理が行われ、屋根は元の柿(こけら)葺きに戻されて、かっての姿が蘇りました。この修理を機に、冷泉家に所蔵されていた膨大な量の古文書・典籍や、その他道具類にもはじめて本格的な調査が入り、その一部は、冷泉家の貴重な秘宝として全国で展示公開されて、一躍脚光を浴びることになりました。






さて、冷泉家は、藤原北家の流れをくみ、「歌聖」といわれる藤原俊成・定家父子を遠祖とする「和歌の家」として朝廷に仕えてきた公家です。
定家の孫の為相を初代として、以来800年間、和歌の宗家として平安時代以来の伝統を守り伝えてきました。現在も、乞巧奠(きっこうてん、七夕)のような昔ながらの年中行事を伝えてきています。





この冷泉家が、現在の地に屋敷を構えたのは、江戸時代初期の慶長年間(1600頃)でした。
その後、天明八年(1788)京都の半分以上が焼けた「天明の大火」によって、御文庫など土蔵以外の建物は焼失しましたが、寛政二年(1790)屋敷は再建され、現在に至ります。
明治時代に、ほとんどの公家は天皇に同行して東京に移り、かれらの屋敷は取り壊されて公家町は消滅し、跡地は現在の京都御苑へと整備されましたが、今出川通りを隔てて、留守居役を預かった冷泉家は京都に残り、近世の公家住宅の唯一の遺構として、ほぼ完全な姿で保存されることになりました。





今出川通に面する表門には、屋根の両隅にカメの形の亀像瓦があります。これは冷泉家が、京都御所の北に位置していることから、北方の守護神・玄武を表しているものです。
表門を入ると、白砂を敷き詰めた玄関があり、日常的な来客や家族に使用される内玄関と、当主や貴賓客用の大玄関に分かれます。玄関から東側に、ハレの席である座敷棟が並び、その奥には当主の日常生活をする座敷があり、また西側には台所棟が建っています。




玄関の右には、「塀重門」というハレの出入り口があり、行幸や勅使を迎える際には、玄関からでなく、東の座敷縁先から直接上の間に通ることになっていました。
ここには庭があり、東に紅梅(桜ではなく梅なのは、国風化する以前の中国の様式による)、西に橘が植えられています。
座敷棟は、東から「上の間」、「中の間」、「使者の間」と連なっていて、身分の高い客、同等の客、身分低い客・使者と分けられて通されました。この3つの間は、儀式や神事により襖を外して一室になるように造られているようです。
部屋の襖は、黄土色の紙に雲母で型押しした牡丹唐草の唐紙が張られていて、無季的な唐紙を張ることで、歌を詠む時に室内から季節性を排除して絵柄が邪魔にならないようにしているようです。





台所は、寺院風の切妻屋根の建物で、土間の正面上方には、「しゃぐま」といわれる藁の束が吊り下げられています。これは祇園祭の長刀鉾に使われたもので、いつしか祭礼後にいただいて、魔除けとして飾るようになったそうです。なかなかいい感じです。




冷泉家の信仰の対象となっているのが、御文庫です。
これまで冷泉家に伝来した貴重な典籍・古文書が収められている書庫で漆喰がきれいです。
御文庫には、藤原俊成筆「古来風躰抄(こらいふうていしょう)」、定家筆「古今和歌集」「後撰和歌集」「明月記」等国宝5点をはじめ、多くの重要文化財含む貴重な典籍が保存されており,財団法人冷泉家時雨亭(しぐれてい)文庫によって管理されています。
御文庫の資料そのものが、この世に二つと無い神様のような存在ですので、御文庫には小さな覗き窓があって、御当主が月に一度ここから拝まれています。





冷泉家は中級公家なので、敷地面積はそれ程大きくありませんが、すぐ前の今出川通りの喧騒が嘘のように静かでホッとする素敵な空間になっていました。このような近世初期の公家屋敷は他に無いだけに必見です。機会があれば一度ご覧になってください。

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これまで、京都御苑内の公家の邸跡、神社、史跡等を数回取り上げてきたのですが、
ようやく出尽くしてきました。



今回は、「蛤御門(はまぐりごもん)」からです。


京都御苑周辺は、昔は公家の屋敷が建ち並んでいましたが、この公家屋敷街と市中との境界には9つの門がありました。
その一つの蛤御門は、正しくは「新在家御門」という名称で、常に閉ざされていましたが、宝永の大火(1708年)の際に、初めて開門されたことから「焼けると口を開く蛤」に例えられて「蛤御門」と呼ばれるようになったそうです。中々洒落っ気がある名称だったのですね。




「蛤御門」が有名なのは、幕末の文久三年(1863)に起こった「禁門の変」が、別名「蛤御門の変」と呼ばれているからですね。


この年、「八月十八日の政変」で京都を追放されていた長州藩が、復讐のため会津藩、薩摩藩らを相手に、「薩賊会奸」を唱えて挙兵し、山崎天王山から京都嵯峨付近に陣を布いて会津や薩摩軍と対峙します。結局、戦いは長州軍の惨敗となり、来島又兵衛、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎ら多くの人材を失いました。
この戦いは、京都御苑一帯が主戦場となりましたが、最大の激戦地が蛤御門周辺だったことから、「蛤御門の変」とも呼ばれたのでした。現在も当時の弾痕が残っています。




「蛤御門」から真っ直ぐ東へ向かうと、大きな椋の木があります。


京都御苑の中でも、大通りをふさぐように堂々と立っているので、非常に目立ちます。
観光客もここで写真を撮る人が多いようです。またこの木の付近から東には大文字山が見えますので、大文字山の方に、カメラを向ける人も多いですね。


木の傍には「清水谷家の椋」という立て札が有ります。
ここは清水谷家(しみずだに家)という公家の屋敷があった場所でした。そして、この椋の木は樹齢約300年という京都御苑内でも数少ない大椋だそうです。
また「禁門の変(蛤御門の変)」の際、長州藩の来島又兵衛が戦死したのはこの付近ということです。




もう一つ、割と目立つ場所があります。

大きなイチョウの木が目立つ場所で、少し小山のようになっているところです。
ここは「凝華洞跡」です。
幕末期、この辺りは、通称花畑と呼ばれていた場所で、宿所がありました。会津藩主で京都守護職の松平容保は、天皇からのお召しに備えて、ここ凝華洞に泊まっていたということです。「禁門の変(蛤御門の変)」の際もここで指揮をとり、長州軍を破りました。




最後の写真は、史跡では無いのですが、ついでの「出水の小川」です。


京都御苑の南西にある小さな100メートル程の小川で、母子で水にふれあう場として整備されています。地下から汲み上げた井戸水が、深さ数センチの浅い小川となっていて、夏には水遊びをする子供達の人気スポットになっています。




これまで、あまり関心の無かった京都御苑を、この夏から3、4回ほど訪問してみました。
調べていくと、以外に面白い場所があるんですね。
紅葉の頃には、また京都御苑に行って見たいと思います。

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これまでも京都御苑内を色々取り上げてきましたが、少し追加してみます。



まず、「猿ケ辻」です。


邪悪な鬼が出入りする鬼門として忌み嫌われる東北方向。
今でも住宅建設などで気にされる方もいるように、昔は寺社や民家でも鬼門除けの風習が普通だったのでしょう。まして天皇のおられた御所です。



御所の東北角は、鬼が入り込めないように、築地壁が折れ曲がって作られています。
そして、屋根裏には一匹の猿の彫刻が彫られています。
「猿が辻」という名前は、ここからきたそうです。



このお猿は、この御所の鬼門を守る日吉山王神社(ひえさんのうじんじゃ)のお使いで、邪気が御所に迫ってくるのを防いでいるのです。


金網の中で少し見にくいのですが、写真を撮ってみます。
烏帽子を被り、白い御幣を担いだ姿なのですが、わかりますでしょうか?



猿が、金網の中にいるのには、訳が有ります。
この神様のお使いですが、結構いたずら好きで、夜になると辺りをうろついて、通りかかる人にいたずらをしたため、金網を張って閉じ込められたということです。




さて、この付近で暗殺事件が起こりました。

幕末の文久三年(1863)に、公家の中でも三条実美と共に、攘夷推進派の急先鋒だった姉小路公知がこの付近で暗殺されたのが「猿ケ辻の変」です。
現場に残されていた刀から、犯人は薩摩藩の「人斬り新兵衛」こと田中新兵衛とされ彼は捕らえられますが、取調べ中に自殺します。
田中新兵衛のような殺人のプロが現場に証拠を残すことは考え難く、真犯人はいまだに不明とされています。





もうひとつ史跡を・・「学習院跡」です。


明治までは京都御苑内は、公家の屋敷が立ち並んでいました。
孝明天皇は弘化四年(1847)に「学習院」という学習所を近くの空き地に作り、40歳以下の公家や御所に使える役人とその師弟に学問を教えることにしました。


ここでは、主に国学や歴史の教育が行われたようです。
現在、東京にある学習院という名前は、孝明天皇の跡を継いだ明治天皇が、父帝の京都での学習所を懐かしんで命名したものです。



この学習院跡のすぐ傍には、倒れたクロマツの木から幾つもの根を張るヤマザクラがあります。


松の木の空洞に自然とサマザクラの実が落ちて生えてきたもので、「桜松(サクラマツ)」、「松木の桜」と呼ばれて親しまれてきました。
クロマツが樹齢100年、サクラが樹齢40年ほどと推定されるもので、平成8年についにマツがサクラごと倒れてしまったのです。
それでも頑張って生えてきているサクラを多くの人が見守っているそうです。

京都御苑の西の洋館+

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前に、新島襄の旧家、大丸ヴィラを取り上げましたが、他にも京都御苑付近には多くの洋館が有りました。
北には同志社大学の校舎も有りますが、今回は西を探してみます。



まず、京都御苑の西、釜座通の北の突き当たりにあるのが、京都府庁の旧本館です。(写真1)


この地は、幕末に幕府京都守護職が置かれた所で、明治18年(1885)に京都府庁が二条城から移転して来ました。
本館は明治37年(1904)に建てられ、現在、日本で現役の府県庁舎では最古のもので、京都府指定有形文化財となっています。ネオ・ルネサンス様式の煉瓦造りです。




その近くの、烏丸通沿いには、重厚な煉瓦造の聖アグネス教会聖堂が有ります。(写真2)


この建物は、明治28年(1895)に大阪から移ってきた平安女学院が,その礼拝堂として建築しました。
アメリカ人、T・M・ガーディナー(立教大学校長として来日した建築家。長楽館など名建築を残こしました)の設計で、趣のあるバジリカ型の聖堂で、京都市指定有形文化財になっています。



その背後には明治28年に建てられた煉瓦造の平安女学院明治館があります。(写真3)


明治館は、同じく明治28年(1895)年に、イギリス人ハンセルの設計で、女学院の教育施設として建設されました。19世紀にイギリスで流行したアン王女様式を採用したものです。




続いて、旧西陣電話局本館です。こちらも付近の中立売通の油小路西入るに有ります。(写真4)


大正10年(1921)の建造で、28歳で早逝した逓信省の建築技師岩元禄(いわもとろく)の設計です。
当時斬新な鉄筋コンクリート造3階建で、正面には3本の円柱、裸婦のトルソ等が貼られた目だった建築で、当時の人は驚きの目で見上げたようです。京都市登録文化財から,国の登録文化財に格上げされました。



最後は、洋館では無いですが、ついでに同じく京都御苑付近の富岡鉄斎の旧宅です。(写真5)


近代日本文人画の巨匠である富岡鉄斎(1836〜1924)が後半生を過ごした旧宅ですが、現在、京都府議会公舎として残されています。
鉄斎は江戸末、京都の三条衣棚の法衣商生まれ、国学や絵を学びながら、幾つかの神社の神職を勤めました。その後京都に帰り、この地に住居を構えました。表門を入ると2階建の母屋、庭園があるようです。



色々探してみると、京都にも古い洋館は多いようです。また機会が有ればチェックしてみます。


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