京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

伏見稲荷・深草・伏見桃山・鳥羽他

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宮内庁のHPで、歴代の天皇陵を調べても掲載されていない天皇陵があります・・南北朝時代の北朝の歴代天皇です。
明治時代、南朝正当論を広めることこそ日本国民の道徳教育であるとする一部の歴史家が唱えたこと等から起こった南北朝正閏論争は、明治四十四年(1911)、大逆事件などの政治問題と絡んで国会で追及された桂内閣が、明治天皇の裁可を得て南朝を正統と決定したことにより、北朝の5代の天皇は歴代天皇からは除外されてしまいました。
このため北朝の第6代にして南北合一後の第100代の後小松天皇は北朝時代の即位は無効とされ、南北合一後の治世のみが認められるという少しこじつけのような扱いになっています。正統な天皇から外れたからといって、それまで明治政府(宮内省)は基本的には北朝正統説を採っていたので、お墓も他の天皇と同じ立派な御陵です。


北朝の初代・光厳天皇の陵墓(山国陵 やまくにのみささぎ)は、第102代の後小松天皇の後山国陵(のちのやまくにのみささぎ)と並んで右京区京北井戸町の常照皇寺内に祀られています。また、北朝第4代後光厳天皇と第5代後円融天皇は、前回に採り上げた伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)に、他の10人の天皇と共に葬られています。
今回採り上げた、伏見区桃山泰長老にある「大光明寺陵」は、北朝第2代光明天皇と第3代崇光天皇、さらに伏見宮家第2代の治仁(はるひと)親王を合葬した陵墓ですが、同じ伏見桃山には、桓武天皇と明治天皇という有名な天皇陵があるために、「大光明寺陵」は一部の天皇陵ファンを除いて忘れられがちな御陵かもしれません。


さて、前に上京区今出町通烏丸東入相国寺門前町、有名な相国寺の境内にある大光明寺(だいこうみょうじ)というお寺をブログに採り上げました。実は、今回の大光明寺陵の「大光明寺」という名前はこのお寺に由来しています。

少し時代を溯りますが、平安時代の伏見の地は、貴族の遊興の場として多くの別荘がありました。特に藤原道長の孫にあたる橘俊綱は、延久年間(1069〜74)にこの地に豪華な伏見山荘を築いて、伏見長者と呼ばれる程に栄華を極めたとも伝わり、伏見という地名はこの山荘の栄華が広く知られるようになり地名として定着していったといわれます。俊綱の死後、山荘は当時伏見殿と豪華さを競い合っていた鳥羽離宮の主・白河上皇に献上され、後に白河上皇の甥で養子だった源有仁(ありひと 花園左大臣 公家風のお歯黒や化粧を始めた人物ともいわれます)に下賜されます。その後さらに、有仁の養女となった鳥羽上皇皇女・頌子内親王を経て、後白河上皇へ継承されました。
後白河上皇は伏見一帯に豪華な伏見殿(船津御所、伏見離宮)を建造しました。鎌倉中期に荒廃してしまった鳥羽離宮に対し、伏見殿は持明院系(後深草・伏見・後伏見・花園天皇)の皇室領として受け継がれ、南北朝時代には後伏見天皇の子・北朝の光厳、光明天皇に受け継がれました。

さて、光厳、光明両天皇の母・広義門院西園寺寧子(左大臣西園寺公衡の娘)は、延元元年(1336)、に夫後伏見天皇が崩御すると落飾、尼となり、暦応二年(1339)に夫の菩提を弔うために、伏見殿の傍に一寺を建立しました。これが大光明寺で、開山は広義門院の禅学の師だった夢窓疎石(夢窓国師)で、寺名は門院自身の法号から採られています。
その後、伏見殿は、光厳上皇より伏見宮家の始祖となる栄仁親王(北朝第3代・崇光天皇の皇子)に譲られますが、室町幕府の中期以降は、戦乱により荒廃してしまいました。
尚、大光明寺は、栄仁親王が死後にこの寺に葬られて以来、歴代の伏見宮の菩提所となりました。応仁の乱等で衰退していたものを文禄三年(1594)に、伏見城築城に合わせて豊臣秀吉が再建し、慶長十九年(1614)に伏見桃山から現在の相国寺山内に移転しています。


現在の大光明寺御陵は、元々伏見殿の上御殿があった付近で、明治時代に光明・崇光両天皇の火葬された遺骨は大光明寺に納められたとの一部の古記録から、かつての大光明寺のあった付近に円丘の御陵が整備されました(但し、康歴二年(1380)に光明天皇は長谷寺(大和)または勝尾寺(摂津)で崩御したと諸説あり、現在、兵庫県箕面市の勝尾寺の旧寺域・光明院谷には、光明天皇の供養七重石塔が建立されていて、塔の台座に「大光明院」と「□七七供養造石塔」の刻文があります。江戸時代には光明天皇の墓と考えられていました。)大光明寺陵は住宅地の中にありますが、松並木の参道が長くて開放感を感じられる陵墓です。

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今回は、京都の天皇陵の中でも目だった存在の深草北陵(深草十二帝陵)と仁明天皇ゆかりの寺院・嘉祥寺を採り上げます。


京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)は、「深草十二帝陵」とも呼ばれ、鎌倉時代の第89代後深草天皇、第92代伏見天皇、第93代後伏見天皇、南北朝時代の北朝・第4代後光厳天皇、北朝・第5代後円融天皇、北朝6代で第100代後小松天皇、以下、室町時代〜桃山時代にかけての第101代称光天皇、第103代後土御門、第104代後柏原天皇、第105代後奈良天皇、第106代正親町天皇、第107代後陽成天皇の合計12人の天皇と、初代伏見宮の栄仁親王(北朝第3代崇光天皇の皇子)を合葬した陵墓です。(但し、現在は北朝の2代の天皇は歴代天皇から外されていますが・・。)12人の天皇を合葬した東山区の泉涌寺境内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)と並んで最も多くの天皇のお墓ということになります。


この深草北陵以前には、大規模古墳の天武&持統天皇の檜隈大内陵を除いて、一つの天皇陵に複数の天皇を埋葬した例は無かったようです。
深草北陵のような陵墓が生まれた背景として、平安時代以降、仏教の影響で火葬が普及して墳墓自体がコンパクトになり、さらに寺院内に塔や御堂を建立して遺骨を納めるようになったことがあります。(火葬という形式によって、天皇や貴族の墓も現在の私たちの一般墓地とそれ程変らなくなったといえるでしょう。尚、当時の庶民の死体は殆んどそのまま捨てられていました。)また南北朝〜戦国時代と続く戦乱の中で朝廷や大寺院も各地の荘園を失って経済的に疲弊し、新たに天皇陵及びそれを守護する陵寺の造営が不可能となったことが大きな理由でしょう。実際、戦国時代には有力大名の援助が無ければ天皇の即位式も出来ず、また天皇の葬儀さえも資金難から滞ったこともあった程でした。天下が平定された秀吉時代の第107代後陽成天皇でもこの深草北朝に合葬されていることを考えると、この時代までに天皇の合葬は普通の事になっていたのでしょう。(逆に、明治の天皇制以降現在まで、大規模な天皇陵を整備するようになったのは先祖がえりと言えるかもしれません。)

さて、下の嘉祥寺の沿革と重なりますが・・・鎌倉時代にこの地に創建された安楽行院という寺院境内の法華堂に後深草天皇の遺骨が安置されて以降、伏見、後伏見・後光厳・後円融・後小松・称光・後土御門・後柏原・後奈良・正親町・後陽成と歴代の天皇の火葬された遺骨は法華堂内に納骨されました。しかし、応仁の乱以降、安楽行院は法華堂等一部を除いて焼失し、江戸初期にはただ「御骨堂」と呼ばれ荒廃していたようです。ようやく江戸中期に再建された安楽行院(嘉祥寺)は、明治時代に神仏分離令により天皇の遺骨を祀る法華堂の周辺が分離され、深草北陵として整備され宮内省管理下に置かれることになりました。


さて、深草北陵は寺院形式の方形堂陵墓で、鳥居の目立つ神道形式の天皇陵(多くは前方後円墳や円墳・方墳が多いです。)が大部分を占める中で印象的な存在です。
一部例外(天智天皇、天武&持統天皇、醍醐天皇、白河天皇などの陵墓は信憑性が高いと考えられています)はありますが、基本的に御堂の有る天皇陵は、長年寺院により管理されてきた信憑性の高い陵墓が多く、鳥居のみを持つものは幕末明治以降に選び直した信憑性に問題があるものが多いともいえます。

とにかく難しく考えなくても、堂塔のある天皇陵は数少なく、一見に値する美しいものが多いです。
最も美しい安楽寿院南陵(76代近衛天皇)を筆頭に、安楽寿院陵(74代鳥羽天皇)、法住寺陵(77代後白河天皇)、蓮華峯寺陵(91代後宇多天皇)、天龍寺内の嵯峨南陵(88代後嵯峨天皇)と亀山陵(90代亀山天皇)があり、また、九重塔が立ち並ぶ泉涌寺内の月輪陵(87代四条天皇、108代後水尾〜118代後桃園天皇)・後月輪陵(119代光格天皇、120代仁孝天皇)も印象的です。

その他、変り種は鳥居があり十三重塔の立つ大原陵(82代後鳥羽天皇)や宝篋印塔のある常照皇寺内の山国・後山国陵(北朝初代光厳天皇・102代後花園天皇)。また堂塔が無いにもかかわらず鳥居の無いものは、水尾山陵(56代清和天皇)、清閑寺陵・後清閑寺陵(79代六條天皇・80代高倉天皇)、阿彌陀寺陵(81代安徳天皇 山口県下関市)、・後月輪東山陵(121代孝明天皇)です。
機会があれば、今後、各天皇陵もチェックしてみます。






さて、嘉祥寺(深草聖天)です。
京都市伏見区深草坊町にある嘉祥寺 (かしょうじ)は天台宗寺院で、本堂に歓喜天(聖天)を祀ることから「深草聖天(ふかくさしょうてん)」と呼ばれ、開運招福祈願の信仰を集めています。小さな寺院ですが、かつてこの地にあった由緒ある大寺の名を留めています。

平安時代の嘉祥四年(851)、文徳天皇は父帝・仁明天皇の菩提を弔うために、この深草の父帝の山陵の傍に内裏の清涼殿を移築して寺院とし、真言僧の真雅僧都(法光大師)を開山とし、当時の年号をとって嘉祥寺と名付けました。
文徳天皇自身も落飾後は嘉祥寺に移り、貞観三年(861)に境内に西院を建立して、真雅僧正(法光大師)の住まいとしました。この嘉祥寺西院は、清和天皇の時代に貞観寺と名付けられて独立した寺院となります。その後、嘉祥寺は陽成天皇の元慶二年(878)には定額寺となって官寺の扱いを得、さらに光孝天皇は嘉祥寺境内に五種類の塔を造営したということです。このように平安時代初期の嘉祥寺は、七僧を置いて朝廷の御願を修し、広大な寺域を持ち多くの堂宇の建ち並んだ大寺でしたが、平安時代末には衰えて仁和寺の別院となりました。
尚、当時の嘉祥寺のあった場所は、現在の善福寺周辺から嘉祥寺の遺物と思われる瓦や礎石が発掘されたことから伏見区深草瓦町付近と考えられています。


その後、鎌倉時代中期に藤原道基が嘉祥寺の再建を図り、道基の持仏堂だった法華堂を移築しさらに仏堂を造営しました。これが現在、嘉祥寺及び深草北陵(深草十二帝陵)のある坊町付近になり、この寺院は安楽行院と名付けられました。安楽行院は境内の法華堂に鎌倉末期の後深草天皇以降の十二人の天皇の火葬された遺骨を納め管理する寺院となりますが、応仁の乱により、法華堂と一部の仏殿を除いて焼亡してしまいました。
しかし、江戸時代の寛文年間(1661〜73)に、空心律師が安楽行院を再建し、その際、同院境内に聖天を祀って嘉祥寺も再興されました。再建された寺院は安楽行院嘉祥寺と号しました。尚、聖天像は安楽行院再建の際、竹林の中から掘り出したと伝えられます。更に元禄十二年(1699)に、後西天皇の勅許を得て本堂、庫裏等が上棟されました。
明治以降は廃仏棄釈の影響もあって衰え、明治二十七年(1894)に深草十二帝陵が整備される伴って、仏殿や庫裏等の大部分が壊されてしまいます。こうして、法華堂を中心とする十二帝陵が造られる一方で、嘉祥寺は境内地を削られ、現在は歓喜聖天堂と諸仏を残すのみとなったということです。

現在の嘉祥寺は、平安時代の大寺と位置も旧寺域と離れた名を継ぐだけの小さなお寺ですが、日本最初といわれる歓喜天をはじめ十一面観音や不動明王像を所蔵し「深草聖天」の通称で親しまれています。また、境内にある石塔はかっての安楽行院の十二帝供養塔だと伝えられます。

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伏見区は古くから栄えた地域で多くの史跡が残っています。京都で最も天皇陵が集中している地域でもあり、今回は、伏見区深草にある仁明天皇深草陵(にんみょうてんのうふかくさのみささぎ)と、桓武天皇に関する史跡でもある浄蓮華院(じょうれんげいん)を採り上げました。



京都市伏見区深草東伊達町にある仁明天皇深草陵(にんみょうてんのうふかくさのみささぎ)は、平安時代の第54代仁明天皇の陵墓(方形墓)です。天皇陵の参道は、近所の方の私道のような印象で、人家に囲まれている印象の強い天皇陵です。(写真)
仁明天皇は、嘉祥三年(850)に崩御して山城国紀伊郡深草に葬られ、陵墓を守るために嘉祥寺という寺院が創建されました。(嘉祥寺についてもブログに採り上げます)しかし、現在は嘉祥寺の位置も代わり、仁明天皇の正確な埋葬地も不明です。(現在の仁明天皇陵は、長らく不明だったものを幕末に定めたもので、信憑性を欠く天皇陵といわれています。現在より北にあったことは確実のようです。)


さて、仁明天皇は、平安時代初期の天皇で、嵯峨天皇の第2皇子でした。歴史的にそれ程重要な天皇ではありませんが、治世に「承和の変」という藤原氏が台頭する切欠となった事件があり、天皇家皇位(王統)の相続形態に変化をもたらした天皇として知られます。

平安京の創始者・桓武天皇の子孫たち、いわゆる桓武朝は、親から子へという直系相続ではなく、兄弟間(また兄弟の子へ)で皇位を譲り合うという王統の迭立が行われたことが知られています。「藤原種継暗殺事件」や「平城太上天皇の変(薬子の変)」等の大きな事件が起こると、結果として一時的に直系相続を生みますが、皇位迭立は存続して、特に嵯峨・淳和天皇の時代の皇位迭立は兄弟間で相手の子供に皇位を譲るという複雑なものになりました。

○桓武天皇(弟・早良親王を皇太子にするも、「藤原種継暗殺事件」に連座して廃位。代わって子の安殿      親王(平城天皇)を立太子)
○平城天皇(弟の嵯峨天皇に譲位)
○嵯峨天皇(甥の高岳親王(平城天皇の子)を皇太子にするも、「平城太上天皇の変(薬子の変)」に連      座し廃位。代わって弟・大伴親王(淳和天皇)を立太子)
○淳和天皇(甥・正良親王(嵯峨天皇の子・仁明天皇)を立太子)
○仁明天皇(従兄弟・恒貞親王(淳和天皇の子)を立太子するも、「承和の変」に連座し廃位。代わって      自身の子・道康親王(文徳天皇)を立太子)

さて、兄の平城天皇から皇位を譲られた嵯峨天皇は、その後、兄の上皇が再び政治的野心を抱いために、これを軍事的に圧倒し兄を出家させます。(平城太上天皇の変(薬子の変))その後、兄弟の対立が王統を危うくしたことの反省か、また自身の子を皇太子にすることを憚ったためか、嵯峨帝は、弟の大伴親王(淳和天皇)を皇太子にします。即位した淳和天皇は、今度は甥にあたる嵯峨の子・正良親王(仁明天皇)を立太子し、即位した仁明天皇は、今度は従兄弟にあたる淳和の子・恒貞親王を立太子します。このように、嵯峨と淳和の兄弟帝は、子の代まで交代に皇位を譲り合ったのでした。
しかし、主に上皇として絶大な権力を握っていた嵯峨帝の意思によって行われたこの相続形態は、嵯峨の死によって脆くも崩れます。

承和七年(840)に淳和上皇が死去、承和九年(842)に、嵯峨上皇が重病に陥ると、有力貴族の後ろ盾のない皇太子・恒貞親王(淳和天皇の子)の立場を危惧した皇太子に仕える伴健岑(ばんのこわみね)、橘逸勢(たちばなのおとせ)らが恒貞親王を東国へ移すことを画策します。しかしこの計画は露見し、嵯峨帝が亡くなると陰謀関係者は直ちに逮捕されました。仁明天皇は詔を発して伴健岑、橘逸勢らを謀反人として流刑に処し、恒貞親王も皇太子を廃されました。この「承和の変」の結果、仁明天皇の外戚・藤原良房は大納言に昇進し、仁明の子・(藤原良房の孫)道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となります。こうして、兄弟間(また兄弟の子へ)で皇位を譲り合うという王統の迭立は一旦終わって、仁明・文徳・清和・陽成と続いく直系相続が行われます。


ついでですが、仁明の後継天皇は幼帝が多く、権力は外戚・藤原良房、基経が握ることとなります。
○文徳天皇(藤原良房の圧力で、子の惟仁親王(清和天皇 藤原良房の孫)を立太子。
○清和天皇(9歳で即位。藤原良房が実権を握る。子の貞明親王(陽成天皇)に譲位)
○陽成天皇(9歳で即位。藤原基経により退位させられる。)
陽成天皇を退位に追い込んだ藤原基経は、後継者を探して、再び3代溯った仁明天皇の第3皇子を担ぎ出します。この光孝天皇は、「全てを基経に任せる」と語り、基経の権力は絶大なものとなりました。

○光孝天皇(前天皇の大叔父。藤原基経により55歳で天皇に擁立。子の定省親王(宇多天皇)を立太       子。
○宇多天皇(子の敦仁親王(醍醐天皇)を立太子)
○醍醐天皇(子の寛明親王(朱雀天皇)を立太子)
○朱雀天皇(男子無く、弟の成明親王(村上天皇)を立太子)
○村上天皇(子の憲平親王(冷泉天皇)を立太子)

しかし、光孝・宇多・醍醐・(朱雀)・村上と続いた直系相続は、村上天皇死後には、政治の実権を握る藤原氏の都合により、再び王統の迭立に変化していきます。以後の冷泉・円融・花山・一条・三条・後一条・後朱雀と続く王朝は全て兄弟か従兄弟間の相続でした。






仁明天皇深草陵が長くなりましたので、この天皇陵から歩いて数分の浄蓮華院を出きるだけ簡単に書いてみます。浄蓮華院の境内には幼稚園のような遊具が置かれ、音楽学校・・という看板も掲げられていて特に採り上げる程の寺院には見えないのですが、意外と面白い経歴があります。

さて、伏見区深草鞍ヶ谷町にある浄蓮華院は、天台宗妙法院派の寺院で本尊は阿弥陀如来、深草毘沙門天とも呼ばれています。江戸時代の文政四年(1821)に、比叡山の僧尭覺(ぎょうかく)上人が有栖川宮韻仁(つなひと)親王の命により、桓武天皇菩提のために建立した寺院で、祀られている桓武天皇の肖像画は比叡山より下賜されたものということです。元々は万延元年(1860)に、京都御所の建物を移築して御影殿にしたということですが、老朽化により昭和三十三年(1958)、現在の洋風建築に再建されました。
またここは、幕末に国学者・歴史家の飯田忠彦(1798〜1860)が「大日本野史」291巻を執筆した所でもありました。「野史」は、水戸光圀の「大日本史」や頼山陽の「日本外史」で描かれなかった江戸時代も含む(室町時代中期から幕末までの)歴史書です。飯田忠彦は、日米修好通商条約の締結に反対する意見書を提出したことから、安政の大獄に連座して捕えられますが、釈放されて出家し、この浄蓮華院の一室で執筆に励みました。しかし間もなく、桜田門外の変に関与したという疑いを受けて自殺しました。

先程書いたように、浄蓮華院は、桓武天皇の菩提を弔うために建てられた寺院なのですが、実はこのお寺の背後の山は、「谷口古墳」という6世紀後半の古墳で、江戸時代までは桓武天皇の御陵として祀られていたのでした。
京都の多くの天皇陵は、主に南北朝以降の戦乱の中で所在地が不明となっていきます。江戸時代後期になると尊皇思想の高まりによって、各天皇陵の所在調査が行われるようになり、この谷口古墳が桓武天皇陵と特定されたのでした。しかしその後も諸説があって、結局、明治時代に現在の桓武天皇柏原陵(伏見区桃山町永井久太郎)に改められました。しかし現在の桓武天皇柏原陵自体も信憑性に欠けると考えられています。

海宝寺

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伏見区桃山町正宗にある海宝寺(海寶寺)は、観光寺院では無いのですが、中国風精進料理の普茶料理を楽しめるお寺として広く知られています。

海宝寺(かいほうじ)は、山号を福聚山(ふくじゅざん)という黄檗宗寺院で、江戸時代中期の享保年間(1716-36)に建てられた京都では比較的新しいお寺です。
桃山時代、現在の海宝寺境内を含む「桃山町正宗」という地域には、仙台藩の藩祖・伊達政宗の伏見上屋敷(かみやしき)がありました。伊達政宗は文禄四年(1595)に豊臣秀吉からこの伏見に屋敷地を与えられ、千人以上の重臣やその妻子などを住まわせました。伊達家家臣が闊歩する屋敷一帯は人々から「伊達町(だてまち)」と呼ばれたそうです。政宗自身も慶長四年(1599)頃までこの地に住み、慶長六年(1601)に上洛した際にも、約1年間ここで過ごしています。
(尚、政宗の伏見屋敷は、この上屋敷の他に、上屋敷の南西と深草の2ヶ所に下屋敷(しもやしき)があったようです。深草の下屋敷付近には、現在も「深草東伊達町(ふかくさひがしだてちょう)」「深草西伊達町(ふかくさにしだてちょう)」の地名が当時の名残を留めています。また、海宝寺門前の道路は「伊達街道」と呼ばれます。)


さて、海宝寺は、享保年間(1716〜36)初期、萬福寺第十二世・杲堂元昶(こうどうげんちょう)禅師が創建した開宝寺という寺院がはじまりと伝えられ、その後、享保十三年(1728)に萬福寺第十三世・竺庵浄印(じくあんじょういん)禅師が、伊達政宗屋敷跡に移転して寺名を「海宝寺」と改め、萬福寺の別院・歴代管長の隠居場所としたということです。また一説には、江戸時代前期にこの地にあった天台宗寺院の開法寺という寺院が、竺庵浄印禅師を迎える際に黄檗宗に改められ「海宝寺」と改名したとも伝えられます。


海宝寺の山門には「普茶大本山開祖道場」の札が掛けられ、落ち着いた境内が心地良いです。
本堂は宝暦五年(1755)に、京都伏見の呉服商・大文字屋(現・百貨店大丸の前身)の創始者・下村彦右衛門正啓が、竺庵浄印和尚に帰依して寄進したもので、堂内に本尊・聖観音菩薩を祀っています。また本堂前には、樹齢約400年という見事な木斛(モッコク ツバキ科の常緑樹)の木があります。この木はかつてこの地に屋敷を構えていた伊達正宗のお手植えと伝えられます。(写真)また方丈前に豊臣秀吉遺愛の手水鉢があり、方丈の襖絵「群鶏図」(現在は京都博物館所蔵)は伊藤若冲晩年の作と伝えられます。また若冲は、この絵を書いた後は、筆を取らなかったといわれ、襖絵の部屋は「若沖筆投げの間」と呼ばれるということです。

海宝寺は普茶料理のお寺として知られます。
普茶料理は、万福寺の開祖・隠元禅師が中国から伝えた中国風の精進料理です。「普茶」とは、普く多数の人にお茶を差し上げると言う意味で、日本の食材を使って、中国からの渡来僧たちにも食べやすいように考案されました。「雲片」と呼ばれる野菜の葛よせ、筍の煮物、ごま豆腐等があり、油で揚げたり葛かけにして、日本の精進料理よりもこくのある旨みを引き出しています。海宝寺では昭和二十五年(1950)から、普茶料理が営業されていて、庭園を眺めながら楽しむことが出来ます。(4人以上で予約 5000〜6000円)

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瑞光寺(元政庵)

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伏見区深草坊町にある、茅葺の草庵風の山門・本堂が印象的なお寺が瑞光寺(ずいこうじ)です。
開祖元政上人の名から「元政庵(げんせいあん)」の別名があり、また元政上人が竹を好んだことから「竹葉庵」とも呼ばれるそうです。


瑞光寺(元政庵)は、山号を深草山(じんそうざん)と号する日蓮宗身延山久遠寺派の寺院です。
この地は、もと極楽寺(現在の宝塔寺の前身で、藤原基経が創建した真言宗寺院。伏見区深草宝塔山町)の薬師堂の旧跡で、応仁の乱により荒廃していましたが、江戸時代の明暦元年(1655)、元政上人が日蓮宗の寺とし、瑞光寺と名付けたといわれています。

元政上人(1623〜68)は、俗名を石井吉兵衛といい、元和九年(1623)に京都の元毛利輝元の家臣石井家に生まれました。兄元秀が近江彦根藩主井伊直孝に仕え、姉(春光院)も直孝の側室だった関係で、13歳で井伊直孝に近習として仕えました。しかし、多病だったことも原因のようですが、やがて出家を考えるようになり、中国天台宗の聖典・天台三大部(「摩訶止観」「法華玄義」「法華文句」)の読破を決意します。また生涯父母に孝養をつくそうと誓ったということです。
こうして慶安元年(1648)、26歳の時で出家し、京都の法華宗妙顕寺第一四世僧那日豊(にっぽう)上人の門下に入りました。そして、明暦元年(1655)に旧極楽寺跡に草庵を結んで、中国の高僧・章安大師が住んだ称心精舎の故事にちなんで称心庵と名付けました・・これが瑞光寺の始まりになります。

その後、元政上人はこの草庵で修行に励むと共に、父母を引き取って孝養に努め、また多くの著作や詩文を記して当時の著名な文人や宗内外の学者等と親交を結びました。こうして元政上人は学者、文人、孝子として世に知られ、特に上人の孝心は、古人の句に「元政の母のあんまやきりぎりす」と詠われる程有名だったようです。万治二年(1659)上人36歳の時に、父元好は87歳という長寿で亡くなり、上人は母と共に父の遺骨を奉じて身延身延山久遠寺、池上本門寺に詣でています。
その後、寛文元年(1661)称心庵の仏堂が完成し、中正日護作の釈尊像を安置して瑞光寺と改めました。寛文七年(1667)、母妙種は87歳の長命で死去します。父母共に87歳という当時としてはたいへんな長寿を全うしたのは、元政上人が生涯をかけて孝養を尽くしたためと言っても良いでしょう。しかし、若年より様々な病気に悩まされた上人自身の生涯は短いものでした。親より先に死ぬことは一番の親不幸と考えていた上人はその目的が達したためか、母親の死を看取った直後に病をえて、翌寛文八年(1668)正月末に46才で亡くなりました。遺命によって遺骨は瑞光寺の西に葬られ、竹三本をもって墓標とされました。


さて、茅葺の山門を潜ると、それ程広くない前庭が広がり本堂、鐘楼、庫裏等があります。本堂(寂音堂じゃくおんどう)は、寛文元年(1661)に建立された総茅葺屋根の優しげな印象の建物で、この仏堂を見た元政上人は、庵を「深草山瑞光寺」改めたということです。堂内の中央には、胎内に法華経一巻と五臓六腑を形作ったものが納められた釈迦如来座像があり、この仏像は中正院日護上人の作と伝えられます。また奥殿には元政上人を始め御両親、歴代上人を祀っています。他に境内には、元は旧極楽寺薬師堂に番神山として祀られていたという三十番神社(天照大神、八幡大菩薩等全国の総氏神を一堂に祀っています)、白龍銭洗弁財天等があります。尚、毎年3月18日には「元政忌」が行われ、上人の遺品等が公開されています。

尚、瑞光寺は縁切り寺としても知られます。これはあくまで伝説ですが、元政上人出家の原因として、江戸吉原の高尾太夫の死がきっかけだったという話に基づいています。
元政上人がまだ井伊家に仕えて江戸屋敷にいた頃、吉原の三浦屋高尾太夫(みうらやたかおだゆう)と恋仲になりましたが、仙台藩主の伊達綱宗が高尾太夫に横恋慕し、悩んだ高尾太夫は元政に操を立てて自殺してしまいます。この事件のショックから元政は世をはかなんで出家したという物語です。この話が広まり縁切り祈願の信仰を集めることになったということです。



最期に、上人の墓について補足します。
京都市の掲示板によれば「上人の墓は、境内の西隅にあり、遺命によって竹を三本立てただけの簡素なものである。」と書かれていますが、実際は境内西隅ではなく、一旦門外に出てJR線路下を潜った飛び地にあります。この飛び地は、元々境内の一部でしたがJR線の開通で分断されてしまったもので、上人の墓だけが静かに佇んでいる空間になっています。
上人の塚の上の三本の竹は、一本は、法華経広宣流布のため、一本は衆生救済のため、一本は両親のためという意味が込められているということで、清貧を旨として自分の為ではなく他の人々の為に尽くした元政上人の人柄が偲ばれる印象的なお墓だと感じます。
元禄時代に、水戸藩主徳川光圀が上人の親孝行と優れた人柄を称えようと「嗚呼孝子元政之墓」という立派な墓碑を寄進したいと寺に申し出ますが、上人の遺言が「竹三本以外の何物も立ててはならない」というものだったことを知って断念したというエピソードが残り、遺言通り今も墓石が置かれていません。近年、徳川光圀のエピソードを解説した石碑と、「嗚呼孝子元政上人之廟」の石碑が側に建てられています。

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