京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

京都御苑周辺

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だいぶん前に予告しながら、そのままにしていた上御霊神社と下御霊神社です。



前に神泉苑や崇道神社について書いた時に少し触れましたが、
奈良時代末〜平安時代にかけて、当時の人は、政治抗争等により、恨みを抱きながら死んでいった人物の霊が、死後も強い力を持ち続け、生きている人間に影響を与えるのだと考えていました。
疫病や災害もこれらの怨霊が祟って起きると考えていたので、災害等が起きるたびに、怨霊神を祀って鎮めようとしました。




清和天皇の貞観5年(863)には、神泉苑で初めての御霊会が行われました。
(これが文献で確認できる最初の御霊信仰に関する記録です。)


この「三代実録』貞観五年(863)五月の記録によれば、「謂うところの御霊は、崇道天皇・伊予親王・藤原夫人、および観察使・橘逸勢・文室宮田麻呂等これなり」と書かれていて、早良親王(崇道天皇)、伊予親王、藤原夫人(吉子)、観察使(藤原広嗣と考えられています)、橘逸勢、文室宮田麻呂の6人の怨霊を鎮めるため、六座の神座を設け悪疫退散を祀ったようです。




京都に残る上御霊神社と下御霊神社は、これら御霊神を祀っています。


上御霊神社(正式には御霊神社。下御霊神社に対して、「上」をつけて呼ばれます)は、相国寺の北にある神社です。
境内は、御霊の森と呼ばれるように木々が茂り静かな雰囲気です。
この夏に、私が訪問したときは、境内でおばさま集団が体操されていたりして、付近の方の憩の場になっているようです。


また、上御霊神社は、応仁の乱の発端の地としても知られています。
畠山氏の相続争いから、畠山政長と従兄弟の畠山義就が、この上御霊神社で戦いを始めたのが、応仁の乱の始まりとなりました。政長は細川勝元の東軍、義就は山名宗全の西軍に加わり、結果的に京都を焼き尽くす戦争へと発展していきます。



上御霊神社は、延暦十三年(794)に、平安遷都と共に、桓武天皇が、悲劇的な死を遂げた弟の早良親王の霊をこの地に祀ったのが始まりでした。
その後も、親王の怨霊を恐れた桓武天皇は、延暦十九年(800)に早良親王に、崇道天皇と追号、その母、井上内親王を皇后と追称しました。



上御霊神社には、その後、仁明天皇・清和天皇の時代に、井上内親王、他戸親王、藤原大夫人(藤原吉子)、橘火夫(橘逸勢)、文大夫(文室宮田麻呂)の5神霊が合祀され、その後、火雷神(菅原道真)と吉備聖霊(吉備真備)が追祀されました。





もう一つの下御霊神社ですが、京都御苑の東南、寺町通にある神社です。


こちらは、上御霊神社とは違って、境内も小さくて、壁が落ちかけていたり、かなり侘びしい印象です。こちらの方が怨霊が出そうな感じで、あまり行きたくないという印象です。



この神社は、仁明天皇の承和六年(839)に、伊予親王と、その母藤原夫人(吉子)の無実が判明したとして、御霊神社(上御霊神社)の南の地に祀ったのが始まりでした。
その後に、崇道天皇(早良親王)、橘火夫(橘逸勢)、文大夫(文室宮田麻呂)藤大夫(藤原広嗣)を合祀し、さらにその後、火雷神(菅原道真)と吉備聖霊(吉備真備)を祀りました。
神社は、豊臣秀吉時代の天正18年(1590)に、京都市街の改変により現在の地に移りました。




このように、御霊神は、早良親王(崇道天皇)、他戸親王、井上内親王、藤原吉子、橘逸勢、文屋宮田麿呂、伊予親王、藤原広嗣。
後に、吉備真備、菅原道真が追加されたようです。
2つの神社は、共に八所御霊を祀るのですが、上御霊神社が、他戸親王と井上内親王を加えているのに対し、下御霊神社は、伊予親王と藤原広嗣を祀っているのが違いますね。



お勧めは、上御霊神社の方ですが、ご興味のある方は両方に寄ってみてください。

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「萩まつり」後の梨木神社です。

訪問した際は、境内には20人ぐらいの人達がいました。
京都御苑を見た後に、こちらに寄ったグループのようです。写真撮影をする人達もいますが、肝心の萩の花は見えません。


先日の「萩まつり」の際に、多くの方が詠んだ歌の短冊が萩の枝に結び付けられています。
参道の両脇は萩で覆われているのですが、花がありません。
少し前に来た時も咲いていなかったので、どうもそのまま花を付けていないようです。


不安を感じながら本殿の方に向かうと、ようやく見つけました。本殿付近はまずまず美しい花が咲いているようです。


萩ばかりで少し飽きてきましたが、ついでに、左京区の上高野方面にある、ここも萩で知られる高樹院という所にも行く事にしました。


次回に続きます。

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常林寺(萩の寺)

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常林寺は観光寺院では有りませんが、通称「萩の寺」として、少しは知られた存在かもしれません。
萩の花が咲く季節には、写真撮影をする人達が集まってきます。



常林寺は、ローカル線の叡山電車の出町柳駅のすぐ近くにあります。
ここは、天正元年(1573)に創建された浄土宗のお寺です。
当初、御所付近の寺町通の荒神口付近にありましたが、寛文十一年(1671)の大火により焼失し、現在の地に移転したそうです。


昔、常林寺は、隣り合う正定院、長徳寺と共に「砂川の三軒寺」と呼ばれていたそうです。
明治末までは、これらのお寺の背後(東)には、砂川という川が勢いよく流れ、この3軒のお寺は今の高野川(鴨川の上流)の河原と砂川に挟まれた中州に孤立したように建っていたことから「砂川の三軒寺」という名前があったのです。
その頃は、東の吉田地区、田中地区の集落は遠く、ずっと東側に田んぼが続いていたそうです・・今では想像できませんが。
幕末期には若き日の勝海舟が常林寺を宿坊としてしばしば泊まっていたとも言われています。



常林寺は、砂の中洲の上に建っていたお寺のため、今も境内を掘ると砂の層が出てくるそうです。
萩はこういった土壌を好むそうで、石畳を隠すほど成長した萩が美しく花を咲かせています。



この日も、カーテンのように参道を覆っている萩を撮影するため、一眼レフを抱えたお年寄りのグループが集まっておられました。
もし、この季節に河原町今出川、出町柳付近に来られた際は、一度ご覧になってください。

仙洞御所3

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続きです。

仙洞御所の南池で一番知られるのは、州浜に敷き詰められた平たい楕円形の石で、その数は、11万1千個程あるそうで、石一個で米一升を約束して運ばせたという伝説から「一升石」とも呼ばれています。
仙洞御所の管理上の敵は、カラスのようで、カラスがこの石を動かしてしまったり、苔を引きちぎってしまうらしいです。



庭園の最も南には、醒花亭(せいかてい)という茶室があります。
「醒花」という名前は李白の詩から取られたそうで、池の周辺には、他にも江戸期の2軒の茶室があったようですが、現在は残っていません。
茶室の東庭には、加藤清正の献上という朝鮮灯篭があって良い感じです。



州浜に沿って行くと、冬に採取した氷を夏まで保管する氷室や、柿本人麻呂を祀った小さな神社あります。人麻呂をこの地に祀った理由は、仙洞御所は火災が多かったので、火が止まる→火止まる→ヒトマロ→人麻呂というゴロ合わせで祀ったそうです。



最後に近衛家の茶室、又新亭(ゆうしんてい)を見て、仙洞御所巡りは終わりになります。
この茶室は明治十七年(1884)に近衛家から献上されたもので、もともとはこの地に修学院離宮から移築した茶室があったのですが、火災で焼失したようです。




仙洞御所は、桂離宮や修学院離宮と同様、広大な庭園が満喫できる場所です。
宮内庁により管理された庭園というのは、葉っぱが散らばっていたり、汚れていたりする所が無く、実に綺麗でさっぱりしていて、紅葉の頃に、この優雅な池庭を巡るのは楽しいだろうと思いました。
当時の建物がほとんど残っていないのは残念ですが、この庭園を造らせた、後水尾上皇という人物について少し興味がわいて来ます。



後水尾上皇は、徳川幕府の圧力に抵抗した苦労多い生涯を送った人物として知られますが、33歳で皇位を退き、その後は上皇として4代の天皇の後見を行って84歳という長命な生涯を送りました。
仙洞御所の広大な庭園に接していると、こちらも徳川幕府が上皇との関係修復の意味で莫大な金額を投入し造ったようですが、20年後に修学院離宮のような大プロジェクトを行う必要など無い気がします。



修学院離宮は日本最大の庭園です。
見える限りの全ての山や町が庭の一部になってしまうという雄大な構想で、もしかしたら、日本人が造った最も巨大なランドアート作品なのかもしれません。
一説によれば、後水尾上皇は、自らが指揮して修学院離宮の作庭に取り組んだとも言われます。
この辺りについては、この秋に、修学院離宮を訪問した時に考えてみたいとも思います。

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続きです。

仙洞御所の庭園は、小堀遠州の作で、寛永七年(1630)に御所が完成した時に合わせて作庭されたもので、北池と南池という2つの大きな池で構成されています。



池の岸部分が直線的なラインという、当時としては斬新な様式だったようです。
しかし、その後改修拡張されて、普通の池らしいなだらかな岸辺になってしまい、当時の遺構は南池に一部残るのみになっているようです。また、江戸中期に、2つの池は堀割で繋がれて現在のような形になりました。



前回に写真を掲載したのは、北池の全景でした。
北池はかっての女人御所の池になり、大文字山など東山が借景として取り入れられています。
北池にある小高い丘の上には、紀貫之の邸宅跡が残っていて(写真2)この辺りは、紀貫之の幼名、阿古久曽(あくこそ)に由来する「阿古瀬淵」という名前が付いています。(写真3)



この北池をぐるっと回って行くと、紅葉橋という石橋が掛かっていて、紅葉の頃に最も綺麗な場所のようです。ここまで来ると、北池は見えなくなり、南池が現れてきます。



南池に突き出ている出島の護岸には、小野小町ゆかりの「草紙洗の石」と呼ばれる平石など、自然石や並べられています。南池の中心には小さな島が2つあり、藤棚で覆われた八ツ橋が架かっています。
今年は藤の枝を刈り過ぎたそうで、花は咲かなかったようです。



この橋の向こう側には、昔は釣殿など建物があったようです。南池には高さ180センチの滝があるのですが、拝観した日は水が止められていたようです。藤棚のある八ツ橋を抜けてさらに進んでいきました。


もう少しだけ続けます。


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