京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

京都府下

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楊谷寺の続きです・・・今回は書院の庭園、奥の院に至る参道の写真を掲載します。


さて、楊谷寺の書院には「浄土苑」という庭園があります。
江戸時代中期の作庭とされ、京都府指定の名勝になっています。池を中心として幾つかの大きな石が配置されていますが、この石は菩薩に見立てられており、十三仏を描いています。この浄土苑のある書院から奥の院まで渡り廊下でつながっています。(写真)

一方、境内西側の阿弥陀堂右横、阿弥陀堂の左にある中陽門からも奥の院へ参道があり、参道の周辺には二十七種、約五千株のあじさいが植えられていて「あじさいの道」として整備され、六月下旬には「あじさいまつり」が行わています。(今回はピーク過ぎという感じでした。)
参道には、前回に写真を掲載した眼力稲荷社や弁天堂、また天然記念物モリアオガエルの生息する小池があり、そこから、さらに納骨堂、多宝塔等を経て、奥の院に至ります。



洛西観音霊場第十番札所にもなっている奥の院は、十一面千手千眼観世音菩薩を祀っています。第百十二代・東山天皇(在位1687〜1709)の皇妃・新崇賢門院(四条の局)が皇子の誕生に恵まれず、当山本尊に祈祷したところ、念願の皇子(後の第百十三代中御門天皇)を出産したと伝えられ、中御門天皇(在位1709〜35)が九歳の時に両親が崩御したため、その追善菩提のために当山本尊を摸して勅刻し、享保四年(1719)に奉安堂とともに当山に移されたのが現在の奥の院の本尊十一面千手千眼観世音になります。奥の院の御堂は大正元年(1912)に再興、大正四年(1915)に一度焼失して、昭和五年(1930)に再建されたもので、堂内左には二十八武衆が祀られ、右には楊谷寺ゆかりの天皇の位牌を安置しています。また、奥の院の背後には、男女和合、恋愛成就、夫婦円満に功徳あらたかな愛染明王堂があり、ここにも奥の院本堂の守護神として眼力稲荷社が祀られています。

最後に、「あじさいの道」から見下ろした楊谷寺境内の写真を掲載します。

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京都市の東山一帯には、清水寺をはじめとする有名社寺が立ち並び、いつも多くの観光客を集めています。一方、京都の西に位置する山々にも魅力的な史跡があることを知ってもらおうと、平成十六年(2004)から「西山三山」として3つの寺院が連携を強めています。
この「西山三山」とは、全国的にも知られている西国三十三ヶ所巡礼の第二十番札所でもある善峯寺(京都市西京区)、紅葉の名所として知られる光明寺(長岡京市 西山浄土宗総本山)、そして今回の楊谷寺(ようこくじ)です。


京都府長岡京市浄土谷堂ノ谷にある楊谷寺(ようこくじ)は、通称「柳谷観音(やなぎだにかんのん)」の名前で知られるお寺です。「眼病の観音さま」、「独鈷水(おこうずい)の観音様」として親しまれ、また「新西国三十三ヶ所巡礼」の第十七番札所でもあります。
信仰のお寺なので、観光ガイドにはあまり登場しないのですが、清水寺を創建した延鎮(えんちん)僧都によって創建されたことから「西の清水(きよみず)」ともいわれるだけあって、参道の両側には数軒の土産物屋等もあり、巡礼札所らしい親しみやすい雰囲気があります。
ただ、アクセス面でやや問題があり、毎月十七日の御縁日のみ阪急京都線大山崎駅より参拝バスが出て、多くの参詣者が集まりますが、それ以外の日は、自動車・タクシーを利用するか、阪急・JRの最寄駅から約五〜六キロ程度の舗装道路を歩くしかありません。(今回、六月二十八・二十九日に行われた「あじさいまつり」に行ってきました。この両日は特別にシャトルバスが運行しているからです。また秋には「もみじまつり」がありますので、紅葉時もお勧めです。)




さて、楊谷寺は、山号を立願山(りょうがんざん)という西山浄土宗(浄土宗西山派)寺院で、同派総本山の光明寺(長岡京市 西山三山の一つ)の末寺になり、本尊は秘仏・十一面千手千眼観音菩薩です。
寺伝によると、平安時代初期の大同元年(806)、京都東山の清水寺を創建したことで知られる延鎮(えんちん)僧都によって創建されたと伝えられます。
延鎮僧都が、日夜、観音菩薩に出会いたいと祈願していたところ、ある夜、夢の中に観音菩薩が現れ、京都の西山へ行けば、生身の観音菩薩に出会えると告げられました。直ぐに、延鎮僧都が西山に向うと、柳の生い茂った谷間から光明が射していて、その巌上を見上げると、そこに生身の十一面千手千眼観音様が立っていたということです。早速、延鎮僧都は観音菩薩に出会ったこの西山の山中に草庵を建て、出合った観音菩薩像を自ら刻んで祀りました。これが楊谷寺の開創と伝えられます。その後、僧都は清水寺の本尊を刻むという大任のために帰洛することになりました。

延鎮僧都が下山した後、弘仁十二年(811)、弘法大師空海が嵯峨天皇によって乙訓寺(長岡京市 ブログを参照)の別当に任命されました。弘法大師は乙訓寺に程近い楊谷寺にも度々参詣して修行していましたが、ある時、お堂の傍らにある岩窟の溜り水で、親猿が眼の潰れた小猿を抱いて一心不乱に眼を洗っている姿を見かけました。その姿に心打たれた弘法大師は小猿のために十七日間にわたって祈祷を行いました。すると、その満願の日に小猿の眼が開き、親子の猿は喜んで山へ帰っていったということです。
この様子を見た弘法大師は、獣に効力が有るならば人間にも効果があるのではないかと考え、この不思議な湧き水を眼病に悩む人々のための霊水にしようと決意して、さらに十七日間の熱心な祈祷を続け、独鈷で清水をかき回して祈り、また深く掘り広げて眼病平癒の霊水としました。これが、現在も湧き出す独鈷水(おこうずい おこうすい)となりました。
そして、このような縁で、楊谷寺は開山第一声延鎮僧都に続いて、弘法大師空海を第二世としています。


その後の楊谷寺は中世の戦乱などで荒廃したようですが、豊臣秀頼や淀君の援助によって再建されました。慶長十九年(1614)四月、当時の住持・志筌(しぜん)禅師は、豊臣氏の援助を受け七間四面の本堂を建立したと伝えられています。
長岡京市市役所のHPを参照して、江戸時代の楊谷寺の歴史を追ってみると・・元和九年(1623)七月、楊谷寺観音講規約が作られ、寛文四年(1664)十月、楊谷寺梵鐘が鋳造されています。元禄年間(1688〜1704)に現在の本堂等が再建されようで、元禄十四年(1701)十二月、浄土谷村が楊谷寺に薪山八ヵ所を寄進、正徳四年(1714)十一月、浄土谷村が楊谷山を楊谷寺観音の薪山としています。享保三年(1718)二〜四月、楊谷寺観音堂修理のため本尊・霊宝等の開帳を行い、享保七年(1722)三月、楊谷寺半鐘が鋳造されました。寛延四年(1751)四月、楊谷寺本堂が神足大工を棟梁として修復され、天明二年(1782)四月、楊谷寺で本尊の開帳を行っています。寛政十二年(1800)楊谷寺住持と浄土谷村役人・講中惣代が楊谷寺永代定式を定め、弘化四年(1847)に、楊谷寺本堂が神足大工を棟梁として再興されているようです。


また、楊谷寺は天皇家との関係も深く、山門の四脚門は、かつては皇族・貴族達専用の門でした。また、境内を囲んでいる塀には、皇室との関係を示す五本線が描かれています。
そして、江戸時代初期の第百十一代・霊元天皇(在位1663〜87)が独鈷水(おこうずい)で眼病を治癒したのを始まりとして、独鈷水を天皇へ献上するようになり、明治時代に御所が東京に移るまで続いたと伝えられています。また、第百十二代・東山天皇(在位1687〜1709)の皇妃・新崇賢門院(四条の局)が皇子の誕生に恵まれず、当山本尊に祈祷したところ、念願の皇子(後の第百十三代中御門天皇)を出産したと伝えられます。
この中御門天皇(在位1709〜35)が九歳の時に両親が崩御したため、その追善菩提のために当山本尊を摸して勅刻し、享保四年(1719)に奉安堂とともに当山に移されたのが現在の奥ノ院の本尊十一面千手千眼観世音菩薩になります。



現在の本堂や庫裏・表門は元禄年間(1688〜1704)頃に再建されたもので、京都府の登録文化財に指定されています。本堂には本尊の秘仏・十一面千手千眼観音が安置され、眼病に霊験あらたかな仏様として知られます。この観音像は平成十年(1998)に大修理を終えましたが、その際、胎内から寄進者の名前等が書かれた文章が発見され、この貴重な資料は、京都府の重要文化財に指定されました。(本尊は、御縁日の毎月十七日、十八日に開帳されます。)
また本尊を納めた厨子は淀君が寄進したと伝えられ、桃山時代の豪華絢爛なものです。観音像の両脇には、右に勝敵毘沙門天王、左に将軍地蔵大菩薩が祀られていて、清水寺の十一面観音の脇侍と同様になっています。(こちらも普段は扉が閉められています)さらに、両脇段には右に弘法大師像(その前に江戸時代から伝わる勤行式とご詠歌をあげる場所が設けられています。)左には阿弥陀如来と歴代上人の位牌が安置されています。その他、中御門天皇の寄進した御鏡等の皇室ゆかりの品々が寺宝庫に保管されています。

本堂の周辺には、書院、阿弥陀堂、鐘楼、経蔵、護摩堂、地蔵堂、寺宝庫、弁天堂等が立ち並んでいます。江戸時代に建立された阿弥陀堂は、かつては念仏堂とも呼ばれ、本尊の阿弥陀如来像を中心に、右に中国の高僧・善導大師像、左に法然上人像が安置されています。また、堂内の厨子は、淀君の寄進と伝えられています。本来この厨子は本尊十一面千手千眼観音のものだったということですが、豊臣家の紋が入っているために、徳川の世となって迫害を受けるのを恐れた当時の住職が阿弥陀堂に移したと伝えられています。この阿弥陀堂では、法事やサークル活動、毎年八月十八日の盆大施餓鬼の法要等が行われていて、今回のあじさい祭りでもイベント会場として用いられていました。(写真)また、阿弥陀堂の横にある小さな寺宝庫には、歴代天皇の数々の寺宝が納められていて、毎月十七日と文化の日等に開館します。
尚、阿弥陀堂の左にある中陽門からは奥の院へ参道があり、途中の本堂の山側には、 当山鎮守神の眼力稲荷社があります。「がんりきさん」として親しまれている眼力稲荷大明神は、学問に霊験あらたかな神で、特に先見の明(心眼・心の目)を授ける神といわれ、信仰者に最善の方法を指し示すということです。また稲荷社の向かい側には弁天堂もあります。


社務所の横から門を潜ると、有名な独鈷水(おこうずい)があります。
境内の岩穴から湧き出る清水で、眼病平癒の霊水として、目を病む人々から信仰され、毎月十七日の御縁日には多くの参詣者で賑わいます。
先程書きましたが、弘法大師空海が楊谷寺に参詣した際、岩窟の溜り水で親猿が小猿の眼を洗っている姿を見かけ、獣に効力が有るならば人間にも効果があるのではないかと考え、十七日間の熱心な祈祷を続け、独鈷で清水をかき回して祈り、また深く掘り広げて眼病平癒の霊水としたと伝えられます。さらに、江戸時代の霊元天皇が眼病を治癒されたことをきっかけに明治に世に至るまで天皇家に独鈷水を献上していたということです。普段、参拝者は自由に水を汲めますが、水は一度観音様にお供えしてから持ち帰るのが慣わしになっていて、家で観音様にお祈りしながら目を洗うと効力があるとされます。



次回に続きます。

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京都府八幡市には3つの石田神社があるようです。
全て市の東部に集中していて、八幡市上津屋里垣内、八幡市岩田茶屋の前、岩田里にあります。
今回はこの内、上津屋里垣内と岩田茶屋の2社です。(岩田里の一社も、もし機会があれば追加したいです。)
尚、3社の内、詳しい情報のあるのは上津屋里垣内の石田神社のみで、「八幡市教育委員会案内板」と八幡市観光協会のHPを参照して書いてみます。



上津屋里垣内にある石田当社は、素盞嗚尊(スサノオノミコト 素戔嗚尊、建速須佐之男命など)を祭神とする八幡市東部の里・浜・東(木津川対岸城陽市)の三集落の氏神で、かつては、「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」と呼ばれてきましたが、明治維新の神仏分離令によって石田神社と改称しました。

牛頭天王は、インド伝来の神で、素盞嗚尊(スサノオノミコト 素戔嗚尊、建速須佐之男命など)と同一視され、古来、京都の八坂神社をはじめ多くの神社で信仰されてきました。しかし、明治の神仏分離令によって「天王」は「天皇」と同音でもあることから特に危険視され、牛頭天王を祀る全ての神社は、祭神名を素盞嗚尊(スサノオノミコト)に代えさせられました。(または祭神から外させられました。)
尚、話は外れますが、現在、日本の神社の多くは、神仏分離令以降に定まった日本神話の神名を、創建以来変わらず用いていたように称していますが、実際の歴史はもちろん違っていて、神仏混交時代は様々な神名が用いられていました。石田神社の例でいえば、かつて牛頭天王社と称してきたように、江戸時代までは「天王(牛頭天王)さん」は、素盞嗚尊よりもずっと人々に親しまれていた神様でした。

さて、木津川に接する上津屋里垣内の石田神社は、祭神の素蟄鳥神(建速須佐之男命)=牛頭天王が、疫病に対する守護神として有名なことから、度々水害に見舞われたこの地で信仰を集めるようになったようです。社伝「天王神社記」によると、創建は大宝二年(702)、隣村の内里の山中に現れた素義鳥神を上津屋の地に祀ったことに始まり、その後、平安末期の治承四年(1180)の源三位頼政の兵乱で社殿は焼失し、優興のために文治四年(1188)、源頼朝によって神事料として土地が寄進されたと伝えられます。また、元弘の乱で笠置山への参陣の際に、楠正成が当社に立ち寄って願文を奉納したとも記されています。その他、神社には1200点以上の古文書類が保存され、神社や上津屋地区の歴史を語る貴重な資料になっています。

現在の一間社流造の本殿は、嘉永四年(1851)の造営です。拝殿も同時期のものですが、享保二十年(1735)の再建時に葺いた刻銘入り鬼瓦を屋根に載せています。また、近年社殿から発見された棟札によって、永禄元年(1558)の社殿造営の後、定期的に檜皮の葺替え修理が行われていたということが判明しているようです。その他、現在、神輿蔵となってる建物は、もと宮寺の福泉寺で薬師如来を祀っていたる薬師堂で、明治の神仏分離令で、本尊は同里垣内の浄土宗西雲寺に移されました。また、神興蔵の横にある十三重の石塔は、南北朝時代の作と考えられています。また、末社として太神宮、香取神社、若宮神社を祀ります。木津川の流れ橋にも近く、明るい印象のある神社だと感じます。



次は、岩田茶屋の前の石田神社です。

岩田の住宅街にあり、静かな境内が印象的な神社です。訪れた時は、参堂に落ちた椿の花が絵になっていました。
岩田茶屋の前と岩田里にある二つの石田神社は、平安時代の「延喜式神名帳」に記された式内社・石田神社の論社(式内社の後裔と思われる神社が複数の場合、各々を論社といいます)と考えられていますが、その由緒等は不明です。末社として水神社を祀ります。

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京都府八幡市内里内にある内神社(うちじんじゃ)は、八幡市東部ではますまずの敷地を持つ神社です。八幡市のこの地域は高い建物が少ないために、遠くからでも田畑の中にこんもりした鎮守の森が見え、この地区では比較的目立つ神社だと感じます。(八幡市観光協会のHP等を参照させていただきます。)



内神社は、平安時代の「延喜式神名帳」に、「内神社二坐」と記されている式内社で、創建年代は不明ですが平安時代初期には既に知られていた古社になります。祭神は、古代の伝説上の大政治家として知られる武内宿禰(たけうちのすくね)の異母弟(讒言により兄の失脚を謀ったという伝承もあります。)と伝わる味師内宿禰(うましうちのすくね)と、その後裔にあたる山代内臣(やましろうちのおおかみ)です。
「日本書紀」によれば、応神天皇の時代、味師内宿禰は兄の武内宿禰が謀反を企てていると讒言し、潔白を主張した武内宿禰と共に礒城川で「盟神探湯(くがたち)」を行ったという記述があります。(盟神探湯の始まりとされます。)「盟神探湯」は、神に誓った後に熱湯の中に手を入れ、事の正否を探る古代の裁判方法で、火傷すれば罪があり、火傷しなければ無罪と判定されたといわれ、この時は武内宿禰の.無罪が証明されたと記述されています。

武内宿禰は紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏等の多くの諸豪族の祖となったという伝承があり、味師内宿禰(うましうちのすくね)も紀氏の祖となったという説もあるようですが、実在の人物というより神話の世界に属し、幾つかの部族集団の事跡を一人の人物に仮託して伝承されている可能性も高く、当然ながら諸説あって実態は不明です。また、内神社のもう一人の祭神、味師内宿禰の子孫とされる山城内臣(やましろうちのおみ)についてもまったく不明ですが、山城南部のこの内里周辺には、奈良時代前期に南九州の隼人たちが征服され移住させられた地域でもあることから、彼らが神社を創建したとも考えられているようです。このように、内神社は、紀氏・内氏など畿内豪族の誕生を探るという古代史的な点で注目される神社のようです。


それはともかく、社伝によると、内里の地には、山代内臣の住居があったとされ、死後に山代内臣を祀る一社が創建され、その後、山代内臣の祖神・味師内宿禰(うましうちのすくね)が合祀されたと伝えられています。中世には内里村の鎮守社として春日宗像神社と称し、現在地の東南700メートル隔てた地にありましたが、室町時代の大永(1521〜27)の兵乱で社殿が荒廃したため(尚、内神社の境内にある由緒書では、平安時代の天永(111〜1112)の乱(西暦1100年)と恐らく誤記されているようです。)、天正年間(天正四年(1576)頃という)に現在地に遷座したと伝えられ、旧社地は現在も「古宮」といわれています。

現在の本殿と境内は、平成十三年(2001)十月から二年かけて内里区造営事業によって整備されたもので、そのためか整った印象のある境内で、日陰の少ないこの地域では、憩いのスポット・・ベンチ等もあり少し休憩したくなる雰囲気です。

現本殿の傍には旧本殿が保存されていて、この旧本殿は、京都府登録有形文化財に指定されてます。旧本殿は、今回の造営事業の際の調査で、外陣右側腰板から寛保三年(1743)の墨書銘が発見されたことによって江戸中期の建物と年代特定されました。一間社流造・銅板葺の建物で、屋根は幅四・七メートル、奥行六・三メートルということです。他に境内には、末社として、厳島神社、奇神社、稲荷神社、他に皇太神宮遥拝所、石清水八幡宮遥拝所が点在しています。

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観光都市京都ですが、遠方から来られた観光客は、さすがに市外(京都府下)の史跡まで訪れるのは大変なようです。このブログでは、市外の小さな史跡も出来るだけピックアップしたいと思っています。今回から数回、少し前に採り上げた木津川流れ橋(上津屋橋)の続きとして、八幡市東部の神社を中心に採り上げてみます。

京都府八幡市の史跡といえば、まず、平安時代の延喜式以来、伊勢神宮に次いで格式が高かった石清水八幡宮が必見で、松花堂美術館&庭園と、流れ橋(上津屋梯)と合わせて三大観光名所といったところでしょう。それ以外の小さな史跡となると、京都市内の史跡以上に情報も少ないため、八幡市観光協会等の情報から転載させていただきます。



さて、八幡市上津屋浜垣内、木津川流れ橋(上津屋橋)の西堤近くにある伊佐家住宅(いさけじゅうたく)は、蔵や堀跡などが残った風情ある古屋敷です。(内部見学については、近くにある「やわた流れ橋交流プラザ四季彩館」に事前予約が必要です。)

江戸時代の上津屋村は、里、浜、東向三つの集落で構成され、地域には浄土真宗の善照寺(伊佐家の西隣)や専琳寺、光瀬寺といった三つの寺院がありました。伊佐家は浜地域にあって幕府領の庄屋を代々務めた大家でした。現在の主屋は棟札によって、享保十九年(1734)に建造されたことがわかる江戸中期の建物で、江戸中期以来現存する南山城地方における代表的な庄屋屋敷として、主屋、長蔵、内蔵、東蔵、乾蔵、宅地が、国の重要文化財に指定されています。
入母屋造の主屋は、軒端の厚み1m以上の茅葺屋根とべんがら色の壁、柱や梁も太い堂々とした建物です。この主屋の土間には、大きな竃が据えられていて、主屋の北側に内蔵があり、さらに東蔵・木小屋・二階蔵・乾蔵が続いて、庭をはさんだ南側に長蔵があります。また、屋敷の周りは濠で囲まれていて、かつては木津川から舟で直接屋敷内に出入りができたということです。



つづいて、御園神社です。

八幡市上奈良御園にある御園神社(みそのじんじゃ)は、上奈良地域の氏神として祀られている小さな神社です。「奈良御園神社」の石碑から石橋のある参道を進むと、小さな森に囲まれて静かに本殿がたたずんでいます。神社の祭神は、春日大神中の三神・・武甕槌命(たけみかづちのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)です。

御園神社の創建は、社伝によると、延暦六年(787)、桓武天皇が河内国交野への行幸途中、この地で鷹狩りを行った際に神託を受け、同年十一月に、大納言藤原継縄に命じて一社を建立させ、奈良の春日社から三神を遷座したのが始まりということです。
その後、南北朝時代の正平七年(1352)二月の八幡合戦、応仁の乱による応仁二年(1468)三月の兵火に遭って炎上しましたが、明応三年(1494)九月に再建されたということです。

尚、この奈良御園の地は、天皇に供する野菜(瓜、茄子、大根等)を栽培した場所と伝えられます。この野菜を朝廷へ献上する風習はその後、途絶えましたが、この伝統は、現在も毎年十月の御園神社の例祭「御園の青物祭」に受け継がれています・・この青物祭では、野菜で飾った「ずいき(サトイモ)神輿」を奉納して、五穀豊穣を祈願します。
尚、他に境内には末社として八坂社、貴船社、太新宮があります。

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