京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

伏見稲荷・深草・伏見桃山・鳥羽他

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南区上鳥羽岩ノ本町にある恋塚浄禅寺(こいづかじょうぜんじ)は、山号を恵光山(えこうさん)と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院です。
寺伝によれば、平安時代末期の寿永元年(1182)の文覚上人の開基で、境内に袈裟御前(けさごぜん)の首塚(恋塚)と伝わる五輪石塔があることから、恋塚の名で知られています。



この「源平盛衰記」等で語られる遠藤盛遠(文覚上人)と袈裟御前の悲恋は、平安時代以降広く伝えられていた説話ですが、現在では、菊池寛の小説「袈裟の良人」やそれを映画化した、カンヌグランプリ受賞映画「地獄門」(監督・衣笠貞之助 1953年大映作品)等で採り上げられて広く知られるようになりました。
一応ストーリーを・・・平安末期の鳥羽離宮の北面の武士(院の警護に当る武士)・遠藤盛遠は血気盛んな武勇に長けた者でしたが、同僚の渡辺左衛門尉源渡(みなもとわたる)の妻・袈裟御前に横恋慕して、彼女に強引に渡と縁を切ることを迫りました。袈裟は悩んだ末に、今夜、寝静まった頃に寝所に押し入って夫を殺して下さいと持ちかけます。喜んだ盛遠は、渡の屋敷に忍び込んで袈裟に教えられた通りに寝ている人の姿を探し出し、太刀で一突きし首を落としたところ、それは操を守るために夫の身代わりとして死を選んだ袈裟御前の姿でした。袈裟の気持ちを知って自分の罪を深く恥じた盛遠は、世の無常を感じて出家します。そして、文覚と名乗って全国を修行し、高雄神護寺に入りました。(その後、文覚が伊豆で頼朝に挙兵を促したという話も有名ですね。)


さて、浄禅寺は、寿永元年(1182)に文覚上人が袈裟御前の菩提を弔うために建立したと伝えられます。江戸中期の火災により寺伝資料を失い、寺の歴史は不明な点が多いようですが、その後天保年間(1830〜43)に再建されたと伝わります。本堂に平安時代末期に造られた本尊・阿弥陀如来立像を安置し、また袈裟御前の木像が祀られています。観音堂には平安時代中期の十一面観音立像(京都市指定有形文化財)を祀っています。境内には、袈裟御前の首を埋めた塚と伝わる五輪塔「恋塚」(写真)、正保四年(1647)にこの地の領主・永井日向守直清が林羅山に撰文させたという袈裟を顕彰した「恋塚碑」があります。(写真)
尚、「恋塚」については、江戸時代の京都案内「雍州府志」によると、本当は「鯉塚」で、昔、この寺付近の池の中に大きな鯉がいて、時々妖怪となるので土地の者が殺して塚を造って祀ったということが書かれています。


また、このお寺は、京都の「六地蔵めぐり」の一つ「鳥羽地蔵」でも知られます。
彩色された地蔵菩薩像が、地蔵堂に祀られていて、「六地蔵めぐり」の際は多くの参拝者で賑わいます。
六地蔵については、これまでに何度か書きましたが、平安時代初期に、歌人の小野篁が一度息絶えて冥土に行き、そこで生身の地蔵菩薩を拝して甦った後、一木から刻んだと伝わる六体の地蔵菩薩像のことです。その後保元二年(1157)後白河天皇が平清盛に命じて、京都に疫病が侵入しないようにと祈願させ、京都周辺の交通要所の六ヶ所に一体ずつ地蔵を安置させたと言うことです。京都では「京都六地蔵巡り」といって、毎年8月22・23日に京都周辺の六ヶ所の地蔵菩薩を巡って、無病息災や家内安全等の祈願をこめてお参りする行事があります。参詣者は、六つの地蔵菩薩にお参りして各寺で頂いた六色の御幡を家の入り口に吊るし護符とします。


六地蔵です・・
○鳥羽地蔵(浄禅寺)(南区上鳥羽岩ノ本町・旧大坂街道)

○伏見地蔵(大善寺)(伏見区桃山町西山・旧奈良街道)

○山科地蔵(徳林庵)(山科区四ノ宮泉水町・旧東海道)

○桂地蔵(地蔵寺)(西京区桂春日町・旧山陰街道)

○常盤地蔵(源光寺)(右京区常盤馬塚町・旧周山街道)

○鞍馬口地蔵(上善寺)(北区鞍馬口通寺町東入る上善寺門前町・旧鞍馬街道)




今回は、上鳥羽にある「恋塚(浄禅寺)」でしたが、同様の言い伝えのある恋塚寺が浄禅寺の南方の下鳥羽にもあります。どちらが本物の「恋塚」か今ではまったく不明ですが、次回に下鳥羽の「恋塚」を採り上げてみます。

御香宮神社(御香宮)

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伏見区御香宮門前町にある御香宮(ごこうのみや)神社は安産の守護神として信仰され、伏見の名水「御香水」で有名な神社です。京都の中堅神社を集めた「京都十六社朱印めぐり」の神社の中でも特に良く知られた神社かと思います。



御香宮は、安産と子育ての神である神功皇后を主祭神として、仲哀天皇、応神天皇その他六柱を祀ります。創建については不明な点が多いですが、社伝によれば、当初は「御諸(みもろ)神社」と呼ばれましたが、貞観四年(862)四月、境内からたいへん香りの良い清泉が湧き出し、その水を飲むと病が回復するなどの奇跡が起こったことから、当時の清和天皇より「御香宮」の名を賜ったということです。
その後、室町時代には伏見九郷の総鎮守産土神として、伏見宮家を始め多くの人々により信仰を集めましたが、応仁の乱などの兵乱や天災により荒廃しました。

天正十八年(1590)、豊臣秀吉が天下を統一した際は、さらに国外まで勢力を広げようと御香宮に願文と太刀(金熨斗付大刀 備前長光作 重要文化財)を奉納したと伝えられ、また文禄三年(1594)の伏見築城に際しては、鬼門除けの神として大亀谷に移設勧請し社領三百石を寄進しています。その後、慶長十年(1605)、徳川家康は再び元の地(現在地)へ戻して、現本殿(重要文化財)を建て、社領三百石を寄進しました。特に伏見で誕生して神社の名水「御香水」を産湯に使ったといわれる家康の子・徳川義直(尾張)、頼宣(紀州)、頼房(水戸)の御三家の藩祖三公は、御香宮を産土神と崇敬し、家康が本殿を造営した際には、表門は水戸の徳川頼房、拝殿は紀伊の徳川頼宣が寄進したと伝えられ、徳川家の庇護を受けて江戸時代を通じて御香宮は栄えたようです。
その後、幕末の慶応四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦いの際には、御香宮には薩摩藩の陣営が置かれ、南の伏見奉行所に陣する幕府軍と戦いましたが、神社は幸いにして戦火を免れました。尚、明治以前は、「御幸宮」とも呼ばれ、「幸福」を招く神社としても広く人気を集めていたとも伝わります。



さて、御香宮の社殿は非常に豪華な装飾が印象的です。
本殿は、慶長十年(1605)、徳川家康が京都所司代の板倉勝重に命じて建立したもので、国の重要文化財に指定されています。大きな五間社流造、桧皮葺の極彩色の豪華な建物で、細部の装飾も華麗で桃山時代の大型社殿として価値が高いということです。また江戸時代、社殿を修復する際は、伏見奉行に出願して、その経費は紀伊、尾張、水戸の徳川三家の御寄進金を氏子一般の浄財でもって行われたということです。大修理時には、神主自身が江戸に赴き寺社奉行に出願して幕府直接の御寄進を仰いだ例も少なくなかったということです。
また、拝殿は寛永二年(1625)、徳川頼宣(紀州徳川家藩祖)の寄進によるものと伝えられ、京都府指定文化財に指定されています。桁行七間、梁行三間、入母屋造の本瓦葺の割拝殿で、こちらも非常に細部まで装飾が施された豪華な建物です。これら本殿・拝殿は近年、平成の大修理が行われ、桃山時代の豪壮華麗な極彩色が復元されたものです。
さらに表門は、元和八年(1622)、徳川頼房(水戸徳川家藩祖)が伏見城の大手門を拝領して寄進したと伝えられ、こちらも国の重要文化財に指定されています。三間一戸の切妻造、本瓦葺の薬医門(やくいもん)で、正面には中国二十四孝の物語が彫られた蟇股があり桃山時代の建築の特色を残した豪華な門です。


御香宮の名前の由来となった御香水(ごこうすい)は、「石井(いわい)の御香水」として、伏見の七名水の一つに数えられています。(「七つ井」と呼ばれた七名水は、石井(御香宮の御香水)の他、常盤井、春日井、白菊井、苔清水、竹中清水、田中清水でしたが、今では枯れたものもあり、近年新しく「平成伏見七名水」が選ばれています。これは一般に開放されている名水から選ばれていますが、御香宮の他は、城南宮(菊水若水)、藤森神社(不二の水)、長建寺(閼伽水)、月桂冠大倉記念館(さかみず)、鳥せい本店(白菊水)、清和荘(清和の井)の七ヶ所です。)
境内から水が湧き出し良い香りが四方に漂って、水を飲むと直ちに病気が治ったと伝わる御香水は、昔諸国を回ってきた猿曳が、肩に乗っていた猿にこの水を飲ませると忽ち元気になったという伝説も残っていて、非常に古くから知られた名水でした。井戸は明治時代に周辺の環境の変化で枯れてしまいましたが、昭和五十七年(1982)に本殿東側に復原され、地下150mから汲み上げられています。こうして現在も霊水として病気回復のためや、茶道、書道用に持ち帰る人が毎日訪れています。とにかく、御香水は伏見の名水の中でも一番有名で、京都の名水の代表として唯一、日本中の名水から選ばれた環境省選定の「名水百選」に認定されているので、京都一の名水ともいえるでしょう。



さて、知らない人いるようですが、御香宮には小堀遠州(小掘政一)ゆかりの石庭があり、拝観料200円を払うと見学できます。(拝観料には、神社のパンフレット代も含まれるので、まずまずリーズナブルではあります。)この枯山水庭園は、小堀遠州が伏見奉行に命ぜられた際に、伏見奉行所内に造った庭園の石を戦後この地に移して再現したものということで、小掘遠州の出世の切欠になった庭だと説明されています。小堀遠州は元和九年(1623)に、伏見奉行に任じられますが、この時に庁舎の新築を命ぜられて庭園を作庭します。後に寛永十一年(1634)に、上洛した三代将軍家光を奉行所に迎えた際に、家光から立派な庭園に感心したとして褒美として5千石加増され一万石の大名に列したということです。その後、明治以降に伏見奉行所跡は陸軍工兵隊、米軍キャンプ場と移り変わって、昭和三十二年に市営住宅地になった際に、庭は御香宮に移築されました。移築作庭は昭和を代表する造園家・庭園研究家の中根金作が行いました。庭園にある大きな手水鉢(写真)には、文明九年(1477)の銘があり在銘の手水鉢として非常に珍しいものということです。また、後水尾上皇が命名した「ところがらの藤」の木も移植されています。それ程目立った特徴の無い庭園ではありますが、機会があればご覧になっても良いかと思います。



その他、境内には、御香水の霊験説話を描いた「社頭申曳之図」他百数十の絵馬を保存する絵馬堂や、「伏見義民(天明の義民一揆)」の文殊九助(もんじゅくすけ)らの顕彰碑があります。(写真)
少し長くなりますが・・伏見義民に関する史跡は、伏見区には幾つか有るので少し書いてみます。

天明五年(1785)、時の伏見奉行・小掘政方(こぼりまさみち 有名な小掘遠州の六代目、和泉守)の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救って、自らは悲惨な最期を遂げた文殊(もんじゅ)九助ら七人を「伏見義民」といいます。
江戸時代の伏見は交通の要所として栄え、政治経済上の要地として幕府の直轄地として伏見奉行が置かれていました。安永八年(1779)に奉行となった小掘政方は、最初は善政を行っていましたが、次第に側近の影響で数々の悪政を行うようになりました。住民に重税や重罪を課して暴虐の限りを極め、賄賂政治や博打や遊興の限りを尽くして町民に強要した御用金は十万両に及んだと伝わります。
ついに、町年寄の文珠九助、丸屋九兵衛、麹屋(こうじや)伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛の七人は、奉行の悪政に虐げられた住民の苦難を座視することに忍びず、密かに計画を練りました。そして奉行の追っ手に追われる等の苦心惨憺の末、天下の禁を破って江戸で幕府に直訴しました。この時願書は却下されたものの、結局、天明五年(1785)に小掘政方は奉行を罷免されました。しかし、文珠九助らも禁を犯した罪で投獄されて獄中で相次いで病死したのでした。
命を賭けて町を守った「伏見義民(天明の義民一揆)」の義挙が忘れられないようにと、明治二十年(1887)、伏見義民百年祭の機会に、その遺徳を顕彰する記念碑が建設されました。「伏見義民碑」の碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書です。毎年五月に慰霊祭が行われています。




また、御香宮の境内には東照宮、大神宮、豊国社、稲荷社、弁才天社等の末社がありますが、これら末社とは別に参道沿いに天満宮社があり、桃山天満宮とも呼ばれています。(写真)
桃山天満宮の由来ですが、その昔、御香宮の東に蔵光庵という寺がありましたが、室町時代の明徳年間(1390頃)に、寺の伴僧の月渓という者の夢に菅原道真(天神)が現れたということです。その数年後、月渓は同門の僧から菅原道真(天神)の画像を贈られましたが、その絵は夢で見た姿とそっくりでした。寺の住持幽林上人は、これを聞いて感激して蔵光庵の守護神として、寺の境内に天神を祀ったと伝わります。その後、文禄三年(1594)、秀吉の伏見築城の際、諸大名の屋敷を城の周辺に造らせましたが、この時、前田利家が自分の祖先は菅原道具公であるといって、天満宮の隣りに屋敷を賜って天神を丁重に祀ったということです。(尚、この時に、寺院=蔵光庵の方は、嵯峨の臨川寺の東に移されたとも伝わります。)そして江戸初期には「山ノ天神」とも呼ばれて、伏見の寺子屋の子供たちが二月と六月には必ずお参りしていたそうです。
しかし、元和九年(1623)の伏見城の廃城後は、次第に荒れ果てていったため、これを見た観音寺の住職教覚和尚が、町の中に移してお守りしようと努め、その勧進により篤信家の本谷市造、宮大工の阪田岩次郎が協力して二十年の歳月をかけて、天保十二年(1841)に社殿が完成しました。尚、その時使った大工道具約七十点は、完成御礼として神社に奉納され、今も貴重な道具文化財として保管されています。その後、天満宮は開発による周囲の環境悪化により、昭和四十四年(1969)に御香宮の境内に遷されました。


最後に御香宮では4月の例祭、7月の茅ノ輪神事、そして10月の神幸祭等の神事が行われていますが、特に伏見区最大の秋祭でもある神幸祭は、地区を代表する大祭であることから「伏見祭」とも呼ばれ、神輿の他に風流花傘行列など見所の多い人気ある祭りです。

墨染寺

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伏見区墨染町にある墨染寺(ぼくせんじ)は、その名の通り「墨染桜(すみぞめざくら)」で知られるお寺で、地元伏見では「桜寺」と呼ばれて親しまれています。実はブログ用に今年の桜の季節に行こうと思ったのですが、他に幾つかの桜の名所に行っている内に時期を逸してしましました。桜の頃以外は見所のあるお寺ではありませんが、今回採り上げてみます。



京阪電車の墨染(すみぞめ)駅近くにある墨染寺は、山号を深草山という日蓮宗寺院で、元々は清和天皇の勅願寺だった貞観寺(ていかんじ)の旧跡になります。伏見周辺は、平安時代に皇室や藤原氏によって大寺院や山荘が建てられた場所でした。(藤原頼通の子・俊綱による伏見山荘、白河法皇の鳥羽離宮、醍醐寺や法界寺等が知られます。)
嘉祥三年(850)、仁明天皇が亡くなりこの地の深草陵に祀られると、その菩提寺として嘉祥寺が創建され、その後貞観四年(861)に、摂政・藤原良房が嘉祥寺に隣接して建てられた西院を孫の惟仁親王(後の清和天皇)の加護のために創建しました。
寛平三年(891)、良房の養子・関白藤原基経が死去してこの地に葬られたのを悼んで、当時の歌人の上野岑朝(かんつけのみねお)が、「深草の野辺の桜し心あらば 今年ばかりは墨染に咲け(この深草の桜の花にも心があるのなら、関白の死を悼んで今年ばかりは墨染色に咲いてほしい)」と詠んだ場所といわれ、その歌通りに薄墨色の花が咲くようになったと伝えられます。また、この地が「墨染」と呼ばれるようになったのはこの歌に由来するといわれます。




貞観寺はその後衰退しますが、豊臣秀吉が伏見に城下町を建設する際、墨染桜の逸話を知って、姉の瑞竜尼が帰依していた日秀(道誉)上人に、土地を寄進したことにより再興します・・この時日蓮宗に改宗して、寺名を「墨染桜寺(ぼくせんおうじ)」と改め、本堂に「桜寺」の額を掲げたと伝えられます。
当時は境内が八町(約870m)四方あり華麗な伽藍が建っていたということですが、江戸時代を通じて衰退して社域も縮小、現在のような小さなお寺になりました。近年、宇治の直行寺(じきぎょうじ)、梅津本額寺の住持だった学妙上人という人物が、墨染寺の荒廃を知って第三十七世と道誉して寺に入って復興に努めたということで、境内には上人の顕彰碑が立っています。

また寺宝として、長谷川等伯筆といわれる秀吉像等や、上野岑朝が詠んだ当時の墨染桜とされる古木の根元部分等を所蔵しています。狭い境内には10本程の桜の木がありますが、ソメイヨシノや御衣黄に混じって本堂前にある墨染桜は、三代目で樹齢二十数年ということです。また本堂前の御手洗鉢は、「墨染井」と呼ばれ、明和五年(1768)に歌舞伎役者の二代目中村歌右衛門が寄進したものと伝わります。

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伏見の街中には小さなお寺がいくつかあります。その中で少し知られた由緒あるお寺と神社を採り上げてみます。


伏見区瀬戸物町にある源空寺(げんくうじ)は、山号を宝海山と号し、正式には法然院源空寺という浄土州寺院で、円光大師(法然)の霊場二十五ヶ所の一つ(第十五番)に数えられているということです。

寺伝によれば、建久六年(1195)、三井寺の公胤僧正の弟子・忍空上人によって炭山(宇治市 山城木幡)の地に創建された天台宗の光堂寺と称した草庵が始まりでした。その後、法然上人が奈良大仏殿の落慶供養の帰途、炭山の地に立ち寄った際に、忍空上人は附近の人々と共に浄土宗に改宗し、法然の僧名「法然房源空」から「源空寺」と改めました。法然上人は別れに際し、これまで書写した法門や法語で作った張り貫の像を残しました。れが本堂に祀られる本尊円空大師(法然)坐像です。その後、慶長七年(1602)に江戸の幡随意上人が、この寺に立ち寄って現在の地に移し、慶長年間(1596〜1615)には徳川家康も建物を寄進したとも伝えられます。(二代将軍秀忠、三代将軍家光によって現在の地に移されたと伝わります。)その後本堂は嘉永元年(1848)に焼失しているようです。

二層から成る特徴ある山門は、伏見城から移築された遺構と伝わり、その階下の両脇には十六躰の石仏地蔵や愛染明王像、また豊臣秀吉に天下統一の大福を授けたといわれる朝日大黒天像が祀られています。
(写真)この大黒天像は秀吉の念持仏で、元伏見城の巽櫓にあったものが、一時京町大黒町に預けられた後、源空寺に移された経緯から、この地はかつて新大黒町とも呼ばれていたということです。





伏見区鷹匠町にある金札宮(きんさつぐう)は、社伝によれば奈良時代の天平勝宝二年(750)の創建と伝えられ、伏見区でも最も古い神社の一つということです。祭神は、天太玉命(あめのふとたまのみこと 白菊明神)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)です。

社伝縁起によれば、天平勝宝二年(750)大きな流れ星が降るという異変があって、時の孝謙天皇が憂慮していた時、伏見久米の里に白菊を植えている翁がいて、「吾こそは天太玉命である。天下の豊秋を喜んで年久しく秋ごとに白菊を賞でて来たが、もし干ばつで稲が枯れる時には白菊の露を灌ぐであろう」と語り、また「人々が一度この白菊の露に霑えば、福運が着いて家運は長く隆盛し、子孫繁栄し、火災の禍から除かれるであろう」と語ったということです。驚いた里人からこのことを聞いた天皇は、喜んで天太玉命(白菊大明神)を祀るように里人に命じて社殿を造営したと伝えられます。また社殿の造営中に、「長く伏見に住んで国土を守らん」と書かれた金の札が天から降ってきたということで、驚いて人々が集ま来ると、空から声がして、「我こそは天照大神より遣わされた天太玉命である。我を拝まんとすれば、なお瑞垣を作るべし」と、聞えたということです。また一説には、平安時代の清和天皇の時代に、橘良基に命じて阿波国(現・徳島県)より勧請したとも伝えられ、天皇が金札に白菊大明神と記して奉納したことから金札宮と号するようになったとも伝えられます。

謡曲「金札」も神社創建の伝説に由来する話です。桓武天皇が平安遷都の際、伏見の里に神社建立のため勅使を使わしました。この時、天から金札が降り下り、取り上げて見ると「伊勢大神宮の流を絶やさぬ為に、 天津太玉神を祀るように」との御神託が 金文字で書かれていました。謡曲「金札」は、この金札の故事を語り、天津太玉神が金札と弓矢で君の代と国土を守護し、悪魔を降伏させ、もう弓矢の必要はなくなったと謡っています。
金札宮は、その後、応仁の乱で焼失した後に再建され、豊臣秀吉の伏見城築城の際に伏見城の守護社として城に移されますが、関が原の戦いの伏見落城により現在地の北方に移されました。そして江戸初期に創建された、現在金札宮のすぐ横にある喜運寺の境内地に移された後、明治の神仏分離により現在地に祀られています。

境内中心にはクロガネモチの大木があり、江戸時代の宝暦四年(1754)に出版された「山城名跡巡行志第5」に御神木として記されています。クロガネモチはモチノキ科の常緑高木で雌雄異株であるが、この木は雌木で冬期には枝先に見事な赤い実をつけるということです。樹高は10.6m、胸高幹周は2.19mで数少ない古木として貴重なため京都市の天然記念物に指定されています。(写真)

油懸地蔵(西岸寺)

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伏見区下油掛町にある西岸寺(さいがんじ)は、山号を油懸山(あぶらかけざん)、正式には地蔵院西岸寺という浄土宗寺院で、天正十八年(1590)雲海上人により創建されました。
通称「油懸地蔵(あぶらかけじぞう)」として有名で、町名の下油掛町もこの地蔵菩薩に由来します。(尚、同名の地蔵が右京区嵯峨天竜寺油掛町にもあります)



桃山時代に西岸寺が創建される以前からこの地に寺院があったようですが、詳細は不明な点が多いようです。寺伝によれば、鎌倉時代の伏見天皇や桃山時代の正親町天皇の信仰が篤く、正徳三年(1290)不思議な霊験があったことにより、文保元年(1317)に伏見院の離宮跡(西岸寺の現在地)を賜って、地蔵院の称号を賜ったと伝わります。当時は広大な敷地があり、その頃から役の行者像や弘法大師像を祀っていたと伝えられます。

有名な地蔵堂にまつられている「油懸地蔵」も西岸寺の創建より古くからこの地に祀られていたようです。この「油懸地蔵」の由来は、寺伝によれば、昔、山崎(京都府乙訓郡)の油上人が、この地蔵菩薩の前で転んで油桶を壊して油を流してしまいました。当時、油は非常に貴重なものだったので落胆しましたが、残った油の残りを地蔵菩薩に注いで供養して行商に出かけたところ、その後、商売が大いに繁盛し店は栄えたといわれます。それ以来、この地蔵菩薩に油をかけて祈願すると願いがかなうとして、人々の信仰を集めました。

油懸地蔵は、花崗岩に彫られた高さ1.7m、幅80cm花崗岩に彫られた像高1.27mの石仏で、地蔵菩薩の立ち姿が浮き出るように厚彫りで彫刻され、右手に錫枝、左手に宝珠を持っています。なで肩、大きく胸の開いた彫法で縁の部分の大きな像ということから鎌倉時代の石仏と考えられています。銘文が刻まれているようですが、昔から油を掛けて祈願され、今では油が2cmも厚く積もっているので調べようが無いということです。



また、境内には「我衣にふしみの桃のしづくせよ 芭蕉」と自然石に刻まれた句碑があります。
これは貞亨二年(1685)、西岸寺の第三世住職の任口(にんこう 宝誉)上人の高徳を慕って寺を訪ねた芭蕉が、出会いの喜びを当時の伏見の名物だった桃に事寄せて、その特に欲したいと願って詠じたもので(「野ざらし紀行」)、碑は文化二年(1805)に建てられました。任口上人は松江重頼(維舟)門下の俳人で、法名は如羊と称しました。西山宗因に連歌を、や松江重頼(維舟)から俳諧を学んで、晩年は談林の長老として慕われました。
そのため、西岸寺を訪れる客は多く、西鶴、其角、玖也、季吟、意朔等の当時の著名な俳人も訪れたようです。尚、任口上人は貞享三年(1686)81歳で死去し西岸寺の墓地に眠っています。

尚、地蔵堂は明治維新の鳥羽伏見の戦いで類焼したため、明治二十七年(1894)に一度再建されました。現在の地蔵堂は、その後、昭和五十三年(1978)に再び建立されたものです。
また、現在本堂を建設中です・・写真で遠くに建築中の姿が写っています。

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