京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

伏見稲荷・深草・伏見桃山・鳥羽他

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

伏見区深草藪之内町、伏見稲荷大社の外拝殿南にある小さな神社が東丸神社(あずままろじんじゃ)です。伏見稲荷と境内が隣接していますが別の神社です。
東丸神社は、明治十六年(1883)に、江戸中期の国学者で伏見稲荷大社の社家に生まれた荷田春満(かだのあずままろ 荷田東丸1669〜1736)が正四位の追贈を賜ったことを記念に、伏見稲荷大社の宮司らが寄付を募って創建した神社で、もちろん祭神は荷田東丸命(かだのあずままろのみこと)です。


荷田春満(東丸、東麿)は、寛文九年(1669)に、この伏見稲荷神社の社家で御殿預りを務める羽倉主膳信詮の次男として生れました。本名は羽倉信盛といい、幼少より歌道や書道に秀で、神職を継がずその後国史や古典を研究します。元禄十年(1697)から妙法院宮の御学問所に歌道の師として仕えましたが、当時は幕府が朱子学を政治理念としていたために、書を学ぶ者が極端に漢風(中国風)に走ることをみて、古学の廃絶を憂えて古学復興を志します。
その後、荷田春満(東丸)は、江戸に下向して独学で古学を研究し、また門人らに講義を行ってその名声は高まります。その名声を伝え聞いた将軍徳川吉宗は、享保七年(1722)に幕府の蔵書閲覧を頼んでその間違い等を訂正させ、その後も建議並び全ての書籍の推薦検閲の特権を与えています。

この間の逸話として、赤穂浪士と関わりがあります。荷田春満(東丸)は江戸在住時代に多数の門人に古典古学を教えていましたが、吉良上野介もまた教えを受けた一人でした。しかし上野介の振舞いぶりを見聞するに及んで、教えることを止めたということです。たまたま元禄十年(1697)に以前から親交があった大石良雄(内蔵助)の訪問を受け、その後、堀部弥兵衛・安兵衛、大高源吾とも交わり、吉良邸の見取り図を作って大高源吾に与え、また十二月十四日に吉良邸で茶会があることを探って赤穂浪士を援助したということです・・・赤穂浪士伝説の一つといえるでしょう。

その後、荷田春満(東丸)は、享保八年(1723)に京都へ戻り、さらに日夜研究を進め著述を著し、賀茂真淵等多くの門人に講義を行いました。そして東山の地に古学普及のための倭学校(国学校)を創建しようと享保十三年(1728)に、学校創設の必要を説いた「請創造倭学校啓文」を著しますが、享保十五年(1730)に病気にかかり、元文元年(1736)七月二日、68歳で亡くなり稲荷山に葬られました。
春満(東丸)は臨終に際し、その多くの著述の中で、研究途中のものは後世に残すと却って悪影響を及ぼすとして手元にあった書物を焼却させましたが、現在でも神道・日本史・律令・格式・歌道等に関する遺著が多数残されています。そして弟子だった賀茂真淵、その後に続く本居宣長、平田篤胤と並んで「国学の四大人(しうし)」といわれています。



さて、東丸神社は、明治十六年(1883)二月、荷田春満(東丸)が正四位の追贈を賜ったことを記念に、伏見稲荷大社宮司・近藤芳介、同主典・桑田孝恒等が中心となり、五月に政府に神社創建を申請して寄付を募り、荷田春満の旧邸の地の隣りに社を創建し、同二十三年(1890)五月に遷霊の義を行いました。その後、同三十六年(1903)十二月に府社に昇格、昭和十一年(1936)に現本殿に改造されました。荷田春満にあやかろうと学問向上や受験合格を願う多くの方がお参りに訪れています。


また、神社の東にある春満の旧邸は、春満の死後に火災に遭ってその敷地の一部に東丸神社が創建された後も、春満の時代の書院・神事舍・門が現存していて、江戸期の貴重な遺構として国の史跡に指定されています。(以前、文化財特別拝観で公開されています。)
(尚、京都では「荷田春満旧宅」のような国史跡の住宅としては、「頼山陽書斎(山紫水明処)」、「伊藤仁斎宅(古義堂)跡ならびに書庫」、「岩倉具視幽棲旧宅」があります。)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

伏見区観光協会のHPを参照して、JR藤森駅付近にある西福寺について書いてみます。
伏見区深草大亀谷西寺町にある西福寺は、如意山光厳院と号する浄土宗寺院です。


西福寺は、南北朝時代(1336〜92)に、北朝初代の光厳天皇が念仏堂として創建したと伝えられ、光厳院と称しました。伏見は平安時代中期に鳥羽殿や伏見殿が創建され政治の中心地となった地で、伏見殿はその後、持明院系(後深草・伏見・後伏見・花園天皇)の皇室領として受け継がれ北朝の歴代天皇に継承されました。伏見には南北朝時代に大光明寺(前に掲載しています)など北朝ゆかりの寺院が建立され、光厳院(西福寺)もその一つだったようです。その後、文禄年間(1592〜95)に豊臣秀吉が伏見築城に際して現在地に移転し、寺名を西福寺と改名しました。

平成十三年(2001)年に360年ぶりに改修された本堂には、中央に本尊・阿弥陀如来像、脇仏に観音菩薩と勢至菩薩が祀られています。また境内には、歌人・田中常憲の石碑があります。

田中常憲(たなかつねのり 1873〜1960)は、明治六年(1873)に鹿児島県に生まれ、上京して落合直文に歌を学びました。長野、大阪、大分を経て福岡県田川、京都府福福知山、桃山の各中学校で校長として教育に献身しながらも歌人として作歌も続け、晩年に歌誌「新月」を創刊し多くの人材を育てました。昭和三十五年(1960)にこの西福寺の傍に住み八十八才で死去しました。
西福寺にある歌碑には「ふかくさの 野辺の雲雀(ひばり)よ 春たたば わが墳の上の雲にきてなけ」と刻まれています。

最後に、西福寺は伏見を中心とした「洛南七福神」の一つでもありました。大正時代には盛んに巡拝されたそうですが、現在は行われていないということです。

以下は、伏見区各地にある「洛南七福神」です。
(法性寺以外は、このブログにも採り上げています。)

金札宮(恵比須)
大黒寺(大黒天)
長建寺(弁財天)
海宝寺(福禄寿)
西福寺(寿老人)
石峰寺(布袋尊)
法性寺(毘沙門)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

伏見稲荷大社、伏見観光協会のHPを引用させていただいて、伏見稲荷と東福寺の間にある小さな2つの寺社について書いてみます。

まず、田中神社です。
京阪電車の鳥羽街道駅からすぐ近く(東山区本町二十丁目)、伏見街道沿いにある田中神社は、伏見稲荷大社の境外摂社で、祭神は田中大神(たなかおおかみ)です。田中大神は伏見稲荷大社の五祭神の一つでもあり、伏見稲荷が創建される以前から稲荷山周辺に祀られていた神と考えられています。(尚、田中神社という神社は京都市内に3ヶ所程あるようです)

創建年代は不明ですが、かつては田中明神とも呼ばれていました。「古今著聞集」には和泉式部が伏見稲荷に詣でた際に田中明神付近で時雨に遭って、田を刈っていた一人の童が雨具を貸してくれたという逸話が残っていることから、平安時代にはすでに現在の地にあったと考えられています。
また、室町時代の享徳三年(1454)の稲荷祭で無法者から矢を射かけられた稲荷大社の神輿が、この社に避難したという記録があるそうです。今ではたいへん小さな神社ですが境内は緑が多く、特に大きなクスノキは高さ13.1m、幹周1.7mあり区民の木に選ばれています。



続いて、極楽寺です。
東山区本町二十二丁目にある極楽寺は、浄土宗西山禅林寺派に属する小さな寺院です。
前にも何度か書きましたが、この東福寺から伏見稲荷に至る地域は、平安時代中期の延長三年(924)に関白藤原忠平が氏寺として法性寺を建立した場所でした。現在、極楽寺のある辺りは、法性寺の塔頭・十王堂の旧地と伝えられ、江戸時代の古地図には十王堂と記されているということです。

極楽寺という寺名は、伏見区深草にあった大寺極楽寺(現在の宝塔寺の前身。宝塔寺に関しては後日ブログに採り上げます。)の名を受継いでいるということで、本尊阿弥陀如来立像は、鑑真和上の作、或いは行基菩薩の作といわれています。その他、閻魔大王をはじめ、秦広王から五道転輪王までの十王像が祀られていて、これら土製の十王像は、後にこの伏見から発展し全国に広まった伏見人形の原形の一つともいわれています。また丈六の薬師如来座像は、旧法性寺中堂の本尊といわれ、法性寺が衰退した後に現・東福寺の三ノ橋北詰にあった薬師堂に移され、明治十年(1877)以降に極楽寺で祀られるようになったものということです。

三栖の炬火祭

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

10月7日、京都市伏見区の三栖神社の祭礼行事「炬火祭(きょかさい)」が行われました。この日は桃山町の御香宮では「神幸祭」の最終日にあたり、こちらも神輿や武者行列が行われ、伏見桃山・中書島周辺が大いに盛り上がった一日だったようです。
(尚、三栖神社と御旅所の金井戸神社については、前回の金井戸神社の記事をご覧ください。)


三栖神社は天武天皇を祀る神社で、秋の神幸祭「炬火祭」は、巨大なたいまつ(炬火)を担いで練り歩くという勇壮なものです。
「炬火祭」は壬申の乱の際、天武天皇が三栖の地を通過するときに、村人達が炬火(たいまつ)を灯して暗夜を照らして歓迎したという伝説に由来しています。何時から行われるようになったのかは不明ですが、少なくとも江戸時代の元禄十三年(1700)の祭の記録が残り、戦後の昭和三十四年(1959)から一時途絶えていましたが、平成元年(1989)に地元住民により復活し、京都市の無形文化財に指定されています。

「炬火祭」は三栖町地域の若者(若中)により行われ、彼らは若中頭や世話役を勤めた後に退いて代替わりします。炬火(たいまつ)作りは、祭の1年前に宇治川の河川敷で葦(ヨシ)を6、7000本刈り取って保存することから始まります。これらは点火部分に使うもので、一年の間、寝かして置くことで穂先が開いていくということです。祭の1ヶ月前には、芯の部分となる葦(ヨシ)を刈って炬火(たいまつ)の芯作りが行われます。さらに化粧葦を編み込む等の数回の行程を経て、直径1.2m、長さ5m、重さ1トンにもなる巨大な大炬火(おおたいまつ)と手炬火(てだいまつ)が完成します。



火祭といえば、山間(鞍馬の火祭、松上げ等)や寺社境内(嵯峨のお松明、岩倉の火祭等)で行われるのが一般的ですが、「炬火祭」は、市街地の一般道路で行われ、火祭形態として非常に珍しいものといわれています。もちろん、昔は人家も少なかったのでしょうが、今は京阪中書島駅があり大阪・京都への通勤に便利な伏見の繁華街近くになっています。そのため交通規制により竹田街道は一時通行止めとなります。

さて、祭当日に大炬火(おおたいまつ)は三栖神社まで巡行して神社に奉納された後、三栖会館前(京阪中書島駅前)まで巡行します。いよいよ午後8時、三栖会館前の大炬火(おおたいまつ)が約30人の若者によって担ぎあげられ点火されます。大炬火は直前に水を満遍なく掛けられて芯まで水を染み込ませています。この水掛けが無いと、炎は一気に燃え広がって担ぎ手が焼死する危険があるからですが、人家が建ち並んでいる市街地の幹線道路上での祭ということを考えれば、万全な危険防止策が必要で、後の鎮火や清掃時間からも当然ということでしょう。

担い棒で担がれた大炬火は、竹田街道を北上して濠川に架かる京橋まで約300m弱程の距離を約30分で巡行することになります。いざ動き出すとけっこう早いスピードで、歩道は見物人で一杯のために、なかなか大炬火に追い付けず撮影は難しかったです。京橋付近では大炬火は何度か回転して祭りを盛り上げ、ここで松明の火は消火されることになります。尚、消化後の燃え残りを持ち帰ると火除けになるといわれているということです。その後、今度は神輿行列が行われ祭は終了します。
若中頭の「三栖の祭は、日本一や!」という叫び声に、沿道の多くの見物人から暖かい拍手が上がっていたのが印象的でした。京都市南部のローカルな祭という感じで、まだまだ知名度の低い火祭かもしれませんが、大炬火が市街地を練り歩くというのも他の火祭には無い特徴で、何と言っても京阪中書島駅前というアクセスの良さからも(四条河原町まで電車10分程度の距離で見られる火祭なんて珍しいでしょう。)一見をお勧めします。


京都では、「大文字五山の送り火」「鞍馬の火祭」「嵯峨清涼寺のお松明」を「京都三大火祭」と呼んでいるようですが、巨大な大松明を用いた祭として「嵯峨のお松明」「岩倉(石座神社)の火祭」そしてこの「三栖の炬火祭」を「京都三大大松明祭」と呼んでも良いのかもしれません。鞍馬の火祭と合わせて、この4つの火祭は迫力ある祭りの好きな方にお勧めです。
その他、全国的に同様の行事のある「松上げ」は、京都では花背、広河原、雲ヶ畑、久田宮の町の4ヶ所で行われ、こちらはしみじみとした寂しさも感じられる叙情的な火祭といった感じでしょうか・・・私はどちらかと言えば近年叙情派ですが。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

10月7日(日)、伏見の三栖神社(みすじんじゃ)の祭礼行事「炬火祭(きょかさい)」が行われました。「炬火」とは炬火(たいまつ)のことで、葦(よし)の束に火を付けるために「松明」では無く「炬火」と記すそうです。午後8時に京阪電車の「中書島」直ぐ北にある三栖会館前で巨大な炬火に点火され、30人あまりの担ぎ手により竹田街道を京橋まで巡行する勇壮な祭りです。
(次回に祭の様子を少し掲載します)


さて、伏見には、三栖神社と呼ばれる神社は2つあり、一つは伏見区横大路下城ノ前町にある本社です。もう一つはそこから東、京阪電車の「中書島」近くにある伏見区三栖向町の金井戸神社で、こちらは三栖神社の御旅所になります。三栖神社は、創建等が不明な旧村社ですが、江戸時代の元禄時代から「炬火祭」を行い、三栖一帯の産土社として祀られてきました。

今回は時間的に遠方にある本社まで訪れることが出来ませんでしたが、「炬火祭」直前の御旅所に寄ってみました。この神社も扁額に三栖神社と記されているように、通称「三栖神社」と呼ばれています。近年、中書島をはじめ周辺の発展により氏子地域が広がったために本社から分離して、南の桃山町金井戸島にちなんで金井戸神社と改名したということです。

さて、三栖神社の御祭神は天武天皇です。672年、大海人皇子(天武天皇)が大友皇子と皇位をめぐって争った「壬申の乱」の際に、大海人皇子(天武天皇)に加担した軍がこの伏見の三栖の地を通過して、村人達が炬火(たいまつ)を灯して暗夜を照らして歓迎したという伝説や、大海人皇子(天武天皇)が大津京への行幸の途中で立ち寄って炬火(たいまつ)で歓迎された等の伝説があり、秋の「炬火祭」はこの伝説に由来して行われています。

次回は「炬火祭」の様子を少し掲載してみます。

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
hir**i1600
hir**i1600
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事