京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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木津川市(旧相楽郡山城町)綺田神ノ木にある高倉神社は、平安時代末期の後白河法皇の第二皇子・以仁王(もちひとおう)を祀る神社で、隣接して宮内省が管理する以仁王の御墓があります。
源平ファンは、一見に値する史跡と言えるでしょう。



以仁王は、後白河法皇と藤原成子(高倉三位局)の間に生まれ、邸が三条高倉にあったことから、高倉宮とも呼ばれ、幼少時から学問の才能に優れていました。しかし政治的には不遇で、10歳下の義弟(高倉天皇 平家出身の建春門院滋子の子)が8歳で天皇に即位したのに対し、以仁王は皇位継承どころか、「親王宣下(天皇から、親王=天皇の皇子・兄弟として認めるという詔を受けること。それにより高位の位階や官職を得ることができる)」さえ得られないまま治承四年(1180)には既に30歳となっていました。
この不遇は以仁王の母の出自が原因とも言われますが、平家側から、平家にとってライバルとなる皇位候補者として警戒され、天皇への道を断つために身分を留め置かれる工作がったことは確実でしょう。また父後白河法皇との関係も疎遠だったと伝えられます。以仁王も自身の境遇を考えると内心穏やかでなかったのでしょう。




「平家物語」によると、源頼政が平家追討のために以仁王を誘って擁立したと伝えられますが、もしかしたら以仁王が主体となって平家追討を計画した可能性もあります。ともかく、「平家物語」によると、以仁王は治承四年(1180)四月、平清盛とその一族追討を命じる令旨を諸国の源氏勢力に宛てて出しました。以仁王と源頼政は平家に直接立ち向かうだけの兵力も無いため、諸国の源氏が立ち上がるのを待つ計画でした。
しかし、ことは直ぐに発覚し王は近江の三井寺に逃れます。ここで頼政達と合流し宇治に向かいますが、頼政らは平家の大軍の前に宇治川合戦に敗れて最期を遂げ、一方、以仁王は奈良南都の興福寺を頼って都を脱出しますが、平家の追討を受け、途中この地「光明山寺(こうみょうせんじ)の鳥居の前」で流れ矢に当って討ち取られたと伝えられます。

以仁王の平氏追討計画はわずか1ヶ月余りで失敗に終わりましたが、王の令旨を受けた諸国の源氏が蜂起して、平氏は滅亡することになりました。
以仁王の令旨が無ければ源頼朝その他の挙兵も遅れたことは確実で、歴史の流れが変わった可能性もあります。こうして、反乱を計画しなければ後世に知られることも無かったと思われる不幸な皇子の名前は歴史に刻まれることになりました。






さて、以仁王の悲劇的な死を追悼した里人によって、この地に墓として塚が築かれ、後に王の御霊を祭祀するための社が側に建立され、王の高倉宮という通称から高倉神社と称したと伝えられます。
尚、相殿に祀られている天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、かって境内の小社に祀られていましたが、江戸時代の正徳二年(1712)の洪水により社殿が破損したため以降合祀されたと言うことです。

三井寺から宇治、さらにこの地まではかなりの距離があります。
平家物語によると、行軍の際、王は武事に不慣れで、また疲労もあり何度も落馬したと記されています。一か八かの人生の勝負に出た以仁王はどのような思いでここまで逃れてきたのか・・しばし感慨深いものがありました。






また、付近には、王の死の際に仏事を営んだとされる阿弥陀寺や、以仁王に従って宇治橋の合戦で活躍した筒井浄妙(つついじょうみょう)の墓と伝えられる塚(筒井浄妙塚)があります。(写真)
筒井浄妙は、以仁王に従った三井寺の僧兵で、「平家物語」では、宇治川合戦の際に橋を駆け渡って一番乗りをしようと奮戦する勇猛ぶりが印象的です。また、京都の祇園祭に登場する山鉾の「浄妙山」は、この浄妙と同じく僧兵の一乗法師(いちらいほうし)の奮戦振りを人形が演じています。

高倉神社の南、田畑の中にあるこの「筒井浄妙塚」は、実際は何の塚かは一切不明ですが、以仁王墓の陪塚(ばいちょう・本来の大きな塚の近くにある小さい塚)として王墓とともに宮内省が管理しています。
皇族で無い僧兵の墓と伝えられる塚が宮内省管理になっているというのも珍しいですね。

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続いて、木津川市(旧相楽郡山城町)の棚倉付近から名前の長い2つの神社です。




木津川市平尾里屋敷、JR棚倉駅前にある鎮守の森にあるのが湧出宮(わきでのみや)です。
この珍しい社名は通称で、正式名称は和伎座天乃夫岐賣神社(わきにますあめのふきめじんじゃ)と言う長い名前の古社です。また和岐神社とも呼ばれています。
涌出宮は、毎年2月15〜17日に行われる南山城最古の祭「いごもり祭」で知られる神社で・・と言っても未見ですが^^; 祭神は天乃夫岐賣命(あめのふきめのみこと)と、宗像三女神の田凝姫命(たごりひめのみこと)、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(おきつひめのみこと)になります。

創建は奈良時代の称徳天皇の天平神護二年(766)、伊勢国五十鈴川の畔より、祭神として天乃夫岐賣命をこの地に勧請したと伝わります。この天乃夫岐賣命とは天照大神の御魂(みたま)であると言うことです。後に宗像三女神を伊勢より勧請し併祀したようです。
湧出宮という通称ですが、この地に祭神を勧請した際に、一夜にして森が湧きだし四町八反余りが神域と化したので、住民らが驚いて御神徳を称えて湧出宮と呼んだという伝説によります。

その後、延喜式八十五座の一つ、山城の国祈雨神十一社の一つにも数えられ崇敬を集めてきたと伝えられ、清和天皇や宇多天皇が使者を遣わして雨乞い祈願をした所、 霊験により降雨があったと記されています。その後、社殿は治承四年(1180)、建武二年(1335)に焼失しその後再建、応永三年(1396)にも再建されているようです。
現本殿は元禄五年(1692)の建造されたもので、三間社流れ造りです。明治時代に延喜式内社、郷社に定められ、昭和五十年(1975)に本殿の屋根が檜皮葺から銅板葺き改められています。京都府の有形文化財に指定されています。また、境内一帯は、弥生時代中期の居住跡で、弥生式土器・石器等が出土し、湧出宮遺跡と呼ばれています。

涌出宮は、森が湧き出したという伝説に相応しく、駅前にぽっかりと深い森があるというのが珍しい神社です。木々のトンネルのような参道を進んで行くと、静かな境内があります。
境内もまずまずの大きさで、社殿はやや寂れた印象です。境内を実際以上に大きく感じさせるのは深い森の効果だと感じました。奇祭いごもり祭は是非見たいです。






続いて、木津川市(旧綴喜郡山城町)綺田山際にある綺原(かんばら)神社です。
こちらも正式名は綺原坐健伊那太比売神社(かんばらにますたていなだひめじんじゃ)とたいへん長いです。(尚、「綺原」は、かんばらの他に、かばた、きはら、かにはら等とも呼ばれているようです。)国宝仏で知られる有名な蟹満寺(ブログ準備中です)のすぐ横にある神社になります。

あまり情報の無い神社ですが、、「大日本史」、「日本書紀」、「延喜式」にも正式名が記述されている古社て、祭神は健伊那太比賣命(たけいなだひめのみこと)です。この「たていなだひめ」の「たて」は「健康」、「いなだ」は「稲田」を意味し、健康に農耕が出来ることを祈願して祀られた神と考えられています。
またこの地の地名「綺原(かばた)」は、その昔、紙織(かびはた)または神織(かむはた)とも呼ばれ、神に献ずる衣服を織る技術者や養蚕技術者を祀った神社とも言われ、綺(かば)氏一族(秦氏一族)の創起とも言われているようです。明治十四年(1881)に菅原道真を祭神とする天神社を末社とし、また八王子社を併せ祀っています。明治六年(1873)村社に、同十年(1877)に延喜式内社に定められています。(尚、少し南西には、この綺原神社遺跡という石標があります。)

神社の境内は鳥居前から見ているよりも広く感じられます。
本殿、摂社末社が境内に比例して小さいために、余計に広く感じられるようです。そのためにやや面白みに欠ける印象でした。

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前回に続いて、井手町の代表的な神社の玉津岡神社と小野小町塚を採りあげました。



この前に採り上げた地蔵禅院のすぐ隣に有るのが、井手の氏神の玉津岡神社です。
祭神は、下照比売命(しものてるひめのみこと)、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、素戔嗚命(すさのおのみこと)、味すき高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)、菅原道真公の六柱神です。

神社の創建ですが、社伝によると、欽明天皇元年(540)祭神の下照比賣命が玉津岡に降臨し、椋本天神社と称した宮社を建てて祀ったのが始まりと伝えられます。
その後、橘諸兄が一族の氏神として天平三年(731)に下津磐根に遷座、その後、鎌倉時代の文応元年(1260)現在地に遷座したと伝わります。通称、玉岡の社と呼ばれてきましたが、その後、「玉岡春日社」、「八王子社」と称号を変えます。
明治十一年(1878)に井手村周辺にあった天兒屋命(西春日社)、味耜高彦根命(水無天神社)、少彦名命(田中天神社)、素戔鳴命(石垣八坂神社)を合祀し、翌年村社となります。その後、明治二十三年(1890)に菅原道真公(有王天満宮)を合祀しました。
尚、明治十四年(1881)に社号を「玉津岡神社」と改称し、翌年に郷社となっています。現在の社殿は江戸時代の建築で、本殿と末社の大神宮社が京都府登録文化財に指定されています。

山の中腹にある神社ですが、境内は比較的開放感があり、明るい印象です。地蔵禅院の桜見物のついでに寄られる方が多いようです。






また地蔵禅院や玉津岡神社の参道の石段を下る途中にあるのが、「小野小町塚」です。

小野小町は、平安時代前期の仁明天皇(在位833〜50)の時代に宮廷に仕えた女流歌人・六歌仙の一人として有名ですが、その生涯は謎の多い人物です。そのために後世に様々な伝説を生み、終焉の地も、この井手の他に、京都市、秋田県、山口県など全国に及ぶようです。
小町は、橘諸兄が創建した井堤寺(いでじ)で出家して寺で余生を過ごしたという言い伝えもあるようで、「冷泉家記」によると、「小町六十九才井手に於いて死す」とあり、また「百人一首抄」にも「小野小町のおはりける所は山城の井手の里なりとなん」と記されており、古来「大妹塚」と呼ばれてきた、この井手の「小町塚」は本物の小町の墓の可能性の高いものとされているそうです。

自然石を積み重ねて五輪塔にしたような無骨な墓で、絶世の美女と伝えられる小野小町に似つかわしくないですが、かえって不思議も魅力も感じられます。

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京都府綴喜郡井手町は、奈良時代の政治家・左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)ゆかりの史跡が多い地域です。
橘諸兄はこの井手に別荘を構え「井手左大臣」とも呼ばれていました。
諸兄は別荘の他に「井堤寺(いでじ)」という寺院を建立、また玉川を愛して山吹を植えたと言われ、多くの文学に登場する「井手の里」の生みの親として井手町の誇りになっているようです。





さて、橘諸兄は、天武天皇の十三年(684)に生まれます。敏達天皇の流れを組む皇族出身で元の名を葛城王と称し、後に母方の橘姓を継ぎました。そして、天平九年(737)の疫病流行により、当時政治の実権を握っていた藤原四兄弟(藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が相次いで亡くなったことにより、一躍政治の実権を握ることになります。
天平十年(738)右大臣、同十五年(743)左大臣に任命され、天平勝宝八年(756)に引退するまで奈良時代の全盛期を生きた人物です。前に、ブログで恭仁京(木津川市・旧加茂町)を採りあげましたが、聖武天皇に恭仁京への遷都を勧めたのは、恭仁京の北のこの井出町付近を勢力圏にしていた諸兄だったようです。その後諸兄は正一位として人臣として頂点を極めた後に、孝謙天皇の時代になって藤原仲麻呂(恵美押勝)の台頭により引退しました。また歌人としても優れ万葉集の撰者の一人とも伝えられます。






「橘諸兄旧址」
井手の山沿いにあるのが近年に整備された「橘諸兄旧址」です。(写真)
この井手の里を支配していた諸兄の別荘跡で、整備されて立派な石碑が建っています。また横には供養塔も建立されています。この別荘は相楽別業と呼ばれ、高台から井手の里を見渡せる広大なもので、聖武天皇もここに数回行幸しています。今は竹林に囲まれた静かな場所ですが、当時は豪華な邸宅があったのでしょう。




「弥勒石仏」
「橘諸兄公旧址」からほど近い山中に、竹やぶに囲まれて花崗岩に線刻された三体仏があります。(写真)線刻はかなり磨耗していますが、これが「弥勒石仏」です。橘諸兄が鬼門除けに刻んだという伝説がありますが、実際には鎌倉から室町時代に地域の農民らが刻んだものと考えられています。かなり坂道を登らなければならないので疲れる史跡です。




「六角井戸」
住宅地の中に「六角井戸」という井戸がありました・・この六角形の井戸は、橘諸兄の館・玉井頓宮(たまのいとんぐう)にあったもので、橘諸兄公の井戸と呼ばれてきたと言うことです。
天平十二年(740)、聖武天皇は、平城京から恭仁京へ遷都する旅の途中でこの玉井頓宮を仮宮として訪問するなど、数度の行幸があったようです。





「井堤寺(いでじ)跡
井堤寺は円堤寺(井手寺)とも呼ばれ、橘諸兄が母・三千代の一周忌にちなんで創建した氏寺と伝えられています。金堂の周囲には山吹を植え、黄金色の山吹が水に映る風情を楽しめるように工夫したと言われます。現在は跡形も無いのですが、付近には薬師堂などの地名が残り、当時は七堂伽藍が並ぶ大寺だったということです。発掘により礎石4基が並んでいます。




「蛙塚」
「蛙塚」は、直接橘諸兄に関係するのではありませんが、井手町を流れる玉川にちなんだ史跡です。井手の里は玉川の流れや山吹の花で知られ、万葉の時代から江戸時代に至るまで数々の和歌に登場してきました。中でも「かはづ」の美しい歌声は、井手の枕詞として用いられる程、多くの歌に詠まれているようです。蛙塚の付近は、玉の井と呼ばれ湧き水が注ぎ出ていた場所のようです。





「大安寺旧境内石橋瓦窯跡」

これは本当についでですが・・道端に「大安寺旧境内石橋瓦窯跡」の表示があります。案内板によると、平城京の官寺・大安寺に関係する史跡のようです。大安寺は、東大寺建立以前は官寺筆頭寺院だったお寺ですが、その創建期の瓦を焼いた窯が石橋瓦窯と言うことです。現在、国の史跡に指定され遺跡保存をされているようです。

地蔵禅院(地蔵院)

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京都府綴喜郡井手町東垣内にある地蔵禅院は、お寺そのものに関しては、特に魅力が有るという訳では有りません。しかし、木津川の流れを遠望できる景勝地にあり、天気が良ければ遥かに奈良の生駒・信貴・葛城・金剛の山並を望むこともできます。この素晴らしい光景は「京都百景」の一つに数えられています。
また、境内に大きな枝垂れ桜が有り、特に今の桜の時期は、京都市内の有名観光名所に匹敵する魅力があります。





さて、地蔵禅院は曹洞宗のお寺で、詳細な創建は不詳らしいのですが、明治十六年の綴喜郡の寺院明細帳によるとこの地は元南都東大寺の華厳宗の旧跡だったようで、寛永五年(1628)に関東天王院の至心孝察和尚が、同じく千葉県東長寺の物外麟應和尚を地蔵禅院の開祖として勧請し、曹洞宗に改めたと伝わります。
また本尊の地蔵菩薩は、江戸時代の山城国(京都)の地誌「雍州府志」によると、この地を治めていた井手左大臣・橘諸兄(684〜757)の持仏だったと伝えられています。地蔵禅院はそれ以上の情報が無い程の素朴なお寺ですが、境内の鐘楼横の枝垂れ桜が有名です。






この枝垂れ桜は、江戸時代の享保十二年(1727)に植樹されたもので、京都市の円山公園に咲く有名な枝垂れ桜の叔父に当る古樹で、京都府の天然記念物に指定されています。
円山公園の初代の桜は、昭和二十二年(1947)に枯死しましたが、この初代は、地蔵禅院の先代の親桜から株分けされたもので母樹が同じになります。
地蔵禅院の枝垂れ桜は、幹周が2m40cm余、高さが約10mあり、地上約1mの部分で南へ枝が分れ、また主幹は2つに分かれて東側の支幹はほぼ水平に南へ延びています。南山城地域では他にこのような歴史ある枝垂れ桜の大樹が無いことから遠方からも多くの人が集まります。
また境内の下の畑には、枝垂れ桜の子桜が並んで2本植樹されています。(写真)その他境内周辺のソメイヨシノ、八重桜、ボケ、菜の花等も綺麗でした。(写真)






地蔵禅院の枝垂れ桜は、京都府下でも最も早く咲く桜のひとつのようで、訪問時にはピークは過ぎていましたが、それでも遥かに広がる田園風景と共に見応えがありました。
京都市内からJRで30分程度ですので、一度は見て欲しいお勧め桜名所です。

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