京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

伏見稲荷・深草・伏見桃山・鳥羽他

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伏見区は明治天皇や桓武天皇をはじめ多くの天皇陵があることでも知られる地域です。
その中で、市街地にあるので結構目立つのですが、聞いたことの無いような天皇名の御陵があります・・・伏見区丹後町にある伏見松林院陵(ふしみしょうりんいんのみささぎ)です。
案内板に「後伏見天皇 皇玄孫 尊称天皇 後崇光太上天皇」と記されているこの陵墓は、室町時代の皇族・伏見宮第三代・貞成親王(さだふさしんのう)の御陵になります。


貞成親王(1372〜1456)は、天皇に即位したわけではありませんが、親王の生存中の正長元年(1428)に自身の子が後花園天皇として即位したために、文安四年(1447)に太上天皇という尊号を贈られ後崇光院と呼ばれました。(貞成親王は恐れ多いとしてこの尊号を辞退したということですが、太上天皇の称号を奉られた記録から、明治時代の天皇や皇族陵墓の地定の際に、後崇光太上天皇として現在の陵墓が整備されました。)


話しは遡ります・・前にも伏見の史跡を採り上げる時に出てきましたが、平安時代後期、伏見の地には貴族の多くの別荘がありました。特に関白・藤原頼通の子の橘俊綱(たちばなのとしつな 橘俊遠の養子となります)が、延久年間(1069〜74)にこの地に豪華な伏見山荘(伏見殿)を築いて、公家達を招いて詩歌管弦にふけり、伏見長者と呼ばれる程に栄華を極めたとも伝わります。俊綱の死後、伏見山荘は豪華さで競い合っていた鳥羽離宮の主・白河上皇に献上され、後に白河上皇の甥で養子だった源有仁(みなもとのありひと 花園左大臣 公家風のお歯黒や化粧を始めた人物ともいわれます)に下賜されます。

その後さらに、有仁の養女となった鳥羽上皇皇女・頌子内親王を経て、後白河上皇へ継承されました。後白河上皇は伏見一帯に豪華な伏見殿(船津御所、伏見離宮)を建造しました。鎌倉中期に荒廃してしまった鳥羽離宮に対し、伏見殿は持明院系(後深草・伏見・後伏見・花園天皇)の皇室領として受け継がれ、南北朝時代には後伏見天皇の子・北朝の初代光厳天皇、二代光明天皇、三代崇光天皇へと受け継がれ、その後伏見宮家に譲られました。
この伏見殿は、上御殿が現在の御香宮(ごこうのみや)の東南、指月の森付近(桃山町泰長老 秀吉が伏見城の前に最初に築城し場所でもあります)にありました。また、下御殿は現在は干拓された旧巨椋池(おぐらいけ)に面する柿木浜(現柿木浜町)にあり、宇治川の船着場があることから「舟津御所」「舟戸御所」等ともよばれていたようです。




長くなりましたが、ようやく伏見宮家についてです・・伏見宮は崇光天皇の嫡男栄仁(よしひと)親王に始まります。
栄仁親王は、本来なら天皇の嫡男として皇位を継承することも考えられたわけですが、南北朝の動乱は南北朝の各天皇や皇子の運命を翻弄します・・・
観応三年(正平七年 1352)二月、南朝軍が京都へ侵攻し、北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、当時皇太子だった直仁親王(花園天皇皇子、光厳・光明両上皇の従兄弟)が南朝の本拠・賀名生へ拉致されて幽閉される大事件が起こります。北朝政権では歴代上皇、現天皇及び皇太子が突然不在になるという非常事態に陥り、この危機の中で、足利幕府は、天皇家の最高権威者「治天の君」として、光厳・光明両上皇の母・広義門院(西園寺寧子)をピンチヒッターとして担ぎ出します。こうして事実上の天皇となった広義門院の令旨の力により、門院の孫・弥仁親王(崇光天皇の弟)が、天皇の正当な継承形態の譲位や三種の神器も無いという異例の形で後光厳天皇として即位しました。

さて、数年間の軟禁状態から開放されて、延文二年(正平十二年 1357)に光厳・光明両上皇、崇光天皇、皇太子の直仁親王は京都に戻りますが、既に後光厳天皇が即位していて、これにより遠縁の直仁親王(花園天皇皇子、光厳・光明両上皇の従兄弟)の天皇即位の芽は無くなりました。それではと、前天皇で後光厳天皇の兄・崇光上皇としては、自身の嫡男栄仁(よしひと)親王を皇太子にしたいと考えますが、弟の後光厳天皇は応安三年(建徳元年(1370))に自身の皇子・緒仁親王(後円融天皇)を皇太子にするべく将軍足利義満に計って皇位継承問題が起こります。
崇光上皇は、天皇の正当な継承形態の譲位や三種の神器も無いという異例の形で即位した弟・後光厳天皇はあくまで臨時の天皇で、皇位は正当な天皇である自分の直系に返還されるべきと主張しますが、結局、幕府の支持を受けたのは後光厳天皇で、その皇子の緒仁親王が皇太子即位しました。

こうして皇位継承から外れた崇光天皇の嫡男栄仁(よしひと)親王は、父の上皇が応永五年(1398)に亡くなると出家して、晩年は譲られた伏見殿で生涯を送り、応永二十三年(1416)に死去、さらに継承した治仁王も翌二十四年(1417)に急死して、その弟の貞成親王が第三代伏見宮として継承します。
貞成親王は、幼少時から今出川家で養育されたために和歌に堪能でしたが、応永十八年(1411)に四十歳でようやく父の栄仁親王の伏見殿に迎えられて元服するというかなり不遇の半生を過ごしました。そして、応永二十四年(1417)に、父や兄の死によって伏見宮家を相続しました。貞成親王は実質的に伏見宮の創始者といってもよい良い存在で、その伏見御料は、以後子孫に伝えられていくことになります。





さて、伏見宮家は、本来は北朝の正当な皇位継承権を持つために、天皇家からは皇位を窺う者として疑われていたようです。病弱で皇子に恵まれない第百一代・称光天皇が、応永三十二年(1425)に一時危篤状態となると、貞成親王は次期天皇候補として親王宣下を受けますが、このことが回復した称光天皇の怒りを買い、親王は出家して野心の無いことを示しています。

その後、正長元年(1428)に称光天皇が再び重態に陥ると、天皇家(北朝)断絶の危機を乗り切るために、六代将軍足利義教は貞成親王の子・彦仁王を次期天皇として支持し、称光天皇の父・後小松上皇に新帝としての指名を要請します。南朝の残存勢力(後南朝)が、称光天皇の死によって北朝は皇位継承権を失ったとして再び不穏な動きを見せていたという背景もあって、後小松上皇はやむなく彦仁王を養子とし、称光天皇が亡くなると、正長元年(1428)、第百二代・後花園天皇として即位させました。
しかし、南朝の残存勢力(後南朝)は北朝の傍流である伏見宮家から天皇を選出したことに反発し、北畠満雅が伊勢で挙兵するなどの事件が起こります。そして、即位した後花園天皇も、後南朝との戦いや将軍義教の暗殺事件、晩年には応仁の乱を経験するなど苦労の多い時代を生きることになります。

それはともかく、貞成親王は、自身の子が後花園天皇として即位したために、文安四年(1447)に太上天皇という尊号を贈られ後崇光院と呼ばれ、 康正二年(1456)に84歳という高齢で亡くなりました。そして、伏見宮家は貞成親王の次男・貞常親王(さだつねしんのう)が継承し、康正二年(1456)に兄の後花園天皇から、永世に「伏見殿御所(伏見殿)」と称することを勅許され、以降は伏見宮と名乗るようになりました。(尚、伏見殿は室町時代後期の戦乱の中で荒廃してしまいました。)





現在の後崇光太上天皇伏見松林院陵は、前述したように、かつての伏見殿の下御殿跡で、「舟津御所」、「舟戸御所」等とよばれていた地域にあります。すぐ西側には貞成親王に仕えていた女官が、親王の死後に尼僧となって御陵を守った庵を建てたことに始まるという松林院という小さな寺院があり、陵墓の名前はこの寺院に由来しているようです。
現在の皇室は、北朝系のこの後花園天皇(つまり伏見宮家の)の直系子孫に当たります。そういう点からも、明治初期の天皇陵整備計画の際に、伏見宮家の実質的な始祖ともいうべき貞成親王=後崇光太上天皇の陵墓は、他の天皇と同格に近い面積のある立派なものとして整備されたのかもしれません。

宝塔寺

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伏見区深草宝塔寺山町にある宝塔寺(寶塔寺 ほうとうじ)は、深草山(しんそうざん)と号する日蓮宗寺院です。境内の広さは約1万坪あり、石畳の続く参道両脇には塔頭寺院が並んでいます。観光寺院ではありませんが伏見区では最も良く知られた寺院の一つでしょう。


寺伝によれば、宝塔寺の前身は、平安時代の嘉祥年間(848〜51)に関白・藤原基経が発願した極楽寺という真言宗寺院ということです。
極楽寺は昌泰二年(899)に子の藤原時平の時代に完成しますが、藤原氏の菩提寺らしく広大な境内に堂塔伽藍が立ち並んだ大寺院だったようです。(現在の法塔寺から瑞光寺(元政庵・・前にブログに採り上げています)の周辺地域はこの極楽寺の境内に含まれ、今も周辺には極楽寺町という地名が残っています。)
尚、当時有名な大寺院だった極楽寺は「源氏物語」にも登場するようです・・・「藤裏葉(ふじのうらば)」の帳では、頭中将が極楽寺で母・大宮の一周忌を盛大に行っています。そして、その法要の後、桜の花が散り乱れる極楽寺の境内で、光源氏の息子・夕霧は、頭中将の娘・雲居雁(くもいのかり)との結婚が許されることになります。その後、平安時代末期には極楽寺は徐々に衰退していったようです。



さて、当初は真言宗だった極楽寺は、その後日蓮宗に改宗します。
これは京都の多くの日蓮宗寺院に共通することですが、宗祖・日蓮聖人より「帝都弘通(ていとぐづう 京都での布教活動)」という遺命を受けた日像上人の影響でした。
日像上人は六老僧(日蓮上人の六大弟子)の日朗上人の弟子でしたが、日蓮聖人は、死の床で13歳の日像に京都での布教活動を託しました。当時の日蓮宗はまだ関東を拠点に信徒数百人程度の地方集団に過ぎず、教団が全国的に発展する為には京の都での布教活動が絶対条件でもありました・・しかし、歴史ある有力な他宗大寺院が勢力を持つ京都での布教活動には多くの困難が待ち受けていました。・・・こうして、日像上人は25歳で京都での布教活動を決意し永仁二年(1294)に上洛します。京都では予想されたとおり、延暦寺等の他宗派からの迫害を受け三度の追放を受けるなど苦難が続きましたが、確実に信者を増やしていきました・・・極楽寺の当時の住職・良桂(りょうけい)上人も、日像上人との宗論を行って感服して帰依、開山として日像を迎え、徳冶二年(1307)頃に極楽寺を日蓮宗に改めました。(延慶三年(1310)とも)
こうして極楽寺は京都での日蓮宗の初期の拠点の一つとなりました。やがて、日像上人は、元亨元年(1321)に後醍醐天皇より寺領を賜って、京都での日蓮宗最初の寺院として妙顕寺を創建し、建武元年(1334)に後醍醐天皇より綸旨を賜わって勅願寺となりました。その後、日蓮宗は京都に多くの寺院を創建し一大勢力となっていきます・・。
日像上人は康永元年(1342)に妙顕寺で亡くなりますが、この極楽寺で荼毘に付され、遺言によりこの地に祀られることになります。その後、極楽寺は寺名を一時「鶴林寺」とも号しますが、応仁の乱で荒廃し、天正十八年(1590)に日銀上人(妙顕寺十二世・日尭上人の弟子)によって再興されます。
この再興の際に、寺名を現在の「寶塔寺(宝塔寺)」に改称したということです。「寶塔寺(宝塔寺)」という寺名の由来は、日像上人没後に、上人が京都に通じる七つの街道の入り口に建てた法華題目の石塔婆の一つが当寺の日像廟所に奉られたため、或いは日蓮・日朗・日像三代の上人の遺骨を納めた塔があることから名付けられたともいわれています。




さて、宝塔寺には幾つかの貴重な建造物があり、本堂、総門、多宝塔が重要文化財に指定されています。まず、入り口に当たる重要文化財の総門(四脚門)は貴重な室町時代中期の建造物です。
参道を真っ直ぐに進むと朱塗りの仁王門がありますが、現在の門は、宝永八年(1711)に第十八世・日実上人が松平紀伊守信庸の援助によって再興したもので、右側の密迹金剛像は仏師康揩の作、左の那羅延金剛は康圃の作で寛文十年(1670)三月に完成されたと記録されます。また、山門中央には日蓮の御紋「井げたに橘」を描いた赤い大提灯が吊り下げられ、平成十二年(2000)に丹塗りの牡丹の花が描かれた天井画が復原されています。
仁王門を潜ると、金網で囲まれた放生池の向こうに本堂があり、左手(北)に庫裏と書院、鐘楼、霊宝堂、納骨堂等が並んでいます。また右手(南)に多宝塔、その奥が墓地になります。


境内の中心にある本堂(重文)は、寄進された方広寺大仏殿の余材を使って慶長十三年(1608)に建立されたと伝えられ、入母屋造で七間四方の入母屋造で日蓮宗本堂としては京都最古ということです。堂内には本尊の十界曼荼羅、釈迦如来立像、その左右に木像の日蓮上人、日像上人像が祀っています。尚、平成14年度に、本堂の解体修理が竣工されました。
本堂南側にある多宝塔(重文)は、一層目は行基葺き、二層目は本瓦葺きという変わった形式で、室町時代の永享十年(1438)以前に建立された京都市内に現存する最古の多宝塔ということで、応仁の乱の兵火を逃れた貴重な建物です。また付近には京都最初の日蓮宗寺院「大本山妙顕寺歴代廟所」があります。また境内墓地には、江戸初期の儒学者三宅寄斉、江戸末期の科学者山本亡羊があります。また肺病治療の名医と呼ばれ肺病平癒の信仰を集める宗有とその妻妙正の墓もあり「夫婦墓」と呼ばれています。




さて、宝塔寺の背後は「七面山(しちめんざん しちめんやま)」と呼ばれる標高100m程の小山になっています。山梨県の日蓮宗総本山・身延山久遠寺の西にある七面山に倣って、七面大明神を祀る「七面宮(七面堂)」を祀ったことから名付けられたと思われます。
本堂からこの山側(東)に少し登ると、極楽寺開基・関白藤原基経を祀る「昭宣堂(昭和十六年(1941)年建立)」や三十番神堂、千仏堂等があります。さらに山を登ると、日像上人廟があり、傍には13歳の日像上人の銅像「経一丸さま」等があります。

また、宝塔寺境内の左側(北)からも緩やかな石段が七面山の山上に向かって続いていて、2つの鳥居を潜ると宝塔寺の鏡守社「七面宮(七面堂)」に到達します。
七面宮は、寛文六年(1666)にこの地に勧請された七面大明神(七面天女)を祀っています。七面大明神とは、釈尊の化身として法華信仰を守護する為に、日蓮宗の聖地・身延山の鬼門を封じて山を守るべく七面山の頂上に姿を著した吉祥天のことで、岩に座り右手に鍵、左手に宝珠を持つ姿で表されます。

宝塔寺の境内に掲示されている七面大名神縁起の解説文では、瑞光寺(元政庵)の元政上人の記す所として、以下の七面大明神の伝説が説明されています・・・
健治年間(1275〜77)のこと、日蓮聖人がいつものように身延山で法華経を説いていたところ、参詣者の中に年齢二十歳頃の優雅な女人がいるので、弟子で大檀越の波木井実長らはこの美女は一体何者だろうと、訝しく怪しんでいました。
日蓮聖人は実長ら不審を見抜いて、その女人に向って「そなたの本当の姿を見せてやりなさい。」と言うと、女人は「承知しました。一滴の水さえありますれば・・」と答えます。聖人が傍の花瓶の水を与えると、女人は忽ち姿を変えて、一丈(約3m)余の竜蛇の姿となって花瓶にまとわりつき、舌を吐き天を仰ぐ実に恐ろしい姿に一同は恐れおののきました。
竜蛇は再びもとの美女の姿に戻り、日蓮聖人に向かって「あなたは釈尊の御本懐を受けて、地涌上行菩薩(妙法蓮華経では大地から現れる幾多の菩薩=地涌菩薩の筆頭を上行菩薩という)の最誕としてこの末法の世に身命を賭けて法を広めておられます。私も釈尊の仰せに従って総鎮守として法華経守護のためにここに現れました。ですから七難あっても即座に七福に転じ、法華経を信仰する人々の願いを必ず円満吉祥とならしめましょう。」と誓って、七面山の方角に飛び去りました。波木井実長は、この時の感激を忘れない為に早速画工に命じてその姿を写させたということです。

宝塔寺の七面宮に祀られている七面大明神(七面天女)像は、大仏師青木居士が彫刻して、大きな像は身延山七面山に奉納し、最初に刻んだ小像は自身の家に祀っていたところ、霊験あらたかなので、家を継いだ東庵余元澄という人物が、宝塔寺の十一世・日性上人の時代の寛文六年(1666)五月に瑞光寺(元政庵)元政上人と協力して奉納したものということです。また七面宮の傍には妙見堂なども祀られています。尚、この七面山からの眺めは素晴らしく、やや人気が無く注意を要しますが、宝塔寺〜七面山〜深草墓園を結ぶ道は散策路としても楽しめるようです。



最後に、宝塔寺には多くの塔頭があります・・大雲院・円妙院・直勝院・玉泉院・霊光寺・慈雲院・自得院が参道の両脇に立ち並んでいます。他に参道には日像上人の「荼毘(火葬)処」のを石標や、明治の廃仏毀釈で廃寺となった塔頭の了性院・本久院・深信院跡を示す石標が立っています。
尚、塔頭・霊光寺には、立本寺の二十世等を務めた日審上人の廟所や、江戸時代初期に活躍した将棋の初代名人・大橋宗桂と、同じく棋聖と呼ばれた幕末の天才将棋指し・天野宗歩の墓があります。二つの墓石は将棋の駒形をしていて、大橋宗桂の墓石の裏に桂馬、天野宗歩の墓石裏には歩兵の文字が刻まれています。(霊光寺の山門前には観光寺院で無いので・・と記されていて境内に入るにはお寺の許可が必要と思われます。)

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伏見区深草真宗院山町にある真宗院(しんしゅういん しんじゅいん)は、山号を根本山という浄土宗西山深草派(せいざんふかくさは 誓願寺を総本山とする)の寺院で、深草派の流祖・西山国師の遺跡霊場第十一番でもあります。
(浄土宗の一派、西山深草派では浄土宗開祖・法然上人を宗祖、法然上人の弟子・西山證空(せいざんしょうくう 弥天、鑑知国師)を流祖、そして、その弟子で真宗院の開山となった円空立信(えんくうりっしん)上人を深草派の派祖としています。)



さて、円空立信上人は、摂津源氏の多田氏の出身で、建保元年(1213)八月十日、大和国十市郡(奈良県天理市)の住人で「平家物語」等に登場する六浄蔵人・源行綱の末孫として誕生しました。
上人は貞安元年(1227)、十五才の時に浄土宗開祖・法然上人の弟子・西山三鈷寺の西山證空上人(弥天、鑑知国師)に就いて出家、以来仏法を学ぶこと二十余年、深く諸宗に通じ自身の教義を深めます。

西山證空上人の没後の宝治二年(1248)、円空立信上人はこの山城国紀伊郡(現在の伏見区付近)深草の里を訪ねて、その地の閑寂さに心惹かれました・・・この山は永く思うに適したところである。西を望むと恩師・西山国師の往生院(三鈷寺)を遥拝し、日の沈んでいくのを見ては日想観(阿弥陀仏の浄土に生まれるための十六の観法の第一で、日の没する様子を観て西方の極楽浄土を想うという修行)を修行するに適している・・こうして、建長三年(1251)深草山の麓に一宇を建立しました。

その後、円空上人の下には真空如円上人、顕意道教上人をはじめ多くの道俗の帰依者が集まりましたが、後嵯峨上皇や後深草天皇からも厚い帰依を得て、後深草天皇からは「真宗院」の勅号を賜りました。また後深草天皇は正元元年(1259)に真宗院の諸堂宇を整備させ、これによって真宗院は大寺院となり大いに栄えたようです。(尚、後深草天皇が崩御した後、境内にある法華堂に納骨され、これが後に「深草北陵(十二帝陵)」に繋がっていくとも言われます。)
弘安七年(1280)円空上人が亡くなると、二世真空如円上人が跡を継ぎます。弘安十年(1287)に真空上人は真宗院の境内に塔頭の地福寺を建立して隠居し、真宗院は弟子の道光上人が継承しますが、永仁元年(1293)に落雷により真宗院は諸堂宇全て焼失してしまいました。

さて、円空立信上人の直弟子・顕意道教上人は、二世真空上人が真宗院を継承した頃、後宇多天皇の頼願により洛西嵯峨に釈迦院竹林寺(後に上京区下立売通に移転・・ブログで採り上げています。)を創建して移っていましたが、真宗院の焼失を残念に思い、本尊阿弥陀陀如来像と師円空上人の祖影を円空上人の生地・大和十市郡に遷して一宇を建立し、永仁四年(1296)に伏見天皇から「真宗院」の勅号を賜って再興しました。しかしこの「真宗院」も正安四年(1302)秋、またもや火災で焼失、当時の住持だった顕意上人の門弟・道意上人はやむなく阿弥陀仏を奉安して竹林寺に帰りました。



その後も、道意上人は真宗院の再興を志し、京都の猪熊綾小路(現在の四条大宮付近)に徳治元年(1306)に道俗の信者の援助を得て一宇を建立し、伝来の本尊阿弥陀陀如来像と師円空上人の祖影を祀り真宗院を再興しました。
延慶元年(1308)、後の関白・二条道平が檀越として援助、正和五年(1316)に花園天皇より「圓福寺」の寺号を賜って改め、勅願所の諭旨と荘園を賜って、浄土宗西山深草派の根本道場として深草派の末寺を統轄し、水上薬師(蛸薬師)永福寺をも兼務しました。一方、深草の真宗院は三世・道光上人によって再建され、その弟子四世・光空生智上人によって継承されますが、後に顕意上人も再び真宗院に入寺しています。
以来、真宗院は十五世融誉上人に至るまで続きますが、十六世洞空上人の時代に応仁の乱の兵火によって、深草派の大寺院・・真宗院、圓福寺、誓願寺(後に新京極に移転し、浄土宗西山深草派の総本山として知られます。)、歓喜心院龍護院(西山證空上人により寛元元年(1243)が後嵯峨天皇の勅により創建した寺院で、翌二年(1244)には官寺になりました。)以下の寺院は全て焼失します。



その後、江戸時代の寛永年間(1624〜43)になって真宗院三十四世・龍空瑞山上人が中興の祖となって荒廃していた真宗院を再興し、歓喜心院龍護院も修復されます。その後も、弟子の専意一向、慈空通西上人等が継承して教義を広めていきます。中でも檀越の大阪堺の雑賀氏は真宗院に厚く帰依し、延宝四年(1676)真宗院の堂宇を再建しましたが、現在の方丈や総門等はこの時代のものということです。
大正四年(1915)に龍空瑞山上人が再建した二重屋根の本堂が再び焼失し、昭和六年(1931)に現在の本堂が再建されています。方丈、山門、鐘楼は江戸時代のものですが、昭和六十三年(1988)春に老朽化した方丈が全面修復され瓦が葺きかえられています。

本堂に祀られる本尊・阿弥陀如来坐像は伝恵心僧都作で、また平安時代の阿弥陀如来像、室町時代の毘沙門天像を安置し、仏画として文政五年〜十二年(1818〜29)の察空観仏上人の時代の大福曼荼羅図、大福大涅槃図、不空羂索神変真言教第十七巻(重文)等の寺宝があります。




さて、真宗院境内の裏山は墓地になっていて、石段の一番上には二層の立派な開山堂(開山円空立信上人本廟)があり、円空立信上人を祀っています。また石段の少し下には近世の解剖学者山脇東洋とその一族の墓があります。

山脇東洋(1705〜62)は、本名を尚徳といい、宝永二年(1705)、丹波国亀山(京都府亀岡市)の医者の清水家に生まれました。父の清水立安は東洋医学の第一人者・山脇玄脩(1654〜1727)の門下に入って医学を学んでいましたが、この縁で、幼少時より聡明だった東洋は享保十一年(1726)、二十一歳の時に乞われて山脇玄脩の養子となり、享保十四年(1729)には家督を相続し法眼の称号を与えられました。
そして宝暦四年(1754)、京都の六角牢獄で刑死した男の遺体の日本人初の人体解剖を行って、詳細に人体構造を観察したのでした。(尚、解剖された刑死人の供養碑は中京区新京極通三条下るの誓願寺墓地に建てられたということです。)この時の解剖記録は後に「臓志」として著され、これまで陰陽五行説により基づいて伝えられてきた人間の体内臓器が誤っていたことが判明し医学会に大きな影響を与えました・・時に、後に杉田玄白(1733〜1817)が「解体新書」を著す17年前のことでした。

他に真宗院の墓地には、大檀越だった雑賀氏一族の墓や、「日観亭旧跡」の石標があります・・・江戸時代の名所図会によれば、当時は開山塔の左下に南面する寄棟造の日観亭が(一間半の庇付きの亭として)描かれているということで、ここから夕日を拝んでいたようです。昭和六十年(1985)に西山浄土宗深草派円空立信上人の七百回大遠忌の際に、本廟の修理と共に日観亭の旧地を示した石標が立てられたということです。
現在でも非常に見晴らしが良く、夕日を見るのに相応しい場所のように感じます。


最後に、真宗院は、「天明伏見義民一揆」ゆかりの史跡でも有るようです。
(前に御香宮、大黒寺等でも書いていますが)、「天明伏見義民」の物語は、江戸時代の伏見を語る時には忘れられない事件なので少し再掲します・・
天明五年(1785)、時の伏見奉行・小掘政方の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救った文殊九助ら七人を「伏見義民」といいます。
伏見奉行の小掘政方は、住民に重税や重罪を課して暴虐の限りを極めました。これに対し、ついに伏見の住民を救おうと立ち上がる者が現れました・・町年寄の文珠九助、丸屋九兵衛、麹屋(こうじや)伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛の七人です。彼らは、天下の禁を破って江戸で幕府に直訴したのでした。このことを切欠に、天明五年(1785)に小掘政方は奉行を罷免され伏見に平和が戻りました。しかし、文珠九助らも禁を犯した罪で投獄されて獄中で相次いで病死したのでした。文殊九助らも、命を賭けて町を守った義人たちとして今も伏見各所に顕彰碑が残っています。文殊九助ら天明伏見義民のメンバー達は、真宗院で会合を行って幕府への直訴計画を練ったと伝わります。

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伏見には数多くの小さな寺院がありますが、宝福寺もその一つです。
伏見区帯屋町にある宝福寺(ほうふくじ)は、山号を久祥山(きゅうしょうざん)という曹洞宗寺院です。

江戸時代の伏見は大阪と京都を結ぶ物流の中継地として栄えましたが、三十石船で伏見港に着いた多くの旅人が、宝福寺で航海の安全を祈願したと伝えられ、この地域の旧名木挽町(こびきちょう)から「木挽町の金毘羅さん」として知られていたということです。

宝福寺の創建等は不明ですが、応仁の乱の兵火によって焼失する前は、「伏見九郷(ふしみくきょう・・伏見地域一帯の九つの村で、後に伏見奉行所が管轄した地域になります。)」の一つ、森村(桃陵町)にあったということです。焼失後は末寺だった瑞応院という寺院に寺号を移します。その後、永禄二年(1559)に出雲国の野崎浦城主・野崎備前守が伏見へ来て、瑞応院が荒廃しているのを知って自身が開基となって久祥院という寺名で真言宗寺院として再興し、富明(ふみょう)法印を住職としました。
桃山時代の慶長四年(1599)になって、薩摩国(鹿児島県)川辺郡の宝福寺の第十一代住職・日孝芳旭(ほうきょく)大和尚を招いて開山とし、薩摩の宝福寺の末寺となって寺号を久祥山宝福寺としました。またこの時に曹洞宗寺院に改めています。


本堂には中国風の釈迦像を中心に十六羅漢像を安置し、脇檀には三栖村(伏見区)にあった旧竜谷寺という寺院の遺物と伝えられる藤原時代風の聖観音立像を安置しています。
また本堂前にある金毘羅堂は、元々は伏見城の学問所前に建立されていたものを、江戸時代の元和六年(1620)伏見城廃城に伴って、寺社奉行の山口駿河守が当寺に移転したものといわれています。また、その際、豊臣秀吉と淀君が「子授け成就」の祈願をして、秀頼を授かったという子育て「陰陽石」や、羅漢像二体等も境内に移されたと伝えられます。
この金毘羅堂内には狐の背中に烏天狗を配した珍しい「合体金毘羅大権現像」を祀っています。この大権現像は、脇檀の羅漢像と共に非常に異国風の特長になっています。また、「豊公・淀君ゆかりの陰陽石」という子育てにご利益があるという自然石も堂内に移されているようです。尚、現在の金毘羅堂は昭和四十八年(1973)に再建されたものです。

他に、境内には、平成十四年(2002)の道元禅師七五〇回大遠忌を前に、宝福寺の大雄慶康住職と檀家有志が、平成八年(1996)に禅師の足跡(そくせき)二百五十km(京都から福井県の永平寺まで)を行脚した「慕古の旅」を記念する顕彰碑が建てられています。この「慕古の旅」は、現在も毎年8月末から9月1日にかけて宗門有志と共に続けられているということです。

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京都市伏見区東大手町、大手筋の商店街アーケードの途中にある本教寺は、山号を福昌山(ふくしょうざん)という日蓮宗・本法寺派に属する寺院です。


本教寺は、文禄三年(1594)、日新上人の法孫・教行院の日受上人により創建されました。
日受上人は当初は西浜堺町(伏見区)に小庵を創建したのですが、徳川家康の第二女・良正院督姫の篤い帰依を受けて、慶長十九年(1614)に、督姫が十六才で姫路城主・池田輝政の令室として嫁ぐことになった際に、その館と敷地を寄進されて現在地に移転しました。当時は広大な敷地を持っていたようです。
督姫は幼少時より、当時伏見城にいた太閤豊臣秀吉に寵愛され、池田家との媒酌も秀吉が自身買って出たとも伝えられます。当時秀吉から督姫が賜ったという伏見城の牡丹は、現在も境内で花を咲かせていることから、本教寺は、豊公遺愛 督姫手植えの牡丹のある寺、「慶長牡丹の寺」として親しまれています。(毎年4月中旬頃に開花)


本堂は、約二百七十年前の建築で、享保年中(1716)、近衛関白家の寄進により「堀川御殿」が移築されたもので、千鳥破風に加え唐風の庇を持った豪壮華麗な建築美を見せています。本堂に祀られる本尊は、妙法蓮華経宝塔1塔、多宝・釈迦 如来、上行・浄行・無辺行・安立行の4菩薩、日蓮大聖人像、持国天・毘沙門天・広目天・増長天の四天王の木造十二体によって構成されています。これらは作者不明ですがいずれも文禄年間の作名があります。
また左側の須弥檀には、大覚大僧正、日親聖人、加藤清正の木像三体、右側には良正院督姫の自画像、鬼子母神像、十羅刹女像が祀られています。

境内には、大きな妙見宮があり、池田家伝来の北辰妙見本尊が祀られています。
建物は元禄年間(1690頃)の建築で「開運処」と呼ばれています。堂内には中央に、北辰妙見大菩薩、左に七面天女と大黒天、右側に鬼子母神が祀られています。
この妙見大菩薩は、日蓮聖人の直弟子で加持祈祷の名手といわれた日法上人直伝のものが、その後池田家に伝わり、池田輝政と良正院督姫の遺言により、本教寺境内に池田家祈願所として祀られたものということで、開運除厄の「大手筋の妙見さま」として「十二支妙見めぐり」の「午(南)」の寺として信仰を集めています。



前に書きましたが、「十二支妙見めぐり」について再掲します。

妙見菩薩とは、北極星・北斗七星を神格化した、宇宙万物の運気を司り支配する菩薩になります。
奈良時代にはすでに民間の信仰を集めていたようで、天台宗、真言宗、日蓮宗等にも取り入れられて広まりました。最初は「方角の神様」でしたが、徐々に商売繁盛、厄除け、安産などあらゆる方面にご利益のある神として朝廷から民衆まで広い信仰を集めたようです。
「十二支妙見めぐり」というのは、江戸時代中期に、京都の御所の紫宸殿を中心に十二支の方角に、各々妙見菩薩を祀ったことに始まり、江戸時代を通してこの十二のお寺を順番に訪問して、開運や厄除けを祈願することが大いに流行りました。しかし、明治時代になるとやがて衰退してしまったようです。

昭和六十一年(1986)、京都の日蓮宗のお寺を中心として「洛陽十二支妙見会」が発足し、再び「十二支妙見めぐり(洛陽十二支妙見めぐり)」が復活しました。現在の12のお寺は、江戸時代とは大半が入れ替わっているようですが、当時の歴史と伝統を今に伝えようとする試みのようです。

「洛陽十二支妙見めぐり」の12ヶ寺・・・いくつかはこれまでに登場しています。


●子(北)西陣の妙見宮(善行院)

●丑(北北東)出町の妙見宮(本満寺)

●寅(東北東)修学院の妙見さん(道入寺)

●卯(東)鹿ケ谷の妙見さん(霊鑑寺)

●辰(東南東)岡崎の妙見さん(満願寺)

●巳(南南東)清水の妙見宮(日体寺)

●午(南)伏見大手筋の妙見さん(本教寺)

●未(南南西)未の方の妙見さん(法華寺)

●申(西南西)島原の妙見さん(慈雲寺)

●酉(西)小倉山の妙見宮(常寂光寺)

●戌(西北西)鳴滝の妙見宮(三宝寺)

●亥(北北西)鷹峯の岩戸妙見宮(円成寺)

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